桔梗   作:そそぐ


原作:艦隊これくしょん
タグ:オリ主
南の島に赴任してきた提督は文月と出会いましたが、文月はなかなか手強い女性であったようです。

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桔梗

 戦闘少女を統括する提督の職を命じられてから、不安の裏腹に静かな興奮を禁じ得なかった。

 北国育ちの川島は、早くも南小島の熱気にあてられて、内地へ帰って行く飛行機を恨めしく思った。

「お疲れでしょう。出迎えが少なくてすみませんね。」

 折橋は振り返る私を一瞥するやいなや踵を返した。私より年上らしいが、階級は三つ下だった。

 話しかけようとする私を、南国の草木が阻んだ。この島にいる人間は、私と彼二人だけらしかった。

「あとは薄雲に訊けばわかりますから。」

 折橋はそう言い残して去った。

 三十そこそこで気の早いくせに、歩くのは遅い男だ。

 川島は嘆息した。内地では頭の切れる男と一足とびに昇級した自信も、これでは散々だった。

 秘書の薄雲はじめ、すれ違う少女たちのしゃんと伸びた背筋の清々しさが、さっきの折橋のせいでかえって川島には息苦しかった。

「前の提督はどんな人でしたか。」

「小暮司令ですか?人気でした。優しくて、楽しい方でした。」

「そうですか。」

「はい。毎月誰かの誕生日のお祝いをしましたよ。」

「はぁ、そうですか。」

 年頃の少女たちには、それが普通なのかもしれない。川島は常識というものについてあまり自信がなかった。きっと周囲に気を遣わせて生きてきたという自覚のせいで、思考の尺度の方向性が規定されていないこの基地が、川島を困らせた。「それは楽しそうですね。」と言おうとして薄雲に目をやるが、重くて口が開かない。それにしても綺麗なポニーテールだ。内地にはない空気を持て余して、跡を濁した小暮を恨んだ。

 川島は初めの好奇心も消し飛んで、執務室からは出まいと腹に決めつつさえあった。執務室にただ、薄雲と司令の自分だけが馴染んでいるように思えた。

 

 手書きの地図を頼りに夕食に向かう途中、道に迷った。基地で男性の私は目立つらしく、時折少女たちが、こちらを伺いながら通り過ぎる。道を訊こうとも思うが、部下とはいえ声をかけられない。川島は再び地図を開く。薄雲に案内を頼んでおくべきだった。

 皆を集めて挨拶などするべきなのだろうか。

 自身の頼りなさが恨めしくて仕方が無い。自信の無い上官など信頼される筈がない。せめて有能であろうという決意の大きな錯誤に気付いて、骨張った身体で目線をあげて歩く。

「あなたが新しい司令官?」

 横から声をかけられる。

 驚いた。

「はい。今日配属された川島です。」

「やっぱり。夕食の時間だけど、食堂の場所、分かる?」

「分かりません。」

「ついてきて。」

 私の前を小柄な少女が、茶髪のツインテールを揺らしながら歩く。

「名乗ってなかったね。私、文月っていうの。よろしくね。川島さん。」

 文月が振り返って語りかける。

「さっき、道に迷っていたでしょ。訊けば良かったのに。」

「少し気が引けまして……。」

「もしかして相手が女の子だから?慣れてないの?」

 踏み込んでくる割に、愛嬌があって隙が無い。舐められているような気がしなくもないが、この基地では、上官は私だが、彼女は先輩なのだ。試されているような気迫を感じる。彼女に気に入られなかったら艦娘たちとの関係が終わる気がする。

「軍は男社会ですから、緊張してしまいまして。」

 川島は正直に答える。きっとこれが一番無難なはずだ。

「ふ~ん。じゃあ今も緊張してるんだ。二人きりだもんね。」

 そうだよ。落ち着きが悪い気持ちをこらえて、なるたけ姿勢良く歩く。

 食堂には、基地中の少女たちが集まって賑やかだった。川島が入った途端、視線が集まるのを感じる。隣を見やると、文月はいつの間にか居なくなっていた。

 何をするのが正解か。基地司令とは、どれほどの権威があるものなのだろう。

 ここでスルーしたら、何か不味い気がした。

「あっ」

 勢いで、少し大きな声が出てしまう。さっと静まって、全員の注意が刺さる。頭のヒューズが飛んだ。

「本日付けで着任致しました、基地司令の川島です。よろしくお願いします。」

 声が少し大きすぎた気がする。

 はっと気付いて敬礼する。

 少女たちが一斉に立ち上がって答礼する。

 川島は初めて、幾らかの安堵を覚えた。

 自身の権威を振りかざしたい訳ではない。しかし、部下からの敬意は、たとえまだ形だけだとしても、司令として認められた気がして嬉しかった。始まったばかりとはいえ、一つの懸案事項が片付いた気がした。川島は落ち着きを取り戻して、着席を促した。

 視界に文月を見つけた。目が合った気がする。

「提督。」

 袖を引かれて、川島は振り返る。

 薄雲だった。

 銀色のお下げを揺らす彼女に手を引かれ、川島は席に着いた。

 

 果たして正しい振る舞いができていたものか、川島は不安げに回顧する。少し居たたまれない挨拶も、艦娘たちとの打ち解けた会話で中和された気がした。私が心地良いよう気遣ってくれたのだろう。敬意を示しつつも少し距離を縮める会話の妙があまりに自然で、川島は自信の増していることに気付いた。

 

 

 薄雲と相性が良すぎて、というより薄雲が有能すぎて、川島は好調なスタートを切った。前任の小暮司令の置き土産ももうすぐ片付きそうな勢いである。

「今夜は再編後の歓迎会をやるようですよ。司令もいかがですか?」

 気付けばもう日が落ちてきている。

「私が参加して良いものなのか。」

「ええ、皆喜ぶと思いますよ。」

 主役の一人ならば、行くべきなのだろう。

 川島は重い腰を上げる。

 仕事のことを考えると、あまり距離感を詰めすぎたくはなかった。

「行きましょう、司令。」

 薄雲に連れられて食堂へ向かう。

 準備は大分整っていて、吹雪が張り切って椅子を引いてくれた。

 

 少し豪華な夕食が振る舞われた他は特別変わったこともなかったが、少女たちは皆楽しそうにしている。場の盛り上がりに一段落がついたのを見て、川島はそっと席を立った。上官は長居するべきではないだろうという考え故だった。

