「ハッピーバースデートゥーユー」
声が聞こえて目を開ける。が、本当に目を開けているのか分からなかった。何故なら辺りは真っ暗で、自分の手さえも映らなかったから。もう一度瞼に力を入れてみる。何も変わらない。いや、違う。その行為による変化かは分からないが、中央に小さな灯火を見つけた。人差し指で隠せてしまいそうなほどに小さな火。輪郭を認識すると、それは赤と白の螺旋から成る蝋燭に結ばれており、思い出したように揺れている。揺れていると気づいた時には、私の両手が見えることも、私の脳は認識する。
「ハッピーバースデートゥーユー」
蝋燭は1つのショートケーキに直立していた。ゆらゆら、めらめら。それをじっと見るたびに蝋燭の背丈がどんどん縮んでいく。螺旋が溶けた蝋で塗り替えられていくのは、何だか悪いことをしているように思えてならない。縮んで、縮んでいって、生クリームに埋まって、消えた。黒が視界を支配する。
「ハッピーバースデートゥーユー」
ああ、何も見えない。見えないから、私は安堵した。安堵したから、また目を閉じた。
耳障りなアラームに呼ばれて現実を手繰る。業務の合間を縫った仮眠時間はもはや終盤で、眠る前に淹れたコーヒーが辛うじて湯気を昇らせていた。まだ神経が繋がっていない右手でカップを手に取る。カフェインは全てにおいての原動力である、らしい。一口飲むと、舌を刺す苦さが停滞した脳に活を入れた。憂鬱が形を成していく。
机に積まれた沢山の書類たちは動かない私の手のひらをじっと見ている、気がする。新しく策定する条例はあまりにも関係者が多く説明に時間を要する。午後からの業務は関係他所の顔合わせで全て埋められていて、この書類たちを処理する時間なんてない。忙殺の毎日で嫌になる。これは私が選んだ道だから、私の愛する街のためだから、と自分に鞭を打つしかない。しかない、と思うのは市民らに失礼だろうか。自虐的な思考の前に白煙がふわり。コーヒーはあと数分で寿命を迎えるらしい。
「紫藤さん、お電話です」
不意に、部下が電話を寄こしてきた。先方のリスケの打診だろうか。そんな淡い期待を抱きながら尋ねる。
「どなたから?」
「旦那様からです」
小さく溜息をつく。仕事の領域に家庭が踏み込んでくるのは嫌いだ。一呼吸置いてから受話器を取る。そして立ち上がった。
「アリサが、帰ってきた……?」
持っていたカップを、コーヒーが零れてしまわないよう丁寧に、丁寧に、置いた。
そこに彼女はいた。クリーム色のソファーから灰色の髪の毛が覗いている。見慣れない娘の後ろ姿は何処か冷たさを纏っていて、暖色で統一されたこのリビングにとって余りにも目立つ。切り抜いた写真をそのまま貼ったかのような異物感。空間は彼女を追い出そうとしているのか、それとも──
そこまで考えて、やめた。扉が開く音で彼女は私が帰宅してきたことに気づいているだろう。これ以上立ち止まっていると"不自然"だ。私は一言声を掛ければいいだけ。
「おかえり」
一瞬、彼女の肩がピクリと震える。自然を演じていることに勘づかれないよう、私はおもむろにリモコンを手に取ってテレビの電源をつける。昼間のニュースは見たことが無かったが、見覚えのあるタレントが動物園の赤ちゃんパンダとじゃれ合っていた。私はそれを横目に冷蔵庫からお茶を取り出す。
「アリサは何か飲む?」
「……大丈夫」
グラスに注いだお茶を手に取り、慎重に、かつ勘づかれないように、彼女の隣に座る。私はテレビを凝視する。
『赤ちゃんパンダって結構力強いんですね〜』
『待って背中には乗らないで!』
『あ、お母さんの檻の方に行っちゃった』
『もう一匹こっち来ました! この子も元気いっぱい!』
「可愛いね」
口付けを知らないグラスは結露だけがただ滴り、不格好な水溜まりを作っていく。中に入った氷がカランと鳴って、私は漸く背をソファーに沈める。
「ママ」
馴染み始めた空間を切り裂くように彼女は呟く。久しぶりに聞いたママの二文字に応えて、普段通りに数年前の会話をトレースする。
「なぁに?」
