警報が鳴り止まない。
赤いフラッシュが、薄暗い通路を断続的に照らしていた。
天井の配管からは、さっきの銃撃で破れたのか、細かな水が霧のように降り続いている。
濡れた床を、五つの影が駆け抜けた。
先頭を走るのは槙島聖護。そのすぐ後ろに、志乃を抱きかかえた紅莉栖。
背後を振り返りながらカバーに回る鈴羽と、端末を握りしめたまま走る萌郁。
遠くでドアの閉まる音、無線の混線するノイズ、靴音。
SERN のラウンダーたちが、包囲を狭めてくる気配が、じわじわと近づいていた。
「外周ルートは封鎖されてる。正面ゲートも……無理だね。」
走りながら、聖護が短く言う。
「じゃあどうするの、聖護。」
息を切らしながら紅莉栖が問う。
「非常用の搬出通路があるはずだよ。資材や廃棄物を運び出すためのね。
君たちはそっちへ。僕と鈴羽が、しばらくのあいだ“世界”と話をしておく。」
「それ、ただの時間稼ぎって意味じゃないでしょうね。」
「その通りさ。」
さらりと言い切る声に、紅莉栖は喉の奥で舌打ちした。
「ふざけないで……死ぬつもりで言ってるのなら、それは絶対に許さないから。」
「死ぬつもりはないよ、紅莉栖。」
聖護はちらりと振り返り、薄く笑う。
「ただ、僕は僕の役割を果たすだけだ。
君と志乃が、外に出るための道を作る。」
その言い方があまりにいつも通りで、紅莉栖は逆に胸が痛くなった。
「……ほんと、そういうところが一番嫌いだわ、あなた。」
「光栄だね。」
鈴羽が割って入るように声を上げる。
「搬出口までのルートなら、頭に入ってる。道案内はわたしがやる。
“足止め”は二人とも得意だろうけど、死ぬのは勝手にしないで。志乃ちゃんの前では絶対に。」
「努力するよ。」
聖護が軽く手を上げた、その瞬間──
前方の角から、黒い影と銃口が覗いた。
「──っ伏せて!」
鈴羽の叫びとほぼ同時に、乾いた連射音が通路に響く。
壁のコンクリートが弾け、飛び散る破片と水しぶき。
聖護は紅莉栖と志乃の肩を掴んで、横の搬送用コンテナの陰へ押し込んだ。
「志乃を抱えて、低く──!」
「わ、分かってる!」
紅莉栖は志乃を胸に抱きしめ、その身体を覆うようにしてコンテナの影へ身を伏せる。
聖護はその手前、コンテナの角を盾にしながら身を乗り出し、ラウンダーたちに向けて反撃した。
銃声が交錯する。
鈴羽は別の側路へ飛び込み、回り込むように走る足音を響かせた。
「数は……六、いや、もっとか。」
聖護は短く息を吐く。
肩口をかすめた弾丸が、白衣の布地を裂いた。
(ここで止まったら終わりだ。前に押し返す。)
コンテナの縁から半身だけを出し、短く、正確に引き金を引く。
一人、また一人とラウンダーが壁際に崩れ落ちていく。
だが──その時だった。
乾いた音とともに、コンテナの鋼板が貫かれた。
「──っ!」
紅莉栖の身体が、びくんと跳ねる。
胸元に、じわりと赤が広がるのが見えた。
「お、お母さん……?」
志乃が震える声を上げる。
紅莉栖は息を詰まらせ、それでも反射的に志乃をさらに強く抱き寄せた。
彼女の背中が、コンテナの内側に打ちつけられる。
「っ、……ッ……」
声にならない息だけが、喉の奥で擦れる。
「紅莉栖!」
聖護が思わず振り返った、その瞬間だった。
コンテナとコンテナのわずかな隙間から抜けた弾丸が、彼の脇腹を正確に撃ち抜いた。
「くっ……!」
焼けるような痛みとともに、足元から力が抜ける。
それでも、聖護は歯を食いしばり、残った手で再び銃を構えた。
「槙島さん! 右側、抑える!」
側面の通路から飛び出してきた鈴羽が、ラウンダーの背後を撃ち抜く。
挟み撃ちにされた部隊は、やがて数を減らし、最後の一人が床に倒れたとき──
通路はようやく静かになった。
耳鳴りと、遠くの警報だけが残る。
⸻
「紅莉栖……!」