 最初にした挨拶を思い出す。今度は上手くやれた気がする。

 川島が話す途端に傾聴の姿勢を見せる彼女たちは、立派な隊員であることを思わせた。

 前の司令の時もそうだったのだろうか。

 川島は建物の外に出た。夜は心地良い風が吹く。

「司令官、こんなところにいたんだ。」

 後ろから声をかけられた。

 文月だった。

「少し散歩しよ。」

 文月は振り返らずに、川島の先を歩く。まるで私がついていくことを知っているみたいに。川島が小走りで追いついたとき、文月はやっと振り向いて、川島の目をまっすぐに見ながら

「君のことを、教えて」

と言った。

 川島は危うく意識を飛ばしかけた。

「何が訊きたい。」

「う~ん」

 正しい返答ではなかっただろうか。

「君のこと、なんて呼んだら良い?」

「好きに呼んでくれたらいいよ。」

 とっさに返してしまう。あまり変だと困る。

「じゃあ、川島。嫌?」

「別にいいよ。」

 しかしちょっと不味いんじゃなかろうか。訂正するべきかもしれない。

「あっ、君

「君じゃ嫌。私のことは文月って呼んで。」

「えっ、」

「ほら、呼んでみてよ。」

「文月……さん」

「うん、偉い。良い名前でしょ。私、名前が好きなの。」

 川島は小さく息をついた。

「文月さんは、前任の司令ともこんな感じだったのか。」

「こんな感じって?」

「いや、仲良くしていたというか。」

 川島は探るように尋ねる。

「小暮とは、仲良しだよ。」

「そう、ですか。」

 小暮司令は、私が思っているより艦娘と親しくしていたのかもしれない。川島は早く切り上げた方が良いのではないかと思った。

「川島くん、緊張してるでしょ。よろしくね。」

 文月が手を差し伸べてくる。

 川島は逡巡した。

「ほら、握手。」

 小暮のように、特別親しくするつもりはない。しかし、印象を悪くしてしまっては困る。艦娘たちの信頼を得ようと、執務に奮闘している最中なのだ。

 文月の手を取ることが、あるいは手を取らないことが、どちらに転ぶか川島は迷った。

「よろしく。」

 川島はまず口頭で応えた。

「ほら、」

 文月は身を乗り出して手を近づける。そのときふと、彼女の自尊心を傷つけてしまったら不味い気がした。

 川島はすかさず手を握った。

 文月は、川島の手を捉えると、ぎゅっと握って揺らし、手を離す。川島は、自分の手を握る文月の小さな手を見つめていたが、ふと顔をあげて、文月が自分の目を見ていたことに気付いた。

「君、面白いね。またね。」

 川島が言葉を出せずにいるのを見て、文月は手を振る。

「ああ、よろしく。」

 川島が軽く右手を挙げるのを見て、文月はにっこり微笑むと、踵を返してずんずん歩いて行った。

 

 

 文月が特別距離が近いのだろうか。年頃の女性は多かれ少なかれそういうきらいがあるのかもしれない。少なくとも、川島には上手く付き合える自信が無い。考えあぐねて、執務室で薄雲に声をかけてしまった。

「前任の小暮司令は、艦娘と随分親しくしていたのか。」

 薄雲は、「えっ」と振り返って手を止める。

「ええ、親しくといいますか、よく艦娘の相談に乗ったりしていたようですよ。」

「相談か。必要だと思うか。」

「司令の方針で良いとは思いますが。年頃の女の子ですから、話し相手は欲しいものですよ。」

 薄雲は少し困った顔をする。薄雲にも打ち明けたい話があったりするだろうか。

「何かあったのですか。」

 川島は暫しためらった。

「文月に話しかけられて、小暮司令と仲良くしていたと言っていたから、」

「そうですか、文月さんが。」

「文月と小暮司令は特別親しくしていたのか。それとも、他の艦娘とも、何というか。」

「文月さんは特別親しくしていたようですよ。愛されていましたから。」

 確かに、愛くるしい振る舞いをする。人懐っこい少女の如く。

「なるほど。」

「いえ、文月さんは、小暮司令と婚約しているんです。」

 薄雲は意を決したように言った。

 話しにくい事柄なのかもしれない。川島は耳を疑った。

 別段驚いたわけではない。ただ、理解するのに時間を要した。

 小暮は艦娘と大分距離が近かったらしいから、心の内に下心などあってもおかしくはない。文月がそれをからかっても不思議はない。ただ、思ったよりもはっきりと、明確に、その責任を取ったことが意外だった。それを文月が受け入れていることも。

 すると、文月にはさらさら川島に近づく気など無かったに違いない。それは喜ばしい。喜ばしいことだが、川島はどこか腑に落ちない気がした。

 黙り込んだ川島を横目に、薄雲は片付けを済ませる。

「文月はそういう方なのですから、あまり気にしないでも良いと思いますよ。」

 川島が顔を上げると、薄雲はそっと微笑んで、おやすみなさい司令、と部屋を後にした。川島は考え事をしていたが、自分でも何を考えていたのか分からなくなってしまった。

 きっとたいしたことは無い。

 川島も早々に床についた。

 

 

 それからしばらくの間、文月と話す機会はなく、川島は日々の執務に追われて思い起こすこともなかった。ただ時折、文月を見かけると目で追ってしまうことがあった。気の緩みだと自分を忌々しく思う反面、川島を驚かせたのは、文月がよく折橋と一緒にいることだった。逆の方が的確かもしれない。折橋を見かけるとき、隣には決まって文月がいた。

 折橋とは初日以来、話をしていない。声をかけるべきかとも思うが、関係が余計に悪くなるのが目に見えて、川島は知らぬ振りをしていた。むしろ文月は、まんざらでもなさそうな様子なのである。

 川島にとって今の気掛かりは折橋であった。

 

