井芹仁菜の鏡像は何を見る? 作:鏡合わせ
『いいことじゃないですか!!?』
昨日のことなんていつでも思い出せる。
記憶という押入れがずっと開いている状態だからこそだ。
「あっ……いって……」
「椿ちゃん、大丈夫かい?」
「だ、大丈夫です。すみません」
段差をよく見ていなくて転びそうになってしまう。
バイト仲間のおばあちゃんに心配されてしまう。
危ない、考え過ぎてしまった。
ダイダスのことなんてとっくに答えは出ている。もう一旦、考えるのはやめよう。桃香さんにはラーメン屋で騒いでしまったことは謝罪したい。とりあえず、次のライブに行ったときにちゃんと謝りに行こう。
「いらっしゃ……」
私は固まってしまう。
なんで?なんで?こいつが居るの?他の人ならまだいい。
なんでよりによって、こいつが来てんの……?
「ダイダスのヒナ……!」
眼鏡とかで変装していてもすぐに気づいた。
特徴的なピンク髪は勿論だけど、言いたくないけど一般人とは違うオーラが出ている。
薄汚いアイドルバンド特有の甘い香りが染みついているから、すぐに気づくことが出来た。
皮肉にしても最悪だった。まあ、いい。どうしてあのダイダスの人間が蕎麦屋に来ているという事実は面白いから、どうせ適当に食べたら去ってくれるはずだ。
「はぁ……」
「どうしたんだい?椿ちゃん?幸せ逃げちゃうわよ?」
「アハハ、そうですね……」
桃香さんに言ってしまったことをまた思い出してしまう。
手に力が入る。
悔いている訳じゃない。
私は正しいことを言った。ダイダスは桃香さんが……師匠がバンドを抜けてからずっと単なるアイドルバンドに成り代わる。もしかしたら、いつか昔の体制に戻ってくれるなんて淡い期待もしていたのに結局売れ線を目指した。
あんなにも綺麗な衣装を着て、ちやほやされるだけのバンドの何処がいいのか分からない。
早々に散って欲しい。
なのに、そのヒナが今私がバイトをしている蕎麦屋に来ている。
その事実がなによりも許すことができなかった。
「落ち着け、私……」
自分を落ち着かせる為に、一旦目を瞑って深呼吸を入れる。
相手はただ単に蕎麦を食べに来た人間だ。別に今仁菜さんのことを侮辱した訳じゃない。落ち着きという冷静さを手に入れるために、私は徐々に浮き出ている血管を抑え込むことに成功する。
「ご馳走様でした……美味しかったです」
私が落ち着きを取り戻して、冷静になっている頃……。
返却口の方でダイダスの声が聞こえて来る。妙に礼儀正しいのにイラっとしながらも、お店を出て行く彼女の後ろ姿を見て、心の中で中指を突き立ててやった。
心の中で平穏という残火がすぐに消えることはなかった。
それでも、今は蕎麦屋でバイトをしている以上バイトを続けていこうとする。失われた冷静さを取り返す為にも……。
それから、数十分経った後だった。
「椿ちゃん、新しいお客さん来たからお願いね」
「は、はい!!」
バイト先のおばあちゃんに頼まれて、半券を受け取ろうとしに行く……。
「いらっしゃ……すばるさん!!?」
半券を受け取ろうとした際に、無意識に声に出てしまう。
嘘でしょ!?こんなにも一日で知っている人に会うことなんてあるの?いや、さっきの奴はどうでもいいけど。
今目の前にいるのはあのすばるさんだよ!?
やばい、やばい過呼吸になってきた。
どうしよう……!!
「今日の夜は練習だったっけ……」
小さく独り言を言う。
昨日は特に練習とかは無かったから、一日大体ゲームをしている時間の方が多かった気がする。まあ、ドラムを叩いている時間もそりゃああったし。椿ちゃんのことが気になっていたのは事実だけど、ああいう子に関わると絶対ロクなことにならないのは明白。
とりあえず、今は昼食を済ませようかな。
私は歩き出しながらも、偶々蕎麦屋さんを視界に入れる。
蕎麦か、偶にはこういうのも悪くないかもしれない。
私はお店の中に入って行くと……。
ザ・都内によくありそうな蕎麦屋さんって感じだった。
こういうのは和室だとか昔の感じが残っているのがよくあるけど、カウンター席が多めですぐにでも食べられる。チェーン店だからこそって奴かなと思いつつも、私はてんぷらそばの半券を選んでそのまま厨房の方に渡そうとしたときだった。
「いらっしゃ……すばるさん!!?」
すぐに「げっ!?」と声に出そうになったのを押し戻す。
危ない危ない、素の自分が出そうになってすぐに……。
「あっ、あれ……? 確か、仁菜ちゃんのファンの椿ちゃんだっけ……?」
猫被りをしつつも、私は応対する。
「ひゃ、ひゃい!!」
手に持っている半券を震わせながらも持っている。
おいおい、大丈夫か?と声を掛けたくなってしまう。にしても、仁菜以外でこうなるってことはこの子は仁菜のファンってよりもトゲトゲのファンってこと?うーん?そこはよく分からないんだよなぁ……。
前に話しかけたときも、この前話しかけたときも仁菜とばっか話していたからてっきり仁菜単体のファンだと勝手に思い込んでいたけど、案外私達のファンでもあるのかな。
「此処でバイトしてるの?」
「は、はい!実は……!!その色々あって」
周りの店員さん達が首を傾げている。
話しかけ過ぎたかな?となって私は……。
「バイト頑張ってね」
椿ちゃんは何度も頷いていた。
半券を握り締めて、声を裏返しながらも店員さん達に私の注文を確認していた。にしても、こうやって椿ちゃんに出会ったのも何かの運命かもしれない。何かまた一つだけ聞いてみるのかもしれない。
「ねぇねぇ、椿ちゃん。椿ちゃんは学校とかはどうしてるの?」
呼ばれたのを聞いて、私は椿ちゃんに一つ聞いてみることにする。
「あ、あの……その実は地元の長野……」
「長野?」
今、長野って言いかけたかな。
気のせいかな?さっきも色々あってとか言ってたし、もしかしてかなりの訳あり……?
