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未来ガジェット研究所の静かな夜、志乃はベッドに横たわり、目を閉じていた。
だが、眠っているわけではない。胸の奥で、ざわざわとした何かが渦を巻き続け、彼女を落ち着かせてくれなかった。
「私…どうしてこんなことになっているの?」
小さな声が、誰にも聞こえない心の中で反響する。
ここ数日、志乃は秋葉原のこの小さな部屋と、紅莉栖が通う大学の研究棟とを行き来していた。大学の大型設備で志乃の力を解析し、夜は皆の目の届くこの研究所で休む──そんな生活が続いている。
自分の中にあるこの力を制御できず、その影響が周囲に及んでいることを、志乃は薄々理解していた。
まだ幼い彼女にも、「自分が迷惑をかけている」という感覚だけは、はっきりとわかってしまう。
「みんな、私を怖がってるんじゃないかな…?」
志乃の力は、自分でも分かるほど“おかしい”ものだった。
世界の理からはみ出している。そう感じる。
けれど、それをどうやって抑えればいいのか、どう扱えばいいのか──志乃自身にもまったく分からない。
彼女の不安は、夜の静けさの中で、ますます膨れ上がっていった。
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その頃、隣の部屋では、紅莉栖が眠れないままデスクに向かっていた。
机の上には、自分のノートPCと、大学の研究所にリモート接続したモニターが並んでいる。
大学側のサーバーに蓄積された志乃の観測データ、時間の揺らぎを示すグラフ、空間位相の乱れを記録したログ──
そのどれもが、常識外れの数値を示していた。
「志乃は、私の娘…でも、私は彼女を守れていない…」
紅莉栖は小さく呟き、深くため息をついた。
科学者として積み上げてきた理論でも、この子のすべてを説明することはできない。
それでも、母親として、科学者として、何か手がかりを掴もうともがくしかなかった。
画面の片隅で、大学のネットワークモニタが一瞬だけ赤く点滅する。
外部からのスキャンを示す小さな警告。
紅莉栖は一瞥したが、それ以上追及はしなかった。
「……夜中のボットかしら。今はそれどころじゃないわ…」
気づかないまま、彼女は新しいログファイルを開く。
その背後で、ゆっくりと、別の「視線」がデータ空間に手を伸ばしつつあることも知らずに。
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その時、未来ガジェット研究所のドアが静かに開き、椎名まゆりがそっと入ってきた。
いつものふんわりした笑顔。
けれど、紅莉栖の疲れた顔を見て、その瞳にはすぐに心配の色が浮かぶ。
「クリスちゃん、大丈夫?」
「まゆり…」
紅莉栖は驚いて顔を上げた。
まゆりは紅莉栖の隣に腰を下ろし、そっと覗き込む。
「志乃ちゃんのことで、すごく悩んでいるんだね。」
「でも、クリスちゃんは一人じゃないよ。私たちみんな、志乃ちゃんを助けたいと思ってる。」
紅莉栖は、その言葉に心が少しだけ軽くなるのを感じた。
「ありがとう、まゆり。でも…どうすればいいか分からないの。志乃の力が強すぎて、どうやって彼女を守ればいいのか、私にはまだ分からない。」
まゆりは、紅莉栖の手をそっと握った。
「志乃ちゃんは、クリスちゃんがそばにいてくれるだけで安心してると思うよ。
クリスちゃんがどれだけ彼女のことを大切に思ってるか、きっと分かってる。」
「でも、私は…」
言葉が喉に詰まる。
科学者としての自分と、母親としての自分。その間で引き裂かれそうな感覚が、紅莉栖を苦しめていた。
「志乃ちゃんはね、クリスちゃんと槙島さんの娘だよ。」
「だから、きっと強い心を持ってるはず。」
まゆりは、いつもと変わらない柔らかい声で続けた。
「私たちが志乃ちゃんを信じてあげれば、志乃ちゃんもきっと、自分を信じられるようになるよ。」
紅莉栖は、涙をこらえながら小さく頷いた。
「そうね…私が彼女を信じてあげなきゃいけないのよね。」
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一方で、志乃はまだ、自分の力と葛藤し続けていた。
眠れないまま、天井をぼんやり見つめながら、自分の中で渦巻くものに怯えていた。
両親や周囲の人たちが、自分のことをどう思っているのか──
その想像だけで、胸が締め付けられる。
「私は、このままで…いいのかな…」
無意識に漏れた声は、暗い部屋の中で消えていく。
自分の中の力が、自分自身にとっても、他の人にとっても危険である。
それを、なんとなく分かってしまっているからこそ、余計に怖かった。
その時、ふと、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
