志す者たちの彼方   作:d1ce-k

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2部 第8章:「襲撃」

 

 

 

夜の大学キャンパスは、週末前の静けさに包まれていた。

 

研究棟の灯りはまばらで、点々と光る窓の向こうに、まだ帰れない研究者たちの影が揺れている。

その一角、紅莉栖のラボの前で、志乃は小さくあくびをした。

 

「ふぁ……お母さん、まだ帰れないの?」

 

「ごめんね、志乃。もうデータのバックアップだけだから。」

 

紅莉栖は端末の電源を落とし、バッグを肩にかける。

その後ろで、槙島聖護が壁にもたれながら、ぼんやりと廊下の奥を眺めていた。

 

「今日はずいぶん頑張ったね、志乃。絵もたくさん描いたし、質問にもちゃんと答えていた。」

 

「えへへ……わたし、“わたしのこと”いっぱい言えたよ。」

 

志乃は胸を張って笑う。

 

「『好きなもの』『嫌いなもの』『なりたいわたし』、だったね。」

紅莉栖はその頭を優しく撫でた。「少しずつ、自分で決めていこうね。」

 

聖護は二人のやりとりを眺めながら、ふと視線を窓の外へと滑らせた。

 

キャンパスの門のほう、駐車スペースの片隅に、黒いバンが一台。

ナンバーは、ここ数日見かけるたびに、違和感として彼の記憶にひっかかっていたものだ。

 

(……また、いるね。)

 

乗っている人間の気配までは分からない。

だが、消えそうで消えない視線のようなものが、建物の外からじっとこちらを覗いている感覚がある。

 

聖護は、ゆっくりと紅莉栖たちのほうを振り返った。

 

「紅莉栖。」

 

「なに? 聖護。」

 

「君と志乃は先に帰っていてくれないか。僕は少し、忘れ物をしたみたいなんだ。」

 

「忘れ物?」

 

紅莉栖は眉をひそめる。「何を忘れたのよ。」

 

「安心を、かな。」

 

軽口めいた言葉に、紅莉栖はむっとしかけたが、すぐにその表情を曇らせた。

 

聖護の目が、笑っていなかったからだ。

 

「……外に、何かいるのね。」

 

「“観客”だろうね。あまり品のいいタイプじゃない。」

 

聖護は肩をすくめる。「君たちは人の多いほうに出てくれ。正門じゃなくて、裏門から駅に向かう道はやめたほうがいい。」

 

紅莉栖は一瞬だけ迷い、それから志乃の手を握った。

 

「……分かったわ。志乃、行きましょう。」

 

「え? お父さんは?」

 

「後から来る。」聖護は穏やかに微笑む。「僕は少し、昔の癖が疼いてね。こういう“視線”には、ちゃんと挨拶しておきたくなる。」

 

紅莉栖は小さく舌打ちした。

 

「ほんと、そういうところだけは変わらないんだから……無茶はしないでよね。」

 

「僕は自由を愛しているだけさ。拘束される趣味はない。」

 

軽口を最後に、三人は別れた。

 

紅莉栖と志乃は、明るい中庭を抜けて、駅へと続く通路へ。

聖護は逆方向、研究棟の裏手に続く階段をゆっくりと降りていく。

 

 

階段を下り切る前に、彼は足を止めた。

 

薄暗い踊り場に、人影が三つ。

 

スーツとも私服ともつかない、中途半端に“目立たない”格好。

どれも、顔には感情の色が薄い。

 

「……こんばんは。」

 

聖護は先に口を開いた。「まさか、大学の職員というわけじゃないよね。」

 

三人のうち真ん中の男が、一歩前に出た。

 

「……対象B、単独行動を確認。」

 

インカム越しに誰かへ報告するような声。

そこに“挨拶”の気配はまるでない。

 

聖護は小さく笑った。

 

「対象、か。名前で呼んでもらえないのは少し寂しいな。」

 

返事はない。

代わりに、三人の手がほぼ同時にジャケットの内側へと伸びた。

 

(ああ、やっぱり。君たちは話し合いに来たわけじゃない。)

 

聖護の身体が、先に動いていた。

 

男の腕がホルスターから何かを抜こうとするより早く、

階段の手すりを蹴って距離を詰め、手首を弾き上げる。

 

乾いた音。鈍い悲鳴。

床に転がる黒いもの――スタンガンのような器具。

 

「……非殺傷か。“穏やか”だね。」

 

聖護は男の肩を掴み、その身体を盾に取る。

残り二人が一瞬だけ動きを止める。その隙に、足元を払って一人を階段下へ転がし落とした。

 

短い乱闘は、ほとんど音にならなかった。

 

