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暗い車内に、低く唸るエンジン音だけが響いていた。
窓は黒いフィルムで外が見えず、車内灯も点いていない。
揺れに合わせて、小さな体がきゅっと震える。
志乃は、紅莉栖の服の裾を必死に掴んでいた。
「……お母さん、ここどこ……?」
掠れた声が闇の中に溶ける。
紅莉栖は、後ろ手に縛られた腕でどうにか志乃の肩に触れ、かすかな笑みを浮かべた。
「分からないわ。でも、すぐに聖護が見つけてくれる。だから、今は――」
言いかけたところで、運転席のラウンダーの一人が短く振り返った。
「喋るな。」
冷たい声。感情のない、仕事の声。
志乃がびくりと肩を震わせるのを見て、紅莉栖はそれ以上言葉を飲み込んだ。
代わりに、指先にわずかに力を込めて志乃の肩をそっと押さえる。
――大丈夫。わたしたちが一緒にいる。
その意味だけを、指先に込めて。
車は高速道路を降り、やがて街灯のまばらな湾岸エリアへと入っていく。
倉庫、コンテナ、古びた工場跡。
どこも似たような風景の中で、やがて車列は一つの倉庫ビルの前で停止した。
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コンクリート打ちっぱなしの地下室。
薄い蛍光灯の白い光が、無機質な空間を照らしていた。
壁には配管と配線が走り、床には古い作業台と金属製の椅子がいくつか並んでいる。
紅莉栖と志乃は、それぞれ椅子に座らされ、手枷と足枷をかけられていた。
とはいえ、拷問じみた器具は見当たらない。
拘束はあくまで「逃がさないため」の最低限のもの――だが、それがかえって不気味だった。
扉が軋む音とともに、彼女が入ってくる。
桐生萌郁。
薄い色のコートを翻し、無表情のまま二人の前に立つ。
その瞳は、昔と変わらず、感情の焦点が定まらないような冷たい色をしていた。
…はずだった。
志乃が顔を上げた瞬間、その瞳がわずかに揺れた。
「……も、えか……さん?」
小さな声。
萌郁の喉が、ほんのわずかに動いた。
記憶の底から、別の光景が浮かび上がる。
――まだ赤ん坊だった志乃を、ぎこちなく抱かされた日のこと。
――拒もうとした腕に、小さな手がしがみついてきた感触。
――「萌郁さん」「志乃と一緒にいてくれ」と告げた、あの二人の声。
(……やっぱり……)
胸の奥で何かが軋む音がした。
だが、それを表情には出さない。
彼女は SERN のラウンダーだ。命令に従う道具でなければならない。
萌郁は短く息を吐き、無機質な声で告げた。
「……確認する。あなたは、牧瀬紅莉栖。」
紅莉栖は睨み返すように視線を上げた。
「ええ。そうよ。」
「そして、その子が――」
萌郁の言葉が一瞬途切れる。
志乃の瞳が、まっすぐ自分を見ていた。
「……“singularity child”。SERN の観測対象。」
「観測対象、ね。」
紅莉栖は乾いた笑いを漏らす。
「ずいぶんと風情のない呼び方だわ。名前は“志乃”。わたしの娘よ。」
萌郁の指が、わずかに携帯を握り締める。
その動きに、紅莉栖はかすかな違和感を覚えた。
(……葛藤してる? 今さら、なにを。)
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萌郁は、携帯端末を片手に淡々と説明を続けた。
「ここは、日本支部の“仮設観測拠点”。
本来のラボに移送する前の、一次隔離場所。」
「ずいぶんと物騒な“仮設”ね。」紅莉栖が皮肉っぽく返す。
「あなたと、その子の安全は保証される。
ただし、SERN の管理のもとで。」
「安全と管理を同じ文で使うの、あまりセンスがいいとは思えないわ。」
紅莉栖の毒に、萌郁は何も返さない。
無表情のまま一歩近づき、志乃の方を見た。
志乃は、怯えながらも、しっかりと萌郁を見上げていた。
「……もえかさん、どうして、こんなところにいるの?」
問いかけ。
萌郁の胸の奥で、何かが強く揺れた。
(どうして、って……私は――)
――FB からの指令。
――【対象の確保は最優先。付随対象の排除は状況に応じて許可。】
――「感情ではなく、結果で物を語れ。」
頭の中で、その言葉がリフレインする。
「……私は、仕事をしているだけ。」
ようやく絞り出したその答えは、彼女自身にも薄っぺらく聞こえた。
志乃が、少しだけ首をかしげる。
「しごとって……わたしと、お母さんを、つれてく、の?」
「志乃。」
紅莉栖が、低く名前を呼んで制する。
その声には、娘をこれ以上怖がらせたくないという焦りが滲んでいた。
紅莉栖は萌郁を睨みつける。
「SERN の目的は何? 志乃の力を“利用”すること?