志乃が目を開けると、ベッドの端に、まゆりが静かに座っていた。
「まゆりおねえさん…?」
「うん、志乃ちゃんが寂しそうにしてたからね。」
まゆりは、ふんわりと微笑みながら、志乃を見つめる。
「志乃ちゃん、何か悩んでる?」
志乃は少し黙り込んだあと、小さな声で言った。
「私…みんなに迷惑をかけてるんじゃないかな…」
まゆりは、そっと志乃の頭を撫でた。
「そんなことないよ。志乃ちゃんがいるだけで、みんなすごく嬉しいんだから。
君は、大事な存在だよ。」
「でも…私のせいで、みんなが困ってるんだよ…」
かすれた声で続ける志乃の目には、じわりと涙が滲んでいた。
まゆりは柔らかい声で答えた。
「志乃ちゃんの力は確かに特別だけど、それを怖がる必要はないよ。
みんな、君を助けたいと思ってるし、君を大事に思ってるから。」
「本当に…?」
志乃は、不安げにまゆりを見上げる。
「もちろん。」
まゆりは、迷いのない声で言い切った。
「君は、みんなの希望なんだから。
クリスちゃんも、槙島さんも、オカリンも。
志乃ちゃんがいてくれることが、すごく嬉しいんだよ。」
その言葉に、志乃の心は、少しずつほぐれていくのを感じた。
「ありがとう…まゆりおねえさん…」
志乃は小さく微笑み、まゆりの手をぎゅっと握った。
やがて、そのままゆっくりと目を閉じる。
まゆりは、しばらくその手を握り続けてから、そっと立ち上がった。
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まゆりが部屋を出ると、廊下の先に、壁にもたれかかった槙島聖護の姿があった。
「様子はどうだった?」
槙島が静かに問いかける。
まゆりは、少しだけ安心した顔で頷いた。
「うん、ちょっとだけ、楽になったみたい。
でも、志乃ちゃん…すごく自分のことを責めてた。」
「だろうね。」
槙島は、目を細めながら天井を見上げた。
「力があることより、その力のせいで“誰かが傷つくかもしれない”って考える方が、よっぽど重いから。」
まゆりは、そんな槙島の横顔を見上げながら、ふと思い出したように口を開いた。
「ねえ、槙島さん。さっき、ここに来るときにね…」
「ん?」
「ビルの外に、ずっとこっちを見てる人がいた気がするの。
スマホをいじってるみたいに見えたけど…なんだか、ちょっと怖くて。」
槙島の視線が、わずかに鋭さを帯びた。
「いつからだい?」
「えっと…クリスちゃんの差し入れを買いにコンビニに行ったときからかな。
戻ってきたときも、まだ同じ場所に立ってて…」
「そうか。」
短く答えると、槙島は廊下の窓から外を覗いた。
夜の秋葉原は、ネオンが落ち着き、人気もまばらだ。
だが、ふと視線を走らせた先──ビルの向かいの暗がりに、誰かの気配が一瞬だけよぎったような気がした。
「……君の気のせい、とは言い切れないね。」
槙島は窓から視線を外し、まゆりの方を向いた。
「まゆりさん。今夜は、できるだけ外には出ない方がいい。
志乃の力だけじゃない。“別のもの”が、動き始めている。」
「べつの…もの?」
「世界の歪みとは違う、“人間の意志”の気配だよ。」
その言葉の意味を、まゆりはすぐには理解できなかった。
だが、槙島の静かな声の奥にある、わずかな警戒の色だけは感じ取れた。
⸻
屋上では、阿万音鈴羽が夜風に吹かれながら、街を見下ろしていた。
遠くを走る車のライト、ネオンの名残、そして、ビルの影。
その中に、妙に動きの少ない“点”がある。
「……さっきから、位置がほとんど変わってない。」
鈴羽は小さく呟き、双眼鏡を目元に当てた。
研究所のビルを見上げるように立つ人影。
スマホを構えているのか、ただ俯いているだけなのか、ここからでは判別できない。
だが、それでも分かる。
(あれは、ただの通行人じゃない。)
軍で鍛えられた勘が、鈴羽の背筋を冷たく撫でていく。
やがて、その人影は、こちらの視線に気づいたかのように、ふっと動いた。
暗がりに溶けるように消え、別の路地へと姿を消していく。
「……最悪のパターンかもしれないわね。」
鈴羽は息を吐き、夜空を一度だけ見上げた。
まだ、確証はない。
でも、志乃の力が世界を揺らしているのと同じタイミングで、「外側」もまた動き出している。
(志乃。
あんたの未来を守るための戦いは、“時間”とだけじゃ済まないかもしれない。)
⸻
その夜、志乃は少しだけ、自分の力を受け入れ始めていた。
完全には理解できない。
でも、自分を信じてくれる人がいて、そばにいてくれる人がいる──
その感覚が、彼女にとって大きな希望になりつつあった。
これからの道のりは、きっと険しい。
しかも今、その道は、世界の歪みだけでなく、“誰かの意志”によっても狙われ始めている。
それでも。
志乃はまだ知らない。
今はただ、まゆりの言葉に支えられながら、静かな眠りの中で、小さく未来を夢見るだけだった。