井芹仁菜の鏡像は何を見る? 作:鏡合わせ
『こんな出来の悪いファンを許してください』
身体の内側まで雪が解けていなかった。
椿ちゃんの発言がこの心の中で熱を保ち続けている。回想としても、記憶としても思い出しても何度も声として再生されてる。あれは紛れもなく椿ちゃんの本音。椿ちゃんが長野の実家の一件を終えて、前を向き始めたからこそ椿ちゃんはああして私へぶつけてくれた。
『井芹さん、今日は……そ、その御朱印巡りとか?』
『ごめんね、付き合って貰って』
『い、いえ!全然!!井芹さんの為ならば川の中でも山の中でも何処でもお供しますから!!』
クスっと笑ってしまう。
手を大きく振って否定してくれている。椿ちゃんらしい言動に口元を押さえて笑っていると、椿ちゃんが恥ずかしそうにする。
『そ、それで今日はどちらの神社を?』
『あっ、そうだった……。えっとね、此処行きたいんだ』
スマホを見せると、椿ちゃんが顔を覗き込むようにして見てくれている。
椿ちゃんは相槌を打った後でこう言ってくれていた。
『分かりました、それじゃあ行きましょう井芹さん!』
『いい思い出にしましょうね!!』
なんて返したかなんて言うまでもなかった。
椿ちゃんとの思い出作りは椿ちゃんからすれば川崎駅前で私の歌声を聴いたときから、私にとっては出会ってから始まった。どれもこれもがいい思い出だった訳じゃない、傷口を広げて傷つけてしまったこともあった。
『さようなら、井芹さん』
スーパーの前でヒナとの関係のことを話したとき、椿ちゃんは怒りたかったんじゃない。
泣きたかったんだ、自分を許せなかったんだ。ダイダスが嫌いと言いながらも、私の方が優れてると信じていただけに自分が行けなかったことをずっと悔やんでいた。それが例え、理由があったことだとしても椿ちゃんは自分を許せなかったからこそ、戻ってきてしまった。
蕎麦屋という檻の中……。
留まろうとしていた椿ちゃんへと手を伸ばしていたのは私の方だ。もし、手を掴んでくれなかった今もまだ長野にいたのかもしれない。
『椿ちゃん、このお団子美味しいね!』
『はい!あっ、こっちの草団子も美味しいですよ!』
お互いに笑うことができる世界……。
与えた者と、与えられた者だからこそ私達は作り上げることが出来たのかもしれない。私と桃香さんにも言えたことだ。
『一緒に中指立ててください!』
川崎駅まで全てが始まった。
あの場所で空の箱を聴いた私の世界が真っ赤で真っ暗な人生だけで終わらなくていいと言ってくれた。寧ろ、此処から先も負けなくていい、間違ってなんかないと突き進んでいいと教えてくれていた。
あの歌があるから、桃香さんがいてくれたから今の私がある。
トゲナシトゲアリがある。なら、桃香さんから託された作詞作りはこうしたい。これまでの痛みと記憶を忘れないためにも……。
◆◆◆
「やばい、急がないと……」
蕎麦屋のバイトを終えて、すぐにライブハウスへと向かおうとする。
本当は今日バイトなんてなかった。誰かが熱を出したみたいで私が代わりにバイトを入らなくちゃいけない事態となってしまった。
『椿ちゃん!五日後、ライブをやるから絶対に来てね!!』
『は、はい!!絶対に来させていただきます!!』
ライブが楽しみだったのもそうだけど、慌ててしまうほど楽しみだったことがある。
今回の楽曲は私が制作したジャケ絵が採用されるアルバムの一曲となるらしい。その話を井芹さんから話をされたとき、私は……。
『えええ!?ほ、本当ですか!!?』
なんて大きく叫んでしまったのを覚えてる。
喫茶店で一緒にお茶をしていたから、周りがどうしたんだろうか?という目で見ていたのを覚えてる。重大発表と聞かされて、本当の意味で重大発表だったときの驚き具合だ。大抵、ああいうのって大したことがないものばかりだから。