聖護はコンテナに手をつきながら、膝を引きずるようにして彼女のもとへたどり着いた。
紅莉栖はコンテナにもたれ、志乃を抱いたまま、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
唇の端から、少しずつ血が伝っていた。
「……聖……護……」
かろうじて、その名前だけがこぼれる。
志乃が、涙でぐしゃぐしゃになった顔で叫んだ。
「お母さん、やだ……やだよ……!」
「動かないで、志乃。」
聖護は、できるだけ穏やかな声で言った。
自分の脇腹からも、温かいものが止めどなく流れ出しているのを感じながら。
「大丈夫。ここにいる。
僕も、志乃も──ちゃんと、ここに。」
紅莉栖の視線が、少しだけ和らいだ。
「……志……乃は……」
途切れ途切れの息の合間に、か細い音がこぼれる。
聖護は即座に頷いた。
「無事だよ。君が守った。
君の娘は、ちゃんとここにいる。」
紅莉栖の瞳から、一筋、涙がこぼれた。
「……ァ……よかっ……」
そこで、言葉は途切れた。
胸がひくりと震え、次の呼吸は戻ってこない。
瞳から光がゆっくりと抜けていき、その表情だけが、安堵と微笑みをわずかに残していた。
「お、お母さん……? お母さん……!」
志乃が揺さぶろうとするのを、聖護はそっと止めた。
「……紅莉栖。」
彼は、血に濡れた彼女の髪を一筋、指で梳いた。
何かを言おうとして、しかし喉の奥でそれを飲み込む。
(君の前で、余計な言葉はいらないか。)
その代わりに、志乃のほうを見た。
⸻
「お父さん……!」
志乃が、聖護の胸に飛びつく。
その小さな手が、彼の白衣を掴んだ瞬間──血の感触に気づいた。
「……お父さんも、血……!」
聖護は、少しだけ困ったように笑った。
「そうだね。少し、撃たれてしまった。」
「だめ……だめだよ……!」
志乃の肩が震える。
鈴羽は、その様子を見ながら、拳をぎゅっと握りしめていた。
「……鈴羽。」
聖護が、肩越しに呼ぶ。
「外のルートを確認してくれないか。
警備が再配置されるまで、あまり時間はない。」
「でも──」
「ここから先は、僕と志乃の問題だよ。」
その静かな言い方に、鈴羽は唇を噛み、やがて小さく頷いた。
「すぐ戻る。……絶対、置いていかないから。」
短くそう告げて、彼女は通路の先へと駆けていく。
萌郁は、その場から一歩も動けずにいた。
自分の手で撃ち殺したラウンダーたちと、目の前で血を流す二人。
(わたしは……何をしている……?)
胸の奥に重い塊が沈んでいくのを感じながら、ただ、見ていることしかできなかった。
⸻
「……お父さん、行かないで……」
志乃が、聖護の服を掴んだまま泣きじゃくる。
聖護は、その頭にそっと手を置いた。
「志乃。」
ゆっくりと、その名を呼ぶ。
「君が僕の想像する“モナド”であるなら──僕たちは、完全には死なない。」
志乃が、涙で濡れた瞳を上げる。
「……どう、いうこと……?」
「君は、二つの世界の理の“あいだ”で生まれた。
どちらの名前にも縛られない、小さな例外だ。」
聖護は、少しだけ苦しそうに息を吐く。
「世界が君を上手く定義できないなら、
君のほうから決めればいい。」
彼は、震える手で志乃の胸元に触れた。
「“ここに、お父さんとお母さんがいてほしい”──そう願うだけでいい。
君の中の世界に、僕たちの居場所を作ってくれればいい。」
「……わたしの……中……?」
志乃は、自分の胸に手を当てる。
「そう。
身体は、きっともう長くは保たない。
でも、意思や記憶や、君と過ごした時間は……別のかたちで残せる。」
聖護は、紅莉栖の静かな顔を一瞥してから、続けた。
「君は特異点だ、志乃。
世界の外側から紛れ込んだモナドみたいなものだ。
なら──」
わずかに口元を緩める。
「君が“共にありたい”と願うかぎり、
僕たちは君の中で、生き続ける。」
