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湾岸の倉庫地帯に、夜の底のような静けさが降りていた。
遠くで波が砕ける音。
時折、コンテナを叩く風のうなり。
それ以外には、何もない──はずだった。
「……行くよ、槙島さん。」
鈴羽は、薄闇の中で身を低くし、手にしたライフルのストックを肩に当てる。
隣では、槙島聖護が壁にもたれかかるように立ちながら、微笑を浮かべていた。
「君が先導してくれると助かるよ。
僕は、邪魔な“ノイズ”を静かに消していくだけだから。」
その声はいつも通り穏やかなのに、どこか底冷えするような硬さがあった。
鈴羽は一瞬だけ、彼を横目で見た。
(さっきの目……やっぱり、戦場の人間の目だ。)
それでも、彼女は顎を引き、前を向く。
「……目標、地下の隔離区画。
真帆たちの解析だと、外周警備は思ったより薄い。
でも、逆に言えば“選んで”薄くしてる。
中に戦力を集中させてるってこと。」
「合理的だね。」聖護はくすりと笑う。
「じゃあ、その合理性ごと崩してあげよう。」
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外周フェンスの死角。
監視カメラの一つが、一瞬だけノイズを走らせ、映像をロックした。
『はい、今。そこのライン、十秒だけ“目隠し”できる。』
イヤーピース越しに、真帆の声が響く。
『それ以上は無理だから、さっさとくぐり抜けなさい。』
「了解。」鈴羽が低く返す。
二人はフェンスをかすめるようにすり抜け、影から影へと移動する。
倉庫棟の角を曲がった瞬間、巡回中のラウンダーが一人、背を向けて立っていた。
鈴羽がライフルを構えかけた、その刹那。
「君は、そのまま前を。」
聖護の声が耳元で囁かれたかと思うと、身体がふっと前へ引かれた。
鈴羽が振り返るより早く、聖護の姿は影の中に溶ける。
次の瞬間。
「ん──」
かすかな息の詰まる音。
押し殺された喉の鳴り。
足元で、重いものが静かに倒れる音。
鈴羽が振り返ったときには、ラウンダーは地面にうつ伏せに倒れ、
聖護は、何事もなかったかのようにその体を影に引きずり込んでいた。
「……今、何をしたの?」
「少し、眠ってもらっただけだよ。」
と、彼は淡々と答える。
手には小型のナイフ。
刃には血の一滴もついていない。
「気管と頸動脈を避けて、意識だけ落とした。
殺さないで済むなら、その方が後々都合がいい。」
そう言いながらも、その所作には一切の迷いがない。
“殺せる”のに“殺さなかった”だけ、という気配。
鈴羽は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
(……ここまで、躊躇がないのか。)
「行こうか。」聖護は何事もなかったように微笑む。
「志乃と紅莉栖がいる限り、僕は遠慮する理由がないんだ。」
その言葉が、妙にさらりとしているのが余計に怖かった。
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倉庫棟の中へ。
アマデウスが掌握した図面通り、二人は荷物用通路から地下への階段へと向かう。
途中、何人かの警備の影が見えたが、その度に鈴羽のスコープ越しに、
「カシャッ」という消音機の乾いた音と共に、影は沈んだ。
だが、すべてを遠距離から片付けられるわけではない。
階段の踊り場で、ラウンダーが二人、立ち話をしていた。
「……さっきから連絡が途絶えすぎだろ。」
「外周班が何も言ってこないとか、あり得ねぇよな。」
「クソッ、こんなの聞いてねぇぞ……」
わずかに高くなった声。
焦燥と苛立ちを含んだそのトーンに、鈴羽は“いい傾向じゃない”と直感する。
(焦ってる。こういう時、人は雑になる。)
彼女がライフルを構えなおした瞬間、聖護が前に出た。
「ここは、僕が。」
「ちょっと――」
止める暇もなく、聖護は階段の影から視界に滑り込むように現れた。
「すみません、道に迷ってしまって……」
一瞬、場違いなほど柔らかい声。
「誰だテメ――」
言葉は最後まで続かなかった。
最初の一人の顎を支点に壁へ叩きつけ、
その反動を利用して、もう一人の喉に膝蹴りを突き上げる。
骨の軋む鈍い音。
肺から空気が強制的に押し出される音。
続けざまに、意識の飛んだ一人の腕を取って、もう片方の男の首に絡める。
そのまま関節を極めて捻り上げた。
「ッ、あ、が……!」
悲鳴を上げる暇もなく、二人は階段の影に崩れ落ちる。
全てが、数秒の出来事だった。
鈴羽が駆け寄ると、二人は完全に動きを止めていた。
上気した頬、やや速い呼吸。それ以外に、聖護に乱れはない。
「……殺した?」
「一人は、ね。」
聖護は涼しい顔で答えた。
「もう一人は、意識が戻った頃には、自分の状況を疑うだろう。
“仲間の死体と一緒に階段に転がっている”ってね。」
淡々とした口調が、鈴羽の背筋をまた冷たく撫でていく。
(この人は、今、ためらいが一つもない……)
それでも彼女は、ライフルを握り直し、短く息を吐く。
「……いい。今はそれでいい。
あたしも、戦場にいた側の人間だから。」
「助かるよ。」聖護は薄く笑った。
「君は“分かっている”側の人間だ。」
