薄暗い廊下の先から、足音が近づいてくる。
槙島聖護は、壁に背を預けたまま息を殺し、わずかに顎を傾けた。
前を行く鈴羽も同じように立ち止まり、銃口を音のする方へ向ける。
「……来るね。」
「ええ。……二人分、かな。」
ほんの一瞬、呼吸が止まる。
影が、角の向こうから飛び出した。
先頭にいたのは、桐生萌郁だった。
そのすぐ背後──紅莉栖と志乃。
聖護の身体は、ほとんど思考を待たずに動いていた。
引き金を絞る感触が、指先にまとわりつく。
銃声が廊下に弾け──
キィンと火花が散った。
弾丸は萌郁の頬をかすめ、後ろの壁を抉る。
萌郁が咄嗟に身体を捻り、銃口を払ったのだ。
「……っ!」
すぐさま距離が詰まる。
銃は役に立たない距離。金属が床を転がる音。
萌郁はほとんど反射で、聖護の腕を掴み、体勢を崩そうとする。
しかし、次の瞬間──
「……遅いよ、君。」
視界が、ふっと反転した。
気づいた時には、萌郁は床に叩きつけられていた。
手首はひねり上げられ、背中には膝。動けば骨が折れる角度。
喉の奥から、かすかな息が漏れる。
聖護はほとんど無表情のまま、懐からナイフを抜いた。
冷たく光る刃が、迷いなく振り上げられる。
「……君は敵だ。」
それは、判断でも、葛藤でもない。
ただ事実を確認するような、静かな宣告だった。
刃先が、萌郁の喉元へと落ちていく──その瞬間。
「やめて!!」
小さな身体が、横から飛び込んできた。
志乃だった。
「お父さん、だめっ!」
彼の腕にしがみつき、必死に押さえ込む。
ナイフの軌道がわずかに逸れ、刃先は萌郁の頬のすぐ横、床に突き刺さった。
ガキンという嫌な音が響き、コンクリートにヒビが入る。
一瞬、時間が止まったようだった。
鈴羽は、その光景を数メートル先から見ていた。
ナイフを振り下ろす直前の聖護の目──
そこには、さっきまで自分と横並びで戦っていた“仲間”の色はなかった。
(……やば……)
背筋を、ぞわりと冷たいものが這い上がる。
戦場で何度も見てきた、“人を殺すことに一切の迷いがない目”。
だが、今目の前にいるのは、それを遥かに研ぎ澄ませた「狩人」だった。
「……志乃。」
聖護が、志乃の方へゆっくり視線を落とす。
しがみついていた志乃は、その目を真っ直ぐに見上げていた。
泣きそうな顔をしながらも、決して目を逸らさない。
「この人、守ってくれたの。……お母さんと、わたしのこと。」
萌郁の手はまだ震えていた。
床には、彼女がさっき撃ち抜いたらしいラウンダーの血痕が飛び散っている。
聖護は一度、その赤をちらりと見下ろし、
次に、萌郁の手の中の拳銃を見た。
照準は、自分ではなく、通路の奥──まだ息のある敵たちの方を向いている。
沈黙が、数秒だけ続く。
やがて、聖護は小さく息を吐き、ナイフを引き抜いた。
刃についたコンクリートの粉を指で払うと、あっさりと懐に戻す。
「……分かったよ、志乃。」
彼はそのまま萌郁から膝をどけ、立ち上がった。
「君がそう言うなら、彼女にはもう何もしない。」
その言葉は相変わらず穏やかだったが、
鈴羽には、底知れない重さを伴って聞こえた。
(……“志乃が言ったから”やめただけ。
言わなかったら、本当に殺してた──)
萌郁は、床に倒れたまま、聖護を見上げていた。
その視線には、恐怖と混乱と、
うっすらと、自分でも理解できない安堵の色が混じっていた。
聖護はそんな彼女の視線を一度だけ受け止め、
ふっと口の端だけで笑った。
「……それで? 君はどっちなんだい。
ラウンダーか、志乃の“味方”か。」
萌郁の喉が、小さく鳴る。
それでも、震える声で搾り出した。
「……志乃ちゃんを……守る。」
聖護は、その答えを聞いて満足したように目を細めた。
「いいね。じゃあ、君はまだ“生きる理由”がある。」
その一言に、鈴羽はまたぞくりとした。
人を生かすのも殺すのも、
この男の中では、きっと同じくらい軽い行為なのだろう。
ただひとつ違うのは──
志乃が触れた瞬間だけ、その天秤が確実に傾く、ということ。