志乃の喉から、しゃくりあげる音が漏れる。
「……そんなの……やだよ……
いなくなってほしくない……
でも……一緒に……いてほしい……!」
「それで、十分だよ。」
聖護は、掠れた声で言った。
「“いなくなってほしくない”と“一緒にいたい”は、
本当は同じ願いだ。
ただ、かたちが変わるだけだよ。」
志乃は、ぎゅっと目を閉じた。
胸の奥が、痛いくらいに熱くなる。
「……わたし……
お父さんと、お母さんと、一緒にいたい……
ずっと……ずっと……!」
その瞬間だった。
⸻
志乃の胸の奥で、何かが静かに開いた。
音もなく、世界が反転する。
紅莉栖の胸元から流れ出ていた血も、
聖護の脇腹から滴っていた赤も──
霧のように細かい光となって、ふわりと浮かび上がった。
通路にこもっていた警報音が、遠ざかっていく。
代わりに、静かな水音と、光の粒が舞い上がる気配だけが満ちていく。
鈴羽は、通路の奥から振り返り、その光景を目にして息を呑んだ。
萌郁もまた、ただ立ち尽くしたまま、
目の前で起こっている現象を理解できずにいた。
「……これが……」
誰のものでもない呟きが、空気の中に溶ける。
紅莉栖の輪郭が、柔らかく揺らいだ。
その頬から血の気が引いていく代わりに、淡い光の粒が滲み出す。
聖護の身体からも、同じように光がこぼれ出す。
痛みは、もう遠くなっていた。
(紅莉栖。
君の選んだ世界は、案外、悪くなかったよ。)
心の中でだけ、そんな言葉を呟きながら──
彼は、最後に志乃の顔を見つめた。
「志乃。」
声は、もはやほとんど空気に乗らない。
「ありがとう。」
その一言だけを残して、聖護の輪郭もまた、光の粒へとほどけていく。
志乃は、両手で自分の胸を押さえながら、必死にその光を抱きしめるように目を閉じた。
「……いかないで……
でも……一緒に、いて……
ずっと……ずっと……!」
その願いに、光が応える。
ぱあっと、通路全体がまぶしい白に満たされた。
⸻
光が収まったとき、
床にはもう、血の跡ひとつ残っていなかった。
そこにいたのは、両膝をついて呆然とする志乃と、
その肩に手を置いて支える鈴羽、
そして、まだ震えの残る手で携帯を握りしめたまま佇む萌郁だけだった。
「……お父さんと、お母さんは……?」
志乃が、かすかな声で問う。
誰も、すぐには答えられない。
だが、志乃は自分の胸に手を当てて、そっと目を閉じた。
「……ううん。
ここにいる。」
涙の跡を残したまま、彼女は静かに微笑んだ。
「お父さんとお母さん、ちゃんといる。
わたしの中で、しゃべってる。」
鈴羽は、喉の奥が熱くなるのを感じながら、
志乃の頭をそっと撫でた。
(……そうか。
本当に、“取り込んだ”わけじゃなくて──
一緒の場所になったんだね……)
萌郁は、その光景を見つめながら、
胸の奥で、今まで感じたことのない痛みを覚えていた。
(わたしは……
この子から、何を守れたんだろう……)
答えは出なかった。
ただ一つだけ確かなのは──
この瞬間を境に、志乃は本当の意味で「特異点」となった、ということだった。
世界の理からはみ出し、
両親の意思を抱えたまま、新しい未来へ歩き始める存在。
遠くで、まだ警報が鳴り続けている。
だが、その音はもう、先ほどまでのような恐怖だけの響きではなかった。
そこには、かすかな「始まり」の音色が混じっていた。
志乃は涙を拭い、立ち上がる。
「……行こう。」
小さな声で、しかしはっきりと言った。
「お父さんとお母さんが守ってくれた道、ちゃんと歩く。」
鈴羽も萌郁も、その言葉に黙って頷いた。
こうして──
槙島聖護と牧瀬紅莉栖は、世界から姿を消し、
志乃の中で、永遠に生き続けることになった。
それが、志乃が「特異点」から「志乃」という一人の存在として
新しい世界を生き始めるための、最初の代償だった。