「ウチ──私に、何があったのか聞かないの?」
「アリサが家出したこと? 大丈夫、ママもね若い頃は家出の一つや二つよくやってたんだから。思春期の子はそういうものよ」
「それもあるけど、そうじゃなくて──」
『やっぱり赤ちゃんパンダはどの子も可愛いですね!』
「私が牢屋敷にいたこと、知ってるんでしょ」
"政府"を名乗る集団が我が家を訪問してきたのは二週間前のことだった。そこで私は知った、牢屋敷というものを。アリサがそこに魔女として囚われていたことを。最初は悪趣味な冗談だと思っていたけれど、集団から滲む有無を言わさない空気が、それが真実であることを裏付けた。月明かりがいつもより強かったあの夜、私は確かこう言ったんだ。
「それで、娘は帰ってくるんですか?」
その問いに彼らが首肯したとき、私、私は──
私たちの間に沈黙が流れる。アリサの指摘は、というより"アリサが指摘してくること"が予想外で、どう答えれば良いのか分からなかった。このまま、なんてことなく日常を再開できればそれで良かったのに。私はアリサと自然な関係を築きたいだけだから。
遂にアリサが口を開く。時間切れだった。
「やっぱりどうでもいいんだ」
「アリサ?」
「……ごめん、今日はもう寝るね」
「待ってアリサ──」
立ち上がる彼女の腕を掴む。瞬間、私の腕は空へと舞った。
「ウチに触んな!」
怒号。か細い、今にも消え入りそうな声。私は顔を上げて初めて彼女の顔を見る。紅潮した頬を伝う涙が、小刻みに震える唇がそこにはあった。明確な拒絶だった。
アリサはハッとした様子で呟く。
「いや、違う。違うんです。こんなはずじゃ」
「どうしたのよ急に──」
「ごめんママ、本当にごめん」
灰の彼女は温かな空間を飛び出し、自身の部屋がある二階へと走る。何ヶ月ぶりかに鳴った慌ただしい足音が私の鼓膜を震わす。
『あぁ、この子もお母さんの方へ行っちゃった。やっぱり家族が一番なんですね』
振り払われた私の右手は居場所を失い、さっきまでアリサがいた場所へと沈んでいた。仄かに残った温もりが、徐々に消えていくのを感じた。
「私たち、何か間違えたのかな」
日付が変わるまであと1時間という頃、遅番から帰ってきた夫に尋ねた。昨日の夕食より一つ分多い皿にラップが掛かっている。結局アリサは自室に籠ったきりで、あれから一度も下の階には降りてこなかった。用意したハンバーグはラップでソースが押しつぶされていて、何だか見ていて不安になる。
「何を間違えたというんだ」
夕食を口に運びながら夫は答える。まん丸に作ったハンバーグは月が欠けるように消費されていき、もう半月しか残っていない。
「それが分からないの。ねぇ、私たちは良い親になれていると思う? 良い親の基準さえ分かってないというのに」
「でも僕たちはアリサに多くの選択肢を提示してきた。幸運なことに僕たちは裕福な方で、ある程度の権力だってある。アリサがどういう将来を築いていきたいのかはまだ分からないが、彼女の言動を僕たちは肯定し、後押ししてきた。それは悪い親にはできないことだろう」
それはそうなんだけれど、と呟いて、一拍置いてから言う。
「でも、だったらアリサは泣かないと思うの」
「……思春期だからじゃないのかな」
「そうだと、良いんだけど」
「考えすぎなんだよ、きっと。良い親というのは子供を信じるだけで十分。僕たちの子供なんだからさ」
ごちそうさま、と言ってシンクへと向かう夫を見る。皿洗いは彼の担当だ。一枚、二枚と手際よく洗っていく。ソースの色が移った洗剤の泡たちがぶくぶくと膨らんで、私を思考の世界へと誘う。
私は良い母親になれているだろうか。
全ての皿を洗い終えた後、彼は振り返る。最後の一枚であるハンバーグを乗せたそれは、静まりきった冷蔵庫に入れられた。
「もう寝なよ」
「うん」
明日になれば、また元通りになるはず。汚れた皿だって洗えば白く光るから。
「ハッピーバースデートゥーユー」
またこの夢だ。私は目を開ける。暗闇の中央には人差し指で隠せてしまいそうなほどに小さな灯火がぽつり。私はその火を吹き消そうとして、気づく。
