そんなお休みの日のシェリーちゃんとハンナさんをお楽しみいただければと思います。
初めて、風邪を引いてしまいました。赤ちゃんのころから一度も引いたことが無かったのに。馬鹿は風邪ひかないもんねとあんなに褒められていたのに。肝心な時に、風邪を引いてしまったのです。
何だか今日は体の具合が良くないなと思って、体温計に手を掛けたんです。滅多に体温なんて測らないものですから、置いた場所も忘れてしまっていました。ピピ、という耳心地の良い音と一緒に現れたのは39.1℃の表示。
さすがのシェリーちゃんもこれにはかなり落ち込んでしまいました。なんせ、今日はハンナさんをお出かけに連れて行ってあげるつもりの日だったんですから。天気も良いと聞いていたので、数日前にこの日はお出かけしましょー!と誘っていたんです。
「心配しなくてもいいですわ。お出かけなんていつでも出来ますもの」
なんて、ハンナさんは起きてすぐ、声をかけてくれました。何より、おかゆを作ってくれたり、近くの薬局から解熱剤買ってきてくれたり、私にとても色んなことをしてくださっています。だから、なのかは自分でもよくわからないのですが、シェリーちゃんは今日お出かけできなかったことにどうしても納得ができません。
「うう……折角ハンナさんを近所にできた激辛カレーに連れて行ってあげようとしたのに……」
「お出かけっていうから何かと思ったら、そんなことさせようとしてましたの!?」
「だって新しくできたんですよ!気になるじゃないですか~!」
「はあ……全く、あなたという人は」
ハンナさんは呆れた顔をしながら笑いました。そう言いながら、横たわっているシェリーちゃんの冷えピタを取り換えています。
「何かあったらまた言ってくださいまし」
「はーい。ありがとうございますー」
ハンナさんがバタンという音を立ててドアを閉めると、それを最後に私の部屋は一段と静かになりました。聞こえるのは、たまに外を走る車の音と、階下から小さく聞こえる音と、私から聞こえる音。
パジャマが擦れる音、髪が崩れる音、息を吸う音、息を吐く音。胸に手を当てれば、とく、とく、という拍動の音も感じられる。とても小さい小さい音ですが、布団の中で静かにしている私には少し大きな音のように感じます。こんなに静かに生きるのはいつぶりでしょうか。ぼんやりとしている頭で、何だか、ずっと忙しなく過ごしていたなあと思います。
ふわふわとしたまま天井を眺めていると、玄関が開く音が小さく聞こえました。そこで、思い出しました。ミステリ小説を読んでいたのはこんな日だったなあ、と。
週末は決まって、義父さんと義母さんはボランティアのために外出していました。きっと、今日も児童養護施設を見回っているんだと思います。私も、そうしてお家に呼んでもらえたので。だからそういう日は義父さんの書棚からミステリ小説を数冊持ってきては自分の部屋で読むことにしていました。義父さんも、私がミステリ小説を好んで読むと知ってからは沢山の本を買ってくれたので、とても嬉しかったのを覚えています。
ミステリ小説でいっぱいの色褪せた棚は、普段よりもベッドから遠い場所にあるような気がしてしまいます。気怠いせいなのか取りに行くのも少し大変です。お気に入りのものを一冊取ってベッドに置いてみますが、開く前にふぅと横たわってしまいます。布団を被ってみたり、アイマスクを付けてみたりしても、落ち着きません。
そうです。いつも義父さんと義母さんが家に帰って来るのは夜遅くになってからでした。でもそんな時、義父さんと義母さんは私をぎゅっと抱きしめて、ただいまを言ってくれました。ただ、それを素直に喜べていた自信はなくて、少し申し訳なく思っています。
でも、義父さんと義母さんのその優しさのお陰で、身寄りの無かったハンナさんは身辺の事が落ち着くまで私の家で預かってくれることになりました。シェリーちゃんからのお願いなんて滅多に無いんだからとお義母さんが張り切っていたところはあんまり腑に落ちませんでしたが、それでも、嬉しかったことに変わりはありませんでした。
階下でハンナさんの話す声がしたような気がしましたが、この家には今私とハンナさんしかいないことを思い出し、幻聴でも聞こえてしまっているのかなと感じます。もしかしたら本当に高い熱なのかも!と思いながらさっきまで付けていたアイマスクをやっぱりとってみて、目の前で手を開いて、閉じて。自分の体が間違っていないかを確かめます。
ただ、最近はハンナさんが家にいるおかげで、この静かな週末のことをすっかり忘れていました。でも、風邪を引いている以上あんまり同じ部屋にずっと居るのも良くないな、と思いますし、さすがにこの熱だと小説を読む気にもならないな、と思いながら目を閉じます。すると、私が体の芯から熱くなっていることがしっかりと分かり、またさっきまでみたいなふわふわとした感覚に溺れていくのでした。
