レーヴリエールの辺境に位置する村、シャルムロン。その村は小さいながらものどかな空気で満たされていた。
村人たちはすれ違うと挨拶を交わし、子供たちは木製の玩具を手に舗装されていない道を走り回っては笑い声をあげている。
しかし、その平穏は一人の吸血鬼によって壊された。
炎が村を包み、木造の家々へとあっという間に燃え移っていく。
地面にはかつては人の形だったであろう肉塊がいくつか転がっている。
のどかだった村は今や混沌と化していた。
吸血鬼は人々の命乞いなど気にもとめず、事もなげにその命を散らしていった。
もう何人目かもわからない命を散らそうとした時、耳をつんざくような銃声が鳴り響いた。
熱と衝撃。吸血鬼の左目は一瞬にして光を失う。
最初何をされたか分からなかった。ただ、激しい痛みが顔の左側を支配していた。
倒れる瞬間に見えたのは物陰に隠れ、銃を構えた老齢の男。
そして、一夜にしてシャルムロンを恐怖の淵に陥れた吸血鬼はその光景を最後に意識を手放した。
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重いオークの扉を開けると、どっと熱気が押し寄せた。
煤と埃、麦酒の酸味と焦げた肉の匂いが混ざり合い、野太い歓声と木製ジョッキのぶつかり合う音が分厚い空気となって、店の隅々まで満たしている。
吸血鬼ハンター、シュピネンはその空気に眉を顰め、周囲を見渡しながら酒場内を歩き回る。
その場にいる誰もが、彼がまとう特異な雰囲気に、知らず知らずのうちに目を奪われていた。彼はハンターという荒々しい職業に似つかわしくない、
夜に溶けるような藍色の長髪。手入れの行き届いたその髪は背中を滑り落ち、光沢を放っている。彫刻のような端正な顔立ちで、その下に鎮座する瞳は憂いを帯びて紅色に輝いていた。
酒場の壁際の席に座る肉付きの良い中年の男が今回の依頼人だ。
「…今回の依頼は?」
その男と対面する席に腰を下ろしながら尋ねる。
すると、ビールジョッキを乱暴にテーブルに叩きつけ、憎々しげに言った。
「森の奥の古城に棲み着く、ディ・フルーホローゼの討伐だ」
「ディ・フルーホローゼ、ですか」
シュピネンはそこで初めて、周りに配っていた目を男に向ける。
「ああ、そうだ。あいつの城に行った奴らが酷い目にあって帰ってくるんだ」
それは彼女にちょっかいをかけるからだろう、という言葉は飲み込んだ。酷い目にあったというけれどどれも皆所詮かすり傷程度のものだった。
さらに吸血鬼には珍しく、人里に降りて人間を無差別に襲わず、ただ古城に棲み着いているだけ。
そんな人畜無害な彼女を皆が恐れる理由、それは吸血鬼に効くはずの弱点が効かないからだ。
吸血鬼の心臓を穿つはずの銀の杭も吸血鬼を退けるはずの十字架も効かない。
どんな魔法も呪術も彼女の前では意味を成さなかった。
故に
そんなわけでほとんどの吸血鬼ハンターは彼女に関する依頼は避けている。
「…承知いたしました。その依頼受けましょう」
しかしシュピネンはにこりと笑みを浮かべ、承諾した。彼にとって標的が何であろうと報酬が手に入れば関係ないのだ。
「報酬は…」
「そう急かすな。ほら、これだ」
テーブルに無造作に置かれた麻袋を開けると中身は十枚ほどの金貨だった。
「提示された金額と違うようですが…」
途端、依頼人の男は不機嫌そうに顔を歪めた。
「吸血鬼討伐は、街のためになる奉仕だろうが! それぐらいでもありがたいと思え!」
そして、グラスいっぱいの酒をシュピネンの顔めがけてぶちまけた。
「残りはお前が吸血鬼を狩ったら考えてやるよ。まぁ、せいぜい吸血鬼の餌として役立ってくれや」
男は吐き捨てるように言い放ち、足早に酒場を後にする。
「はぁ……最悪」
顔をしかめてハンカチで顔を拭った。酒の匂いが鼻につき、頭の芯がジンとする。
「さて、と…」
気持ち悪さに口を押さえながら、酒場で得た依頼書を広げる。
『森の奥に棲むディ・フルーホローゼの討伐。報酬は金貨50枚』と紙面には表されている。
依頼書に書かれた金額と手渡されたものを交互に見て思わずため息をついた。
汚れた外套を翻し、シュピネンは目的の古城へと足を踏み入れた。城は、苔むした石造りで、荘厳な静寂に包まれている。
そこには埃っぽさやカビ、腐敗といった廃墟特有の陰鬱な臭いは一切感じられない。その代わりに薪を焚べたような木々の匂いと古い革装丁の書物から立ち上る紙とインクの芳香。そして焼き菓子のような甘い匂い。
その城は驚くほどに生活感に溢れていた。
廊下の壁を飾るタペストリーは煤けているものの、虫食いはなく、上質な織物であることが窺える。足元は掃き清められ、まるでついさっきまで誰かが磨いていたかのように微かに湿った光沢を放っている。中庭を囲む回廊には、手入れの行き届いた小さな鉢植えが並び、季節外れにも可憐な花を咲かせていた。
「綺麗だな…」
警戒心をもちながらもどこか深い感銘を受けていた。
彼が討伐してきた吸血鬼は、例外なく醜悪な存在だった。血と泥に塗れ、皮膚は腐りかけ、悪臭を放ち、知性は獣に近く、死体を漁り、それを生きる糧としていた。
