志す者たちの彼方   作:d1ce-k

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2部 第11章:「光の雨の中で」

 

 

 

警報が鳴り止まない。

 

赤いフラッシュが、薄暗い通路を断続的に照らしていた。

天井の配管からは、さっきの銃撃で破れたのか、細かな水が霧のように降り続いている。

 

濡れた床を、五つの影が駆け抜けた。

 

先頭を走るのは槙島聖護。そのすぐ後ろに、志乃を抱きかかえた紅莉栖。

背後を振り返りながらカバーに回る鈴羽と、端末を握りしめたまま走る萌郁。

 

遠くでドアの閉まる音、無線の混線するノイズ、靴音。

SERN のラウンダーたちが、包囲を狭めてくる気配が、じわじわと近づいていた。

 

「外周ルートは封鎖されてる。正面ゲートも……無理だね。」

 

走りながら、聖護が短く言う。

 

「じゃあどうするの、聖護。」

 

息を切らしながら紅莉栖が問う。

 

「非常用の搬出通路があるはずだよ。資材や廃棄物を運び出すためのね。

 君たちはそっちへ。僕と鈴羽が、しばらくのあいだ“世界”と話をしておく。」

 

「それ、ただの時間稼ぎって意味じゃないでしょうね。」

 

「その通りさ。」

 

さらりと言い切る声に、紅莉栖は喉の奥で舌打ちした。

 

「ふざけないで……死ぬつもりで言ってるのなら、それは絶対に許さないから。」

 

「死ぬつもりはないよ、紅莉栖。」

 

聖護はちらりと振り返り、薄く笑う。

 

「ただ、僕は僕の役割を果たすだけだ。

 君と志乃が、外に出るための道を作る。」

 

その言い方があまりにいつも通りで、紅莉栖は逆に胸が痛くなった。

 

「……ほんと、そういうところが一番嫌いだわ、あなた。」

 

「光栄だね。」

 

鈴羽が割って入るように声を上げる。

 

「搬出口までのルートなら、頭に入ってる。道案内はわたしがやる。

 “足止め”は二人とも得意だろうけど、死ぬのは勝手にしないで。志乃ちゃんの前では絶対に。」

 

「努力するよ。」

 

聖護が軽く手を上げた、その瞬間──

 

前方の角から、黒い影と銃口が覗いた。

 

「──っ伏せて!」

 

鈴羽の叫びとほぼ同時に、乾いた連射音が通路に響く。

 

壁のコンクリートが弾け、飛び散る破片と水しぶき。

聖護は紅莉栖と志乃の肩を掴んで、横の搬送用コンテナの陰へ押し込んだ。

 

「志乃を抱えて、低く──!」

 

「わ、分かってる!」

 

紅莉栖は志乃を胸に抱きしめ、その身体を覆うようにしてコンテナの影へ身を伏せる。

聖護はその手前、コンテナの角を盾にしながら身を乗り出し、ラウンダーたちに向けて反撃した。

 

銃声が交錯する。

鈴羽は別の側路へ飛び込み、回り込むように走る足音を響かせた。

 

「数は……六、いや、もっとか。」

 

聖護は短く息を吐く。

肩口をかすめた弾丸が、白衣の布地を裂いた。

 

(ここで止まったら終わりだ。前に押し返す。)

 

コンテナの縁から半身だけを出し、短く、正確に引き金を引く。

一人、また一人とラウンダーが壁際に崩れ落ちていく。

 

だが──その時だった。

 

乾いた音とともに、コンテナの鋼板が貫かれた。

 

「──っ!」

 

紅莉栖の身体が、びくんと跳ねる。

 

胸元に、じわりと赤が広がるのが見えた。

 

「お、お母さん……?」

 

志乃が震える声を上げる。

 

紅莉栖は息を詰まらせ、それでも反射的に志乃をさらに強く抱き寄せた。

彼女の背中が、コンテナの内側に打ちつけられる。

 

「っ、……ッ……」

 

声にならない息だけが、喉の奥で擦れる。

 

「紅莉栖!」

 

聖護が思わず振り返った、その瞬間だった。

 

コンテナとコンテナのわずかな隙間から抜けた弾丸が、彼の脇腹を正確に撃ち抜いた。

 

「くっ……!」

 

焼けるような痛みとともに、足元から力が抜ける。

それでも、聖護は歯を食いしばり、残った手で再び銃を構えた。

 

「槙島さん! 右側、抑える!」

 

側面の通路から飛び出してきた鈴羽が、ラウンダーの背後を撃ち抜く。

挟み撃ちにされた部隊は、やがて数を減らし、最後の一人が床に倒れたとき──

 