シェリーさんのお義父様とお義母様はとても良くしてくださいました。いきなり押しかけた私にも毎日温かいご飯を用意してくださいましたし、近くの学校にも正式な手続きを踏んで通えるようになりました。もちろん、他に当てがあればそちらに移るというのも約束ですから、ずっとこのままということは無いですわ。ただ、それでもただ仮に身を置いている身の私にもこんなに手を尽くしてくださって……本当に感謝してもしきれませんわ。
こうやって、幸せに暮らせるようになったことが、私は心の底から嬉しくて、嬉しくて……
少し、寂しくなりましたの。
以前までの私があれだけのことをしていたのが、何だか、空っぽのように思えてしまって、この暖かさが痛かった。特に、最初のうちはこれまでのことを思い出して、度々苦しくなってしまったんです。
だから、というわけではないのですが、料理を手伝わせてもらうことにしましたの。最初は夕飯を一緒に作る、という形でしたけど、徐々に作るレシピを増やしていって、今では夜ご飯を隔日程度で作れるようになりました。こうして、少しでも手伝えることが私は嬉しかったんです。
「それでも、やっぱり家が静か、というのは慣れないものがありますわね」
そう空に呟いても、答えが返ってくることはありません。シェリーさんは上の階で寝ていますし、お義父様とお義母様はどうしてもボランティアに出席しなければならないといって出かけてしまいました。私は兄弟姉妹も多かったので、小さい頃から静かな場所には縁がありませんでしたから、こういうのはやはりそわそわしてしまいます。
それに、シェリーさんからは「でも、あんまり近くにいると移っちゃうんじゃないですかね?」なんて言われ、部屋から出たは良いものの、やはり心配で仕方がありませんでした。暇ならきっと沢山あるミステリ小説を読めばいいんですよ!と目を輝かせて言ってくれるんだろうとは思い、手ごろそうなものを一冊手に取ってはみたものの、おちおち推理をする気分にもなれません。
だから、少しなら、様子を見に行っても問題ないですわよね?と誰もいるはずがないのに周りをキョロキョロと見ては、階段を昇って部屋に入ってみることにしました。
多分、これは夢なんだと思います。もしくはさっきまで見ていたのが夢なのか、どちらかではあるんですけど。
それは雪景色でした。一面の、どこまでも続く雪景色。見える範囲のはじっこにはモミの木みたいな木もありますが、ぼんやりしていて、よく見えません。
とても寒くて、とても静かで、現実とは程遠いと思うような場所に、ぽつん、と私は立っていました。
なんでこんなところに立っているかは、あまり覚えていません。でも、どこかに行かないといけないということだけ、ぼんやりと頭の中に浮かんでいます。
だから、足を進めます。とても冷たい。寒い。凍えてしまいそう。でも、シェリーちゃんは諦めません。時たま、雪を踏み抜いてしまって、雪の中に引きずり込まれてしまいそうになります。でも、足は止めません。前へ、前へ。
ふと、自分の手が気になって腕の辺りに注目すると、何かを抱えているのがわかります。とても暖かいもので、これのおかげでどうやら手が悴んでいないようです。私は、この子を何とかしてどこかに届けないといけないのでしょうか。
前へ、前へと足を進め続けます。何だか止まってはいけないような気がして。止まってしまうと、終わってしまう気がしています。だから、前に──。
ズボ、という音がして、派手に転んでしまいます。と、体全体が寒さで覆われて、どこかへ落ちて行ってしまいます。ああ、失敗してしまったんだな、と思って、目を閉じます。
次も、また夢のようでした。ただ今度は、すぐに夢だと分かりましたよ。ゲストハウスの夢は、初めて見る夢ではなかったので。
そうです。これは私が、ハンナさんを殺してしまった時の記憶。いや、追体験という方が正しいのでしょうか。目の前にあの時のハンナさんが居て、「絶対、約束守りますから、せめて笑ってください」と言ったのにハンナさんはポロポロと泣きながら私に抱きついてきて、だからぎこちなく私も抱き返して。それから、キュッと一息に首を絞めた。
更に言えばこの夢はもっと悪趣味なんです。あの声が聞こえてきます。このままだと、ハンナさんは魔女になってしまいますよ?あなたは、このままでもいいんですか?と。今考えれば、あれはメルルさんのものなのでしょうか。
それに、ハンナさんの死ぬ前の顔を、まるで魔女になった時のようにヒビ割れてさせている。彼女の最期の願いすら、こうして無下にして壊していく。それゆえに、私はこの夢が心の底から嫌いなんです。