彼らは恐怖と穢れを撒き散らす「魔物」であり、シュピネンにとっては仕事の
標的を探していると一つの部屋から光が漏れていた。扉に手をかけそっと押し開けると、そこは寝室のような空間だった。
部屋は簡素ながら、清潔に保たれていた。床には使い込まれた絨毯、壁際には天蓋付きのベッドと木製のチェストが置かれている。その上には読みかけであろう書物。
豪華絢爛とは言い難いが、整然としていて、人の生活の営みが感じられた。
そして月明かりで照らされているソファの上。そこに彼女はいた。ソファに深く腰を掛け、時折サイドテーブルに置かれたティーカップに口をつける。
「…やっと来たのね。遅すぎて眠ってしまうところだったわ」
それはかつて、人々を恐怖に陥れた者の声とは思えない鈴の鳴るような透き通った声だった。
「貴女がディ・フルーホローゼですか?」
「ヘクセンタールではそう呼ばれているみたいね。全く人間たちもよくそんな珍妙なあだ名をつけるわ」
彼女から殺気は感じられない。シュピネンに背を向けたまま、ただ書物を
やはり、これまでの吸血鬼とまるで違う。
「用件は概ね分かってるわ。でも君、お酒の匂いがする。今日は大人しく帰って酔いを覚ましなさい」
「ご冗談を…。俺は依頼を受けています。それに…」
彼の言葉が途切れた。短剣を抜き、一歩、彼女に向かって踏み出す。
「貴女が今、人を襲わないとしてもいつか襲うかもしれない。ならハンターとして予防線を張っておくのは当然でしょう?」
言葉の語尾がわずかに笑みを含んだものに変わった。その瞬間、彼女は悟った。この男は戦いを避けるつもりがない。
「そう…」
彼女は諦めたようにため息をついた。読んでいた書物を置き、シュピネンの前に姿を現す。
頭から爪先まで覆う大きなローブ。フードを深くかぶっており、顔は判別できない。
(…小さいな)
シュピネンは人より長身ではあったがそれを抜きにしても彼女は子供のように小柄だった。
噂とのギャップに気を取られていると彼女の体が突如、残像と化した。
吸血鬼特有の常識外の初速。そしてシュピネンの脇腹めがけ、蹴りを放つ。
シュピネンはそれを容易に防ぐも、数歩後ろに退く。その体躯からは想像もできないほどの威力。
しかし、彼はそれに違和感を覚えていた。
(弱い…)
本来ならば、防御した上でも肋骨の一、二本は犠牲になっているところだ。手加減されているのは明らかだった。
シュピネンは持っていた短剣で彼女の身体を狙うが紙一重でそれを避けられる。
彼の一撃一撃には吸血鬼を確実に仕留めようという意志が宿っていた。なおも彼女は連続で攻撃を仕掛けたが、その度にシュピネンは体を捻り、躱し、時に短剣の柄でガードする。
(何よ…この男…!吸血鬼の攻撃をこんな簡単に…っ)
そして、次の瞬間シュピネンが繰り出した足払いを彼女は跳んで回避する。身体が宙に浮いた勢いで体格に合わなかったローブは肩からずり落ち、彼女の姿を露わにした。
「……っ!」
その姿にシュピネンは思わず息を呑んだ。
彼女は、陶磁器のように滑らかな白い肌でシミ一つない。
ゴシック調の深緑のドレスに、白い肌を覆うレースの手袋。純血の吸血鬼を象徴する月夜に輝く白銀の髪は猫の毛のように柔らかくふわりと風になびいており、血のような紅の瞳はまっすぐとシュピネンを射抜いていた。
左目のあるはずの場所には黒バラが咲いており、その存在が彼女の異様さを際立たせていた。花から生えた棘がわずかに皮膚に食い込んでいる。
「ぁ…」
形のいい淡いピンク色の唇が驚いたように動く。そして彼女はローブを掴み、再び顔を隠してしまった。
シュピネンはその姿を見たときには殺意を捨て去り、彼女の手を取ってこう言っていた。
「あの、お名前は…!」
「…ロンシア。…ロンシア・オーロール・デュ・ドルマンスよ」
その名前を頭の中で何回も反芻する。
シュピネンの心臓が早鐘をうつ。彼が生きてきた中でこんなに心を動かされた存在は初めてだった。
そう、一目惚れだった。
「ロンシア、貴女を愛しています…!俺のものになってはくれませんか…!」
シュピネンは、躊躇もなく、溢れる感情をそのまま言葉に乗せた。
その言葉にロンシアは何度か目を瞬かせる。
「何を、言っているの…?」
「貴女のその愛らしい姿に一目惚れをしてしまいました」
彼の言葉には嘘偽りといった感情は含まれていない。
通常の吸血鬼ならばくだらないと一蹴するところだろう。
(何よ…。何なの!? この胸の高鳴りは…!)
しかし、彼女は初心であった。
長年、憎悪や畏怖の念を抱かれていた彼女にとって人から好意を向けられたのは初めてだった。
「……よ」
「はい? ……っ!?」
ロンシアはシュピネンの脛を蹴り、悶えている隙をついてその部屋から逃げる。
道中、シュピネンの声が後方から聞こえてくるが振り返らずに長い廊下を走り抜け、隅にある客室の一つに入り、鍵をかける。
「これは呪い…。そう呪いよ! 呪いに違いないわ!」
そして彼女はその冷めやらぬ気持ちを誤魔化すようにそう豪語した。