かくしてパーフェクトサッカーは引き継がれる。   作:ホイップる

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不調にはちゃんぽんと記者

――――――――

【悲報】“少年サッカー界の新脳”強豪海王学園との練習試合で為す術なし

 

>昨年の栄光はどこへ行ったのやら……

>プロ行き確定とか、日本代表とか、散々騒がれてたのにな

>もうこいつ終わりでしょ

>天才も落ちたものだな

>これが元々の実力だろ。たかが少年サッカー雑誌に皆踊らされすぎなんだよな

>それ、過大評価しすぎ。時代はやっぱり円堂なんだよ

 

――――――――

 

 月伊霧は下鶴と喧嘩別れをした後、長崎の街をひとり歩いていた。行き先は決めていない。決めていない、というより、どこへ向かう気にもなれなかった。

 

 スマートフォンはポケットの中にある。取り出せば、さっきまで見ていた記事の見出しがまた目に入るだろう。別に傷ついたわけではない。匿名の言葉など、まともに受け取る方が馬鹿らしい。そう思うこと自体は、いつもの月伊霧らしかった。

 

 ただ、いつもならそこで一つ、気の利いた悪態くらいは出てくる。

 

―――他人の人生に論評をするなら、せめて顔と名前を載せろよ、クソが。少年サッカーの掲示板に人生を捧げている人間の顔がどんなものか、この俺が拝んでやる。

 

 そのくらいの嫌味なら、普段の月伊霧であればいくらでも言えたはずだった。けれど、その日はどれも口の中で形にならない。舌先まで出かかった言葉が、途中で熱を失って沈んでいく。

 

 代わりに残ったのは、ひどく鈍い疲労と虚しさだった。

 

 路面電車が軋むような音を立てて通り過ぎる。夕方の長崎は、試合に負けた中学生ひとりに構うほど暇ではないらしい。

 

 店先からは出汁の匂いが流れていた。暖簾の奥で誰かが笑い、湯気が薄く傾いた日差しの中へほどけていく。腹が鳴りそうになって、月伊霧は小さく息を吐いた。

 

「……空気読めよ、俺の胃袋」

 

 言ってみたものの、声に覇気がない。

 

 いつもの軽口なら、もう少し上手く自分を笑えたはずだった。今のはただ、弱音に薄い紙をかぶせただけのように聞こえる。

 

 足を進めるたび、南雲原戦の最後の場面が勝手に蘇った。

 

 桜咲とぶつかった瞬間。足の甲に走った痺れ。ゴールネットを揺らす音と、遅れて爆発した歓声。

 

 負けたという事実は、もう分かっている。分かっているのに、頭のどこかがまだ試合を終わらせてくれない。試合終了のホイッスルが鳴った記憶はないので、まだ試合中なのではないかとすら錯覚する。

 

 あの時、月伊霧ないし、北陽学園は完璧な準備と調整をして望んでいた。

 

 南雲原の配置も、笹波雲明の戦術の癖も、桜咲を中心にした攻撃の形も、何度も洗い直した。手を抜いた覚えは一切ない。むしろ、あれ以上に何を積めばよかったのか、今でも答えは出ない。

 

 見落としがあったなら、次は潰せばいい。誰かのミスなら、責めるにせよ庇うにせよ、感情の置き場所くらいは作れる。けれど北陽学園は、あの試合で出せるものをほとんど出し切っていた。

 

 だから月伊霧は、負けたことそのものよりも、その負け方をうまく飲み込めずにいる。悔しいとか、腹が立つとか、そういう単純な言葉にしてしまうには、あの最後の一瞬はあまりにも熱を持ちすぎていた。

 

 自分の組み上げたものが破られた。

 

 その事実を認めようとすると、胸の奥で何かが引っかかる。認めたくないわけではない。いや、認めたくないのかもしれない。どちらにせよ、いつものように嫌味の一つで片づけられるほど、月伊霧は子供になりきれなかった。

 