彼は淡々と、効率よく、急所だけを狙って動き続ける。

折れることはないが、二度と立ち上がってこられないように。

 

やがて、狭い踊り場に、三人の呻き声だけが残った。

 

「……さて。」

 

聖護は、男の手からインカムをもぎ取った。

 

かすかにノイズ混じりの声が、耳元に流れ込んでくる。

 

『Bと接触。……足止めは完了した。』

 

『了解。優先対象はCとS。確保を最優先。搬送ルートは……』

 

聖護の表情から、微笑みが完全に消えた。

 

(足止め、か。つまり――)

 

「紅莉栖。」

 

彼は即座にスマートフォンを取り出し、鈴羽の連絡先を呼び出した。

 

「悪いね、阿万音さん。少し“追いかけっこ”を頼んでもいいかな。」

 

 

夜のキャンパスを抜けて、歩道橋へと続く道。

 

紅莉栖は、志乃の手を握ったまま、いつもより早い足取りで歩いていた。

 

「お母さん、なんか、急いでる?」

 

「……ちょっとね。聖護の言い方が、嫌な予感しかしなかったから。」

 

街灯の光が、道の両脇を等間隔に照らしている。

平日の夜にしては、人影が少し少ない気がした。

 

「駅まで出たら、すぐタクシー拾うわ。今日はラボには寄らないで――」

 

そのときだった。

 

「牧瀬、さん。」

 

呼ばれた名前に、紅莉栖は反射的に足を止めた。

 

歩道橋の手前、薄暗い街灯の下。

そこに立っていたのは、一人の女。

 

細身の体、長い髪。

無表情な瞳に縁取られた顔を、紅莉栖はよく知っていた。

 

「……桐生、さん?」

 

桐生萌郁。

 

ラボに出入りし、時折、取材と称して岡部たちと関わっていたフリーライター。

 

「もえか、さん?」

 

志乃が小さく声を上げた。

 

萌郁の指が、ぴくりと揺れる。

 

ほんの一瞬だけ、その瞳に迷いの色が浮かんだ。

 

「どうして、ここに……」

 

紅莉栖が問いかけようとした瞬間。

 

背後から、急な足音。

視界の端に、影が二つ、三つ走り込んでくる。

 

「志乃、下がって!」

 

紅莉栖はとっさに志乃を庇うように抱き寄せる。

 

だが、その腕を後ろから強く掴まれた。

タックルの衝撃が背中を打ち、息が詰まる。

 

「っ――!」

 

同時に、足元に何かが転がされた。

瞬間、白い閃光と耳を刺すような轟音。

 

「きゃっ……!」

 

世界が一瞬、白く塗りつぶされる。

閃光弾――スタングレネード。

 

耳鳴りの中で、志乃の小さな悲鳴が遠く聞こえる。

 

「お母さん……!」

 

「志乃ッ――!」

 

伸ばした指は、空を切った。

 

紅莉栖の視界がようやく戻ったときには、

志乃の身体はすでに、誰かの腕の中に抱えられていた。

 

その腕の持ち主が、萌郁であることを理解するのに、一瞬だけ時間がかかった。

 

「桐生っ……何を……!」

 

萌郁の表情は、やはり感情の色が薄い。

だが、その腕に込められた力だけは、震えているように見えた。

 

「……ごめんなさい。」

 

かすれた声が、ほとんど聞き取れないほど小さく響いた。

 

次の瞬間、紅莉栖の首筋に冷たい感触。

何かが刺さる痛み。薬品の冷たさが血管を駆け上がる。

 

「――っ……!」

 

膝から力が抜け、視界が滲む。

車のドアが開く音。誰かが手際よく彼女の身体を引きずっていく。

 

遠ざかる街灯。歪む夜空。

 

最後の意識の端で、紅莉栖は、志乃の声を聞いた。

 

「お母さん――!」

 

黒が、すべてを呑み込んだ。

 

 

 

阿万音鈴羽のバイクが、夜の街を切り裂いて走る。

 

電話越しに聞いた聖護の声は、珍しく切迫していた。

 

『悪いね、阿万音さん。尾行を片付けている間に、紅莉栖と志乃が狙われる。

 君は先に、駅方面を押さえてくれ。』

 

「了解。ちゃんと生きててよね、槙島さん。」

 

鈴羽はヘルメットの中で毒づきながら、アクセルをさらに開く。

 

(ラウンダー……SERN。やっぱり動いたんだね。)

 

未来で幾度も見てきたマーク。

あの組織が、本気で“何か”を取りに来たのだとしたら――

 

「……絶対に、渡さない。」

 

駅前ロータリーに飛び込んだ瞬間、

彼女の目に、黒いバンが一台、猛スピードで離れていくのが映った。

 

「いたっ!」

 

鈴羽はバイクを傾け、車列の隙間を縫って追いかける。

 

信号など関係ない。クラクションの音が背後で鳴り響く。

ヘルメットのバイザー越しに、バンのリアガラスが僅かに揺れるのが見えた。

 

(志乃、クリスティーナ……!)