そして、魔女になりたくなかったから殺した、をより肯定させようとしている、私の、私の。
その弱い心が。
心の底から。
本気で。
「嫌いなんです!」
「どうして、どうしていつもいつも自分自身を認めようとしてしまうんですか!?そんなこと、私は求めてない!人形だって、そうだったんです!私があの人が誰もいない静けさが嫌いで、嫌いで嫌いで仕方なくて、ハンナさんに1人で死んで欲しくなくて、だから吊るしたものなんです!」
ゲストハウスには1つの死体といくつかの人形がぶら下がっている。ぶらん、ぶらんと。私が音を立てなければ縄の軋む音以外は何も聞こえない。
「全部私がしたくてやったことだったんです。身勝手な私による残酷で、化け物じみた犯行なんです!」
ゲストハウスはひとしきり音を反響させれば、また無音になるんです。それがどうにも、耐え切れなくて。
「お願いだから、私を──」
「シェリーさん、シェリーさん」
聞こえるはずのない、その声で、私は。
ようやく夢の世界から戻りました。
目を開くと、目の前で泣きながら私の手を握っているハンナさんの姿が飛び込んできます。あれ。私、ハンナさんを泣かせるようなことをしていしまいましたっけ。
「そんなに泣いてどうしたんですか?お出かけにどうしても行きたかったんですか?」
「あなた、本当にアホなんですの!?」
病人の耳元で怒鳴るなんて、と思いつつ、その泣きじゃくった声が気になって、手を握り返します。
「シェリーさん、何度も声をかけましたのに、ちっとも起きないんですもの、本当に、本当に心配しましたわ。あまりに静かなものですから、遠くに行ってしまいそうで」
ああ、と私は心の中で納得します。ハンナさんも、1人で置いていかれるのは好きじゃなかったんですね。確かに、そうでした。あの時、少しだけハンナさんの記憶が頭の中に入ってきて、何よりも置いていかれるのが嫌、というのを見たことがあるような気がします。それじゃあ、あの夢は。
と、ハンナさんが涙を拭いながら、話し始めます。
「シェリーさん、熱は大丈夫なんです?」
「そういえば、あれっきり測っていないですね。そろそろ測らないと」
熱を測ると、また、ピピ、という耳心地の良い音が聞こえます。37.6℃。解熱剤は少し効いているみたいですが、熱は下がる気配を見せません。
「今日中に病院に行った方がいいですわね」
「はい!寝ていても治る気がしません!」
「……少し、心配して損したかもしれませんわ」
はあという溜息を吐きながら、ハンナさんは体温計を元の場所に戻しつつ。
「汗。かいてるみたいですから拭きましょう」
と、声をかけてくれます。首元を拭いてくれているハンナさんの横顔を見て、少し思うところがあり、私も声をかけます。
「ハンナさん」
「なんですの」
「さっきまで、夢を見ていたんです」
「なんの、です?」
「ハンナさんの、です」
拭く手が、止まる。
「私、この週末の日が嫌いだったんです。1人になってしまう、この日が。きっと、寂しいって気持ちだったんだと思います」
淡々と、続けます。
「ハンナさんも、置いていかれるのは嫌い……だったんですかね。ごめんなさい。私、みんながどう思っているのか考えるのがとても苦手で」
布団を、ギュッと握り締めます。
「でも、だから、今日はあの夢を見れてよかったなとも思います。ハンナさんと、同じ嫌いなことが1つ増えて。似てる、みたいに思えたって言ったら、変ですかね?」
と、ハンナさんの顔を見ると、引いたはずの涙が、また。
気づくのとほぼ同時でした。ハンナさんが文字通り、飛び込んで、ああ。義母さんと義父さんがしたかったハグというのは、こういうものだったんでしょうか。でもそれなら、少しだけ今はその気持ちが理解できる気がします。温かさの共有。それがしたかったのかもしれません。
「風邪、移ってしまいますよ」
「構いませんわ」
「私の体、とっても熱いですよ」
「どうでもいいですわ」
「タオルは」
「どうでもいいんです、もう。だから、少し、このままで」
もしかしたら、ハンナさんはあの日に離してしまった手を、思い出しているのかもしれない、そう思いながらもう一度、もう力を入れても壊れてしまわないこの腕で、抱きしめたのでした。
「熱が下がったら、激辛、行きましょうね」
「それだけは、嫌ですわね……」
【後書き】
http://twilight-off.wikidot.com/tachibana
こちらの企画で投稿したものをハーメルンにもアップロードさせていただきました。他の作品もとても面白いので、リンク先も読んでいただけると幸いです。また、pixivにも同じものをアップロードさせていただく予定です。