 小暮が基地に尋ねてくる用事があった。挨拶がてら声をかけてみることにした。

 小暮はいかにもな好青年で、終始私を励ましてくれたのだが、文月の名前を出した途端、彼は唐突に

「文月とは婚約していてね。」

と打ち明けた。

 川島は驚きの反面、小暮にどこか安心を覚えた。

「そうなのですか。色々と腹を決めていらっしゃるのですね。」

 小暮は笑った。

 あまり多くを語りたくないふうであった。

 川島は、文月に好意を抱いていると誤解されては堪らないと思って、慌てて話をそらした。

「そういえば、折橋さんは随分前から基地にいるのですか。」

 核心に近づいて、川島ははやる心を抑える。

「う~ん、僕が来る少し前だから、二、三年くらいだと思うよ。」

 折橋に話しかけづらいのは、小暮も感じるところなのだろうか。

「折橋さんには良く思われていない気がして、ほとんど話したことないですね。」

「それは、気のせいだと思うけどなぁ。折橋、話しかけにくいのは分かるけど。気軽に声かけてみたらいいと思うよ。」

 もっともなことを言われて、川島は言いよどんだ。

 まず折橋に話をしないで、小暮に持ちかけるのは筋違いだったが、しかし川島はもう少し情報が欲しい。

「折橋さん、いつも艦娘と仲良さそうにしているから、話しかけにくいところがありまして。」

 嫌味に聞こえないよう気を遣ったら、言い訳になってしまった。

「折橋は距離近いところあるからねぇ。でもやることはやるし、色々考えてるみたいだし、信じて良いと思うよ。」

「そうですか。」

「折橋も僕と文月の関係知ってるけど、茶化したり口出したりしないんだよね。そういうところすごく信頼してるんだよ。それやられたら折橋とは仲良くしなかったと思うな。」

「そうですか。話しかけてみます。」

 そう言って、川島は礼を言ってその場を後にした。

 小暮の言葉は純粋な励ましのようでいて、どこか牽制されているような不快があった。きっと自意識過剰なのだろうが、小暮にとって、警戒するべきは折橋ではなく川島の方だという含みがあった。

 はじめの明快さが形だけで、その実曖昧さを多分に含んでいるような気がして、川島は再び小暮が分からなくなった。

 

 

 その夜、久しぶりに文月に会った。

 一抹の疚しさの裏で、川島にはいくらかの興味があった。誘ってきたのは文月だったが、川島は内心嬉しく思った。

「今日、小暮司令と話をしたんだ。」

「そう。私のこと話した?」

 文月はつまらなそうに言った。

「婚約してるって、教えてくれたよ。いいや、私からは話題にしなかったんだけど。」

「そう。なら、二人の内緒だね。」

 文月は嬉しそうに笑った。

「小暮司令がいるのに二人で会うのは、いけない気がする。」

「気になる?小暮は私が男と会うのを、別に嫌がったりなんてしないわ。むしろ遊んで貰ったら良いなんて言うもの。」

 川島は、言いよどんだ語尾を、そのまま文月に食われてしまった気がした。

「そうなんだ。でも、文月さんは小暮司令のこと、好きなんでしょう。」

「ええ、好きよ。大好き。別に他の男を好きになることなんてないわ。だから、君のことも好きにならない。ほら、大丈夫でしょ?」

「小暮司令が認めているのなら、良いのかもしれないけど。」

 文月が川島をのぞき込む。

「川島は私のこと好き?」

「いいや、部下としては大事にしているけど、」

「ふ~ん。良かった。なら大丈夫だね。」

 文月の声音が少し強ばった。文月の弱さが見えた気がした。

「あのね、今日、中破しちゃったの。」

「大丈夫だったか?」

 川島は細心の注意で言葉を選ぶ。

「敵の重巡が私ばかり狙ってくるのよ。被弾してからもしつこくて、避けきれないと思ったわ。」

「大変だったな。よく頑張った。けがは大丈夫なのか?」

「ずっと入渠していたから、すっかり治ったの。司令のおかげね。ありがとう。」

 文月はにっこり笑った。

「いいや、私は大したことはしてない。ともかく、文月が帰ってきてくれて良かった。」

「うん。帰ってこれて良かった。司令とお話できなくなっちゃうと嫌だし。司令、優しいのね。」

「本当に文月は、頑張っていると思うから。」

「うん。ありがと。」

 文月は振り返って微笑むと、宿舎に帰っていった。

 

 

「川島はどうして提督になったの?」

 月光の影で、文月は突然尋ねた。

 あれから二日が過ぎていた。

「海軍が一番、しっくりくる気がしたんだよ。」

 川島は静かに言った。

 少年が今日に至るまで、どこかに断絶があるような気がした。

「川島はさ、あまり体育会系って感じじゃないじゃん。ガタイもそんなにだしさ。脳筋みたいなさ、荒々しい感じじゃないじゃん。」

 確かに、確固たる意思のもと目指したわけではない。器用でいることの空虚を、見抜かれた気がした。

「死に場所を、探していたんじゃないかな。」

 自然に、口が動いた。

「今は?」

「今でも、あまり変わらないよ。」

 凪が来ていた。

「そうなんだ。じゃあ、私と同じだね。」

 文月と目が合った。また、少し強ばったような気がした。銃を構える少女への不謹慎というものは、気にならなかった。別にそれで良かった。

 川島は今、少年を見ていた。

「別に止めたりなんてしないわ。それはあなたの勝手だもの。」

 縁石に座って、文月は伸ばしたつま先を見ていた。

「あのね。私のお葬式があったら、棺桶に桔梗の花を入れてほしいの。」

「桔梗――。」

「そう、きっと綺麗になるわ。」

 文月の反らせた指先で、爪が光った。

 

 

「小暮とケンカしちゃった。」

 夕食後の散歩は、そろそろ日課になりつつあった。

「先週、小暮がここに来た時。あの日も君と散歩したじゃない。その前に、一人で泣いてたの。」

 川島は、良い言葉が見つからなかった。

「小暮に話したの。川島に避けられてる気がするって。そしたら、川島司令に迷惑かけるんじゃないって、怒られちゃった。」

 気付かれていたのか。

「あのときは、すまなかった。」

「別に君に怒っているわけじゃないわ。小暮があなたの味方をするんだもの。」

「小暮司令は、仕事を優先したんだ。それは、君のためじゃないか。」

「別に良いわ。川島とこんなに仲良くなったもの。小暮は私が中破すると、とても悲しそうな目をするのよ。俺はどうしたらいいか分からないって、悲しそうな目で私を見るの。だから私、耐えられないんだわ。彼が司令だった時は、入渠が済んでから彼のところに行っていたのよ。」

「文月は、小暮司令に弱みを見せたいとか、心配してほしいとか、思わないのか。」

「それは違うわ。好きな人は悲しませたくないもの。小暮には、可愛い私を見ていてほしいの。きっと川島は本気で恋したことなんてないんだわ。人を好きになるって、そういうことなのよ。好きな人には、私の良いところだけ見ていてほしいもの。」

「しかしそれは、君が耐えられないだろう。」

「だって小暮は私の内面なんて知ったら嫌いになるに決まっているもの。私が出撃前にお腹痛くなったときなんか、私がうずくまっていたら、彼、心底面倒そうな顔をするのよ。お前のそれなんとかならないかって。他の娘呼んで代わりに出させようとするんだもの。私、元気なふりしてこっそり済ませるほかなかったのよ。川島はちゃんと心配してくれるのに。ああ、小暮がはじめから川島だったら良かったんだわ。」

