志す者たちの彼方   作:d1ce-k

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2部 第10章:「沈黙の侵入」 前編

 

 

 

湾岸の倉庫地帯に、夜の底のような静けさが降りていた。

 

遠くで波が砕ける音。

時折、コンテナを叩く風のうなり。

それ以外には、何もない──はずだった。

 

「……行くよ、槙島さん。」

 

鈴羽は、薄闇の中で身を低くし、手にしたライフルのストックを肩に当てる。

隣では、槙島聖護が壁にもたれかかるように立ちながら、微笑を浮かべていた。

 

「君が先導してくれると助かるよ。

 僕は、邪魔な“ノイズ”を静かに消していくだけだから。」

 

その声はいつも通り穏やかなのに、どこか底冷えするような硬さがあった。

 

鈴羽は一瞬だけ、彼を横目で見た。

 

(さっきの目……やっぱり、戦場の人間の目だ。)

 

それでも、彼女は顎を引き、前を向く。

 

「……目標、地下の隔離区画。

 真帆たちの解析だと、外周警備は思ったより薄い。

 でも、逆に言えば“選んで”薄くしてる。

 中に戦力を集中させてるってこと。」

 

「合理的だね。」聖護はくすりと笑う。

 

「じゃあ、その合理性ごと崩してあげよう。」

 

 

外周フェンスの死角。

監視カメラの一つが、一瞬だけノイズを走らせ、映像をロックした。

 

『はい、今。そこのライン、十秒だけ“目隠し”できる。』

イヤーピース越しに、真帆の声が響く。

 

『それ以上は無理だから、さっさとくぐり抜けなさい。』

 

「了解。」鈴羽が低く返す。

 

二人はフェンスをかすめるようにすり抜け、影から影へと移動する。

 

倉庫棟の角を曲がった瞬間、巡回中のラウンダーが一人、背を向けて立っていた。

 

鈴羽がライフルを構えかけた、その刹那。

 

「君は、そのまま前を。」

 

聖護の声が耳元で囁かれたかと思うと、身体がふっと前へ引かれた。

鈴羽が振り返るより早く、聖護の姿は影の中に溶ける。

 

次の瞬間。

 

「ん──」

 

かすかな息の詰まる音。

押し殺された喉の鳴り。

足元で、重いものが静かに倒れる音。

 

鈴羽が振り返ったときには、ラウンダーは地面にうつ伏せに倒れ、

聖護は、何事もなかったかのようにその体を影に引きずり込んでいた。

 

「……今、何をしたの?」

 

「少し、眠ってもらっただけだよ。」

と、彼は淡々と答える。

 

手には小型のナイフ。

刃には血の一滴もついていない。

 

「気管と頸動脈を避けて、意識だけ落とした。

 殺さないで済むなら、その方が後々都合がいい。」

 

そう言いながらも、その所作には一切の迷いがない。

“殺せる”のに“殺さなかった”だけ、という気配。

 

鈴羽は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

 

(……ここまで、躊躇がないのか。)

 

「行こうか。」聖護は何事もなかったように微笑む。

 

「志乃と紅莉栖がいる限り、僕は遠慮する理由がないんだ。」

 

その言葉が、妙にさらりとしているのが余計に怖かった。

 

 

倉庫棟の中へ。

 

アマデウスが掌握した図面通り、二人は荷物用通路から地下への階段へと向かう。

途中、何人かの警備の影が見えたが、その度に鈴羽のスコープ越しに、

「カシャッ」という消音機の乾いた音と共に、影は沈んだ。

 

だが、すべてを遠距離から片付けられるわけではない。

 

階段の踊り場で、ラウンダーが二人、立ち話をしていた。

 

「……さっきから連絡が途絶えすぎだろ。」

 

「外周班が何も言ってこないとか、あり得ねぇよな。」

 

「クソッ、こんなの聞いてねぇぞ……」

 

わずかに高くなった声。

焦燥と苛立ちを含んだそのトーンに、鈴羽は“いい傾向じゃない”と直感する。

 

