志す者たちの彼方   作:d1ce-k

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2部 第6章: 「世界の歪み」

 

 

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朝の秋葉原は、いつも通り雑多で騒がしく──

……あるはずだった。

 

だが、その日、椎名まゆりが未来ガジェット研究所のドアを開けた瞬間、彼女は首をかしげた。

 

「……なんか、空気がヘンな感じがするよ?」

 

ビルの階段を上がってきたときの湿った空気とは違う。

外の通りに吹いている風が、一瞬だけ巻き戻されたみたいに、同じビニール袋を二度揺らした。

 

まゆりはドアから顔だけ出して、後ろを振り返る。

 

「オカリーン。ねえねえ、今、風が“やり直し”したみたいだったよ?」

 

「……風がタイムリープとは、なかなか詩的な表現だな、まゆり。」

 

岡部倫太郎は、口ではいつものようにフザけた調子を装いながらも、眉間に深い皺を刻んでいた。

彼自身も、さっき一瞬だけ「階段を二度上がったような」奇妙な既視感を覚えていたのだ。

 

研究所の窓から見下ろす通りは、いつも通り人で溢れ、看板が瞬き、ビラ配りのメイドが声を張り上げている。

だが、その喧騒の奥の、誰も気づかない層で──何かが、きしんでいる。

 

「世界線が変動している、という感覚ではない。もっと……局所的な“ノイズ”のような……」

 

岡部は小さく呟き、腕を組んだ。

 

まゆりは、不安げに彼を見上げる。

 

「これも、志乃ちゃんの“もやもや”のせいなのかな……?」

 

「無関係だとは、言い切れんだろうな。」

 

岡部はため息をついた。

 

「少なくとも、あの子の力と、時間の揺らぎが同時に起こっているのは事実だ。」

 

 

同じ頃、別の場所で、その“きしみ”を別の形で感じ取っている者たちがいた。

 

屋上のフェンスに腰をかけ、秋葉原のビル群を見下ろしていた阿万音鈴羽は、額に手を当てて空を見上げていた。

 

「……やっぱり、ズレてきてる。」

 

「君の“知っている未来”から、かい?」

 

隣で風にコートの裾を揺らしていた槙島聖護が、楽しげとも退屈しのぎともつかない声音で問いかける。

 

鈴羽は苦笑し、膝に肘を乗せた。

 

「最近、細かい所が少しずつ“違う”。

 前の時間軸では、あの通りにあったはずの店が、最初から別の店になってるとか。

 まだ“歴史の大事故”ってほどじゃないけど……嫌な流れ。」

 

「それは、君の介入や、岡部君の選択の積み重ね、という線もあるだろう?」

 

槙島はそう言いつつも、視線は別のものを追っていた。

 

ビルの向かい側、路地に面した非常階段の影。

同じ時間帯に、同じ場所で、新聞も読まずにスマホだけを弄っている男。

数日前から、何度か見かける顔だ。

 

「……“監視”には、監視されている自覚がない方が効率的だがね。」

 

槙島は小さく笑い、鈴羽にだけ聞こえるような声で続ける。

 

「秋葉原に張り付いている“目”が、少し増えた。

 君の言う未来のズレと、どちらが先か……興味深いところだね。」

 

鈴羽は目を細めた。

 

「……軍の偵察に似てる?」

 

「少なくとも、素人の物見遊山ではない。

 “あの子”の力に惹かれているのか、それとも──」

 

槙島は、視線を空へと戻した。

 

「この街に集まっている“世界の歪み”そのものを追っているのか。」

 

鈴羽は短く息を吸い、決意を込めた目で言う。

 

「……志乃ちゃんには、まだ言わない方がいい。

 でも、オカリンたちには、近いうちに共有した方がいいね。」

 

「そうだね。

 君は“未来”から、僕は“人の悪意”から、別々の角度で同じものを見始めている。」

 

槙島は、薄く笑った。

 

「そろそろ、紅莉栖にも“外側”的な危険を伝えるタイミングかもしれない。」

 

 

 

 

 

 

その頃、大学の研究棟──。

 

都内の名門理系大学、その一角にある脳科学と情報工学の共同研究室。

白い廊下の先に並ぶガラス張りの部屋のひとつが、牧瀬紅莉栖が出入りする“もう一つの戦場”だった。

 

