志す者たちの彼方   作:d1ce-k

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2部 第5章: 「志乃の内なる葛藤」

 

 

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未来ガジェット研究所の静かな夜、志乃はベッドに横たわり、目を閉じていた。

だが、眠っているわけではない。胸の奥で、ざわざわとした何かが渦を巻き続け、彼女を落ち着かせてくれなかった。

 

「私…どうしてこんなことになっているの?」

 

小さな声が、誰にも聞こえない心の中で反響する。

ここ数日、志乃は秋葉原のこの小さな部屋と、紅莉栖が通う大学の研究棟とを行き来していた。大学の大型設備で志乃の力を解析し、夜は皆の目の届くこの研究所で休む──そんな生活が続いている。

 

自分の中にあるこの力を制御できず、その影響が周囲に及んでいることを、志乃は薄々理解していた。

まだ幼い彼女にも、「自分が迷惑をかけている」という感覚だけは、はっきりとわかってしまう。

 

「みんな、私を怖がってるんじゃないかな…?」

 

志乃の力は、自分でも分かるほど“おかしい”ものだった。

世界の理からはみ出している。そう感じる。

けれど、それをどうやって抑えればいいのか、どう扱えばいいのか──志乃自身にもまったく分からない。

 

彼女の不安は、夜の静けさの中で、ますます膨れ上がっていった。

 

 

その頃、隣の部屋では、紅莉栖が眠れないままデスクに向かっていた。

 

机の上には、自分のノートPCと、大学の研究所にリモート接続したモニターが並んでいる。

大学側のサーバーに蓄積された志乃の観測データ、時間の揺らぎを示すグラフ、空間位相の乱れを記録したログ──

そのどれもが、常識外れの数値を示していた。

 

「志乃は、私の娘…でも、私は彼女を守れていない…」

 

紅莉栖は小さく呟き、深くため息をついた。

 

科学者として積み上げてきた理論でも、この子のすべてを説明することはできない。

それでも、母親として、科学者として、何か手がかりを掴もうともがくしかなかった。

 

画面の片隅で、大学のネットワークモニタが一瞬だけ赤く点滅する。

外部からのスキャンを示す小さな警告。

紅莉栖は一瞥したが、それ以上追及はしなかった。

 

「……夜中のボットかしら。今はそれどころじゃないわ…」

 

気づかないまま、彼女は新しいログファイルを開く。

その背後で、ゆっくりと、別の「視線」がデータ空間に手を伸ばしつつあることも知らずに。

 

 

その時、未来ガジェット研究所のドアが静かに開き、椎名まゆりがそっと入ってきた。

 

いつものふんわりした笑顔。

けれど、紅莉栖の疲れた顔を見て、その瞳にはすぐに心配の色が浮かぶ。

 

「クリスちゃん、大丈夫?」

 

「まゆり…」

 

紅莉栖は驚いて顔を上げた。

まゆりは紅莉栖の隣に腰を下ろし、そっと覗き込む。

 

「志乃ちゃんのことで、すごく悩んでいるんだね。」

「でも、クリスちゃんは一人じゃないよ。私たちみんな、志乃ちゃんを助けたいと思ってる。」

 

紅莉栖は、その言葉に心が少しだけ軽くなるのを感じた。

 

「ありがとう、まゆり。でも…どうすればいいか分からないの。志乃の力が強すぎて、どうやって彼女を守ればいいのか、私にはまだ分からない。」

 

まゆりは、紅莉栖の手をそっと握った。

 

「志乃ちゃんは、クリスちゃんがそばにいてくれるだけで安心してると思うよ。

クリスちゃんがどれだけ彼女のことを大切に思ってるか、きっと分かってる。」

 

「でも、私は…」

 

言葉が喉に詰まる。

科学者としての自分と、母親としての自分。その間で引き裂かれそうな感覚が、紅莉栖を苦しめていた。

 

「志乃ちゃんはね、クリスちゃんと槙島さんの娘だよ。」

「だから、きっと強い心を持ってるはず。」

 

まゆりは、いつもと変わらない柔らかい声で続けた。

 

「私たちが志乃ちゃんを信じてあげれば、志乃ちゃんもきっと、自分を信じられるようになるよ。」

 

紅莉栖は、涙をこらえながら小さく頷いた。

 

「そうね…私が彼女を信じてあげなきゃいけないのよね。」

 

 

一方で、志乃はまだ、自分の力と葛藤し続けていた。

 

眠れないまま、天井をぼんやり見つめながら、自分の中で渦巻くものに怯えていた。

両親や周囲の人たちが、自分のことをどう思っているのか──

その想像だけで、胸が締め付けられる。

 

「私は、このままで…いいのかな…」

 

無意識に漏れた声は、暗い部屋の中で消えていく。

 

自分の中の力が、自分自身にとっても、他の人にとっても危険である。

それを、なんとなく分かってしまっているからこそ、余計に怖かった。

 

その時、ふと、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。

 

志乃が目を開けると、ベッドの端に、まゆりが静かに座っていた。

 

「まゆりおねえさん…?」

 

「うん、志乃ちゃんが寂しそうにしてたからね。」

 

まゆりは、ふんわりと微笑みながら、志乃を見つめる。

 