 そこへ追い打ちをかけたのが、海王学園との練習試合である。

 

 海王学園も日本屈指の強豪校である。簡単に勝てるなどとは思っていない。それでも、いつも通りに戦えれば五分以上には運べると読んでいた。

 

 いつも通り、準備に不足はなかった。

 

 相手の寄せも、味方の動き出しも、次に空くスペースも見えていた。以前よりもずっと鮮明に、むしろ余計なものまで拾ってしまうほどに。

 

 右へ出せばサイドが使える。中央を経由すれば、相手の中盤を一枚引き出せる。一拍遅らせれば重心を崩せるし、逆に早く出せば味方の走り出しをそのまま活かせる。

 

 どれも間違いではなかった。

 

 だからこそ、足が遅れた。

 

 迷っているつもりはない。判断が鈍ったとも思っていない。頭の中では、どの選択肢も線としてはっきり伸びている。

 

 それなのに、ボールを蹴る瞬間だけ、身体がわずかに遅れてついてくる。

 

 味方の走路へ置いたはずのパスが半歩後ろへ流れる。相手を外したつもりのタイミングで、つま先が触れる。足元へ収めるだけのトラップでさえ、妙に身体の外側で起きているようだった。

 

 自分の身体なのに、操作感が悪い。

 そんな間の抜けた言葉が頭に浮かび、月伊霧は乾いた笑いを漏らした。

 

「ゲームなら設定弄れば解決なんだけどな……」

 

 冗談のつもりだった。

 

 けれど、口にしてみると笑えなかった。自分の身体に文句を言うなんて、あまりにも間抜けで、あまりにも今の自分に似合っている。

 

 前半の途中でベンチに下げられた時も、月伊霧は意外なほど冷静だった。

 

 当然だ、と思ってしまったのだ。

 

 正確なパスも、判断力も、そこから組み上げる必殺タクティクスも、月伊霧の人並外れた思考力と条件反射がなせる技である。そこが崩れれば、月伊霧はただ必殺技の使えない標準以下中学生でしかない。

 

 周りはそれをスランプと呼ぶのだろう。

 

 たぶん、その方が分かりやすい。

 ただ、月伊霧自身はその言葉にうまく頷けずにいた。

 

 調子が悪いというには、頭は妙に冴えている。だが、その冴えがプレーへ結びつかない。思考の方が勝手に先へ進み、身体だけが後から追いかけてくる。

 

 この矛盾を、月伊霧はまだ自分の中で置き場所を決められずにいた。

 

 月伊霧は、自分の頭脳だけは全幅の信頼を置いている。

 入部試験の能力測定で同期内最低点を取っても、シュート練習で外しまくって笑われても、それだけは揺らがなかった。詰将棋の如く、人とボールの配置を動かしていけば関係ないと思っていた。

 

 そうやって、北陽学園で居場所を作ってきた。

 

 なのに今、その頭脳が自分の身体を置き去りにしている。自分の才能に置いていかれるなんて、我ながら滑稽である、と月伊霧は天を仰いだ。

 

 

 ふと、北陽学園でサッカーを再開するきっかけになった日のことを思い出す。

 

 天然芝と潮風が混じった匂い。少し湿った風。足元で転がるボールの音。こちらを見ていた下鶴改の、妙に静かな目。

 

 あの日を最後に、自分はサッカーを辞めるつもりだった。

 

 ジュニア時代の最後の試合で、それなりにやり切った感覚はあった。才能も少しは証明できたし、わざわざ中学まで続けるほど未練があるとも思っていなかった。

 

 そもそも練習はきつい。走らされる。汗をかく。勝てば次の試合が増える。冷静に考えれば、趣味としてはなかなか割に合わない。

 

 そんなもっともらしい理屈を並べながら、月伊霧は内心、明日からエアコンの効いた部屋でゲーム三昧だと少し浮かれていた。

 

 そこへあの男、下鶴改が現れた。

 