(焦ってる。こういう時、人は雑になる。)

 

彼女がライフルを構えなおした瞬間、聖護が前に出た。

 

「ここは、僕が。」

 

「ちょっと――」

 

止める暇もなく、聖護は階段の影から視界に滑り込むように現れた。

 

「すみません、道に迷ってしまって……」

 

一瞬、場違いなほど柔らかい声。

 

「誰だテメ――」

 

言葉は最後まで続かなかった。

 

最初の一人の顎を支点に壁へ叩きつけ、

その反動を利用して、もう一人の喉に膝蹴りを突き上げる。

 

骨の軋む鈍い音。

肺から空気が強制的に押し出される音。

 

続けざまに、意識の飛んだ一人の腕を取って、もう片方の男の首に絡める。

そのまま関節を極めて捻り上げた。

 

「ッ、あ、が……!」

 

悲鳴を上げる暇もなく、二人は階段の影に崩れ落ちる。

 

全てが、数秒の出来事だった。

 

鈴羽が駆け寄ると、二人は完全に動きを止めていた。

上気した頬、やや速い呼吸。それ以外に、聖護に乱れはない。

 

「……殺した?」

 

「一人は、ね。」

聖護は涼しい顔で答えた。

 

「もう一人は、意識が戻った頃には、自分の状況を疑うだろう。

 “仲間の死体と一緒に階段に転がっている”ってね。」

 

淡々とした口調が、鈴羽の背筋をまた冷たく撫でていく。

 

(この人は、今、ためらいが一つもない……)

 

それでも彼女は、ライフルを握り直し、短く息を吐く。

 

「……いい。今はそれでいい。

 あたしも、戦場にいた側の人間だから。」

 

「助かるよ。」聖護は薄く笑った。

 

「君は“分かっている”側の人間だ。」

 

 

同じ頃、地下の拘束室。

 

薄暗い空間に、ざわつきが広がり始めていた。

 

「外周班と連絡が取れません!」

 

「どういうことだ、さっきまで異常なしだったろうが!」

 

連絡端末の光が、焦った声と共に反射する。

 

紅莉栖と志乃の拘束された部屋にも、

ラウンダーたちの荒々しい足音が近づいてきた。

 

扉が勢いよく開く。

 

「移送だ。すぐに立て。」

 

隊員の一人がそう叫びながら、乱暴に紅莉栖の腕を引き上げた。

 

「ちょっ、乱暴にしないで!」

 

「状況が変わった。安全な場所に“移してやる”だけありがたいと思え。」

 

引きずられるようにして立たされた紅莉栖の横で、志乃も腕を掴まれる。

 

「やっ……!」

 

小さな悲鳴。

 

その手の強さに、志乃の顔が歪む。

 

「その子は、もっと丁寧に扱って!」

紅莉栖が声を荒げる。

 

「ターゲットだろうとガキはガキだ。

 暴れられても困るんだよ。」

 

苛立ちを露わにした隊員の一人が、志乃の頬に手を伸ばそうとした。

 

「大人しくさせる方法なんて、いくらでも──」

 

その瞬間。

 

「やめて。」

 

低い声が、背後から落ちた。

 

桐生萌郁だった。

 

無機質な瞳の奥に、いつもと違う色が灯っている。

 

「対象への不要な接触は、任務に含まれていない。」

 

「は? こんな状況で何をきれい事――」

 

隊員が振り向きざま、苛立ちをぶつけようとした、その刹那。

 

萌郁の身体が、ふっと前に出た。

 

足払い。

掴まれていた志乃の腕から、隊員の手が離れる。

体勢を崩した男の胸倉を掴み、そのまま床に叩きつける。

 

「なっ――」

 

周囲が一瞬、凍りついた。

 

萌郁は息を乱すこともなく、倒れた隊員の腹を膝で押さえつけるようにして跨り──

その口元に拳銃の銃口を、ためらいなく押し込んだ。

 

「お、おい、桐生!? 何を──」

 

「……触るな。」

 