 川島は慎重に核心に触れようとして、ゆっくり口を開いた。

「それ全部、小暮司令に話したらいいじゃないか。文月が言うくらいに小暮司令のことが好きなら、もっと信じてあげたらいいだろう。それでだめなら……、いや、君から信じるべきなんだ。私に話すなら、小暮司令にも話すべきだよ。」

 文月が遮ろうとするのを、無理矢理に言い切った。川島には、自身の心に引っかかった自我を押しつぶしたような感触があった。大変なチャンスをふいにして、しかしまた生み出してしまったような気がした。

 

 

「文月、大丈夫か!」

 建物裏にうずくまる文月に川島が駆け寄る。

 川島から声をかけるのは、初めてかも知れなかった。

「大丈夫よ。司令のおかげね。」

 文月の口元がやわらかく動いた。

 文月は笑ったが、悲しそうだ、と川島は思った。

「大破なんて久しぶりだわ。川島が来てからはきっと初めて。」

 川島は作戦を思い返す。計画が甘かっただろうか。大破したのは確か、文月だけだった筈だ。

「川島のせいじゃないわ。」

 文月は見透かしたように言った。

「川島は優秀だわ。川島が来てから大きな損害はでてないじゃない。こんなに順調なのは初めてよ。」

 文月はまた笑いかける。

「小暮司令が敵を一掃してくれたお陰さ。」

 川島は間髪入れずに答える。振り向く文月を遮るように。だからお前のせいじゃないぞと川島は念じた。

「そうね、小暮も優秀だったわ。」

 文月は小さく言った。

 今日は私を見てと言われた気がした。

「死ぬかと思ったわ。私バカね。いつもならよけるのに。まっすぐ走ってくる魚雷を見て足がすくんだわ。」

 文月の言葉は、一遍のしらべのように曇りなく、細く、確かな旋律があった。

「彼女、私を殺そうとしたの。殺意に怒りなんてないのね。彼女に感情があったら、もっと楽に撃てたわ。」

 文月は今度は、静かに笑った。

「足がすくんでいても、私が相手を逃すはずなんてないもの。」

 文月は自分の右手を撫でる。いたわるように。

「司令、まだ私を好きでいてね。」

 文月は、桔梗を折り取ると、川島の制帽に挿して笑った。

 

 

「川島はすごいよ。私のこと、私が言う前に気付いちゃうんだもん。」

 文月は、二、三問題を出してそのすべてを川島が言い当てたのをみて、興奮気味にはしゃいだ。いつも話を聞いてばかりだと思って、川島は「じゃあ今度は文月に質問してみようかな。」と言った。文月に自分の話題を振っても仕方が無いくらい、分かっているつもりだった。

 文月が目を輝かせて川島を見つめる。途端に川島は、何が訊きたかったのか分からなくなった。しまったと思うが、もう遅い。

「え~、何もないの?」

 文月がつまらなそうに言う。川島は、確かに文月の言うとおり、恋を知らないかも知れないと思った。

「なぁ、もうやめにしないか。」

 川島は、小さく言った。

 疚しさのためであった。

 乱れた呼吸が聞こえた。文月が胸を押さえている。

「君も私を捨てるんだ。みんなそう。私が好きになった人は、みんな仲良くなると私を捨ててどこかに行っちゃうの。君は大丈夫だって思ってたのに。川島も文月を捨てるんだね。川島にしか話してないこと、いっぱいあったのに。」

「いいや、私は、文月を嫌いになったわけじゃない。」

「いいよ、嘘つかなくて。私が嫌いなら嫌いって言えばいいじゃない。あのね、川島が一番仲良くなれたんだよ。川島だけしか知らない私、いっぱいあったんだよ。川島だけしか私を受け止めてくれないのに。」

 文月は、かすれた声でまくしたてて、息を使い果たしてうずくまった。あとから涙がつうと流れた。

「いや、見捨てたりなんか……、」

 違う。川島は口をつぐむ。

 川島はすぐさま顔を伏せて、感情を奔らせる。

「俺だって。ずっと我慢するつらさが分かるか。無理なんだ。そんなに器用じゃないんだよ。」

川島は叫ぶ。絞り出した嗚咽を隠さず声に出して叫ぶ。いつのまにか、静かになっている。

「川島は、私のこと、好きなの?」

 声のトーンからは感情が読めない。

「ああ。そうだよ。好きなんだよ。」

「ふうん。君でも無理だったんだ。」

 川島は顔をあげない。時を肌で感じる。

「私は小暮が好きだから、川島を好きにはならないよ。だから安心して。君が私を好きでいるのがつらくなるまで、私のこと好きでいて良いよ。」

「いいのか?」

「君がそれでつらくないならね。」

 川島は頷く。

「顔あげて。ねぇ、私のこと好き?」

 文月が問いかける。

「ああ。好きだよ。」

 文月は嬉しそうに川島の頭をなでると、また明日ねと別れを告げる。

 湿気た風が肌にまとわりついてくる。

 川島は気味悪く揺れる常夏の月に背を向けて、ゆっくり宿舎へ帰った。

 

 

「司令、少し休憩にしましょうか。」

 執務室で薄雲が麦茶を注いでくれた。

「最近、顔色が良くないですよ。」

 薄雲は気付いているのだろうか。まさか。

 川島は、「すまない」と一言、グラスを煽った。

 ここのところ執務にいまいち身が入っていない。薄雲への後ろめたさが、伝染してしまわないかと恐れた。

 本当は執務に溺れて何もかも忘れてしまいたいところなのに。川島は窓の外に文月が見えて、慌てて目をそらした。

 隣にいたのは折橋か。文月は折橋に話しただろうか。

「艦娘と何か、あったんですか?」

 薄雲は心配そうに尋ねる。

 話して良いことなのだろうが、川島は自身を阻むのが取るに足らない自尊心に思えて、覚悟を決めた。

「文月と関係を拗らせたんだ。」

 川島は顔をあげたが、薄雲の表情は変わらなかった。

「どれくらい話していないんですか?」

「一週間くらい、」

 薄雲は、小さく息をついた。

「文月さん、怒ってなんていないと思いますよ。」

「いや、多分避けられてるんだ。」

「それをしているのは司令の方でしょう?」

 川島は図星を突かれて、空のグラスを見つめた。

 薄雲が立ち上がって、麦茶を注いでくれる。

「薄雲にも、迷惑かけてすまない。」

「それは構いませんけれど。」

 川島は脳裏に渦巻く邪念を薄雲で塗りつぶそうと励んだ。

 