「ハッピーバースデートゥーユー」
この歌は私の口から流れている。肺の空気を押し出して、喉を震わして歌っている。何故だろうか、そもそも何故歌っているのか。ここに私以外がいないなら、宛先の無い手紙はゴミ箱へ。
「ハッピーバースデートゥーユー」
火の輪郭はぼんやりと辺りを照らす。洋菓子に反射した橙色は焦点が定まらない。見飽きた明かりから目を離してみたら、ゆらゆらと燃える火のその奥に、何やら佇む灰の色。
「ママ」
それは幼少期のアリサだった。まだ丸みを帯びた顔を持つ彼女が、眼前のケーキを一瞥もせずに私をじっと見る。深紅の瞳は灯火を呑み込んで、隠れた意識も炙り出す。
「ママは私を見ていないでしょう?」
一つの問いを遺して、アリサの頭がどろりと溶ける。皮膚の内側から赤と白の蝋が垂れていく。髪が、目が、鼻が、口が、垂れて混ざって、ぐちゃぐちゃになって──
「待って!」
慌てて手のひらで堰き止める。私が触れると溶解は停止して、不格好な塊が完成。いつの間にか辺りは明るくて、そこは暖色で統一されたリビングだった。崩れた口は緩慢に私へと告げる。
「ほら、ハッピーバースデーって歌ってよ」
「でもアリサが、こんな」
「早く。ウチなんかいない方がいいだろ?」
「そんなわけ……」
「蝋燭はまだあるよ」
溶解が再開され、彼女の混ざり物が指の間から逃げていく──。
朝。眠気覚ましのコーヒーを作りながら思考する。カップに刺したスプーンを、左回りにくるくると回す。
私は良い母親になれているだろうか。
私は娘が不自由なく成長できるよう、母親として努力してきたつもりだ。アリサは良い子だとは決して言えなかったが、手を挙げたことなんて一度もない。喧嘩した時も、万引きした時も、薬物に依存した時も、……放火した時も。私たちが愛情を注げば、彼女の心情に理解さえ示し続けていれば、いつかまた笑ってくれる日が来ると信じている。私は、アリサのことを愛しているから。
じゃあ何故──
何故?
何故、アリサが帰ってくると分かったあの日、私は落胆したの?
落胆? 落胆なんてしていない。娘が帰ってくると知った母親が落胆などするはずがない。私は当たり前に喜んだ。
でも、それにしては娘の顔を見ていない。
それは、
貴方はアリサを愛していない。本当に愛しているのは、"良い母親"という役割そのもの。
違う。もし本当にそうであれば、アリサの行為を許すはずがない。私は、アリサに傷ついて欲しくないから──
傷つくのを恐れたのはお前だろ。
「蝋燭はまだあるよ」
不意に、夢の中でアリサが放った言葉が反芻する。
私は、アリサを愛していない?
くるくると回ったスプーンは湯気の無いコーヒーを無意味に掻き混ぜる。掻き混ぜて、掻き混ぜて、それで? 終わりの無い行為に終止符を打つには"終わり"を作る必要がある。私は行動しなければならない。私は"良い母親"ではないだろう。だが、母親である。
「よし」
必要の無くなったコーヒーをシンクに捨てて、私は決意する。アリサはまだ二階にいるし、階段は目的地と現在地を結ぶ為にある。一歩ずつ踏み出して、噛み締めて、上る。『ARISA』と書かれた木製のプレートはもう目の前に。
二度、扉を叩く。乾いた音が廊下に反響する。
「アリサ、起きてる?」
数十秒の沈黙の後、この先の空間から放たれた声。
「……起きてる」
ドアノブを捻り、勢いよくドアを開ける。アリサはベッドに座っていて、よく見ると目が腫れている。私に見られたことを隠すように、慌てて後ろを向いた。ごめんね、以前はいきなり部屋に入るようなこと、しなかったよね。
私は踏み入れる。
「海、行こう!」
「……へ?」
「はい、おにぎり。ツナマヨで良かった?」
車内で待つアリサに、おにぎりの入った袋を手渡す。彼女の目は下を向いていて、居心地の悪さを誤魔化すように袋を漁る。
「ママ、今日は仕事じゃなかったの?」
「たまたま休みだったのよ」
春とはいえど早朝はまだ肌寒い。車内には冷たい空気が流れていて、私はこれが気まずさによるものではないことを願う。暖房のスイッチを押す。
