井芹仁菜の鏡像は何を見る? 作:鏡合わせ
「はぁ……はぁ……」
足を素早く動かして、会場へと向かう。
此処まで来ることになるなんて、私自身全く考えてもいなかった。今あるのは、井芹さんのライブに行きたい、行って熱を改めて感じたいだけだった。私には迷いなんかもうなかった。
『井芹さんの対バン行けばよかったな……』
冷たい部屋の中でただ一人、泣いていた自分を思い出す。
対バンに行けなかったあの日、私は長野に戻って来ていた……。
行けなかった理由は確かにある。どうしても、外せないことがあって私はそれを優先させてしまった。井芹さんの歌に救われて来たとかほざいるくせに、肝心のところは丸腰で逃げ出した。
『椿ちゃん、軽井沢駅前で待ってる』
『ライブやるから』
後悔という雪を徐々に大きなシャベルで井芹さんが除雪してくれた。
錯覚してしまうほど、手を伸ばして貰えているように見えてしまう。
期待を欲していないなんて嘘だ。
私は今こうしてライブ会場に向かっているんだから、タクシーで……。欲しかったんだ、ずっと息苦しくて今にも瞼の中から透明な液体が溢れそうになるのを我慢する。惨めでいつも何かあれば、井芹さんの音楽に囲まれる人生だけを謳歌したかった。
今だって、そうだ──。
鼓膜が張り裂けそうになってる。
「聞けてる……私、聞けてるよ」
心という雪はシャベルではなく、太陽によって温かさを与えられている。
心臓という導火線に火が付くほどだ。井芹さんという最高に素晴らしい人間の歌を……。心臓が手で鷲掴みされるほどに、私は今此処で生きていると実感できてしまう。
生きた心地にさせてくれるものには動力源がある。
込み上げて来るのはあの日、聴くことが出来ずに終わってしまった。
『運命の華』だからってのも勿論ある。
勿論あるけど、私が文字通り地に足をつけて立ち続けているのは自分で選ぶことが出来たから。
──軽井沢駅前。
辿り着いた、ようやく辿り着いた。
駅前でタクシーを止めて貰う。ちょっとの距離を滅茶苦茶走ってた。馬鹿でしかない、私は譲りたくないから呼吸が荒くても走り続けた。
耳を通して、脳へと変換される。内側から迸る活力は身体へと変換される。
心という内側から足が動き出して、足踏みをしそうになる。身体がリズムを刻みたくなってしょうがないんだ。手を掲げるぐらいなら許されるだろうか、序盤で聞き専に入ってしまったせいで手拍子をするのは完全に忘れてた。
余計な後悔で頭を悩ませながらも、井芹さんの方へと顔を向ける。
無我夢中で歌い続けている井芹さんだったけど、時折こっちに視線を送ってくれていた。その度に思い起こせるのはやっぱり、伝説の対バンに来ればよかったという想いでしかない。
『椿ちゃん、お父さんが倒れたって!』
対バンの当日の早朝のことだ。
スマホに通知音が来て、確認したとき私は目を大きく開いた。
眩暈がしていた。
何度も何度も文字を認識しようとした。現実から逃れようとも、見えるものは変わらなかった。ただただ倒れたという事実だけが投げ捨てられていた。私に与えられた選択肢は二つに一つしかなかった。まさに断崖絶壁の上に立たされている状態で父を選ぶか、井芹さんを選ぶかを迫られていた。
結果、私は……。
父を選んだ。
過去という亡霊から逃れることなんて出来なかった。
父が倒れたという事実を聞いて、救世主よりも血の繋がりを優先させてしまった。
仕方のないことだって言い聞かせることが出来たはずだった。店の手伝いをするまでは、希望的な観測もできた。
『ごめんねぇ、椿ちゃん。お父さん、実はそうでもなくてね……』
『……は?』
無慈悲なほどまでに私の悲痛が響くことがなかった。父は軽く、腰をやっていただけだった。
大げさに報告して、私が長野から帰って来ることでも想定していたのか、或いは仕向けようとしていたのか従業員やお客んさん達は皆口々に言っていた。私が跡取りとして相応しい、お父さんが心配で帰って来てくれたって……。
どうせこうなる、知っていたはずだった。
雑音が聞こえて、嫌になっることぐらいのことなんて……。だからこそ、私はお店の手伝いを終えた後SNSを更新することもなかった。
『井芹さんの曲はいいなぁ……』
ライブに行けばよかった。
こんな場所に戻って来ないで井芹魂を味わって来ればよかった。選択を見誤ってしまった、私が井芹さんを語るなんて驕りでしかないんだ。
だって、私は……。
井芹さんの楽曲を聴いて、怯える自分を慰めるための自己表明。
『大丈夫だよ』
しか出来なかったんだから。
なんて、哀れで惨めなことだろうか……。
井芹仁菜という最強で最高の神様を崇拝していたはずだった。
この人の歌を聴き続けていてれば、譲らなくていい。正しいと思ったことを信じらればいいと言い聞かせることが出来るはずだった。今になって、後悔と言う幾千万の針地獄が雨として降り注ぐ……。
私がしていたことなんて自尊心を守るための過剰防衛でしかなかったんだ。
これが私の果てでしかない。井芹さんのライブに来て、こんなことを思わされる。自分の現実を突き付けられるのは嫌なはずだった。直視したくなかったはずだったのに、私は今……。
立ち続けられている。
対バンに行けばよかったは変わらない事実だとしても、私は逃げても見ないふりをしてもこうやって音が聴かせてくれる、奏でてくれるものを私の五感から支配してくれていた……。
「最後の曲になります」
「この楽曲はどのライブでもまだ聴かせていないんですけど、今日の為に作って来た曲です」
今日の為に作って来た曲……?