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同じ頃、地下の拘束室。
薄暗い空間に、ざわつきが広がり始めていた。
「外周班と連絡が取れません!」
「どういうことだ、さっきまで異常なしだったろうが!」
連絡端末の光が、焦った声と共に反射する。
紅莉栖と志乃の拘束された部屋にも、
ラウンダーたちの荒々しい足音が近づいてきた。
扉が勢いよく開く。
「移送だ。すぐに立て。」
隊員の一人がそう叫びながら、乱暴に紅莉栖の腕を引き上げた。
「ちょっ、乱暴にしないで!」
「状況が変わった。安全な場所に“移してやる”だけありがたいと思え。」
引きずられるようにして立たされた紅莉栖の横で、志乃も腕を掴まれる。
「やっ……!」
小さな悲鳴。
その手の強さに、志乃の顔が歪む。
「その子は、もっと丁寧に扱って!」
紅莉栖が声を荒げる。
「ターゲットだろうとガキはガキだ。
暴れられても困るんだよ。」
苛立ちを露わにした隊員の一人が、志乃の頬に手を伸ばそうとした。
「大人しくさせる方法なんて、いくらでも──」
その瞬間。
「やめて。」
低い声が、背後から落ちた。
桐生萌郁だった。
無機質な瞳の奥に、いつもと違う色が灯っている。
「対象への不要な接触は、任務に含まれていない。」
「は? こんな状況で何をきれい事――」
隊員が振り向きざま、苛立ちをぶつけようとした、その刹那。
萌郁の身体が、ふっと前に出た。
足払い。
掴まれていた志乃の腕から、隊員の手が離れる。
体勢を崩した男の胸倉を掴み、そのまま床に叩きつける。
「なっ――」
周囲が一瞬、凍りついた。
萌郁は息を乱すこともなく、倒れた隊員の腹を膝で押さえつけるようにして跨り──
その口元に拳銃の銃口を、ためらいなく押し込んだ。
「お、おい、桐生!? 何を──」
「……触るな。」
感情のない声。
しかし、その内側には煮え立つものが感じられた。
(志乃に、触るな。)
視界の端で、幼い志乃が、怯えた目でこちらを見ている。
――小さな手が、服の端を掴んで離さなかった、あの日。
――「萌郁さん」「志乃と一緒にいてくれ」と頼まれた声。
――ぎこちなく抱いた赤ん坊が、自分の胸に小さく顔を擦り寄せてきた感触。
(あの時と、同じ……)
「や、やめろ、何する気だ、落ち着け桐生──」
隊員の言葉が終わるより早く、
萌郁の指が引き金を引いていた。
乾いた銃声。
スチールとコンクリートに反響する破裂音。
男の体から、力が抜けていく。
銃口が口から抜け、床に小さな傷を残して止まる。
――沈黙。
自分の耳鳴りが、一番うるさく聞こえた。
「っ……!」
萌郁の肩が、大きく上下する。
手が震えている。
視界の端で、他の隊員たちが、言葉をなくした顔で彼女を見ている。
(わたしは……何を……)
「……桐生。正気か……?」
ようやく絞り出された声に、萌郁は振り向く。
「……任務の妨害行為を、排除しただけ。」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
だが、言葉は勝手に続く。
「対象への不要な暴力は、観測値にノイズを加える。
SERN にとっても、損失。」
「こ、こいつ……」
場が揺れる。
怒りと恐怖と戸惑いが、狭い部屋の中でぶつかり合っていた。
そのとき。
遠くから、低い爆発音と、短い銃声の連なりが聞こえてきた。
「……侵入者か!」
「外周班がやられてる!? クソッ、こうしちゃいられねぇ!」
混乱する声があちこちで飛び交う。
「おい、誰か応戦に──」
「走査系統がやられてる! 地下経路のログが消えた!」
情報が錯綜する中で、萌郁は一歩、前に出た。
「……わたしが、二人を上階の“安全区画”に移送する。」
静かな声。
だが、その瞳は、決して「SERNの忠実な道具」のものではなかった。
「このままだと巻き込まれる。
対象を失えば、全てが無駄になる。」
隊員たちは一瞬、迷った。
だが、目の前の現実──すでに一人が撃たれて倒れているという事実が、決断を早めた。
「……桐生、お前が責任を持て。」
「……了解。」
萌郁は答え、紅莉栖と志乃の拘束に手を伸ばす。
「立って。」
紅莉栖が、志乃の肩を抱き寄せながら萌郁を睨む。
「今のは……何のつもり?」
「……仕事。」
答えは短い。
だが、その手は小さく震えていた。
志乃が、おそるおそる萌郁の袖を掴む。
「も、えかさん……?」
萌郁は、志乃の手を見下ろし、ほんのわずかだけ表情を緩めた。
「……大丈夫。
連れて行く。……外に。」
その言葉の意味を、紅莉栖はすぐには信じられなかった。
だが、萌郁の瞳の奥にあるものを見て、かすかに息を呑む。
(この人……揺れてる。)
「行くわよ。」紅莉栖は志乃の手を握り直す。
「どこに、連れて行くつもり?」
「……出口。」
萌郁は短く答えた。
「外から“化け物”が来てる。
……多分、あなたたちの、知っている“誰か”。」
紅莉栖と志乃、萌郁の三人は、騒然とし始めた地下棟を離れ、
別ルートの階段へと足を向ける。
彼らの頭上では、静かな殺意を纏った侵入者と、
未来から来た戦士が、SERN の防御網を一つずつ削り取っていた。
まだ誰も知らない。
この夜、
「特異点」を巡って世界の理と人の意志が真正面からぶつかる、
最初の瞬間になろうとしていることを。