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夜の大学キャンパスは、週末前の静けさに包まれていた。
研究棟の灯りはまばらで、点々と光る窓の向こうに、まだ帰れない研究者たちの影が揺れている。
その一角、紅莉栖のラボの前で、志乃は小さくあくびをした。
「ふぁ……お母さん、まだ帰れないの?」
「ごめんね、志乃。もうデータのバックアップだけだから。」
紅莉栖は端末の電源を落とし、バッグを肩にかける。
その後ろで、槙島聖護が壁にもたれながら、ぼんやりと廊下の奥を眺めていた。
「今日はずいぶん頑張ったね、志乃。絵もたくさん描いたし、質問にもちゃんと答えていた。」
「えへへ……わたし、“わたしのこと”いっぱい言えたよ。」
志乃は胸を張って笑う。
「『好きなもの』『嫌いなもの』『なりたいわたし』、だったね。」
紅莉栖はその頭を優しく撫でた。「少しずつ、自分で決めていこうね。」
聖護は二人のやりとりを眺めながら、ふと視線を窓の外へと滑らせた。
キャンパスの門のほう、駐車スペースの片隅に、黒いバンが一台。
ナンバーは、ここ数日見かけるたびに、違和感として彼の記憶にひっかかっていたものだ。
(……また、いるね。)
乗っている人間の気配までは分からない。
だが、消えそうで消えない視線のようなものが、建物の外からじっとこちらを覗いている感覚がある。
聖護は、ゆっくりと紅莉栖たちのほうを振り返った。
「紅莉栖。」
「なに? 聖護。」
「君と志乃は先に帰っていてくれないか。僕は少し、忘れ物をしたみたいなんだ。」
「忘れ物?」
紅莉栖は眉をひそめる。「何を忘れたのよ。」
「安心を、かな。」
軽口めいた言葉に、紅莉栖はむっとしかけたが、すぐにその表情を曇らせた。
聖護の目が、笑っていなかったからだ。
「……外に、何かいるのね。」
「“観客”だろうね。あまり品のいいタイプじゃない。」
聖護は肩をすくめる。「君たちは人の多いほうに出てくれ。正門じゃなくて、裏門から駅に向かう道はやめたほうがいい。」
紅莉栖は一瞬だけ迷い、それから志乃の手を握った。
「……分かったわ。志乃、行きましょう。」
「え? お父さんは?」
「後から来る。」聖護は穏やかに微笑む。「僕は少し、昔の癖が疼いてね。こういう“視線”には、ちゃんと挨拶しておきたくなる。」
紅莉栖は小さく舌打ちした。
「ほんと、そういうところだけは変わらないんだから……無茶はしないでよね。」
「僕は自由を愛しているだけさ。拘束される趣味はない。」
軽口を最後に、三人は別れた。
紅莉栖と志乃は、明るい中庭を抜けて、駅へと続く通路へ。
聖護は逆方向、研究棟の裏手に続く階段をゆっくりと降りていく。
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階段を下り切る前に、彼は足を止めた。
薄暗い踊り場に、人影が三つ。
スーツとも私服ともつかない、中途半端に“目立たない”格好。
どれも、顔には感情の色が薄い。
「……こんばんは。」
聖護は先に口を開いた。「まさか、大学の職員というわけじゃないよね。」
三人のうち真ん中の男が、一歩前に出た。
「……対象B、単独行動を確認。」
インカム越しに誰かへ報告するような声。
そこに“挨拶”の気配はまるでない。
聖護は小さく笑った。
「対象、か。名前で呼んでもらえないのは少し寂しいな。」
返事はない。
代わりに、三人の手がほぼ同時にジャケットの内側へと伸びた。
(ああ、やっぱり。君たちは話し合いに来たわけじゃない。)
聖護の身体が、先に動いていた。
男の腕がホルスターから何かを抜こうとするより早く、
階段の手すりを蹴って距離を詰め、手首を弾き上げる。
乾いた音。鈍い悲鳴。
床に転がる黒いもの――スタンガンのような器具。
「……非殺傷か。“穏やか”だね。」
聖護は男の肩を掴み、その身体を盾に取る。
残り二人が一瞬だけ動きを止める。その隙に、足元を払って一人を階段下へ転がし落とした。
短い乱闘は、ほとんど音にならなかった。
彼は淡々と、効率よく、急所だけを狙って動き続ける。
