鉄の箱が囂々と体を揺らしている。血の臭いがする。通路は灯りがなくて薄暗いが、足下がうごいても手をついてはいけない。ほら、壁が破れて張り付いた血液が私の手を濡らす。鉄の箱は壊れている。体液が五月蠅くて耳が遠くなる。通路にあいた穴の先に狭い部屋があって、人間が寝ている。通路は終わらない。右と左に交互に部屋が現れる。一つの部屋に一つの白くて円い窓があって、部屋をいっそう黒くしている。人間は誰も動かない。箱から流れる血液に侵されて体を腐らせている。息が切れる。何時間歩き続けたか分からない。箱がごうんと横に揺れて、濡れた手で壁に手を突く。鉄の皮膚はとげとげしていて皮が剥がれる。目の前の穴から部屋を覗く。円い窓に目を焼かれる。二つの目がこちらを見ている。円い窓の下に背中を預けた男の、うなだれた黒い顔にあいた二つの乾いた目が見開いてこちらを見ている。この男は箱の中に何人いるのだろう。もう何回も目を会わせた気がする。何回どころではない。デジャブ。歩き始める。後ろから声がする。知らない。デジャブでない。いけない。男が見ている。振り返らない。手を掴まれる。いけない。ここにいてはいけない。手を強く掴まれる。無我夢中で手を振って歩く。振り返ってはいけない。男が見ている。女の声がする。ここに女はいない。箱の人間?いけない。女の声が大きい。振り返る。いけない。振り返ってしまった。白い。白い服を着ている。小さい。小さな背丈で私を引き摺る。強い。頭が見えない。見てはいけない。足に力が入らない。引き摺られる。濡れたベッドの上。白い。硬い。息苦しい。穴が塞がれている。女がいない。足に力が入らない。目が痛い。天井が近い。天井が近くて窓が遠い。遠くの窓が白いから部屋が黒い。部屋が黒いからベッドが白い。女も白い。女がいる。女が私の手を握る。力が弱い。なぜ?弱い。怖い。首が絞まる。力が弱い。暖かい。喉が絞まる。暖かい。つばが喉を塞ぐ。首は繋がれている。暖かい。女の顔は見えない。首が繋がれている。女の声がする?何も聞こえない。ごうんごうん。静かで何も聞こえない。耳に空気が詰まる。静かな部屋。女は静か?天井が近い。何か書かれている?黒い。黒くて何も見えない。黒い天井に黒い漢字がある?黒くて何も見えない。ごうんごうん。揺れてない。鉄の箱が止まる。死んだ?静か。穴が開く。手を掴まれる。足に力が入らない。引っ張られる。立てる?足に力が無くても歩ける。通路に穴が空いている。突き当たりに穴が空いている。白い。部屋に男はいない。人間がいない。壁が濡れている。手が濡れる。穴の先が白い。白い。目が潰れる。白い。冷たい。冷たい空気。風?女が肩を担いでいる。暖かい。細い。暖かい。薄い背中。暖かい?歩く。橋がある。怖い。白い空気。歩く。短い。白い世界。床が動かない。死んでいる。怖い。動かない。私が動いている。立てない。さっきの箱は死んだ?知らない。白いベッド。白い部屋。四角い窓。黒い部屋。黒い窓、白い部屋。白い窓、黒い部屋。硬いベッド。誰?女が手を握る。箱の人?力が弱い。なぜ?弱い。怖い。白い部屋。黒い部屋。女の手も白い。頭が黒い。白い。黒い部屋。白い部屋。黒い部屋。白い窓。白い手。女?