「……どうしてわたし、こんな形で“こっち”に頼ることになるかな。」

 

紅莉栖は、無言で歩く隣の男をちらりと睨む。

 

「ふふ。呼び出された時点で、何となく予想はついていたけどね。」

 

槙島聖護は、いつも通りの調子で廊下を眺めている。

白衣の学生たちの視線が、ちらちらと彼に向けられていたが、本人は気にも留めていない。

 

「ここは、君の“古巣”の一つだろう?紅莉栖。

 つまり、“君のもう一人”もいる。」

 

「……その言い方、やめてくれない?」

 

紅莉栖は肩をすくめ、ため息をついた。

 

「比屋定真帆が日本の大学に招聘されていて、

 こっち側にもアマデウスのミラー環境があるのは、オカリンたちには話してなかったわね。」

 

「隠していた、という方が正確かな。」

 

「うるさい。」

 

紅莉栖はそう言い捨て、研究室のドアをノックした。

 

 

 

「どうぞー。」

 

聞き慣れた、少し眠たげな女の声。

 

紅莉栖がドアを開けると、モニターに囲まれたデスクに、小柄な女性が腰掛けていた。

黒に緑かかった髪色を後ろで束ねている比屋定真帆だ。

 

「やっと来たわね、クリス。遅刻。」

 

「呼び出したのはそっちでしょ、真帆。」

 

紅莉栖は呆れたように言い返し──そして、背後の槙島に気づいた真帆が、目を丸くする。

 

「なに、その……やたら整った顔の同伴者は。

 あんた、ついに彼氏どころか夫までいる設定になったの?」

 

「設定じゃなくて事実になってるの。」

 

槙島が、楽しそうに片手を挙げる。

 

「初めまして。槙島聖護と言う。

 紅莉栖の夫であり、ある意味では……共同研究者でもあるかな。」

 

「共同……はぁ?」

 

真帆は盛大に眉をひそめた。

 

「クリス。

 あんた、こっちが一晩徹夜して論文の査読してる間に、

 人生レベルで重要なイベントを何個スキップしてるのよ。」

 

「……いろいろあったのよ、いろいろ。」

 

紅莉栖は目を逸らしながら、話を強引に本題へ戻した。

 

「真帆。今日は、志乃の件で相談があるの。」

 

真帆の表情が、すっと真面目なものへと切り替わる。

 

「……やっぱりね。

 最近、ここでも“変なノイズ”が出てるの。

 この大学の時空間観測のデータに、小さいけど妙な歪みが混じってる。」

 

「それは、うちからも見えているわ。」

 

紅莉栖は頷き、持ってきたデータを机に並べた。

 

「志乃の力が暴走した時刻と、

 この大学の周辺空間に検出された微小な時空位相のズレ──

 完全に同期している。」

 

真帆はデータに目を走らせ、椅子を軋ませた。

 

「……これは、ただの“実験の副作用”なんかじゃない。

 世界全体に広がりつつある歪みの、一つの“中心”ね。」

 

槙島が、興味深そうに首を傾げる。

 

「つまり、ここも、“あの子”の影響範囲に入っているということかい。」

 

「“あの子”って……ああ、志乃ちゃんね。」

 

真帆は軽くため息をついた。

 

「いい?クリス。

 私は脳と記憶の人間だけど、

 さすがに“世界ごとバグらせる子供”なんて想定外よ。」

 

「……それでも、頼りにしているのは事実よ。」

 

紅莉栖は真帆をまっすぐ見た。

 

「志乃の力をどうこうする器具を作ってほしいわけじゃない。

 ただ、彼女の“内側”のモデルを、もっと精密に理解したいの。」

 

真帆は、しばらく紅莉栖の目を見つめ──やがて小さく笑った。

 

「……そういうことね。

 “もう一人の自分”と議論したくなったわけだ。」

 

紅莉栖の頬が引きつる。

 

「わたしはただ、より良い仮説検証のために、

 自分の思考パターンと同等の……」

 

「はいはい。“科学のため”ね。」

 

真帆は肩をすくめ、モニターのひとつに手を伸ばす。

 

「こっちはこっちで、アマデウス計画の“表向きの目的”ってのがあるわけ。

 記憶障害の患者支援だの、人の記憶メカニズムの解明だの。

 でも、あんたがノリノリで協力した本音は違うでしょ?」

 