「聴いてください」
「命をくれよ」
これから聴くことになるのは井芹仁菜の新たなる極地。
私も此処にいる人達も知らない。井芹さんだけが知っている一つの物語、一つの曲になる。覚悟を決めて、息を呑んで姿勢を正しく聴こうとしていたはずだった。
出だしから駄目だったんだ。
感情を抑えることなんて出来なかった。
『あのバンド、また出会える……かな?いや、そもそもバンドだったのかな……?』
バイトをしているときの脳内に自分を思い出す。
川崎駅で初めて井芹さんの歌を聴いたときのことだ。
『新川崎(仮)かぁ……あの黒髪の人、すばるさんだったっけ?』
『師匠も居たしバンドっぽくなってきたし、井芹さんの歌声やっぱいいなぁ……』
ショッピングモールのイベントでバンドのライブがあることを聞きつけた。
もしかしたら、井芹さんがいるかもしれないなんて考えていたら案の定、井芹さんがそこには存在していた。衣装は何かこうアイドルっぽかったから、ちょっと「ん?」ってなった。それをSNSで発信しそうになったのをぐっと堪えていたのは内緒でしかない。
声なき魚は出だしの印象が滅茶苦茶強い楽曲だよ。
常人では歌えないほどのテンポの速さ、力強く何処か抑圧された歌声は井芹さんだからこそ出せる強さ。
『全部を曝け出して生きてやる!!』
小さなライブ会場で響く、井芹さんの声……。
遠吠えのような声が地響きを上げながらも、会場を沸かせる。続けるようにして、繰り出されていた。『視界の隅 朽ちる音』は井芹仁菜が着ているTシャツ『不登校』のように自らの存在を曝け出しているようだった。
このライブからだった。
私が井芹さんに強く魅入られるようになったのは……。井芹さんが着ていたTシャツから。もしかしたら、この人も学校や家から飛び出して抜け出してきた人なのかもしれないなんてシンパシーを感じていた。なによりも、私がこのライブ会場で見せつけられた光景を忘れられない。
最初は誰もがスマホで撮影していた。
目で焼き付けるんじゃなくて映像に残すことを優先している人ばかりでくだらないと下に見ていたら、気づけばそういう人は減っていた。井芹さんという力の前に音に専念している人が多かったんだ
これだ、これこそが私が見たかったものなんだって言える。
歌声という強さの証明で人々を唸らせて黙らせる。力ある井芹さんを見てて、何処か最強で最高に見えていたんだ。
『諏訪でのライブ……行こう』
新川崎(仮)のSNSから諏訪でのライブをやることは把握していた。
恐怖なんかなかった。家に帰る訳じゃない、井芹さんを追いかけるだけだ。ライブを見に来て、この心臓を掴んでもらうだけに過ぎない。私は私でありつづけるために必要な行為だ。
これからも私が思い描く未来のスケッチを描くためにも必要だったんだ。
『背中をぐっと押されたんです、その歌に──』
『だから、その歌が間違ってないって証明したいんです』
『その歌で人の心を動かして、どうだ凄いだろって言いたいんです』
私は貴方の歌がどうだ凄いだろって確信してる。
これだけは言える、信じてるんじゃない。断言できる。貴方の歌は生きている。我武者羅に歌っているだけかもしれない。泥臭くて、人間臭くて強烈。貴方の歌は人の心を搔き乱すほどの才能がある。
私にとっては──。
生きていい証明になれるんです。
諏訪で歌っていた『名もなき何もかも』もそうだった。
フェスで歌っていた『空白とカタルシス』もそうだった。
あれこそが井芹仁菜そのものだった。まるでダイヤモンドダストを意識しているかのようなものを体現していて、私は貴方という存在に勇気を与えて貰っていた。
今の私がいるのは……貴方のおかげなんです、井芹さん。
一歩前に出て、私は視線を釘付けにする。焦がれていた現在があるから。
『否定するの?』
聞こえて来る、髪を結んでいて黒髪だった頃の私の声が……。
これが正しくない道じゃない可能性もある。だとしても、私は信じたいじゃなくて……。
「ごめん、もう決めたことだから」
「命をくれた人がいるから」
譲らないから、正しいと信じるから……。
私は信じることを選ぶ。
井芹さんに導かれた自分を……。