「井芹さんのライブ!井芹さんのライブ!」
完全に師匠たちがいることを忘れているけど、師匠たちの演奏が楽しみでもあった。
井芹さんの歌声と師匠たちのバンド演奏が重なれば、最強のバンドになれるのがトゲトゲ。どんなバンドよりも、両の眼を大きく開けて今自分が生きている、自分のことを肯定していいんだと思わせてくれる。
『私は貴方に成功体験を感じていただけです』
そうだね、私はいつだって井芹さんという人間を通して楽になりたかった。
井芹さんという自分にあったかもしれない可能性を命綱として、自分はこれで正しい、譲らなくていいと何度も信じ込ませてきた。
「井芹さんの歌声、やっぱりいいなぁ……」
ライブハウスへと辿り着いた私はひたすら音を聴き続けながらも、観客席から井芹さんの方へと見つめる。誰も彼もが爪跡を残されて、井芹さんという存在を惹かれている。他のバンド目当てでの奴らもこれでトゲトゲのファン待ったなしだと考えていると、私は隣で立ってる奴が目に入って、息を呑む……。
「言葉を力に変えるって難しいですよね」
「私はメモとしてノートに書き記してきました、そうすることで自己肯定感って奴ですかね?得れると信じて来たんで……」
言語化能力があるなんて大それたことを言うつもりはない。
私のあれは刷り込ませていただけに過ぎないから。強烈の言葉を使って、断言を無理矢理させていただけだから。
「愚かでしたよ、本当にね」
隣の奴が聞いているとか、聞いていないとかどうでもいい。
私は自分の中での考えていることを整理しつつも、私はぶつけようとしていた……。
「何が言いたいのさ?」
「何を言いたいか、ですか……?」
「井芹さんは貴方なんかよりもずっと輝いていて、心の内側すらも吐き出してくれている。貴方みたいな心の内側まで腐ったぶどうみたいな形をしていない。そう言えば、分かりますか?」
「ヒナ」
飛んで火にいる夏の虫とはこのことなのかもしれない。
まさか、隣を立ってきたのがヒナなのは流石に驚いたけど、これはこれでいい機会だった。薄ら笑いすらも出てきそうなのを必死に堪える。
「弱い犬ほどよく吠えるって言葉知ってたりする?」
「えー知ってますよ、私は弱いですし井芹さんの力が無ければ立ち上がることが出来なかった弱者。ギャンギャン泣こうが、変わらないですが私が言いたいのは……いつか」
「いつか汚れた結晶を砕くほどの力さえ身に着ける。井芹さんの歌声を此処でじっくりと聴いていいけばいい」
井芹さんは力へと変換するものを存分に持ってる。
川崎駅前で偶々であって、このライブまでの間に何度も目の当たりにしてきた。今となっては、軽井沢駅までのライブも過去の思い出となってしまった。現在という時が進み限り、どうしても起きてしまうが思い出すことはできる。それが記憶というもの……。
「ふっ……」
「なんですか?何かおかしいですか?」
「敵意剥き出しで話してきたかと思ったら、今度は宣戦布告……。何処かの誰かさんにそっくりだなーって思っただけ。随分と熱心なんだ?」
「当たり前じゃないですか」
嘲笑ったのか、冷笑されたのかそれとも井芹さんとそっくりだということが面白かったのかヒナは一瞬だけ笑みを浮かべる。色々言われても、反論せずただ受け流し姿勢だけは流石の今のダイダスのボーカルとして褒めてやらないこともなかった。但し、井芹さんには絶対に敵わない。
何故なら……。
「私はあの人に惹かれて、救われた。今こうしてあの人のライブをちゃんと聴けてる、観客席で立ちながらもそれ以上の幸せなんてない。私にとって井芹さんは……負けたくないから、間違ってないから。譲らなくていいから、正しいと信じるものを進めばいいと教えてくれた」
「唯一無二の人ですから」
再現性なんてあるわけがない。