細い道を標高の低い方へ、下へ、下へと歩く。昔一度、来たことがあるような気がする。しっとりと湿ったアスファルトが白く光る街灯を跳ね返して、心に優しい。染み入るような心地がする。人気がないのもなお良い。背の高いレンガの塀の向かいに、育ちの良さそうな家が並んでいる。足裏に小石が刺さって顔をしかめるが、意外と痛くはなかった。皮が厚くなったのかもしれない。
電線から溢れた雫が、服を濡らす。白いぶかぶかの白衣に灰色の染みができる。私が着ている服に、見覚えがないことに気付いた。半袖で、上下に分かれて丈が短い。硬い綿の生地をしている。
私はよれよれの帽子を外して頭を掻こうとして、両腕がないことに気付いた。困った。風呂に入らねばなるまい。
細く曲がりくねった坂を下りきった先の湯島の交差点から、暗がりの方へ足を向けて、上野の公園に出た。ここら辺の土地には幾らか馴染みがある。随分昔、まだ学生の頃、よく歩いた気がする。昔といいつつ、存外最近のことかも知れない。あまり憶えていない。
池の縁に建つ公衆トイレでざんぶざんぶと髪を濡らし、帽子諸共ぐっしょり濡れた髪の毛で服に大きな染みを作って、夜道をまた歩いた。腹が減った。
私は、ポケットの中に何もないことに気付いた。いや、この服にはポケットがなかった。私は仕方なく、当てを求めて、道を歩くしかなかった。繁華街の賑わいが過ぎ去って人気が少なく、日が落ちてから随分時間が経っているらしかった。ざらざらしたタイルの上に、たばこやビールの缶がいくつも転がっていて足裏にくっついた。
高架の横の商店街を抜けて大通りを渡って結局公園に戻ってきたところで、疲れて腰を下ろした。西郷隆盛が私の後ろでそっぽを見つめていた。
「もし、道にお困りかな。」
声を掛けられて体を起こす。寝ていたらしい。まだ、日が昇る気配はない。
「君はここまで歩いて来たのかね。」
禿げた男が見下ろしている。背が低いがガタイが良い。肉付きは良いが、袈裟の裾が擦り切れている。
「なかなか骨のある男だ。思っていたよりも気概がある。」
男に、私は一言、「腹が減った」と言った。
男はほうと一言あごを撫でると、その場を立ち去り、ゆったり戻ってきて、丸いパンを一つ置いた。
「君は、その気概で生きて往かねばならない。まあ、こうして恵んでやるのも一興だが。」
私は一目散にパンに噛みついた。中にあんこがはいっている。つぶあんだった。
「こうしてみれば大したことがない気もするが、しかし、激しい気概に満ちている。君の物語が楽しみだよ。」
そう言って、彼は去って行った。
私は甘い眠気に従ってまた瞼を閉じた。
目をあければもう昼下がりだった。自分の眠りの深さに驚いた。
腹が、減った。
公園の中を歩いた。人が多かった。子どものいる親子が多かった。細い足で、ゆっくり歩いた。腹が減って、眠気が再び押し寄せていた。
私が歩くと、目の前には道ができた。日の光を避けて下を向いて歩いても、人にぶつからずに前に進めた。水道を浴びただけでは足りなかっただろうか。とにかく、腹が減った。
噴水脇のお洒落なカフェに足を踏み入れる。場違いだとは分かっている。しかし最初に目についたのだ。私が入るとまた道ができる。
「なにか、食べ物を、ください。」
メニューが目に入らなかった。カウンターに置いてあったが、目が滑って字が読めなかった。
「金は、ないです。」
かすれた声が出た。我ながら馬鹿だと気付いた。金がないものは橋の下で暮らしているのだ。
店員は裏に戻ると足早に出てきて、サンドイッチをくれた。余り物ですが、といいながら、私に笑いかけた。白い手をしていた。