「志乃ちゃん、何か悩んでる?」

 

志乃は少し黙り込んだあと、小さな声で言った。

 

「私…みんなに迷惑をかけてるんじゃないかな…」

 

まゆりは、そっと志乃の頭を撫でた。

 

「そんなことないよ。志乃ちゃんがいるだけで、みんなすごく嬉しいんだから。

君は、大事な存在だよ。」

 

「でも…私のせいで、みんなが困ってるんだよ…」

 

かすれた声で続ける志乃の目には、じわりと涙が滲んでいた。

 

まゆりは柔らかい声で答えた。

 

「志乃ちゃんの力は確かに特別だけど、それを怖がる必要はないよ。

みんな、君を助けたいと思ってるし、君を大事に思ってるから。」

 

「本当に…?」

 

志乃は、不安げにまゆりを見上げる。

 

「もちろん。」

 

まゆりは、迷いのない声で言い切った。

 

「君は、みんなの希望なんだから。

クリスちゃんも、槙島さんも、オカリンも。

志乃ちゃんがいてくれることが、すごく嬉しいんだよ。」

 

その言葉に、志乃の心は、少しずつほぐれていくのを感じた。

 

「ありがとう…まゆりおねえさん…」

 

志乃は小さく微笑み、まゆりの手をぎゅっと握った。

やがて、そのままゆっくりと目を閉じる。

 

まゆりは、しばらくその手を握り続けてから、そっと立ち上がった。

 

 

まゆりが部屋を出ると、廊下の先に、壁にもたれかかった槙島聖護の姿があった。

 

「様子はどうだった?」

 

槙島が静かに問いかける。

まゆりは、少しだけ安心した顔で頷いた。

 

「うん、ちょっとだけ、楽になったみたい。

でも、志乃ちゃん…すごく自分のことを責めてた。」

 

「だろうね。」

 

槙島は、目を細めながら天井を見上げた。

 

「力があることより、その力のせいで“誰かが傷つくかもしれない”って考える方が、よっぽど重いから。」

 

まゆりは、そんな槙島の横顔を見上げながら、ふと思い出したように口を開いた。

 

「ねえ、槙島さん。さっき、ここに来るときにね…」

 

「ん?」

 

「ビルの外に、ずっとこっちを見てる人がいた気がするの。

スマホをいじってるみたいに見えたけど…なんだか、ちょっと怖くて。」

 

槙島の視線が、わずかに鋭さを帯びた。

 

「いつからだい?」

 

「えっと…クリスちゃんの差し入れを買いにコンビニに行ったときからかな。

戻ってきたときも、まだ同じ場所に立ってて…」

 

「そうか。」

 

短く答えると、槙島は廊下の窓から外を覗いた。

夜の秋葉原は、ネオンが落ち着き、人気もまばらだ。

だが、ふと視線を走らせた先──ビルの向かいの暗がりに、誰かの気配が一瞬だけよぎったような気がした。

 

「……君の気のせい、とは言い切れないね。」

 

槙島は窓から視線を外し、まゆりの方を向いた。

 

「まゆりさん。今夜は、できるだけ外には出ない方がいい。

志乃の力だけじゃない。“別のもの”が、動き始めている。」

 

「べつの…もの?」

 

「世界の歪みとは違う、“人間の意志”の気配だよ。」

 

その言葉の意味を、まゆりはすぐには理解できなかった。

だが、槙島の静かな声の奥にある、わずかな警戒の色だけは感じ取れた。

 

 

屋上では、阿万音鈴羽が夜風に吹かれながら、街を見下ろしていた。

 

遠くを走る車のライト、ネオンの名残、そして、ビルの影。

その中に、妙に動きの少ない“点”がある。

 

「……さっきから、位置がほとんど変わってない。」

 

鈴羽は小さく呟き、双眼鏡を目元に当てた。

 

研究所のビルを見上げるように立つ人影。

スマホを構えているのか、ただ俯いているだけなのか、ここからでは判別できない。

だが、それでも分かる。

 

(あれは、ただの通行人じゃない。)

 

軍で鍛えられた勘が、鈴羽の背筋を冷たく撫でていく。

 

やがて、その人影は、こちらの視線に気づいたかのように、ふっと動いた。

暗がりに溶けるように消え、別の路地へと姿を消していく。

 

「……最悪のパターンかもしれないわね。」

 

鈴羽は息を吐き、夜空を一度だけ見上げた。

 

まだ、確証はない。

でも、志乃の力が世界を揺らしているのと同じタイミングで、「外側」もまた動き出している。

 

(志乃。

あんたの未来を守るための戦いは、“時間”とだけじゃ済まないかもしれない。)

 

 

その夜、志乃は少しだけ、自分の力を受け入れ始めていた。

 

完全には理解できない。

でも、自分を信じてくれる人がいて、そばにいてくれる人がいる──

その感覚が、彼女にとって大きな希望になりつつあった。

 

これからの道のりは、きっと険しい。

しかも今、その道は、世界の歪みだけでなく、“誰かの意志”によっても狙われ始めている。

 

それでも。

 

志乃はまだ知らない。

今はただ、まゆりの言葉に支えられながら、静かな眠りの中で、小さく未来を夢見るだけだった。

 

 

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