 サッカーには、まだ攻略しがいがある。システムと連動性は、個人の実力差さえ塗り替える。そう思わされてしまったから、月伊霧は北陽学園で再びボールを蹴ることを選んだ。

 

 それなのに——

 

 

「元々、中学では続ける気なかったんだよな。こんなことならもう――」

 

 

 言葉が途切れた。

 

 自分でも驚くほど、乏しい声であった。

 

 続きを言わなかったのは、微かに残っていたプライドだったのかもしれない。あるいは、本当に口にしてしまえば取り返しがつかないと、どこかで分かっていたのかもしれない。

 

「サッカーを辞める、とでも言うんですか?」

 

 背後から続きを代弁された。聞き覚えのある穏やかな声。騎士部とはちょっと違う、大人びた女性の声。

 

 月伊霧はゆっくり振り返る。

 

 少し困ったような笑み。肩にかかった取材用バッグ。首から下げた社員証が、夕方の光を受けて小さく揺れている。

 

 そこに居たのは少年サッカー雑誌『イレブン』の記者、伊村だった。

 

「――伊村さん」

「お久しぶりです、月伊霧君。取材に来ちゃいました……なんちゃって」

 

 いつも会う時に見せる、冗談めかした可愛らしい口調であった。月伊霧を取材する時、伊村は決まって普段の取材より精神年齢が幼くなる。それは邪な思いがあるわけでもなく、昔から彼女に備わっていた究極のサッカーファンたる所以であった。

 

 月伊霧はどこか気まずそうに視線を逸らす。

 

「……今の俺に取材しても、面白い話なんて出ませんよ」

「でしょうね。なので、今日は取材じゃありません」

「じゃあ何しに来たんですか」

「ちゃんぽんを食べに来ました」

「目的が軽いんですが……」

「ついでに、通りすがりの落ち込んでる中学生を拾いに来ました」

「ついでの方が重いんですが?!」

 

 思ったより普通に突っ込めた。月伊霧はそのことに、少しだけ救われる。

 

 伊村はくすりと笑い、近くの店を指差した。

 

 観光客向けの華やかな店ではない。古い暖簾のかかった、小さなちゃんぽん屋だった。店先から湯気が上がり、魚介と炒め油の匂いが路地へ流れている。

 

 その匂いに、月伊霧の腹が控えめに鳴った。月伊霧は思わず顔をしかめた。

 

「……今の、聞こえました?」

「いいえ。私は大人なので、都合の悪い音は聞こえません」

「大人って便利ですね」

「便利ですよ。しかも、社外の人とご飯に行けば会食費として領収書も切れます」

「急に現実的」

 

 伊村は楽しそうに笑い、暖簾へ手をかける。

 

「行きましょう。話は食べながらでもできますから」

「……奢りですか?」

「もちろんです。大人なので」

 

 その言い方が少し懐かしくて、月伊霧は短く息を吐いた。

 

 笑ったつもりはなかったが、さっきよりは少しだけ呼吸が楽になっていた。

 

——————

 

「うーん! 美味しい! やっぱり長崎といえばちゃんぽんですねっ!」

 

 伊村は幸せそうにレンゲを握った。

 

 湯気越しの表情は、先ほどまでの記者然としたものから一変している。麺を持ち上げる仕草も、スープを味わう顔も、妙に真剣だった。

 

 向かいに座る月伊霧は、箸を持ったまま頭を下げる。

 

「すみません、ご馳走になっちゃって」

「いえいえ、これくらい全然大丈夫です。昨年はそれはもうお世話になりましたので、お礼だと思ってください」

「すげぇ、これが大人の余裕……」

「そうですよー。だから二度と中学生と間違えないでくださいね」

「それまだ覚えてるんですか」

「もちろん、一生忘れません」

 

 伊村は笑顔を崩さないが、その目は笑っていない。月伊霧は昨年の出来事を思い出し、食べる手を止めて固まった。

 

 忘れていたかった記憶が、湯気の向こうから強制的に蘇る。

 

――――

 