感情のない声。

しかし、その内側には煮え立つものが感じられた。

 

(志乃に、触るな。)

 

視界の端で、幼い志乃が、怯えた目でこちらを見ている。

 

――小さな手が、服の端を掴んで離さなかった、あの日。

――「萌郁さん」「志乃と一緒にいてくれ」と頼まれた声。

――ぎこちなく抱いた赤ん坊が、自分の胸に小さく顔を擦り寄せてきた感触。

 

(あの時と、同じ……)

 

「や、やめろ、何する気だ、落ち着け桐生──」

 

隊員の言葉が終わるより早く、

萌郁の指が引き金を引いていた。

 

乾いた銃声。

スチールとコンクリートに反響する破裂音。

 

男の体から、力が抜けていく。

銃口が口から抜け、床に小さな傷を残して止まる。

 

――沈黙。

 

自分の耳鳴りが、一番うるさく聞こえた。

 

「っ……!」

 

萌郁の肩が、大きく上下する。

手が震えている。

視界の端で、他の隊員たちが、言葉をなくした顔で彼女を見ている。

 

(わたしは……何を……)

 

「……桐生。正気か……?」

 

ようやく絞り出された声に、萌郁は振り向く。

 

「……任務の妨害行為を、排除しただけ。」

 

自分でも、何を言っているのか分からなかった。

 

だが、言葉は勝手に続く。

 

「対象への不要な暴力は、観測値にノイズを加える。

 SERN にとっても、損失。」

 

「こ、こいつ……」

 

場が揺れる。

怒りと恐怖と戸惑いが、狭い部屋の中でぶつかり合っていた。

 

そのとき。

 

遠くから、低い爆発音と、短い銃声の連なりが聞こえてきた。

 

「……侵入者か!」

 

「外周班がやられてる!? クソッ、こうしちゃいられねぇ!」

 

混乱する声があちこちで飛び交う。

 

「おい、誰か応戦に──」

 

「走査系統がやられてる! 地下経路のログが消えた!」

 

情報が錯綜する中で、萌郁は一歩、前に出た。

 

「……わたしが、二人を上階の“安全区画”に移送する。」

 

静かな声。

だが、その瞳は、決して「SERNの忠実な道具」のものではなかった。

 

「このままだと巻き込まれる。

 対象を失えば、全てが無駄になる。」

 

隊員たちは一瞬、迷った。

だが、目の前の現実──すでに一人が撃たれて倒れているという事実が、決断を早めた。

 

「……桐生、お前が責任を持て。」

 

「……了解。」

 

萌郁は答え、紅莉栖と志乃の拘束に手を伸ばす。

 

「立って。」

 

紅莉栖が、志乃の肩を抱き寄せながら萌郁を睨む。

 

「今のは……何のつもり?」

 

「……仕事。」

 

答えは短い。

だが、その手は小さく震えていた。

 

志乃が、おそるおそる萌郁の袖を掴む。

 

「も、えかさん……?」

 

萌郁は、志乃の手を見下ろし、ほんのわずかだけ表情を緩めた。

 

「……大丈夫。

 連れて行く。……外に。」

 

その言葉の意味を、紅莉栖はすぐには信じられなかった。

だが、萌郁の瞳の奥にあるものを見て、かすかに息を呑む。

 

(この人……揺れてる。)

 

「行くわよ。」紅莉栖は志乃の手を握り直す。

 

「どこに、連れて行くつもり?」

 

「……出口。」

萌郁は短く答えた。

 

「外から“化け物”が来てる。

 ……多分、あなたたちの、知っている“誰か”。」

 

紅莉栖と志乃、萌郁の三人は、騒然とし始めた地下棟を離れ、

別ルートの階段へと足を向ける。

 

彼らの頭上では、静かな殺意を纏った侵入者と、

未来から来た戦士が、SERN の防御網を一つずつ削り取っていた。

 

まだ誰も知らない。

 

この夜、

「特異点」を巡って世界の理と人の意志が真正面からぶつかる、

最初の瞬間になろうとしていることを。

 

 

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