 とにかく文月からの視線が、気になって気になって仕方が無かった。発言、所作、そのすべてが文月にどう見られているかを中心に形作られていた。そのことを自覚する度に、川島は己のガキ臭い自意識を苦々しく思った。

 文月よりも小暮よりも、きっと折橋よりも幼いであろう自我が、切っても叩いても死なないムカデの如く無為な肉体の中を這い回っている。川島は、相応の罰で散々痛めつけて、自業自得だと嗤ってしまいたいような衝動に襲われた。

 

 

「お話しよ~。」

 文月が手を引いて歩く。文月の手のひらは火照ったように熱い。

 ひふが汗ばんで、吸い付いてくる。

「えへへ~仲良し~。」

 文月が見上げてくる。川島の身体を嬉しさと背徳が駆け上がる。

 川島は、文月をいつもより遠くの浜辺へ誘った。

 川島は風に耳を澄ませた。

 理性が欲しかった。こんなところで選択を間違えたくはない。

 文月が流木に腰掛ける。川島は、その右隣に座る。そのこぶし一つ分の隙間を埋めて、文月の肩が触れた。

「手、きれいだね。」

 文月は、川島の左手を弄ぶ。

 途端、川島の左手は脱力する。

 文月は、左手を自分の太腿に乗せて、薬指でなぞった。

「さらさら~」

 文月は楽しそうにしている。

「ピアノを、やっていたからね。」

 川島の手は動かない。

「ピアノ弾けるんだ!」

 文月は、秘密をまた一つ手に入れて嬉しそうにしている。

「いけない指だね。」

 文月は指を持ち上げて、爪を撫でる。

「まだ、私のこと好き?」

 文月が見つめる。

「好き。」

 川島はできるだけ優しく、答える。

「私も好き~!」

 文月は懐から小さな瓶を取り出して蓋をあける。

「文月にはまだ、早いんじゃないのか。」

 文月は首を振って、その小さな口に一息に流し込んだ。

「うぇ~、不味い。」

 文月のローファーと川島の靴がぶつかって揺れる。

「大丈夫なのか?」

 文月は細く息をはきながら、川島の袖をつかむ。

「きっとまた、忘れちゃうかも。」

 文月の口調はおぼつかない。

「君は、ずるいね。」

 川島は、愛を込めて言った。

「えぇ~、なんで?」

 文月は、目をまんまるくして川島を見上げる。

「君は、ずるいよ。」

 川島は海に向かって言った。

「なんでそんなに酷いこと言うの?」

「だって、そうじゃないか。」

「なんで?」

 文月は、今にも泣き出しそうに川島の袖を握る。

「君は、お姫様だからさ。」

 川島は優しく言った。

「お姫様?」

「そう。可愛いお姫様だよ。」

 文月は、耳が生えたみたいにはにかんで喜ぶ。

「私、可愛い?」

「可愛いよ。好きになっちゃうくらい。」

 文月の手から力が抜ける。

「私、このままでいいの?」

「ああ、君はそれでいい。そのまま真っすぐに、幸せになりなさい。」

 波に乗せるように言った。

 川島は耳を澄ませた。

「川島は、どうしてそんなに寂しそうなの?」

 不意に、文月が言った。

 川島の肩に頭をもたせて、うつむいている。

「川島、なんだか泣いてるみたい。」

 文月が首をもたげる。

 川島は海を見ようとしたが、吸い付けられたみたいに文月の静かな瞳を見つめる。

 文月は目をそらさない。

「寂しい、かもしれない。」

 川島は嘘をつこうとして、途中でやめてしまった。男のちっぽけな理性では、少女の純粋無垢には罰当たりな気がした。

 文月は心配そうに首をかしげる。

 川島は文月の頭を撫でようとして、やめる。

 首をすくめた文月がおそるおそる目をあけて、不満そうに見つめる。

「さあ、戻るぞ。」

 川島は月に背をむけて、木立を歩く。あとから文月がかけてきて、川島の手をにぎった。

 

 

「昨晩なにがあったの?」

 文月は開口一番、川島に詰め寄る。

「覚えていないのか。」

「ええ、きっとお酒のせいで。ごめんなさい。」

 文月はしおらしく謝るが、川島を見つめる視線は厳しい。

「言わないよ。昨日の文月と私の秘密だから。」

 川島は静かに言った。

 文月は不服を隠さなかった。

「昨日の文月に意地悪したでしょ。分かるわ、憶えていなくたって。目が少し腫れていたもの。」

「昨日の文月を泣かしたのは私だ。」

「やっぱり。意地悪だわ。」

 文月は少し、拗ねているみたいだ。

「私だけ憶えていないなんて不公平よ。見逃してしまったみたいな気分だわ。なんでそんなに意地悪するの?」

 文月の勢いに押されて、川島は少したじろいだ。

 そうだ。すっかり忘れてしまうなんて、不公平じゃないか。

 安心の次にやってきたのは、失意であった。昨日の文月を心なしかいとおしく思った。

「もう、やめにしないか。」

 川島は静かに言った。

 風がさあっと葉を揺らした。

「私ね、普段はしっかり者なの。任務とか人間関係とか、しっかりやろうって気を張って、お姉さんなのよ。でもたまに疲れちゃったりすると、だめになっちゃうの。川島なら受け止めてくれると思っていたわ。」

 文月は少し早口で言った。

「夜に会うのは、今日で最後にしよう。」

 川島は目を見て、諭すように言った。

 文月は、今度は泣かなかった。

「昨日、何かあったのね。」

 川島は答えなかった。

「言いたくないなら良いわ。憶えていない私が悪いもの。」

 文月は吐き捨てるように言った。

「君は、他にも仲良い人がたくさんいるじゃないか。」

「そんなこと言うのね。」

 文月が食いつく。

「そうね、そうするわ。みんなと仲が良いもの。」

 何も言わない川島を見て、文月は肩を落として小さく言った。

「この間はありがとう。川島の言うとおり、小暮に全部話したわ。仲直りしてちゃんとお話ししたの。あれから良い調子よ。川島のおかげだわ。」

「それは良かった。」

 川島は、棘が出ないように慎重に言った。

 早く帰ろうと思った。

「今日は疲れたから、もう寝る。幸せになれよ、文月。」

 川島は振り返らなかった。

 文月はなにも言わなかった。

 