 

バンとの距離が、少しずつ縮まる。

あと数十メートル。もう、ナンバープレートの数字まで読み取れる。

 

その瞬間。

 

リアガラスが、がたん、と開いた。

 

「……ちっ!」

 

鈴羽はとっさに身体を低くする。

 

次の瞬間、乾いた発砲音。

タイヤのすぐ脇で、アスファルトが弾け飛ぶ。

 

「っの野郎!」

 

二発目が、バイクのフロントカウルを直撃した。

金属と樹脂が砕け、ハンドルが激しくぶれる。

 

コントロールを失った車体が、路肩の縁石に乗り上げる。

 

視界が横倒しになる感覚。

世界がスローモーションのように傾き、火花とともにアスファルトを滑る。

 

鈴羽は反射的に身体を丸め、転がりながら衝撃を逃がした。

 

「っ……くそっ……!」

 

頬に擦り傷。腕に鈍い痛み。だが、骨は折れていない。

 

倒れたバイクの向こうを、黒いバンがすり抜けていく。

エンジン音だけが遠ざかり、やがて夜の騒音に溶けた。

 

追いかける足は、もう残っていなかった。

 

鈴羽は握りしめた拳で、アスファルトを一度だけ強く叩いた。

 

「……ごめん。」

 

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

 

ヘルメットの中で汗と血が混じり、視界が滲んだ。

 

 

「……派手にやられたね。」

 

少し遅れて駆けつけた槙島聖護は、倒れたバイクと、座り込む鈴羽を交互に見た。

 

「生きてるかい、阿万音さん。」

 

「生きてるわよ……ギリギリね。」

 

鈴羽は荒い息を吐きながら立ち上がる。

 

「クリスティーナと志乃は……連れていかれた。」

 

「そうか。」

 

聖護は短く答え、夜空を見上げた。

 

街灯の光が、彼の横顔を白く照らす。

 

その瞳には、怒りとも悲しみともつかない、静かな炎――

……ではなく、鈴羽はそこで、ぞくりと背筋を撫でられた。

 

(……うわ。なに、その目。)

 

普段の槙島聖護は、どこか他人事のように世界を眺めている。

ひねくれた皮肉と、遊び半分の興味で、すべてを遠くから眺めているような男だ。

 

だが、今の彼は違った。

 

瞳の奥に、冗談めいた揺らぎが一切ない。

 

感情が消えたわけでも、激情に飲み込まれているわけでもない。

ただ淡々と、「奪った相手」をどう扱うかだけを計算しているような、氷のような光。

 

一瞬、鈴羽は未来の戦場で見た“人間”たちを思い出した。

命令のためなら、目の前の誰を殺しても眉ひとつ動かさない、あの種類の視線。

 

(……この人、やっぱり“戦う側”なんだ。)

 

ぞっとしたのと、同時に、どこかで安心もしている自分に気づく。

 

(ああ……本気で怒ってる。

 なら、やっぱりこの人は、敵じゃない。)

 

「SERNね。」

 

鈴羽が吐き捨てるように言う。

 

「多分、ラウンダーが直接動いてる。……あの時代でも、一番厄介だった連中。」

 

「世界を“管理”したがる人たちは、どの世界にもいるものだ。」

 

聖護はゆっくりと目を閉じた。

 

冷えた光は消えないまま、声だけがいつもの軽さを取り戻す。

 

「彼らは、志乃を“資源”と呼ぶだろう。

 僕たちが“娘”と呼ぶものをね。」

 

鈴羽は、そんな聖護の横顔をもう一度見つめた。

 

(……なるほどね。

 クリスティーナ、あんた、わりととんでもない人を旦那にしてるよ。)

 

「取り戻す。」

 

鈴羽は言った。宣言のように。

 

「未来がどう変わってもいい。あいつらからは、絶対に奪い返す。」

 

「もちろんだよ。」

 

聖護は静かに頷く。

 

「君の未来のためにも。紅莉栖のためにも。

 そして――志乃が、自分で自分を選べる未来のためにも。」

 

夜風が、二人の間を通り過ぎていく。

 

遠くで救急車のサイレンが鳴り始めていた。

 

世界は、まだ何も知らない顔をして、いつも通りに回り続けている。

だが、その裏で、確かに“線”は引かれた。

 

家族を守ろうとする者たちと、

特異点を資源として回収しようとする者たちとの、見えない戦線が。

 

 

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