此処まで焦がれて、此処まで歌を通した芯の強さを見せつけられている。今もこうして、この楽曲が収録されているアルバムのジャケ絵が採用されることよりも、私は今こうやって井芹さんという人間が描いて来た人生絵図の曲がひたすら心臓を突き動かしてくれていた。
身体が動き出しそうで、声を出したくなる。
身を乗り出したくなる。手を挙げたくなるも、私はただ銅像としていることを選んだ。自分で表現することよりも、井芹さんのライブをこの耳で、目で最後まで焼きつけたかったから。
「トゲトゲのライブ、偶々見に来たついでにまさかこんな面白い子と会うなんてねー」
ヒナは顔を隠しているが、その表情は何処か安心したような顔つきだった。
私はその顔色に睨みを緩めることはしなかった。
「仁菜のファンそのものって感じじゃん。仁菜も大変だろうけど、アンタみたいな厄介なのがいたら、トゲトゲの相手も悪くなさそうじゃん」
「褒め言葉として受け取っておきますよ?」
最後の最後まで私はヒナのことを口ではダイダスのヒナと呼ぶことを全くしなかった。
敵意丸出しでガンを飛ばして殺意。人に向ける視線ではないが、これぐらいがちょうどよかった。価値がないダイアモンドなんて負け犬にしてやりたくてしょうがなかったから……。
「ヒナ」
最後にはとびっきり意味ありげの笑顔を送ってから、私はトゲトゲのライブを見届ける。
井芹さん、今日も貴方は輝いていましたよ。あの日、軽井沢駅前で見せてくれた貴方の輝きは同等。
いや、それ以上でしたよ……。
楽曲名『荊の薔薇』。この曲は紛れもなく、『運命の華』との対比を見事に描いた楽曲でしたよ井芹さん。『運命の華』はバンド中心とした楽曲で桃香さんが作った楽曲。それに対して、この楽曲は井芹さんを中心としたトゲトゲの『曲』そのもの。
井芹さん、貴方が蒔いてくれた足跡は……。
こうして私の鼓動を動かしてくれている、瞼の奥から感情が溢れそうになる。貴方は本当に素晴らしくて……。
私にとっての大きな希望です……。
ライブを終えて、一週間ぐらい経った後……。
ある日の夜の出来事……。
「椿ちゃん、これであってる?」
「あーまあ……あってますよ?」
大鍋の方を見ると、私は苦笑いを浮かべてしまう。
じゃがいもが完全に溶けてる……。
「えー?絶対違うって顔してない?」
「し、してませんよ……」
笑顔を隠さない、台所で一緒に料理をする。
適当に言ったわけじゃなかったけど。まさか、これすらも叶う事になるなんて思ってもいなかった。
「ほ、本当に?なんかこう違うんだけどなーみたいな顔してるような?」
今作っているのは井芹さんの提案でカレー。
私が最初ならカレーが一番作りやすいという話をしたところ、一緒に作ろうって言ってくれて井芹さんの家に来てしまうという最強のイベントが起きてる。
「心配症ですね、井芹さんは……。玉ねぎ切っているとき泣いてたのは可愛いなー井芹さんとか思っていまし「もー!椿ちゃん!!」」
足で音を立てながらも、井芹さんは抗議してくる。
思わず、笑みを浮かべてしまう私を見て口を膨らませている井芹さんだったが、お互いに顔を見合って……。
「一緒に食べよっか、椿ちゃん!」
「はい、井芹さん!!」
「「いただきます!!」」
テーブルの上にカレーを乗ったお皿を置いて手を合わせる。
スプーンでカレーとご飯を掬って、口の中に入れればお互いの感想なんて一緒でしかなかった。
そう、それは……。
「「美味しい!!」」
ありきたりでもあり……。
当たり前の感情でもあった……。
この感情を私は忘れないで生きていたい、ああそうだ。今日の出来事でも書いてみようかなノート……。今度は自分を騙すためじゃなくて……。
未来へ残すために……。
タイトルはそうだな……。
『井芹仁菜の鏡像は何を見た』