 

 執務室の扇風機が壊れた。

 使用済みの報告書をうちわ代わりにぱたぱた扇ぎながら、紙にインクを走らせる。ぽたぽたと汗が滴って染みを作る。

「司令、お疲れ様です。」

 薄雲が麦茶を注いでくれた。

 グラスも汗をかいている。

「お疲れ、薄雲。」

 薄雲は膝をそろえて、両手でグラスを傾ける。

 セーラー服が染みをつくって背中に張り付いている。

 川島は突然、薄雲の頼もしさがいとおしくなった。

 薄雲にだけ、知っていて良い川島があるような気がした。

「今日は夕食、一緒に食べに行かないか。」

 いつもの食堂だが、薄雲は目を輝かせる。

「是非!きっとみんな喜びますよ。」

 薄雲は心なしか張り切っているようにみえる。

 思えば今までも、私と仲良くしたいそぶりを感じたことは少なくない。何気なく発してきた薄雲への労りやねぎらいの数々が、薄雲を喜ばせていたのだと、川島は今さら振り返って気付く。

「薄雲のやつ、可愛いな。」

 川島は独りごちて、再びペンを握る。

 雲がない空から、日差しが眩しくそそいだ。

 

 薄雲は、吹雪型みんな仲良しなんですよと川島を先導しながら夕食を囲んだ。いつも食堂の隅で手早く済ませていた川島は、久方ぶりの賑やかさを気恥ずかしく思った。

「司令官!今日の演習で時雨改三ボコボコにしました!」

 吹雪がはなをならす。

「姉さん、いけませんよ。」と白雪がたしなめ、「さすがです!」と浦波が目を輝かせる。

 川島は笑いながら、奥の隅に一人で座る文月を見つけた。文月はうつむいていて、目は合わなかった。

「やるじゃないか吹雪。」

「司令もいけませんよ。」

 悪乗りした川島を待ち構えたように、薄雲が隣から身を乗り出す。

「司令官が来てから装備が新しくなって、出撃するのが楽しいんです。」

 吹雪が興奮気味にまくしたてる。セーラー服に囲まれて、女学校にいる気分だ。

 隅に座る文月の隣に、折橋が座る。川島はあわてて視線をそらす。

「もう聞いているかもしれないが、順次見張員も増設するから。」

 川島がしれっと言うと、深雪が奇声を上げて喜ぶ。

「私も良いんですか?」

 薄雲が尋ねる。

「もちろんだ。いつも頑張ってるじゃないか。」

「嬉しいです。」

 小さく首をふった薄雲のポニーテールが揺れて、甘い香りが川島のはなをついた。

「今夜はもう少し、仕事のつづきをしようかな。」

「私も手伝います!」

 薄雲は勢いよく答えて、川島は優しく笑った。

 

 

 夕食後は、文月との散歩から、薄雲と残業する時間に変わった。文月があれからどうしているかは知る由もない。折橋と遊ぶか、あるいは小暮と文通でもしているのだろう。

 川島は手をとめて、隣を見やる。

 薄雲が資料に目を走らせている。

 心なしか嬉しそうだ。

 仕事中の私を見られるのはお前の特権だと、川島は小さく思った。

 開け放した窓から、夜風が吹き抜ける。薄雲のおろした髪が風に揺れる。重ねた書類が数枚舞って、床に落ちた。

 薄雲は「あっ」と小さく声を出して、立ちあがる。ふみだした足先に紙がすべる。

 川島はすかさず立ち上がる。伸ばした右手が少女の身体に躊躇って空をきり、転びかける薄雲の後ろから右手を捕らえる。

 うしろに引かれてバランスを崩した身体を、すかさず川島の左手が捕らえた。

 薄雲の背中が川島の中に収まって、白い手足が空をきる。

 銀色の髪が舞って一筋、川島の唇をなぞって糸をひいた。

 華奢な体軀にはずっしりと人の重さがある。布越しの身体の温かさに反して、捕らえられた右手はひんやり冷たくて、しっとりと肌が吸い付いた。

「大丈夫?」

 川島はやさしく問いかける。

「うん。ありがとう。」

 薄雲は口数少なく、答える。照れるでも取り乱すでもなく、自然に。もとからそうあったかのように、艶やかに。

 薄雲は力を抜いたままでいる。

 川島は手を離さない。

「よかった。」

 川島は薄雲を抱く左手を少し強めると、ゆっくり手をほどいた。

 薄雲が花びらを散らしたように舞って、ふり返る。

「司令。」

 薄雲は、川島の胸に手をあてて身体をよせる。

 頸を左にかたむけて、川島の鎖骨に頬をのせた。

「今日は遅いから、もうおやすみ。」

 川島は薄雲の頭に手を載せて、そっと語りかける。

 薄雲は小さくうなずく。

 月光の陰で銀の髪が光った。

 

 

 薄雲は、あの晩から少し、垢抜けた気がする。

 元から芯の通ったたおやかさがあったが、艶やかな自信と少しばかりのしたたかさが板についたようだった。

 川島と薄雲が並ぶとき、そこには確かな信頼があった。誰も近づけない呼吸があった。どこへ行くにも川島の隣には当然のように薄雲がいたし、それが基地のふつうになった。

 川島の何気ない言葉に、薄雲は毎度照れて喜びを顕わにしたし、薄雲は次第に川島のねぎらいを求めるようになった。

 満足げな薄雲の隣で、しかし川島には、いつも小さな戸惑いがあった。

 非日常が日常になってしまった違和感のうらで、川島は薄雲に合わせて小さな嘘をついた。姿の見えない流れの中で、川島は先を見失って、流れに合わせて舟を漕いだ。薄雲の喜びに抗おうとする小さな感情を忌々しく思う反面、それがかえって倫理や理性を主張しているような気がした。

 言葉が丸々嘘だった訳ではない。言葉に含まれた感情の中に、二割の嘘があった。

薄雲を不安にしてはいけない。積み上げた信頼が崩れてしまうことを、川島は何より恐れた。薄雲は、最大で唯一の存在証明に近かった。一番の拠り所は、いつの間にか特大の重荷となって川島を苦しめていた。

 これこそまさに、相応しい罰かもしれない。

 川島は、あの晩の天使にも悪魔にも似た薄雲の輝きを憾んだ。

 