「月伊霧選手! 先程の白恋中との練習試合、凄い活躍でしたね! 取材よろしいですか?」

「取材って……学校新聞かなにか? 悪いけど、他校の偵察と判断つかないから、そういうの辞めて欲しいんだよね。あ、デートってことなら全然――」

「『イレブン』の取材です!!それと、私は立派な大人の女性ですー!!!学生扱いしないでくださいっっ!」

 

――――

 

 その記憶は一緒に渡された名刺と共に引き出しの奥底へしまっていたものだ。思い返すだけで顔が熱くなる。さほどメディアを知らなかったとはいえ、調子に乗っていたにも程があった。

 

「うっっ……ゴメンナサイ」

「分かればいいんです」

 

 伊村は満足げに頷き、再びちゃんぽんを口へ運ぶ。月伊霧は苦笑しながら、自分の器へ視線を落とした。

 

 白濁したスープの中に、野菜と魚介の旨味が濃く溶け込んでいる。湯気が顔に触れ、冷えていた頬を少しずつ温めていく。ひと口すすると、空腹だったことを思い出した。試合後から、まともに何も食べていない。腹が減っていることにすら気づけないほど、頭の中が敗北と雑音で埋まっていた。温かいスープが喉を通り、胃へ落ちる。

 

 月伊霧は箸を止め、少しだけ眉を寄せた。

 

 どれだけ沈んでいても、身体は食べ物を受け入れる。どれだけ負けても、こうして腹は減る。そういう仕組みは、今の彼には少し図々しく、同時に少しだけありがたかった。

 

「それで、この“落ちた天才”に何の用ですか? 負け続き戦略家は話せるネタも何も無いですよー」

 

 月伊霧は軽い調子で言ったが、どこかぎこちない。

 

「あはは……随分、卑屈になってますね。昨年の勢いはどこへ行ったんですか」

「まぁ、あの時は猫かぶってましたし――って、そりゃ卑屈にもなりますよ」

 

 箸が止まる。

 

「スプリング杯は体力不足で雷門に負けて、FF地区予選は笹波に出し抜かれて逆転負け。トドメに合併の件も含めてSNSは大炎上。こたつ記事によると『月伊霧芽育は落ちた天才』『少年サッカー史に残る最悪の天下り』『鬼道有人以来の天才的なチーム移籍』らしいです。どれも言い得て妙ですね」

 

 自嘲が器の上へ落ちる。月伊霧は誤魔化すように薄ら笑いを広げていく。

 

 伊村は少しだけ眉を下げた。

 

「中学生に向かってなんて記事……職業倫理を疑いますね」

「記者さんがそれ言います?」

「言います。私は真面目な記者なので」

「自称が一番信用ならないやつだ」

「こほん……それは置いておきまして」

 

 伊村はレンゲを器へ戻す。

 

「月伊霧君のサッカー人生は、まだこれからじゃないですか。敗北を乗り越えて強くなる。王者雷門の伝説だって、そこから始まってます」

「……伊村さんって意外と熱血キャラ?」

「そうじゃないと、何年も少年サッカーの記事なんて書けませんよ」

「それもそうか」

 

 月伊霧は小さく笑った。

 

 ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。

 

「今日来たのは、取材でもネタ集めでもありません。ただ励ましに来ただけです」

「励まし……なんでまた。俺はただの一選手ですよ」

「ただの選手じゃありません。なんて言ったって、私が見込んだ一選手ですからね」

「なんじゃそりゃ」

「昨年、スプリング杯直前に見に行った白恋中との練習試合。あの日のことは、今でも覚えています」

 

 伊村の声に、少し熱が宿る。

 

「絶対障壁を相手に、あらゆるタクティクスで攻略していく姿。駆け出しの一年生とは思えませんでした」

 

 白恋中との練習試合。

 