それとも、ただ観察して、標本にでもするつもり?」
萌郁は、答えない。
彼女自身も本当の全貌は知らない。
彼女に与えられた役割は、ただ「捕まえて運ぶ」までだ。
代わりに、携帯端末が小さく震えた。
画面には、短いメッセージ。
【From: FB】
観測値の変動を確認。
対象の状態を維持せよ。
外部ノイズに留意。
(……外部ノイズ?)
萌郁は眉をわずかにひそめた。
その言葉に、紅莉栖の耳がぴくりと動く。
「“ノイズ”……?」
ほんの一瞬、紅莉栖と萌郁の視線がぶつかった。
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同じころ。
湾岸から少し離れた、高台にある古い展望スペースから、ひとつの倉庫群が見下ろせた。
「……あそこ、だな。」
双眼鏡を下ろしながら、鈴羽が呟く。
夜の海風が、短く切った髪を揺らした。
隣で、槙島聖護が静かに頷く。
その横顔は、普段ラボにいるときの柔らかさを完全に失っていた。
鋭利な刃のような眼差し。
どこか冷たく、しかし冴え冴えとした光。
その眼を見て、鈴羽はぞくりと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(……この人、やっぱり“戦う側”の人間だ。)
「アマデウスの解析だと、ここ数時間で電力使用量が急に跳ね上がった倉庫は、あのブロックだけ。」
鈴羽が報告する。
「それと、さっきから無線のやり取りが不自然に少ない。
プロなら、もっと細かく連絡を取り合うはず……
あえて【沈黙】を作ってる。位置を特定されないように。」
「なるほど。」聖護はゆっくりと笑った。
「つまり、あそこに“本命”がいる可能性が高い、というわけだ。」
双眼鏡のレンズ越しに、彼は倉庫群を眺める。
「……ねぇ、槙島さん。」
鈴羽がふと真面目な声で呼びかけた。
「さっき、あたしがバイクで追ってるとき、
電話越しの声が“冷たくて”少し怖かった。」
聖護は、視線を倉庫から外さないまま、問い返す。
「怖かった?」
「うん。なんていうか……
“何人殺してでも取り返す”って、そう言ってる声に聞こえた。」
短い沈黙。
やがて聖護は、淡々とした口調で告げた。
「……君は、間違っていないよ。」
鈴羽が息を呑む。
聖護は続けた。
「僕は、あの子と紅莉栖のためなら、
この国の秩序も、世界線のバランスも、ラウンダーも、
全部、壊してしまっても構わないと思っている。」
「……本気で、言ってる?」
「僕はいつだって本気だよ。
ただ、冷静なだけだ。」
わずかに笑みを浮かべながらも、その瞳は笑っていなかった。
鈴羽は、ほんの少しだけ肩を震わせる。
だが、その恐怖の中に、奇妙な安心感もあった。
(……この人なら、本当に取り返してくれる。
情け容赦なく。)
聖護はポケットから小型の通信機を取り出す。
「真帆、アマデウス。こちらの位置から、例の倉庫への死角ルートを教えてくれないか。」
『はいはい、無茶なこと言うわね。
でも……やるしかないか。』
真帆の溜息まじりの声が聞こえる。
『映像送信を開始します。
倉庫群の監視カメラ、数台はもう“目隠し”できた。
その隙に動いて。』
『……行ってらっしゃい、パパ。
ママとシノを、ちゃんと連れて帰ってきてね。』
アマデウスの紅莉栖が、どこか悪戯っぽく、しかし優しい声で言った。
聖護は短く笑う。
「了解。じゃあ、少し“狩り”に出てくるよ。」
鈴羽は、ライフルの安全装置を外し、立ち上がる。
「行こう、槙島さん。
あたしたちで――志乃とクリスティーナを取り戻す。」
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一方その頃、地下の拘束室では。
蛍光灯の光が、ほんの一瞬だけちらついた。
志乃の指先が、かすかに震える。
彼女の内側で、何かが微かにきしむ。
紅莉栖は、その変化を見逃さなかった。
「志乃、いい? どんなに怖くても、
今は“力”を使っちゃダメ。」
「……でも、お母さん……」
「聖護が来る。鈴羽も。
わたしたちは“助けられる側”でいていいの。
今は、ただ生き延びることだけ考えなさい。」
志乃は、涙で滲んだ瞳で紅莉栖を見つめる。
「……うん。」
そのやり取りを見ている萌郁の胸の奥で、再び何かが揺れた。
(本当に……私は、“これ”を続けるの?)
携帯端末が、再び静かに震える。
画面には、FB からの短い追伸。
【外部からの不正アクセスあり。
周辺監視網の異常を確認。
必要に応じて移送の準備を。】
萌郁は、地下室の天井を一度見上げた。
そこから少し離れた場所――
闇の中を静かに駆ける二つの影が、確かに近づいていた。
志乃の、特異点の檻を破るために。