「ああ、いえいえ!中退してて……」
「え?マジで!?ご、ごめん!!聞いちゃいけなかったよね!今の聞かなかったことにするね!!」
「い、いえ!!全然気にしないでくださいね!!」
なるほど……。
どうしてこんな平日の昼間から学生がバイトをしているのかちょっとだけ気になっていただけど、私達と同じって感じか。
「本当にごめんね!」
お盆を受け取って、すぐに自分の席に退散する。
一口食べてから、結構イケるかもとなりながらも食べつつも頭の中でさっきのことを整理する。
さっきのことどう考えても、仁菜の奴には言えないかな。
言えないというよりは、言えば自分が退路に追い込んだとか勝手に思いそうだし、色々と面倒なことになりそうだし。はぁ、それにしてもまさか学校の中退をしているところも含めて仁菜にそっくりとか考えてもいなかったな……。
仁菜には相談しないで、桃香さんに後で電話で報告した方がいいかも……。
私はまた一口と傍をすすりながらも、そう考えながらもスマホで桃香さんに後で電話するという連絡だけをしておいた。
「椿ちゃん、お蕎麦美味しかったよ。さっきのことはごめんね」
「は、はい!き、気にしなさいでください!!」
お盆を返却口に戻して、私は一言挨拶をしてからお店を出る。
後ろからは椿ちゃんの声だけが聞こえて来てている。
「さてと……」
お店を出てちょっと歩いてから……。
すぐに路地に入って、私は桃香さんに電話をする。
『椿と会ったのか?』
「蕎麦屋で働いているところをばったりとって感じにね。あの子、中退したんだって学校」
『なるほどな、そりゃあ偶然にしては面白いな。実は昨日、椿の奴と揉めたんだよ』
「え?あの子と?」
バイトをしているときは特にそんな様子を見せていなかったけど、あれは見せないようにしていただけってことなのかな?
『あいつをちょっとだけ試したってところもあるんだ。ダイダスのことを聞いたら、ふざけるな!って怒られてな。それであいつはこうも言っていたんだ。仁菜のことを川崎の駅まで歌っているときから見ていて、あの人は凄かった!あの人は自分のままに自分の歌声を歌うことが出来てるって』
『しかも、あいつ長野のライブにも来ていたらしいだ』
「え?長野のライブにもあれって結構小さいライブだったでしょ?」
桃香さんは頷いた。一番厄介な立場だな、こりゃあ……。
とはいえ、どうして長野に来れたのもそうだし。仁菜の奴に惹かれたのかも納得できる気がする。私はまだあのときはあの場には居なかったけど、仁菜がもし高校を中退して川崎に来ていることを知っているなら自分と重なる部分が多いとなるのも確か。
『面白い話だよな、仁菜の奴がアタシに背中を押されて……。今度は椿が仁菜の奴に背中を押されていた。連鎖的に起きてるってのもそうだが、ロックや音楽の力がこうやって産みだす力を与えている。凄いことだとは思わないか?』
「ま、まあそりゃあ好意的に捉えればそうかもしれないけど……智ちゃんはなにか言ってた?」
『それがどうやら、マジで椿の奴はSNSでダイダスのファンと揉めていたみたいでな。それだけなら、まだいいんだが同じトゲトゲのファンにもお前らは井芹さんの良さを理解してないってわざわざご丁寧に引用リプまでしていたそうだ』
「うわっ……典型的だねそりゃあ」
調べて、地獄の沼に顔を突っ込むような真似をしなくてよかったとホッとする。
智ちゃんがすぐに椿ちゃんと気づけたのもきっと、あの独特な言い回しがその垢でも見るからに出ていたのもあるんだと思うけど。
「それで桃香さんはどうするの?このまま放置?」
『智に言われたんだが、今は様子見ってところだな。元はと言えば、仁菜が招いた種だ。あいつに回収させるべきだ』
「手厳しいことで、桃香さんがそういうなら私から何を言わないけど……」
『それに……面白いだろ?』
『あいつ自身のファンってのも』
私は不意に足を止める。桃香さんとの意見が一致していたから。
長野の高校を中退して仁菜に出会って全ての運命が変わった。バイト中に言っていた、色々というのも多分、長野で色々あったから。此処は流石に踏み込むなんてことはしないけど……。
「それはそれはもう……」
「めんどくせーって感じにね」