折れることはないが、二度と立ち上がってこられないように。
やがて、狭い踊り場に、三人の呻き声だけが残った。
「……さて。」
聖護は、男の手からインカムをもぎ取った。
かすかにノイズ混じりの声が、耳元に流れ込んでくる。
『Bと接触。……足止めは完了した。』
『了解。優先対象はCとS。確保を最優先。搬送ルートは……』
聖護の表情から、微笑みが完全に消えた。
(足止め、か。つまり――)
「紅莉栖。」
彼は即座にスマートフォンを取り出し、鈴羽の連絡先を呼び出した。
「悪いね、阿万音さん。少し“追いかけっこ”を頼んでもいいかな。」
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夜のキャンパスを抜けて、歩道橋へと続く道。
紅莉栖は、志乃の手を握ったまま、いつもより早い足取りで歩いていた。
「お母さん、なんか、急いでる?」
「……ちょっとね。聖護の言い方が、嫌な予感しかしなかったから。」
街灯の光が、道の両脇を等間隔に照らしている。
平日の夜にしては、人影が少し少ない気がした。
「駅まで出たら、すぐタクシー拾うわ。今日はラボには寄らないで――」
そのときだった。
「牧瀬、さん。」
呼ばれた名前に、紅莉栖は反射的に足を止めた。
歩道橋の手前、薄暗い街灯の下。
そこに立っていたのは、一人の女。
細身の体、長い髪。
無表情な瞳に縁取られた顔を、紅莉栖はよく知っていた。
「……桐生、さん?」
桐生萌郁。
ラボに出入りし、時折、取材と称して岡部たちと関わっていたフリーライター。
「もえか、さん?」
志乃が小さく声を上げた。
萌郁の指が、ぴくりと揺れる。
ほんの一瞬だけ、その瞳に迷いの色が浮かんだ。
「どうして、ここに……」
紅莉栖が問いかけようとした瞬間。
背後から、急な足音。
視界の端に、影が二つ、三つ走り込んでくる。
「志乃、下がって!」
紅莉栖はとっさに志乃を庇うように抱き寄せる。
だが、その腕を後ろから強く掴まれた。
タックルの衝撃が背中を打ち、息が詰まる。
「っ――!」
同時に、足元に何かが転がされた。
瞬間、白い閃光と耳を刺すような轟音。
「きゃっ……!」
世界が一瞬、白く塗りつぶされる。
閃光弾――スタングレネード。
耳鳴りの中で、志乃の小さな悲鳴が遠く聞こえる。
「お母さん……!」
「志乃ッ――!」
伸ばした指は、空を切った。
紅莉栖の視界がようやく戻ったときには、
志乃の身体はすでに、誰かの腕の中に抱えられていた。
その腕の持ち主が、萌郁であることを理解するのに、一瞬だけ時間がかかった。
「桐生っ……何を……!」
萌郁の表情は、やはり感情の色が薄い。
だが、その腕に込められた力だけは、震えているように見えた。
「……ごめんなさい。」
かすれた声が、ほとんど聞き取れないほど小さく響いた。
次の瞬間、紅莉栖の首筋に冷たい感触。
何かが刺さる痛み。薬品の冷たさが血管を駆け上がる。
「――っ……!」
膝から力が抜け、視界が滲む。
車のドアが開く音。誰かが手際よく彼女の身体を引きずっていく。
遠ざかる街灯。歪む夜空。
最後の意識の端で、紅莉栖は、志乃の声を聞いた。
「お母さん――!」
黒が、すべてを呑み込んだ。
阿万音鈴羽のバイクが、夜の街を切り裂いて走る。
電話越しに聞いた聖護の声は、珍しく切迫していた。
『悪いね、阿万音さん。尾行を片付けている間に、紅莉栖と志乃が狙われる。
君は先に、駅方面を押さえてくれ。』
「了解。ちゃんと生きててよね、槙島さん。」
鈴羽はヘルメットの中で毒づきながら、アクセルをさらに開く。
(ラウンダー……SERN。やっぱり動いたんだね。)
未来で幾度も見てきたマーク。
あの組織が、本気で“何か”を取りに来たのだとしたら――
「……絶対に、渡さない。」
駅前ロータリーに飛び込んだ瞬間、
彼女の目に、黒いバンが一台、猛スピードで離れていくのが映った。
「いたっ!」
鈴羽はバイクを傾け、車列の隙間を縫って追いかける。
信号など関係ない。クラクションの音が背後で鳴り響く。
ヘルメットのバイザー越しに、バンのリアガラスが僅かに揺れるのが見えた。
(志乃、クリスティーナ……!)