 月伊霧、空宮、騎士部、矢倉が、一年生ながら大抜擢でスタメン入りした試合である。無失点記録を誇る北海道の強豪、白恋中の『絶対障壁』を前に、北陽の一年生を中心として多彩な攻撃で対抗してみせた。高さで越え、横幅で揺さぶり、わずかな隙が見えれば一点へ絞る。

 

 その攻撃は、奇策の連発ではなかった。

 

 相手の構造を見抜き、味方の特性を把握し、ピッチにいる選手すべてを戦術の一部へ組み替えていく。月伊霧芽育という選手の異質さが、中学サッカー界に初めて姿を現した試合だった。

 

 当日、別件の取材で足を運んでいた伊村は、そこで月伊霧を見つけた。

 

 粗削りだった。

 

 技術は全国トップ層に比べれば見劣りする。だが圧倒的に、そのピッチを見る心眼だけは一級品であった。以来、伊村はことあるごとに月伊霧を追い、その手で記事にしようと邁進してきたのである。

 

「あー、そういえばそうでしたね。北陽での初スタメンはあの時か……まぁ今は見る影もないですけど」

「挫折を気取るには勿体なさすぎます。そんなことを言ったら、私はいくつ記事をボツにしたか分かったものじゃありません」

「……自慢じゃないですよ、それ」

「ええ、自慢ではありません。経験です」

 

 伊村は笑った。

 その笑顔には、少しだけ苦味が混じっている。

 

「取材して、書いて、直して、落とされて。それでも次の記事を書くんです。誰かに届くか分からなくても、書き続けるしかない。私にできることは、それだけなので」

 

 月伊霧は返す言葉を失った。

 実際のところ、記者という仕事を彼はほとんど知らない。決まった試合を見て、話題になりそうな選手にそれっぽく質問して、言葉通りの記事を書く。それくらいのものだと思っていた。

 

 伊村は言葉を続ける。

 

「だから、負けたから終わりだなんて言われると、少し腹が立ちます。目の前にチャンスがあるのに自ら投げ捨てるなんて、それこそ傲慢です」

「伊村さん……」

「ちなみに、月伊霧君の記事は十本ボツになりました」

「聞きたくなかった、そんなこと」

「データはPCにありますが、いります?」

 

 伊村は妙に真剣な目で言った。

 ボツ記事十本分の熱量を真正面から受け取るには、今の月伊霧の精神状態では少々重い。いや、普通の状態でも恥ずかしすぎて見れたものではないだろう、と改めて思い返す。

 

「……丁重にお断りします」

「残念です。自信作もあったんですけどね」

「じゃあなんでボツにされたんですか」

「世の中には、熱意だけでは越えられない壁があるんです。投稿頻度とか、権利とか、特にサッカー協会とか」

「知らない大人の闇が出てきた」

 

 ちゃんぽんの湯気はまだ上がっている。外の夕方は、ゆっくり夜へ傾いていた。

 

 伊村はレンゲを置き、少し声を落とす。

 

「で、本当にちゃんぽん食べに来ただけなんですか? 平日に黙って九州まで来るわけないし、本当は何しに来たんですか」

「……まあ、本音を言うと、先輩とあなたの記事を巡って賭け事をしてまして」

「はい?」

「ここで躓かれると困るので励ましに来たというか、次の記事の餌撒きをしに来たというか」

「この取材ジャンキーが……大の大人が中学生を使って何してるんですか?」

「ふふっ……大人って、実は結構悪いんです」

 

 小悪魔じみた笑みが、湯気の向こうで揺れる。その様子を見て、月伊霧は呆れたようにため息をついた。

 

「次の試合も勝ってくださいね。勝利の暁には、私が記事を書き上げますので」

「またボツになっても知らないですよ」

「それは月伊霧君の頑張り次第です」

「中学生を食い物にするなんて、大人ってやっぱりずるいや!」

 

 徐々にいつもの調子に戻りながら、月伊霧はちゃんぽんを食べ進めた。先程よりも箸が進んでいる。伊村はその様子見て、少しだけ安心したように微笑みながらスープを口に運んだ。

 