ポケットに入ったスマホに目をやると、幾つかのメッセージが表示されている。部下や先方には結構な迷惑をかけてしまった、またいつか埋め合わせをしないとな。アリサにバレないようこっそりと電源を切る。
「それじゃ出発するよ」
コンビニの駐車場を抜け、車は街を走っていく。無表情で歩くサラリーマン、甲高い声を上げる女子高生、黄色帽子を被った小学生──そんな、普通の人達の行進に逆らって私たちは流れていく。
アリサが欠伸をする。寝惚眼な彼女を見て、強引に引っ張り出したのは迷惑だったろうなと少し反省。でも、先延ばしを許してしまうとまた同じ朝を迎える気がしたから。私の弱さが嫌になる。
ここから一番近い海まで30kmほど。時間は十分にあるし、車は私を逃がさない。
時間が経つほどに、街の中心から遠ざかるほどに、すれ違う人々が減っていく。もうずいぶん前から街路樹の方が多い。
「ここも寂しくなったね。昔はもっと栄えていたんだけれど」
言葉を紡いで糸口を探す。
「見てあの単車。マフラーが大きくてカッコいいね。昔はママもああいうのに乗ってたんだよ」
「……ママが?」
アリサが意外そうにこっちを見る。
「うん。ママが通っていた学校の近くにね、長~~い坂があるんだけれど、そこをああいうバイクで走ると物凄く気持ちいいの」
「高校の頃の話? それって怒られたりしなかったの?」
「時代が時代だったからね。近所に佐古さんっているでしょ? あの子ママの後輩なんだけどね、よくそこで一緒に競走したの。いつだったか、カーブのとこで監視してたセンコーに驚いて派手に転んだなぁ。血をダラダラ流しながら説教食らったよ」
「やっぱ怒られたんだ。……ママの昔話って初めて聞いたかも」
「思えば、こういう話って全然しなかったね〜」
明るい声を無理やり出す。きっとこれは"不自然"だし、アリサはそれに勘づいているだろう。彼女は聡い子だから。でもそれで良い、いま優先しなければいけないのは"良い母親"を演じることではなく、アリサの腕を掴み続けることだから。
私たちは会話を続ける。パパが昔やってた趣味、私が中学生の頃にやってた部活、おばあちゃんが卵焼きを嫌っている理由、アリサが生まれた病院──。
他愛もない会話、それは必要な行動のはず。でもこれも、結局は私が"良い母親"を演じたいがためにやっていることなのかもしれない。私は私に対する信用が砕けているから、私の本心が本当に本心であるのかを疑ってしまう。アリサを愛していると信じるのは驕りなのかもしれない。演者は降板しても衣装を脱げないの?
「ママ」
アリサが口を開く。私は他愛もない話を中断して応える。
「なぁに?」
「昨日は、ごめんね」
俯きながらアリサは言う。心なしか声は上ずっていて、固く握られた手は小刻みに震えている。
また、迷ってしまった。どう答えれば良いのか分からなかった。大丈夫だよ、も、何の話、も違う気がする。無言なんてしてしまったら昨日の繰り返しだっていうのに。
でも違った。アリサが続けたから。
「ママがね、牢屋敷のことを話さなかったのって、私を傷つけないために、なんでしょ? 昔の魔女は酷いことされてたって"政府"の人たちから聞いたんだよね? それなのに私、私はママの手を振り払っちゃって、本当にごめんなさい。いつもママたちは私のことを考えてくれているって分かってたのに」
声がどんどん歪んでいく。アリサの表情は分からないが、彼女のスカートには色の濃い水玉模様が幾つも生まれてる。
「私が家を燃やした時も、ママとパパは守ってくれたよね。本当に取り返しのつかないことを、人を、こ、殺してしまったのに」
独白は、続く。
「ママたちはあの時、私がそんなことするはずないって言ってくれたけど、私がやったんだ。それも、わ……わざと、やったの。ママたちに叱って欲しくて」
「謝って済む話じゃないけれど、言わせてください。──本当にごめんなさい」
ブレーキに体重を乗せ、車を路肩に停める。景色はその場に立ち止まり、まるで時間が進んでいないと錯覚させるよう。私はアリサに向き合う。そうするべきだと思ったから、ではなく、私がアリサと話したかったから。