バンとの距離が、少しずつ縮まる。
あと数十メートル。もう、ナンバープレートの数字まで読み取れる。
その瞬間。
リアガラスが、がたん、と開いた。
「……ちっ!」
鈴羽はとっさに身体を低くする。
次の瞬間、乾いた発砲音。
タイヤのすぐ脇で、アスファルトが弾け飛ぶ。
「っの野郎!」
二発目が、バイクのフロントカウルを直撃した。
金属と樹脂が砕け、ハンドルが激しくぶれる。
コントロールを失った車体が、路肩の縁石に乗り上げる。
視界が横倒しになる感覚。
世界がスローモーションのように傾き、火花とともにアスファルトを滑る。
鈴羽は反射的に身体を丸め、転がりながら衝撃を逃がした。
「っ……くそっ……!」
頬に擦り傷。腕に鈍い痛み。だが、骨は折れていない。
倒れたバイクの向こうを、黒いバンがすり抜けていく。
エンジン音だけが遠ざかり、やがて夜の騒音に溶けた。
追いかける足は、もう残っていなかった。
鈴羽は握りしめた拳で、アスファルトを一度だけ強く叩いた。
「……ごめん。」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
ヘルメットの中で汗と血が混じり、視界が滲んだ。
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「……派手にやられたね。」
少し遅れて駆けつけた槙島聖護は、倒れたバイクと、座り込む鈴羽を交互に見た。
「生きてるかい、阿万音さん。」
「生きてるわよ……ギリギリね。」
鈴羽は荒い息を吐きながら立ち上がる。
「クリスティーナと志乃は……連れていかれた。」
「そうか。」
聖護は短く答え、夜空を見上げた。
街灯の光が、彼の横顔を白く照らす。
その瞳には、怒りとも悲しみともつかない、静かな炎――
……ではなく、鈴羽はそこで、ぞくりと背筋を撫でられた。
(……うわ。なに、その目。)
普段の槙島聖護は、どこか他人事のように世界を眺めている。
ひねくれた皮肉と、遊び半分の興味で、すべてを遠くから眺めているような男だ。
だが、今の彼は違った。
瞳の奥に、冗談めいた揺らぎが一切ない。
感情が消えたわけでも、激情に飲み込まれているわけでもない。
ただ淡々と、「奪った相手」をどう扱うかだけを計算しているような、氷のような光。
一瞬、鈴羽は未来の戦場で見た“人間”たちを思い出した。
命令のためなら、目の前の誰を殺しても眉ひとつ動かさない、あの種類の視線。
(……この人、やっぱり“戦う側”なんだ。)
ぞっとしたのと、同時に、どこかで安心もしている自分に気づく。
(ああ……本気で怒ってる。
なら、やっぱりこの人は、敵じゃない。)
「SERNね。」
鈴羽が吐き捨てるように言う。
「多分、ラウンダーが直接動いてる。……あの時代でも、一番厄介だった連中。」
「世界を“管理”したがる人たちは、どの世界にもいるものだ。」
聖護はゆっくりと目を閉じた。
冷えた光は消えないまま、声だけがいつもの軽さを取り戻す。
「彼らは、志乃を“資源”と呼ぶだろう。
僕たちが“娘”と呼ぶものをね。」
鈴羽は、そんな聖護の横顔をもう一度見つめた。
(……なるほどね。
クリスティーナ、あんた、わりととんでもない人を旦那にしてるよ。)
「取り戻す。」
鈴羽は言った。宣言のように。
「未来がどう変わってもいい。あいつらからは、絶対に奪い返す。」
「もちろんだよ。」
聖護は静かに頷く。
「君の未来のためにも。紅莉栖のためにも。
そして――志乃が、自分で自分を選べる未来のためにも。」
夜風が、二人の間を通り過ぎていく。
遠くで救急車のサイレンが鳴り始めていた。
世界は、まだ何も知らない顔をして、いつも通りに回り続けている。
だが、その裏で、確かに“線”は引かれた。
家族を守ろうとする者たちと、
特異点を資源として回収しようとする者たちとの、見えない戦線が。