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朝の秋葉原は、いつも通り雑多で騒がしく──
……あるはずだった。
だが、その日、椎名まゆりが未来ガジェット研究所のドアを開けた瞬間、彼女は首をかしげた。
「……なんか、空気がヘンな感じがするよ?」
ビルの階段を上がってきたときの湿った空気とは違う。
外の通りに吹いている風が、一瞬だけ巻き戻されたみたいに、同じビニール袋を二度揺らした。
まゆりはドアから顔だけ出して、後ろを振り返る。
「オカリーン。ねえねえ、今、風が“やり直し”したみたいだったよ?」
「……風がタイムリープとは、なかなか詩的な表現だな、まゆり。」
岡部倫太郎は、口ではいつものようにフザけた調子を装いながらも、眉間に深い皺を刻んでいた。
彼自身も、さっき一瞬だけ「階段を二度上がったような」奇妙な既視感を覚えていたのだ。
研究所の窓から見下ろす通りは、いつも通り人で溢れ、看板が瞬き、ビラ配りのメイドが声を張り上げている。
だが、その喧騒の奥の、誰も気づかない層で──何かが、きしんでいる。
「世界線が変動している、という感覚ではない。もっと……局所的な“ノイズ”のような……」
岡部は小さく呟き、腕を組んだ。
まゆりは、不安げに彼を見上げる。
「これも、志乃ちゃんの“もやもや”のせいなのかな……?」
「無関係だとは、言い切れんだろうな。」
岡部はため息をついた。
「少なくとも、あの子の力と、時間の揺らぎが同時に起こっているのは事実だ。」
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同じ頃、別の場所で、その“きしみ”を別の形で感じ取っている者たちがいた。
屋上のフェンスに腰をかけ、秋葉原のビル群を見下ろしていた阿万音鈴羽は、額に手を当てて空を見上げていた。
「……やっぱり、ズレてきてる。」
「君の“知っている未来”から、かい?」
隣で風にコートの裾を揺らしていた槙島聖護が、楽しげとも退屈しのぎともつかない声音で問いかける。
鈴羽は苦笑し、膝に肘を乗せた。
「最近、細かい所が少しずつ“違う”。
前の時間軸では、あの通りにあったはずの店が、最初から別の店になってるとか。
まだ“歴史の大事故”ってほどじゃないけど……嫌な流れ。」
「それは、君の介入や、岡部君の選択の積み重ね、という線もあるだろう?」
槙島はそう言いつつも、視線は別のものを追っていた。
ビルの向かい側、路地に面した非常階段の影。
同じ時間帯に、同じ場所で、新聞も読まずにスマホだけを弄っている男。
数日前から、何度か見かける顔だ。
「……“監視”には、監視されている自覚がない方が効率的だがね。」
槙島は小さく笑い、鈴羽にだけ聞こえるような声で続ける。
「秋葉原に張り付いている“目”が、少し増えた。
君の言う未来のズレと、どちらが先か……興味深いところだね。」
鈴羽は目を細めた。
「……軍の偵察に似てる?」
「少なくとも、素人の物見遊山ではない。
“あの子”の力に惹かれているのか、それとも──」
槙島は、視線を空へと戻した。
「この街に集まっている“世界の歪み”そのものを追っているのか。」
鈴羽は短く息を吸い、決意を込めた目で言う。
「……志乃ちゃんには、まだ言わない方がいい。
でも、オカリンたちには、近いうちに共有した方がいいね。」
「そうだね。
君は“未来”から、僕は“人の悪意”から、別々の角度で同じものを見始めている。」
槙島は、薄く笑った。
「そろそろ、紅莉栖にも“外側”的な危険を伝えるタイミングかもしれない。」
⸻
その頃、大学の研究棟──。
都内の名門理系大学、その一角にある脳科学と情報工学の共同研究室。