 食事を終えると、伊村は財布をしまいながら立ち上がる。

 

「ご馳走様でした。では、私はこの後仕事があるので、ここで失礼します。支払いは済ませてあるので、好きな時に帰ってください」

「この時間から仕事って……社畜というやつですか」

「ふっ、懐かしいですね。私も学生の頃は、定時外まで働く大人は皆社畜だと思ってました」

「伊村さん、目が死んでますよ」

 

 伊村は一瞬だけ、魂の抜けたような表情になった。

 

 少年サッカーへの情熱とは別種の疲労が、その顔に浮かんでいる。月伊霧はハイライトの消えた伊村の目を直視できなかった。

 

「現実は、いつだって少年漫画ほど優しくないんです」

「黄昏ながらちょくちょく大人の闇を見せないでください。僕まだ子供なんですから」

 

 月伊霧の軽口を背に、伊村は店を出ていく。魂の抜けた表情のまま、しかし足取りだけは妙に速かった。

 

 そして店の外へ出たところで、伊村のスマートフォンが突然鳴り始める。ポケットから取り出し、画面に表示された名前を見ると、思わず「げっ」と声を上げた。

 

「はい、お疲れ様です――え、枝元さん。今どこだって……はい、長崎にいま――――耳痛ぁ」

 

 受話口から漏れる声量に、伊村は思わずスマートフォンを耳から離した。そういえば、九州に行くことは伝えていなかったと、自身の失態を思い出す。

 

「どこに取材するかって……東風異国館です。はい、南雲原中対東風異国館は九州地区予選屈指の注目カードですし、話題性はあるかと。南雲原は例の件もあって取材NGでしたが、東風異国館も情報が少ないので事前リサーチはしておこうと思っていました。はい……はい! ありがとうございます! では」

 

 通話を切る。

 

 店の窓越しに、月伊霧の姿が見えた。彼はまだ器の底を見つめて座っている。何かを考えているようにも、ただ空腹を満たした余韻に浸っているようにも見える。

 

「んーー! もう一息! 仕事、頑張るかぁ!」

 

 伊村は肩を回し、小さく笑った。

 

「いい記事になるかは試合次第。今回も期待してますよ、月伊霧君」

 

 長崎の夕暮れは、橙から群青へ移り始めていた。街灯が一つ、また一つと灯る。路面電車の窓に、流れる光が映った。

 

 もし、“少年サッカー界の新脳”月伊霧芽育が、新生南雲原で復活を遂げるのなら。

 

 もし、旧北陽学園と旧南雲原中という二つの思想が、本当の意味で一つのチームへ変わるのなら。

 

 それは、単なる復活劇では終わらない。

 

 北陽学園が積み上げてきた戦術。南雲原中が磨いてきた個性。その中心で、月伊霧芽育という頭脳がもう一度動き出す。

 

 かつて“パーフェクトサッカー”と呼ばれたものは、終わるのではない。

 

 伊村は足を止め、夜に沈み始める街の中で、まだ存在しない見出しを思い描いた。

 

 

――かくして、パーフェクトサッカーは。

 

 

 そこまで考えて、彼女は小さく首を振る。

 まだ早い。見出しはいつだって、選手自身が証明してから付けるものだ。

 

 今の時点で言葉にすれば、それは期待ではなく願望になる。記者が書くべきものは、願望ではない。ピッチの上で起きた事実と、その奥にある熱を伝える仕事である。

 

 だから、今は胸の内にしまっておく。これを言葉にしてしまっては無粋というものだ。

 

 伊村はスマートフォンをバッグへしまい、ホテルへ向かって歩き出した。

 

 明日は東風異国館の取材がある。確認すべき資料も、洗い直すべき試合記録も、山ほど残っていた。今日は深夜まで残業することになるだろう。

 

 少しだけ、青に変わる信号を軽く飛び跳ねて渡っていく。夜へ向かう街の中で、彼女の胸には、疲労と同じくらい確かな期待が灯っていた。

 

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