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暗い部屋の中で、液晶の光だけが世界の輪郭を縁取っていた。
安いテーブル。飲みかけの缶コーヒー。
散らばった紙の上には、ところどころ、プリントアウトされた英数字の羅列。
《SUBJECT:時空間異常観測ログ/発信源候補:JAPAN – AKIHABARA近辺》
画面に並ぶ単語を、桐生萌郁は淡々と目で追っていく。
……また、秋葉原。
携帯を持つ指先に、ほんのわずかに力が入る。
SERN――いや、“組織”は前から気づいていた。
不正アクセス、異常ログ、消え残ったノイズの向こう側に、いつも同じ「ラボ」がいることを。
なのに、これまでは――
「進行度は低い。既存研究の模倣に過ぎない」
「監視継続。積極介入の必要なし」
そう判断されてきた。
だからラウンダーは、ただ“見るだけ”で良かった。
報告して、命令を待って、また報告する。
それだけのはずだった。
けれど、今回の報告書には、はっきりと別の言葉が載っている。
《時空間座標の局所的歪み》
《観測値:既存データベース外》
《安全保障上のリスク:HIGH》
指示は、簡潔だった。
「現地調査」
「発信源の確保」
「必要であれば排除も辞さない」
排除。
その一語に、胸の奥がかすかにざわつく。
――発信源。
誰かの顔が、ふいに浮かびかけて、慌てて打ち消す。
違う。感情を、はさまない。私はラウンダー。命令に従うだけ。
そう繰り返しても、頭のどこかでひっかかる。
「発信源がヒトである可能性も視野に入れろ」
報告の文面に、さらりと書かれていた一文。
ヒト。
人間。
名前を持つ“誰か”。
……もし、それが。
胸の奥で、ひとつの可能性が形を取りかけて――
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「……やめて」
萌郁は、自分のこめかみを指で押さえた。
脳裏に浮かんだ情景を否定するように、ゆっくりと目を閉じる。
仕事と個人感情を混同してはいけない。
私は、そういうふうに作られていない。
そう思いたいのに、思考は勝手に過去へと遡っていく。
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初めて、その子を腕に抱いた日のこと。
未来ガジェット研究所の一角。
乱雑な機材とコードの隙間。
場違いなほど、ちいさなちいさな存在。
「……無理」
そのとき、本気でそう思った。
腕の中にある重さが怖かった。
落としたらどうしよう。
泣かせたらどうしよう。
壊してしまいそうで。
「……わたし、こういうの……」
言い訳のように呟いた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
そのときだった。
~萌郁さん。
静かな声が、自分の名前を呼んだ。
携帯越しではなく、
メールの文面でもなく、
真正面から、はっきりと。
顔を上げると、槙島聖護がいた。
あの、どこか世界から半歩ずれたような眼差しで、まっすぐに。
すぐ隣には、紅莉栖が、不安そうにそれでも信頼を込めた目でこちらを見ていた。
~志乃と、一緒にいてくれ。
命令じゃない。
強制でもない。
ただ、預ける側の覚悟だけが、そこにあった。
腕の中の赤ん坊――志乃が、ふにゃりと顔を動かす。
大きな瞳が、まっすぐに萌郁を見た。
小さな指が、シャツの袖をつまむ。
「……っ」
拒絶の言葉は、喉の奥で消えた。
怖い。
何をどうしていいのか、全然わからない。
それでも、その指先は、確かに自分を“選んで”縋っていた。
「……少しだけ、だから」
誰に向けたのか、自分でもわからない小さな声。
志乃は安心したように目を細め、
やがて、すうすうと小さな寝息を立て始めた。
そのあいだ、萌郁はほとんど動けなかった。
けれど、不思議と、その重さが嫌ではなかったことだけは覚えている。
――あの日以来、
「萌郁さん」という呼び方と、
「志乃と一緒にいてくれ」という言葉は、
どこか自分の中で特別な位置を占めてしまった。
ラウンダーでもなく、記者でもなく、
ただの「桐生萌郁」として、そこにいても良いと、
一瞬だけ思ってしまったから。
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液晶画面に視線を戻す。
指先が、ゆっくりと文字をなぞる。
《発信源の確保》《排除も辞さない》
もし、発信源が――あの子だったら。
考えるな、と自分に命じる。
SERNの指示に、個人的な過去は関係ない。
……それでも。
「……まさか、ね」
声にならない声が、暗い部屋に溶けていく。
志乃が、あのラボが、
“世界の異常”の原因だなんて。
そんなのは、ただの勘ぐりだ。
ただの――希望か、あるいは恐怖か。
携帯が、小さく震えた。
新着メール。
差出人は、いつも通り“FB”の名。
『至急現地へ向かえ。
ラボ周辺の対象すべてを記録し、報告。
判断は上で行う。』
萌郁は、短く息を吸い込む。
命令だ。
私は、行かなければならない。
たとえ、その先に何が待っていようとも。
あの日、腕の中で眠っていた小さな重みが、
記憶の中でそっと、もう一度こちらに手を伸ばすような気がした。