---
研究所の奥にある狭い部屋に、重苦しい沈黙が漂っていた。牧瀬紅莉栖、槙島聖護、そして岡部倫太郎は、志乃の力が世界に与え始めた影響について話し合っていた。だが、話し合いが進むたびに、未来に対する不安が胸に広がっていく。
「志乃の力は、私たちが考えているよりもずっと大きなものかもしれない…」
紅莉栖がそう言いながら、机の上に並べたデータを見つめていた。そのデータは、志乃の力が暴走した瞬間に周囲の時間や空間に与えた影響をまとめたものだった。
「このデータを見る限り、彼女の力はすでに私たちの世界に深刻な影響を与え始めている。」
紅莉栖はデータを指し示しながら、淡々とした口調で続けた。
「時間の流れが一部で不規則に動き、現実の一部が歪んでいるのが確認できる。」
「世界が少しずつ崩れていくということか…」
岡部は額に手を当て、考え込むように言った。彼にとって、この状況はただの異常現象を超えた問題だった。もしこのまま何も対策を取らなければ、志乃の力が引き金となって、取り返しのつかない事態になる可能性がある。
「だが、紅莉栖君、君はその事実を知りながらも、どうしてそんなに冷静なんだ?」
岡部が問いかける。
紅莉栖は深く息をつき、顔を少し伏せた。
「冷静でいなければ、私自身が崩れてしまいそうだからよ…。でも、私だって怖いわ。志乃の力がこのまま暴走を続ければ、何が起こるか予測できないもの。」
その言葉に、岡部は少しだけ沈黙し、再び考え込んだ。彼女の恐怖は当然だった。志乃の力は単なる物理的な異常ではなく、世界そのものを変える可能性があるのだ。
「志乃の力が世界に与える影響を軽視するわけにはいかない。」
槙島が重々しく口を開いた。
「だが、僕はそれがすべて悪いことだとは思っていない。」
「聖護、どういう意味?」
紅莉栖が不思議そうに尋ねる。
「志乃の力は、世界を歪めるかもしれないが、それが破壊だけを意味するわけではない。もしかしたら、彼女の力が世界に新たな可能性をもたらすかもしれない。」
「新たな可能性?」
紅莉栖は眉をひそめた。
槙島は静かに頷き、続けた。
「君たちは恐れているようだが、志乃の力がもたらすものが必ずしも破滅的なものだとは限らない。彼女は特異な存在であり、彼女の力が未来に新しい道筋を生み出すことも考えられる。」
「でも、その『新しい道筋』というのは、具体的にどういうことなの?」
紅莉栖が問い返す。
槙島はしばらく黙り、窓の外を見つめてから答えた。
「僕にもすべては分からない。ただ、志乃が持つ力は、この世界の理を超えたものだ。それが世界にどう影響を与えるか、すべてを予測するのは不可能だが、世界が変わるチャンスとして捉えることもできる。」
その言葉に、紅莉栖は再び思考の迷宮に陥った。確かに、志乃の力がもたらすものが全て破滅ではない可能性もある。しかし、今はその力が制御不能である以上、どんな結果をもたらすか予測するのは難しい。
⸻
その時、阿万音鈴羽が静かに部屋に入ってきた。彼女の顔には真剣な表情が浮かんでいた。
「鈴羽、どうしたの?」
紅莉栖が尋ねる。
「未来が変わり始めている。」
鈴羽は短く答えた。
「どういうこと?」
岡部が身を乗り出して聞く。
「私が知っている未来とは、少しずつ違う兆候が現れ始めているの。」
鈴羽は腕を組み、思慮深い顔で説明を続けた。
「おそらく、志乃の力が原因で、時間の流れや歴史の一部が変わり始めているのかもしれない。」
「それって…つまり、未来そのものが変わってきているということ?」
紅莉栖は驚愕の表情を浮かべた。
鈴羽は頷いた。
「未来は常に無数の可能性を持っているけれど、今は志乃の力が大きな影響を与えている。小さな変化が積み重なって、未来が予測できなくなりつつあるの。」
「志乃の力が時間と歴史にまで影響を与えているということか…」
岡部は深くため息をついた。
「それは…考えたくもないほど恐ろしい話だな。」
紅莉栖は眉をひそめ、思案に暮れていた。志乃の力がどれだけの影響を及ぼすのか、その影響が時間と未来にまで及んでいるとなると、彼らが直面している問題は想像を絶するものになってくる。
「だからと言って、私たちにできることは限られているわ。」
紅莉栖は冷静に言った。
「志乃の力をどうにかして制御しなければならない。でも、それが彼女にとってどんな影響を与えるかも分からない。」
「それでも、彼女を守るために行動を起こさないわけにはいかない。」
槙島は静かに応じた。
「僕たちは、彼女の力を抑えつけるか、あるいは導くか、選択しなければならない。」
「そうね…未来がどうなるかなんて、私たちには分からない。でも、今できることをやるしかないわ。」
紅莉栖は決意を固めた顔で言った。
鈴羽は静かに頷き、紅莉栖の手を取った。
「クリスティーナ、私たちはあなたと志乃を守るためにここにいるわ。どんな未来が待っていようとも。」
紅莉栖はその言葉に感謝し、力強く頷いた。槙島もまた、鈴羽の言葉を聞きながら、未来に対する新たな決意を胸に秘めていた。
⸻
こうして、志乃の力が時間と未来にどれほどの影響を与えるか、誰にも予測できない状況の中で、紅莉栖たちは未来を切り開くための行動を開始する。彼らの前には、困難でありながらも希望に満ちた道が広がっていた。