「アリサ、顔を上げて」
彼女の、宝石のような赤い目はさらに紅く輝き揺れていた。私は対話を続ける。
「ママね、子供の頃は誕生日が嫌いだったの」
アリサが虚を突かれたように停止する。
「誕生日ってほら、ケーキを食べないといけないでしょう。でもママは生クリームみたいな甘ったるいものが好きじゃなくてね、あんまり食べたくなかったの」
「それでもね、ケーキは両親が私のために用意してくれたものだから、残したら悲しませてしまうじゃない? だからね、ケーキが嫌いだとは言えなかった。私はずっと喜ぶ子供を演じていた。だってそれが"愛される子供"だと信じていたから」
「大人になってもね、私は良い人であり続けようとした。議員だってね、ホントはやりたくなかったけれど、みんなが私を推薦するものだから、それが正しいんだって思って、なんとなくやっているだけ」
「……親としてもそう。私は長い間、正しい親に囚われていた。正しい親が何なのかも分かってないくせにね。アリサに悲しんでほしくなかったのもそうだけれど、何よりアリサに嫌われたくなかった。だって、私がアリサを産んだのは私の意志だったから」
「正しい親を演じるがあまり、アリサを見失っていたんだと今では思う。ごめんね、私、アリサとの衝突を恐れて、アリサという人間を避けていた」
──でも、でもね。
「アリサの事は愛している、これだけは信じて欲しい。説得力が無いかもだけど、これしか言えないけれど。……本当に、不出来な母親でごめんね」
「なんでママが謝るの。悪いことをやったのはウチなのに」
「だから、アリサを見ていなかったから……」
「意味わかんねぇよ! ママはウチを愛してくれていた。牢屋敷で、アイツらのおかげで、そのことにようやく気づけたんだ。ママが不出来なわけない。謝るのはウチであるべきで」
「違う、ママなの」
「ウチは人を殺したんだよ!」
「子供の罪は親が被るものでしょう」
「ウチは愛を疑ってしまった!」
「私がアリサを避けていたから」
「悪者はウチなんだ!」
「私が悪いんだって」
「ウチが!」
終わらない押し問答に、つい声を荒げる。
「いい加減にしなさい!」
私の振動が、熱が、この狭い空間を満たす。少し手を伸ばせば届く場所にいる貴方が、怖い。
歪んだ視界ではアリサを直視できない。でも良かった。だって、滲んだ境界線は曖昧になって私の心に平穏を齎すから。見えなければ、私は安堵することができるから。
────まやかしだ。
堰き止められなかった指で涙を取り除く。ねぇアリサ、貴方は今どんな顔をしているの?
灯った蝋燭は熱を浴びていつかは消える。でも私たちは蝋燭ではない。
「リセットしよっか」
「……リセット?」
「うん、お互い自分に非があると思っているから、今までのことを全部忘れてみようよ。それで、これからは正直に伝えるの。何をしたいか、何をして欲しいか。相手がどう受け取るかなんて考えずに、ただ正直に。私たちは壁の壊し方を知る必要があると思うの」
アリサが呟く。
「ウチは納得できねぇよ……」
「確かに納得できない部分はあると思う。でもね、まずは一旦」
ハンドルを握る。
「ものは試しでさ」
車は前へと進み、秒針は音を取り戻す。
「…………やってみる」
海は、すぐそこだ。
大粒の雫がルーフを叩いて、けたたましい音楽を奏でる。怒り狂った波は鉤爪のような泡を岩肌に打ち付けている。髪の毛から伝った水滴が絶え間なく頬を撫で続け、私は大声で叫ぶ。
「めっちゃ雨じゃん!!!!」
バケツをひっくり返したような、とはよく言ったもので。雫は私たちの確執も、過去も、涙の軌跡だって流してくれる。
「天気予報とか見てなかったのかよ」
「全然! あーやっちゃったなぁ。大荒れも大荒れすぎるね」
「雷まで鳴ってるし」
「なんで海に来たんだろう」
「ママがそれ言うのか……」
アリサと顔を見合わせる。私によく似た、なんて可愛い女の子。
あ、笑った。
私も、笑った。