白い廊下の先に並ぶガラス張りの部屋のひとつが、牧瀬紅莉栖が出入りする“もう一つの戦場”だった。
「……どうしてわたし、こんな形で“こっち”に頼ることになるかな。」
紅莉栖は、無言で歩く隣の男をちらりと睨む。
「ふふ。呼び出された時点で、何となく予想はついていたけどね。」
槙島聖護は、いつも通りの調子で廊下を眺めている。
白衣の学生たちの視線が、ちらちらと彼に向けられていたが、本人は気にも留めていない。
「ここは、君の“古巣”の一つだろう?紅莉栖。
つまり、“君のもう一人”もいる。」
「……その言い方、やめてくれない?」
紅莉栖は肩をすくめ、ため息をついた。
「比屋定真帆が日本の大学に招聘されていて、
こっち側にもアマデウスのミラー環境があるのは、オカリンたちには話してなかったわね。」
「隠していた、という方が正確かな。」
「うるさい。」
紅莉栖はそう言い捨て、研究室のドアをノックした。
「どうぞー。」
聞き慣れた、少し眠たげな女の声。
紅莉栖がドアを開けると、モニターに囲まれたデスクに、小柄な女性が腰掛けていた。
黒に緑かかった髪色を後ろで束ねている比屋定真帆だ。
「やっと来たわね、クリス。遅刻。」
「呼び出したのはそっちでしょ、真帆。」
紅莉栖は呆れたように言い返し──そして、背後の槙島に気づいた真帆が、目を丸くする。
「なに、その……やたら整った顔の同伴者は。
あんた、ついに彼氏どころか夫までいる設定になったの?」
「設定じゃなくて事実になってるの。」
槙島が、楽しそうに片手を挙げる。
「初めまして。槙島聖護と言う。
紅莉栖の夫であり、ある意味では……共同研究者でもあるかな。」
「共同……はぁ?」
真帆は盛大に眉をひそめた。
「クリス。
あんた、こっちが一晩徹夜して論文の査読してる間に、
人生レベルで重要なイベントを何個スキップしてるのよ。」
「……いろいろあったのよ、いろいろ。」
紅莉栖は目を逸らしながら、話を強引に本題へ戻した。
「真帆。今日は、志乃の件で相談があるの。」
真帆の表情が、すっと真面目なものへと切り替わる。
「……やっぱりね。
最近、ここでも“変なノイズ”が出てるの。
この大学の時空間観測のデータに、小さいけど妙な歪みが混じってる。」
「それは、うちからも見えているわ。」
紅莉栖は頷き、持ってきたデータを机に並べた。
「志乃の力が暴走した時刻と、
この大学の周辺空間に検出された微小な時空位相のズレ──
完全に同期している。」
真帆はデータに目を走らせ、椅子を軋ませた。
「……これは、ただの“実験の副作用”なんかじゃない。
世界全体に広がりつつある歪みの、一つの“中心”ね。」
槙島が、興味深そうに首を傾げる。
「つまり、ここも、“あの子”の影響範囲に入っているということかい。」
「“あの子”って……ああ、志乃ちゃんね。」
真帆は軽くため息をついた。
「いい?クリス。
私は脳と記憶の人間だけど、
さすがに“世界ごとバグらせる子供”なんて想定外よ。」
「……それでも、頼りにしているのは事実よ。」
紅莉栖は真帆をまっすぐ見た。
「志乃の力をどうこうする器具を作ってほしいわけじゃない。
ただ、彼女の“内側”のモデルを、もっと精密に理解したいの。」
真帆は、しばらく紅莉栖の目を見つめ──やがて小さく笑った。
「……そういうことね。
“もう一人の自分”と議論したくなったわけだ。」
紅莉栖の頬が引きつる。
「わたしはただ、より良い仮説検証のために、
自分の思考パターンと同等の……」
「はいはい。“科学のため”ね。」
真帆は肩をすくめ、モニターのひとつに手を伸ばす。
「こっちはこっちで、アマデウス計画の“表向きの目的”ってのがあるわけ。
記憶障害の患者支援だの、人の記憶メカニズムの解明だの。
でも、あんたがノリノリで協力した本音は違うでしょ?」