どうしてあの店員がサンドイッチを分けてくれたのか、まったく見当がつかない。咥えて持ってきたサンドイッチを噴水の淵にのせて、頬張る。上品な味がする。私の周りにはあまり人が座っていない。顔をあげると、目の前の親子が目をそらした。私は、男やさっきの店員を除いて、誰とも目が合っていないことに気付いた。私は広場を見回した。人はたくさん居るが、誰とも目が合わない。私は面白くなって、公園の中をぐるぐる歩いた。通り過ぎる老若男女の顔を色々見つめてみるが、誰とも目が合わない。相変わらず私の前には道ができていた。
日が傾いてきて、池の淵のベンチに腰掛けた。また、食べ物を探しに行かなければならない。腰が重い。そのとき、隣に男が腰掛けた。恰幅の良い、丸眼鏡を掛けた、快闊な男だった。
「君、華奢な体をしているね。」
男は腕を組みながら言った。
「君、今晩泊まるところはあるかね。きっと良いところを用意してあげるよ。」
私は彼について歩く。行く当てもなかったから。
私は大盛りの牛丼とお風呂をごちそうになって、公園脇の古びた雑居ビルに足を踏み入れた。もうすっかり日が落ちていた。どうなってもいいと思ってみれば、少しワクワクした。
私は結局、一晩で三人の相手をした。腹を下したときのような、血の気が引いて行く感覚に、歯を食いしばって耐えた。腕がなければ一度倒されて仕舞うと起き上がれない。そこに客は興奮したようだった。三人目の客が出て行ってから、私は男から、五千円札を一枚貰った。男は何も言わずに部屋を出て行った。少し外が白む頃になって、壁の薄いビルの中はすっかり静かになって、私はその五千円を握りしめて外へ出た。まだあんぱんを恵んで貰った方が良い気がした。
一日に一杯の牛丼を食べながら、他の時間は公園の木陰で過ごした。どうやってここに来たのか、少し気になったが、なにも思い出せなかった。ただ、昔来たことある気がするのだ。
一週間の後に、私は小銭を握りしめて最後の牛丼を食べた。もうなにも残っていなかった。残った数枚の小銭の使い道も分からなかった。私は再び、飯を求めて歩かねばならなくなった。私に気概などない。あの日、袈裟の男は何を見たのだろう。
夜が更けてまた月が昇る頃になって、私は上野の地下鉄の駅に向かうスロープの途中で膝をついた。もう三日、ものを食べていなかった。ものを食べる気持ちになれなかったから、探すにも身が入らなかった。来たるべくして来た飢えに身を任せて、背中を壁に預けてもたれかかった。そのとき、私の脳裏に男の眼光が蘇った。眼光というには粗末で荒々しい、見開かれて乾ききった二つの瞳が暗闇に蘇った。記憶にないが、よく憶えている。私はその男と同じように、目を見開いて中空を見つめた。
日が昇って、日が沈んで、また日が昇る。白、黒、白、黒、私はその中空を見つめた。
「提督、こんなところにいたらいけませんよ。」
白雪が手を握る。白い手。力が弱い。私は中空を見つめたまま。漆黒。なにも見えない。力が弱い。優しい。怖い。優しい手。ああ、白雪。お前だったのか。白雪。優しい。怖い。優しい。暖かい。肉体の温かさ。乾いた瞳。
「さあ、いきますよ。」
手を引かれて、私は立ち上がる。立てる?足に力が無くても歩ける。漆黒の夜を、白雪について歩く。東京の夜は暗くて何も見えない。ごうんごうん。床が揺れている。静かだ。ごうんごうん。白雪の後ろをついて歩く。もう肩を借りなくても大丈夫。ごうんごうん。湿った風が心地良い。血の臭いがする。通りは灯りがなくて薄暗いが、足下がうごいても手をついてはいけない。ほら――壁がない。床がぐらりと持ち上がってバランスを崩す。腰に鉄の壁がぶつかって足が地面を離れる。ふわりと内臓が浮く。乾いた瞳を風が押し開く。漆黒。
「なるほどなるほど。大戦犯に相応しく立派じゃあないか。」
男は手を叩くと、袈裟を翻して歩く。荒川に昇る月に一筋、雲が居る。