 夕食のあと、川島は一人食堂を抜け出して、木立の中を歩いた。薄雲との残業をサボるのは今日が初めてだった。

 草木がのびて、少し景色が変わって見える。

 かつて毎夜歩いた日々が、遠く思われた。色々なことが変わってしまった気がする。今が良いのか悪いのか、川島には果たして分からない。

 もとの建屋の裏の暗がりに、身体をもたせてたたずむ少女を見つけた。

 文月だった。

 文月は川島を見つけると、責めるような懐かしむような顔をして、再び目線を落とした。川島のすることを、まるで全部分かっているみたいに。

 川島は声をかけてやろうかと思った。

 しかし明確にいけないことのように思えて、川島は立ち止まった。

「私のこと、見なかったふりして行ってしまうと思ったわ。」

 文月は細く言った。

「私がそんなに簡単に人を嫌いになると思った?君ほど面白い男なんていないわ。手放すわけないじゃない。」

 文月は笑った。

 川島は何も言わなかった。

 彼女の開けっ広げな素直さが、痛いぐらいに眩しい。川島は、言葉が見つからなかった。

 分からないなら、良いか。

 川島は歩き出す。

 文月は何も言わない。

 執務室の小さな灯りから逃げるように、川島は足早に宿舎へ帰った。

 

 

 陽気な日差しを恨むように、川島は重い腰をあげる。

 仕事への割り切りの強い性格にはめずらしく、川島は提督の職を苦々しく思った。

 今日も出勤だ。きっと薄雲は、残業に顔を出さなかった私を引きずっているに違いない。文月は、知らん。

 時計の進みが今朝ばかり速い。

 川島はゆっくり執務室の戸をあけた。

 

 薄雲は既に席についている。

 随分前に来たのだろう。昨日散らかした書類も片付いている。いや、片付けたのは昨晩かもしれないが。

 薄雲が気付いて清々しく挨拶する。

 そう、清々しく。

 川島は顔をあげた。

 しゃんと背筋を伸ばして、結わえた髪を揺らして、薄雲が見つめている。

「おはよう。昨日は、すまなかった。」

 川島はバツの悪さをかかえて、薄雲に謝る。

「少しくらい構いませんよ。良く休めましたか?」

 薄雲は優しく笑いかける。

 川島は曖昧に返事をしながら席に着いた。

 薄雲に不満げな様子が微塵もなくて、川島は安心した。安心したが、居心地の悪さがどうも収まらない。

 川島は頭をわしゃわしゃと掻きむしろうとつい手を伸ばすが、隣に座る薄雲に気付いてあわてて引っ込める。

 諦めて書類を手に取る。途端に渇きが喉に張り付いて、川島は思わず席を立った。

「はい、ただいま。」

 薄雲が茶を注ぎに走る。

 川島は力が抜けたように腰をおろして、雲一つない空をながめた。

 

 

 皮膚の裏側に棲み着いた居心地の悪さが、四六時中川島を苦しめていた。

 小さな口にカレーを運ぶ薄雲の向かいで、川島は背を丸めて皿の残りを掻き込んで、食堂を飛び出した。

 川島を、夜風が迎えた。

 体中に燻る熱気を吸い取って欲しかった。

「どこにいくの?」

 後ろから声をかけられた。

 しまった、と思った。

「海に行くんだ。」

 川島は振り返らずに答えた。

「私も行く。」

 歩き出す川島のうしろを、文月が小走りで追いかける。

 木々の先に波の音が聞こえる。

「ねぇ、歩くのはやい。」

 文月が川島の袖を掴んだ。

 川島の前に飛び出して、ふり返る。

 川島は目をあわせまいと水平線を睨んだ。

「怖い顔。何か嫌なところあった?」

「いいや。」

「なら、よかった。」

 文月は明るく言うが、強ばった音色が隠し切れていない。

「そう。」

「うん、私が川島を傷つけなくて良かった。」

 ちらと目を向けると、文月は目をあわせて微笑む。

 川島は、強がる自分が馬鹿らしく思えた。

 笑ったら良いんだろう。彼女みたいに素直に、純粋に笑ったら良いに違いない。

 川島は再び水平線を睨んだ。

 空も海も黒い。

 文月は可愛い。頑張ってる。人一倍に無邪気で無垢で、悪いところなんてない。

 文月の笑顔ににじむほんの少しのわざとらしさが、きっと自分のせいだと気付いて、川島の心につうと冷たい風が通った。

「面白い男。またお話、しようね。」

 川島と目が合うと、文月は手を振って踵を返す。

 川島の耳に、波の音がやけに大きく響いた。

 

 

 川島は机に積み上げられた書類を見て、ため息をついた。

 最近になって少しずつ高くなっていたのは確かだった。ここに来てから初め半年の間は、翌日に持ち越すことでさえ稀だったと言うのに。

 外から演習の声が聞こえる。

 こんな日は視察でもと一瞬思ったが、行ったところで、だらしのない私を見て皆なんと思うだろう。頑張っている少女たちに気を遣わせて良い気になるなんて。

 川島は書類に目を戻した。さっきから同じところばかり読んでいる気がする。

 薄雲が報告書を仕上げて、山の上に載せた。

「司令、お茶にしましょう?」

 薄雲が水を汲みに駆けていく。

 無限ループが嫌になって、川島は席を立った。

 誰もいない執務室で少し羽を伸ばす。

 仕事も進まないのに休憩ばかりして、薄雲にも呆れられているに違いない。

「また自分のことばかりだな、お前は。」

 虚空に呟いて、川島は自意識を呪った。

 このままでは不味い。元に戻れば、また君をたすけられるはずだ。そのためなら。

 川島は麦茶をかかえて戻ってきた薄雲に声をかけた。

「今日から、残業は私一人でやる。だから君は休んでいてくれ。昼間も、たまには演習で体を動かしてきたら良い。」

 薄雲は戸惑って、少しお茶をこぼす。

「いや、薄雲のせいじゃない。むしろ薄雲がよく働いてくれたから、その分、休んでくれ。」

 口をひらく薄雲を遮るように、川島は続けた。

 薄雲は何かを言いかけようとまた口をひらくが、川島の視線に押されて口をつぐんだ。

 薄雲の淹れた香ばしい麦茶が、内側から身体に染みていく。

 さあ、やるしかない。

 川島は机にかじりついた。

 

 

 夜の執務室は、風が抜けて少しやりやすかった。

 川島はデスクスタンドだけつけて、部屋の灯りをおとす。

 秘密の特訓のようで気合いが入った。

 もっと叱ってくれたら良いんだけどな。

 薄雲の書いた報告書を手に取る。

 端正な字が並んでいて、綺麗だ。紙が少し暖かいような気がした。

 自分の感情を隠していたって仕方がない。もっと相手を信じるべきかな。

 川島は独りごちて、書類にペンを走らせる。

 