紅莉栖は視線を逸らし、咳払いした。
「……“自分の頭脳を一番よく批判できるのは、
同じレベルの頭脳だけ”って思っただけよ。」
「それを世間では、“もう一人の自分が欲しい”って言うの。」
真帆は苦笑しながら、最後のキーを叩いた。
「じゃ、呼ぶわよ。“もう一人のクリス”を。」
⸻
モニターに、見慣れた赤い髪の少女の姿が映し出される。
いつかの紅莉栖と同じ顔で、同じ声で、しかし少し違う微笑みを浮かべている。
『ふあぁ……起動ログがちょっと増えてる。
ねえ真帆、今何時? それと、そこにいるのは──』
アマデウス・牧瀬紅莉栖は、画面の向こうからこちらを覗き込み──
モニター越しに槙島を見た瞬間、目を丸くし、それからニヤリと笑った。
『あら。やっと“連れて来た”のね、紅莉栖。』
「……は?」
『わたしの“夫”候補を。』
「ちょっと待ちなさい。」
紅莉栖は即座に椅子から立ち上がり、モニターに詰め寄った。
「誰がいつ、そんなフラグを立てたのよ!?」
『だって、データベース上では
“紅莉栖が長期的に精神的依存を示す可能性のある異性の条件”に、
かなりの高い一致度を示してるんだもの。』
アマデウスは、楽しげに槙島を見つめる。
『初めまして。わたしは牧瀬紅莉栖──の、記憶モデル。
データ上では、あなたのこともだいたい把握してるわ。』
「だいたい把握って、何をどこまで見てるんだい?」
槙島はふっと笑いながら、画面に視線を合わせる。
「僕は槙島聖護。
“こちら側”の紅莉栖に選ばれたことは、光栄に思っているよ。」
『あら、言うわね。
その余裕、紅莉栖が一番イラつくパターンよ?』
「だから合わせたくなかったのよ!!」
紅莉栖の絶叫が、研究室に響いた。
真帆はこっそり肩を震わせながら、ログウィンドウをスクロールするふりをして笑いを誤魔化している。
『で、本題は志乃のことね?』
さっきまでのからかう調子から一転して、
アマデウスの目つきが研究者のそれに変わる。
『世界の歪み方、ログで見たわ。
“特異点としての存在”が、時間軸と空間に均等じゃなく負荷をかけてる。
それを補正するには、彼女の“内側の構造”のモデル化が必要。』
紅莉栖は、真剣な表情に切り替えた。
「……ええ。
志乃の意識と世界の理の“接続部”を、
私たちだけの手計算じゃ追いきれなくなってきている。」
アマデウスは静かに頷く。
『“脳”としての紅莉栖のモデルと、“世界の歪み”のデータ。
その二つを重ね合わせれば、志乃の立っている位置の“安全領域”を
多少は推定できるかもしれない。』
槙島が口を挟む。
「つまり、君たち二人の紅莉栖が、“志乃の居場所”を一緒に探してくれるわけだ。」
『そんなところね。』
モニターの中と外で、二人の紅莉栖が同時にため息をついた。
「……やっぱり、合わせたくなかった。」
「……やっぱり、面倒な男を連れてきたわね、紅莉栖。」
真帆は、そんな三人のやり取りを横目に、
もうひとつのモニターに映る別のウィンドウへと視線を移した。
そこには、大学ネットワークに対する不審なアクセスログが、小さく点滅していた。
「……何、このIP。ヨーロッパ経由……?」
真帆の眉が、わずかに寄る。
その小さな“ノイズ”は、まだ誰の物語にも上がっていない。
だが、世界の歪みと同じように、ゆっくりと、確実に近づいてきていた。
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こうして、志乃の“内側”を理解しようとする試みは、
秋葉原の雑居ビルから、日本の大学の研究室へと舞台を広げていく。
世界は少しずつ歪み、
その歪みを狙う“外側”の意志もまた、静かに動き出していた。
そのことを、まだ志乃だけが知らないままで。