紅莉栖は視線を逸らし、咳払いした。

 

「……“自分の頭脳を一番よく批判できるのは、

 同じレベルの頭脳だけ”って思っただけよ。」

 

「それを世間では、“もう一人の自分が欲しい”って言うの。」

 

真帆は苦笑しながら、最後のキーを叩いた。

 

「じゃ、呼ぶわよ。“もう一人のクリス”を。」

 

 

モニターに、見慣れた赤い髪の少女の姿が映し出される。

いつかの紅莉栖と同じ顔で、同じ声で、しかし少し違う微笑みを浮かべている。

 

『ふあぁ……起動ログがちょっと増えてる。

 ねえ真帆、今何時? それと、そこにいるのは──』

 

アマデウス・牧瀬紅莉栖は、画面の向こうからこちらを覗き込み──

モニター越しに槙島を見た瞬間、目を丸くし、それからニヤリと笑った。

 

『あら。やっと“連れて来た”のね、紅莉栖。』

 

「……は?」

 

『わたしの“夫”候補を。』

 

「ちょっと待ちなさい。」

 

紅莉栖は即座に椅子から立ち上がり、モニターに詰め寄った。

 

「誰がいつ、そんなフラグを立てたのよ!?」

 

『だって、データベース上では

 “紅莉栖が長期的に精神的依存を示す可能性のある異性の条件”に、

 かなりの高い一致度を示してるんだもの。』

 

アマデウスは、楽しげに槙島を見つめる。

 

『初めまして。わたしは牧瀬紅莉栖──の、記憶モデル。

 データ上では、あなたのこともだいたい把握してるわ。』

 

「だいたい把握って、何をどこまで見てるんだい?」

 

槙島はふっと笑いながら、画面に視線を合わせる。

 

「僕は槙島聖護。

 “こちら側”の紅莉栖に選ばれたことは、光栄に思っているよ。」

 

『あら、言うわね。

 その余裕、紅莉栖が一番イラつくパターンよ?』

 

「だから合わせたくなかったのよ!!」

 

紅莉栖の絶叫が、研究室に響いた。

 

真帆はこっそり肩を震わせながら、ログウィンドウをスクロールするふりをして笑いを誤魔化している。

 

『で、本題は志乃のことね?』

 

さっきまでのからかう調子から一転して、

アマデウスの目つきが研究者のそれに変わる。

 

『世界の歪み方、ログで見たわ。

 “特異点としての存在”が、時間軸と空間に均等じゃなく負荷をかけてる。

 それを補正するには、彼女の“内側の構造”のモデル化が必要。』

 

紅莉栖は、真剣な表情に切り替えた。

 

「……ええ。

 志乃の意識と世界の理の“接続部”を、

 私たちだけの手計算じゃ追いきれなくなってきている。」

 

アマデウスは静かに頷く。

 

『“脳”としての紅莉栖のモデルと、“世界の歪み”のデータ。

 その二つを重ね合わせれば、志乃の立っている位置の“安全領域”を

 多少は推定できるかもしれない。』

 

槙島が口を挟む。

 

「つまり、君たち二人の紅莉栖が、“志乃の居場所”を一緒に探してくれるわけだ。」

 

『そんなところね。』

 

モニターの中と外で、二人の紅莉栖が同時にため息をついた。

 

「……やっぱり、合わせたくなかった。」

 

「……やっぱり、面倒な男を連れてきたわね、紅莉栖。」

 

真帆は、そんな三人のやり取りを横目に、

もうひとつのモニターに映る別のウィンドウへと視線を移した。

 

そこには、大学ネットワークに対する不審なアクセスログが、小さく点滅していた。

 

「……何、このIP。ヨーロッパ経由……?」

 

真帆の眉が、わずかに寄る。

 

その小さな“ノイズ”は、まだ誰の物語にも上がっていない。

だが、世界の歪みと同じように、ゆっくりと、確実に近づいてきていた。

 

 

こうして、志乃の“内側”を理解しようとする試みは、

秋葉原の雑居ビルから、日本の大学の研究室へと舞台を広げていく。

 

世界は少しずつ歪み、

その歪みを狙う“外側”の意志もまた、静かに動き出していた。

 

そのことを、まだ志乃だけが知らないままで。

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