 川島は遅くまで粘って執務室に籠もった。

 毎日続けているおかげか、仕事も進んでいるし、再びハリが出てきたような喜びがあった。

 川島は今夜も、充実した疲労感とともに執務室をあとにする。

 基地中の電気がおちていて、足音が響いた。

「随分、遅かったね。」

 真っ暗な宿舎の入り口で、文月が腰掛けていた。

「もう会うのはやめようと言ったはずだ。」

 通り過ぎようとする川島に、文月が手を伸ばした。

 茶色い小瓶が二本、にぎられている。

「いらないよ。」

 川島は短く答える。

「じゃあ私、こっちがいいから。」

 そう言って、文月は、残りの片方を川島につき出した。

 川島は受け取ってしまった自分を悔いる。今の自分にはあまり良くない気がする。

「私のこと嫌い?」

 文月はまっすぐ訊いた。

 すごく自然な響きだった。

「君はなんでもはっきり言わせようとするね。」

 川島は投げやりに言った。

「嫌いってこと?」

 文月がたたみかける。

 今の川島にはそんなこと、よく分からない。

「言葉にするのが難しい感情だってあるんだよ。」

 川島の言葉には感情が少ない。

 文月が聞きたいのはそんなことじゃないなんて、痛いほど分かっている。けれど仕方が無い。川島が言いたいことは違うんだから。

「前の川島なら、迷わず好きって言ったわ。」

 文月は寂しそうに言う。

 川島の言葉なんてなかったみたいに。

「嫌いなわけない、と言ったら、君は喜ぶんだろう。でも、分からないんだ。そうはっきりと言葉にできないけど、前とは違うんだよ。」

 嘘をつくより、隠すより、きっと言った方が良いと信じた。もしかしたら、知っていて欲しかったのかもしれない。だから、

「君に私を知っていてほしいと思ったんだよ。」

 川島はしぼり出すように言った。

 おそるおそる顔をあげる。

 あきれたような無関心が、静かに川島を見つめていた。

 川島は笑う。

 きっと文月の素直さなのだ。折り合いをつけ、自他ともに充たして生きる文月の、なんと大人なことか。独りよがりの解釈に溺れて、私は何と言ったか。

「すまなかった。」

 文月は何も言わない。

 克己を抱えながら、克己を人に求めることのどうしようもない未熟を、瀕死の理性で調伏して、川島は自棄に似た覚悟を決めた。

「私は、自身の精神的な幼さを抑えることができない。だから、もう話しかけるのはやめて下さい。必要なことは、薄雲に言って下さい。」

 視界が揺れる。

「ふうん。そうは思わないけれど。もう遅いから帰るわ。おやすみ。」

 空っぽの脳みそに文月の声が響いた。

 もうそこに文月はいなかった。

 あっけなく月光に晒されて、川島は燻るいらだちが、文月の無関心故でないかと怯えた。

 どこまでもつまらない男だ。

 文月との縁を切ってやったことが、自身へのこの上ない復讐に思えて、気味の悪い快感が身体を震わせる。

 背筋を這い回る熱気を風に吸わせて、川島は笑いながら自室へ帰った。

 

 

 あれから、あまり人と話した記憶が無い。黙々と執務を片付けながら、隣の薄雲さえ別世界にいるように遠く感じた。

 窓を雨が叩く音が聞こえる。

 外に何があるわけでもない。川島は書類から目をそらさない。

「司令、白雪さんがお菓子、焼いてくれましたよ。」

 書類の隣に小皿が置かれて、川島は顔をあげる。

 薄雲と目が合った。

「たまには息抜き、してくださいね。」

 生返事をして口に放り込み、また書類に目をもどす。

 薄雲も多くを語らない。

 川島は食堂へ行くのさえ疎ましく思った。

 

 もうすぐここへ来て一年が過ぎる。

 再編を前に川島は密かに転属届を書いた。川島は再び北へ戻ることになって、南小島の熱気も幾らか懐かしく思えた。

 川島はふと思い返す。

 文月に強くあたりすぎた。薄雲には冷たくしすぎたかもしれない。仕方が無い。次に来た提督が、小暮のように、きっと上手くやってくれるに違いない。

 川島は最後の書類を片付けてペンを置いた。

 結局私には何も分からなかった。

 今となっては、何を悩んでいたのかすら定かでない。

 文月も薄雲も、この基地の少女たちはみな、これからも生き続けるのだ。

「みんな生きて、いるんだな。」

 川島は誰もいなくなった執務室で、独りごちる。

 ついに自分だけ、逃げ出してしまった。

 川島は空を見上げた。

 

 

 出立の日、川島は早朝の執務室で椅子に腰掛け、机の縁をなでた。

 薄雲がうつむいて、隣に座っている。

 昨日の夜に伝えたせいで、まだ整理がついていない様子であった。

 すまないことをした。

 川島はゆっくり立ち上がって、薄雲の頭に手を載せる。

「薄雲、ありがとう。」

 名を呼ぶと、薄雲は小さくうなずく。

 去り際に振り返ると、席に腰掛けたままの薄雲と目があう。

 川島は笑いかけると、最後の敬礼をして扉を閉めた。

 

 涼しげな朝の風が、制服をはためかせる。

 いつも歩いた木立が見える。もう長く文月とは顔を合わせていない。

 今は朝だしな。

 川島は笑いながら歩く。

 桟橋に水上機が出してある。その隣に、茶色い髪を垂らして腰掛ける文月が見えた。

 川島は驚いた。

「私に気付かれていないと思った?」

 文月が笑いながら振り返る。屈託のない笑顔が眩しい。

「さすがだよ、文月。」

 むしろ片付いていないのは川島の方かもしれない。

 川島の心に激情が蘇る。

 君が明日、死んでしまわないかと怯えた。今日、私が死にやしないかと願った。君の高貴な生を、私の意地悪な希死念慮で汚してしまわぬ前に。

 君のずるさに、今まで私は許されてきたのだろうか。

「君はまた、私に押しつけるんだね。いいよ。許してあげる。バイバイ。」

 そう言って、文月はまた笑う。

 彼女はあまりにも無邪気で、川島はすっかり負けた気がした。

 川島は文月に手を振りかえす。

 すると文月は、いっそう大きく手をふって、にこっと笑うと、踵を返した。

 川島は、振り向きもせず小さくなる背中を見つめた。

 自分の身体のあまりの軽さに、何もかも落としてきてしまったような気がした。


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