通路はようやく静かになった。

 

耳鳴りと、遠くの警報だけが残る。

 

 

「紅莉栖……!」

 

聖護はコンテナに手をつきながら、膝を引きずるようにして彼女のもとへたどり着いた。

 

紅莉栖はコンテナにもたれ、志乃を抱いたまま、ゆっくりとこちらに顔を向ける。

唇の端から、少しずつ血が伝っていた。

 

「……聖……護……」

 

かろうじて、その名前だけがこぼれる。

 

志乃が、涙でぐしゃぐしゃになった顔で叫んだ。

 

「お母さん、やだ……やだよ……!」

 

「動かないで、志乃。」

 

聖護は、できるだけ穏やかな声で言った。

自分の脇腹からも、温かいものが止めどなく流れ出しているのを感じながら。

 

「大丈夫。ここにいる。

 僕も、志乃も──ちゃんと、ここに。」

 

紅莉栖の視線が、少しだけ和らいだ。

 

「……志……乃は……」

 

途切れ途切れの息の合間に、か細い音がこぼれる。

 

聖護は即座に頷いた。

 

「無事だよ。君が守った。

 君の娘は、ちゃんとここにいる。」

 

紅莉栖の瞳から、一筋、涙がこぼれた。

 

「……ァ……よかっ……」

 

そこで、言葉は途切れた。

 

胸がひくりと震え、次の呼吸は戻ってこない。

瞳から光がゆっくりと抜けていき、その表情だけが、安堵と微笑みをわずかに残していた。

 

「お、お母さん……? お母さん……!」

 

志乃が揺さぶろうとするのを、聖護はそっと止めた。

 

「……紅莉栖。」

 

彼は、血に濡れた彼女の髪を一筋、指で梳いた。

何かを言おうとして、しかし喉の奥でそれを飲み込む。

 

(君の前で、余計な言葉はいらないか。)

 

その代わりに、志乃のほうを見た。

 

 

「お父さん……!」

 

志乃が、聖護の胸に飛びつく。

その小さな手が、彼の白衣を掴んだ瞬間──血の感触に気づいた。

 

「……お父さんも、血……!」

 

聖護は、少しだけ困ったように笑った。

 

「そうだね。少し、撃たれてしまった。」

 

「だめ……だめだよ……!」

 

志乃の肩が震える。

鈴羽は、その様子を見ながら、拳をぎゅっと握りしめていた。

 

「……鈴羽。」

 

聖護が、肩越しに呼ぶ。

 

「外のルートを確認してくれないか。

 警備が再配置されるまで、あまり時間はない。」

 

「でも──」

 

「ここから先は、僕と志乃の問題だよ。」

 

その静かな言い方に、鈴羽は唇を噛み、やがて小さく頷いた。

 

「すぐ戻る。……絶対、置いていかないから。」

 

短くそう告げて、彼女は通路の先へと駆けていく。

 

萌郁は、その場から一歩も動けずにいた。

自分の手で撃ち殺したラウンダーたちと、目の前で血を流す二人。

 

(わたしは……何をしている……?)

 

胸の奥に重い塊が沈んでいくのを感じながら、ただ、見ていることしかできなかった。

 

 

「……お父さん、行かないで……」

 

志乃が、聖護の服を掴んだまま泣きじゃくる。

 

聖護は、その頭にそっと手を置いた。

 

「志乃。」

 

ゆっくりと、その名を呼ぶ。

 

「君が僕の想像する“モナド”であるなら──僕たちは、完全には死なない。」

 

志乃が、涙で濡れた瞳を上げる。

 

「……どう、いうこと……?」

 

「君は、二つの世界の理の“あいだ”で生まれた。

 どちらの名前にも縛られない、小さな例外だ。」

 

聖護は、少しだけ苦しそうに息を吐く。

 

「世界が君を上手く定義できないなら、

 君のほうから決めればいい。」

 

彼は、震える手で志乃の胸元に触れた。

 

「“ここに、お父さんとお母さんがいてほしい”──そう願うだけでいい。

 君の中の世界に、僕たちの居場所を作ってくれればいい。」

 

「……わたしの……中……?」

 

志乃は、自分の胸に手を当てる。

 

「そう。

 身体は、きっともう長くは保たない。

 でも、意思や記憶や、君と過ごした時間は……別のかたちで残せる。」

 

聖護は、紅莉栖の静かな顔を一瞥してから、続けた。

 

「君は特異点だ、志乃。

 世界の外側から紛れ込んだモナドみたいなものだ。

 なら──」

 

わずかに口元を緩める。

 