⸻
同じ頃──SERNとラウンダー
冷たい蛍光灯の光が、無機質な壁と床を白く照らしていた。
地下深くに設けられた SERN の中枢区画。
並び立つサーバーラックの隙間を縫うように、低い機械音が途切れなく響いている。
その一角──監視端末の前で、ひとりの女が硬直していた。
桐生萌郁。
画面には、さきほどから同じ文面が表示されたまま、ゆっくりと点滅を続けている。
【R-ORDER:PRIORITY / LV.1】
発生源:JPN / TOKYO / AKIHABARA
観測名:SINGULARITY NODE(仮)
任務:発生源の所在特定および確保
補足:周辺事象(時間軸揺らぎ/位相歪曲)継続中
備考:付随対象の排除は状況に応じて許可
喉が、きゅっと鳴った。
(……“特異点”)
指先がわずかに震える。
手の中の携帯端末が、異様に重く感じられた。
すぐ後ろから、落ち着いた声が落ちてくる。
「桐生。任務内容は確認したか。」
振り返ると、ラウンダーの担当官が無表情のまま彼女を見下ろしていた。
何年も前から、彼女に指示を送ってきた、“組織”の窓口だ。
萌郁は、ほんの一瞬だけ視線を泳がせてから、小さく頷く。
「……はい。」
声は掠れていたが、それ以上に、胸の奥がざわついていた。
担当官は、端末の別ウィンドウを開きながら淡々と続ける。
「アキハバラのラボ──お前が以前から監視している“観測対象”だな。」
画面には、過去のログが次々と表示される。
《UNAUTHORIZED ACCESS:EAMPLE / “HOUSERU” / “KYOUMA”…》
《D-MAIL 実験ログ──既存タイムマシン理論との相関 %》
「不正アクセス自体は、だいぶ前から把握していた。」
担当官は事務的な口調で言う。
「だが、あのラボの実験内容は、SERN がとっくに通過した段階のものだった。
理論も進行度も、我々の枠内に収まっていた。だから──」
「監視だけ、でいいと判断された。」
萌郁が、かすかに言葉を継ぐ。
担当官は頷いた。
「そうだ。放置ではない。
“必要になったときに回収すれば良い程度の観測点”だ。」
そこで彼は、今しがた更新された最新ログを指し示す。
《LOCAL FRAME NOISE:異常値》
《時空間座標の局所的歪み:反復観測》
《既存データベース外の波形パターン》
「……だが、今回は違う。」
声色が、わずかに硬くなる。
「この揺らぎは、我々のモデルからも外れている。
“ラボの実験”だけでは説明できない。
そこに、別の発生源が存在する。」
(別の……?)
萌郁は、スクリーンの文字を凝視する。
ラボだけじゃない。ラボの“周辺”に、何かがいる。
「発生源がヒトである可能性も視野に入れろ。」
担当官は、淡々とそう付け加えた。
ヒト。
人間。
名前を持つ“誰か”。
胸の奥で、何かがかすかに揺れる。
アキハバラ。あのビル。あの部屋。
脳裏に、ひとつの断片的な記憶が浮かびかける。
――「萌郁さん」
――「志乃と一緒に、いてくれ」
小さな重さ。
腕の中に預けられた、温かい体温。
「……っ」
喉の奥が痛み、萌郁は慌てて視線を画面に戻した。
担当官は、そんな内面など知る由もないという顔で続ける。
「今回の“特異点”が、あのラボと無関係だとは考えにくい。
実験と同じ座標で、世界線のノイズが跳ね上がっている。」
「……ラボの誰かが、発生源かもしれない。」
思わず漏れた言葉に、担当官は「可能性の一つだ」とだけ答えた。
「特定は現地で行え。
お前には、これまでの監視履歴がある。人間関係も把握しているはずだ。」
(“人間関係”……)
萌郁は、指先に力を込めて携帯を握りしめる。
監視対象
ラボメン
任務
ラベリングされた単語の隙間から、
あのとき腕の中で眠っていた小さな重みだけが、こぼれ落ちずに残っていた。
担当官は、最後の一言を投げる。
「対象の確保が最優先だ。
付随対象の排除については、状況に応じて判断しろ。」
「……ラボの、皆んなも。」
無意識に零れた単語に、担当官はわずかに目を細める。
「任務の障害になるなら、だ。
“過去の接触”で判断を鈍らせるな、桐生萌郁。」
沈黙。
自分の胸の中に生まれかけた何かを、
萌郁は奥歯を噛み締めて押し込める。
私はラウンダー。命令に従うだけ。
FB が望む通りに動く。ずっと、そうしてきた。
やがて、彼女は携帯端末を開き、
短く、決まりきった文面を打ち込んだ。
【To: FB】
了解。
対象座標へ向かい、特異点発生源の特定と接触を開始する。
送信ボタンを押した指が、かすかに震えていた。
担当官は満足げに頷くと、踵を返して立ち去る。
残された萌郁は、暗いモニターの反射越しに、自分の顔を見つめた。
感情の薄いはずの瞳の奥で、何かが小さく波打っている。
(……本当に、やるの?)
問いかけても、答えは返ってこない。
返ってくるのは、ただ一つ――
さきほど自分で送信した「了解」という文字だけだった。
⸻
その頃、アキハバラの小さなビルの一室で、
紅莉栖たちはまだ、志乃の未来をどう守るかだけを見つめていた。
自分たちの議論が、
すでに“外側”から監視され、
別の「意志」に狙われていることを知らないまま。