「君が“共にありたい”と願うかぎり、

 僕たちは君の中で、生き続ける。」

 

志乃の喉から、しゃくりあげる音が漏れる。

 

「……そんなの……やだよ……

 いなくなってほしくない……

 でも……一緒に……いてほしい……!」

 

「それで、十分だよ。」

 

聖護は、掠れた声で言った。

 

「“いなくなってほしくない”と“一緒にいたい”は、

 本当は同じ願いだ。

 ただ、かたちが変わるだけだよ。」

 

志乃は、ぎゅっと目を閉じた。

 

胸の奥が、痛いくらいに熱くなる。

 

「……わたし……

 お父さんと、お母さんと、一緒にいたい……

 ずっと……ずっと……!」

 

その瞬間だった。

 

 

志乃の胸の奥で、何かが静かに開いた。

 

音もなく、世界が反転する。

 

紅莉栖の胸元から流れ出ていた血も、

聖護の脇腹から滴っていた赤も──

霧のように細かい光となって、ふわりと浮かび上がった。

 

通路にこもっていた警報音が、遠ざかっていく。

代わりに、静かな水音と、光の粒が舞い上がる気配だけが満ちていく。

 

鈴羽は、通路の奥から振り返り、その光景を目にして息を呑んだ。

 

萌郁もまた、ただ立ち尽くしたまま、

目の前で起こっている現象を理解できずにいた。

 

「……これが……」

 

誰のものでもない呟きが、空気の中に溶ける。

 

紅莉栖の輪郭が、柔らかく揺らいだ。

その頬から血の気が引いていく代わりに、淡い光の粒が滲み出す。

 

聖護の身体からも、同じように光がこぼれ出す。

痛みは、もう遠くなっていた。

 

(紅莉栖。

 君の選んだ世界は、案外、悪くなかったよ。)

 

心の中でだけ、そんな言葉を呟きながら──

彼は、最後に志乃の顔を見つめた。

 

「志乃。」

 

声は、もはやほとんど空気に乗らない。

 

「ありがとう。」

 

その一言だけを残して、聖護の輪郭もまた、光の粒へとほどけていく。

 

志乃は、両手で自分の胸を押さえながら、必死にその光を抱きしめるように目を閉じた。

 

「……いかないで……

 でも……一緒に、いて……

 ずっと……ずっと……!」

 

その願いに、光が応える。

 

ぱあっと、通路全体がまぶしい白に満たされた。

 

 

光が収まったとき、

床にはもう、血の跡ひとつ残っていなかった。

 

そこにいたのは、両膝をついて呆然とする志乃と、

その肩に手を置いて支える鈴羽、

そして、まだ震えの残る手で携帯を握りしめたまま佇む萌郁だけだった。

 

「……お父さんと、お母さんは……?」

 

志乃が、かすかな声で問う。

 

誰も、すぐには答えられない。

 

だが、志乃は自分の胸に手を当てて、そっと目を閉じた。

 

「……ううん。

 ここにいる。」

 

涙の跡を残したまま、彼女は静かに微笑んだ。

 

「お父さんとお母さん、ちゃんといる。

 わたしの中で、しゃべってる。」

 

鈴羽は、喉の奥が熱くなるのを感じながら、

志乃の頭をそっと撫でた。

 

(……そうか。

 本当に、“取り込んだ”わけじゃなくて──

 一緒の場所になったんだね……)

 

萌郁は、その光景を見つめながら、

胸の奥で、今まで感じたことのない痛みを覚えていた。

 

(わたしは……

 この子から、何を守れたんだろう……)

 

答えは出なかった。

 

ただ一つだけ確かなのは──

この瞬間を境に、志乃は本当の意味で「特異点」となった、ということだった。

 

世界の理からはみ出し、

両親の意思を抱えたまま、新しい未来へ歩き始める存在。

 

遠くで、まだ警報が鳴り続けている。

だが、その音はもう、先ほどまでのような恐怖だけの響きではなかった。

 

そこには、かすかな「始まり」の音色が混じっていた。

 

志乃は涙を拭い、立ち上がる。

 

「……行こう。」

 

小さな声で、しかしはっきりと言った。

 

「お父さんとお母さんが守ってくれた道、ちゃんと歩く。」

 

鈴羽も萌郁も、その言葉に黙って頷いた。

 

こうして──

槙島聖護と牧瀬紅莉栖は、世界から姿を消し、

志乃の中で、永遠に生き続けることになった。

 

それが、志乃が「特異点」から「志乃」という一人の存在として

新しい世界を生き始めるための、最初の代償だった。

 

 

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