「きゃあああああああ!!!!!」
今、月夜見は必死に逃げていた。何から? と聞かれればこう答えるしかないだろう。蟲、と。
「いやああああ!! 気落ち悪い!」
月夜見も女の子だ。当り前だが蟲などは苦手だ。しかもそれが、
「何でこんな力を持った妖怪が!」
蟲の妖怪とは、到底思えないほどの力を持った妖怪であればさらに恐怖が増すというものだ。如何やらダンゴムシのような妖怪で、硬い殻と幾本もの足で獲物を的確に追いかけてくるようだ。さらに体の大きさは、周りの樹木を越すほど大きい。
そんな妖怪が自分目掛けて全速力で襲いかかっているのだ。誰だって怖いだろう。
「キシャアアアアアア!」
カチン、カチンと顎を重ね合わせて、妖怪は月夜見を追いかけ続けている。しかも、
「は、速い!?」
いくら神とは言えども、月夜見は都市で暮らしていた神。山を歩くのは慣れていない。しかし、追いかけている妖怪は山で生き、野山を駆け回ってきた強者である。その速度を併せて考えれば、月夜見の今の速度なら遠からず追いつかれてしまうだろう。
「きゃあ!」
そして運の悪い事に、月夜見は足元の石につまずいてしまった。
「シャアアアアアアア!!!」
転んでしまった月夜見の元に、蟲の妖怪はすでに迫っている。今更立ち上がって逃げたところで間に合わないだろう。
(何よ。修行、修行、修行で最後はこの結果。もうちょっと私の事も考えてくれたって良いじゃない)
「命の馬鹿ーーーーー!!!」
この状態でも頭はなぜか働き、咄嗟に命に対する悪口が出てきた。
「誰が馬鹿だ」
だけど、その声が聞こえた時に月夜見は確かに安心した。どこかで見ているだろうとは思っていたが、それでも助けてくれたという事実が嬉しかった。
「キシャア!!!?」
突然現れた人影に驚き、動きが止まった瞬間、人影は動き出した。
「地獄枕!」
人影が持っていた何処にでも落ちている木の棒が、縦横無尽に妖怪を襲う。太刀のように切り裂けば、薙刀のように薙ぎ払い、そして槍のように貫く。それらが一瞬で複雑に変化をして襲うのだ。知性の低いこの妖怪では対処などは不可能だ。
妖怪はズシンと地響きを立たせて倒れる。それと同時に木の棒は限界を迎えて折れてしまう。
「やれやれ。食料を求めるためとはいえ、妖怪の巣に足を踏み入れるからだ。馬鹿者」
「なによ! 知らなかったんだからしょうがないでしょう!」
「甘えるな」
バチンという音ともに、月夜見は後ろに五メートル吹き飛んだ。命の凸ピンによってそこまで吹き飛ばされたのだ。シュ~という音ともに、命の指先と月夜見の額から白煙が上がる。
「お前は神だろう。しかも太陽に対をなす月の神。自然神としての格を考えろ。お前なら自然のすべてを掌握できるはずだ。単純に怠けているから、そういった基礎的な力が成長していないのだ」
「そんなこと言われたって!」
「因みにだが、今回の修行については私ではなく、お前の姉である天照様からの願いだ」
「え?」
唯一の逃げ道が存在しなかったことを知った月夜見は、奇妙な叫び声をあげて気を失ってしまった。
「じぇろにも~~~~~!!!!!!」
「何だその悲鳴は?」
ぱちりと命は目を覚ました。そこはどこかの家のようで、非常に広い家のようだった。天井までかなり高く、命の背丈の二倍以上は悠々あるだろう。
「おいおい。何で一刻も経たないうちに目を覚ましているんだよ。絶対お前、人間じゃないだろう。ってその前に腹に大穴空いて生きている時点で言うべきか」
そう言うのは小さい一本角が特徴的な鬼だった。笑いながら鬼は立ち上がり、他の鬼たちを呼んでくる。
「おう。本当に起きてやがる!」
「へっへっへっ。賭けは俺の勝ちだな。肴は戴くぜ!」
「ああ、畜生! 負けた! もってけ、泥棒!」
如何やら、鬼達は命を賭けの対象にしていたらしい。
「う、むう。ここは見たところ、鬼の住処か?」
「そうさ。いやあ、勇儀の姐さんがお前を気に入っちゃってね。さらうというより、客人として招待したのさ。それに、アンタの怪我は人間じゃどうしようもないからな。鬼の俺たちが妖術で治療したほうが、格段に完治が速くなるだろうからな」
確かに命の怪我は不思議なことに大穴がふさがり、既に多くの傷は癒え始めている。
「ふむ。素晴らしい治療だな」
「そうだろう! 何せ俺が治療したんだからな! 喧嘩はからっきしでもこれだけは誰にも負けねぇ!」
そう鬼が言い切るだけの技術は確かにそこにあった。
「これは妖術に、舌に残る味から漢方か。懐かしいものだな」
「というより、アンタの体が異常すぎるんだよ。ふつう、もっと治療に時間はかかるんだがな」
そうぼやきながら鬼は立ち去っていく。まあ、後は鬼に出来ることはなく、命の体次第だ。
「おっと、起きたかい」
そう言って今度は勇儀が、命の所にまで来た。
どっかりと床に座り込んで、勇儀は酒をあおる。
「いやはや、もう動けるのか。本当に人間なのか、お前は?」
「人間だ」
「まあ、そうだろうね」
「飲むか?」そう言いながら、勇儀は酒杯を命に渡すが、命はそれを断った。
「この体で如何やって飲めというのだ」
「それもそうだね」
うまそうに酒を飲む勇儀と苦々しい顔で寝ている命とでは、勝者と敗者は逆に見える。
「そうそう。アンタに一つ言っておくよ。村の人間がね、あの後私たちの所まで来たのさ」
どこか嬉しそうに、勇儀はその話を始めた。
時間は、勇儀が命の勝ちを宣言した後にさかのぼる。
鬼達のいない場所である集団が動いていた。そこには死を覚悟した若い男たちがいた。そしてその集団の前には、命によって気絶させられた村長もいた。
命と勇儀の闘いの余波で轟音が響き、その音で目を覚ましたのだ。それだけなら、今こうして男たちは集まっていない。村長は、考えてしまったのだ。自分たちの村の事を、あのような若者一人に押し付けてこのままで良いのかと。自分たちの問題に入ってきたのはあの青年だったが、それでも自分たちの面倒は自分で見なければならない。そうではないかと。
そう考えた村長は、若いものと退治屋を集めて、鬼達と戦おうとしたのだ。
「良いか。あと少しで鬼が指定した沢に着く。我武者羅に戦え。それが儂らに出来る最後の抵抗じゃ」
「「「おう」」」
若者たちが雄々しく、手に持つ鍬や鋤を天高く上げる。これから殺されるというのに、何処までも力強い瞳をしながら。
「元々俺たちが戦うべきだったんだ!」
「それを、旅人に押し付けてしまった!」
「これじゃ、ご先祖様に申し訳ない。こんな肝っ玉のない男なんて一族の恥さらしになっちまう!」
男たちも退治屋も、それぞれが武器を構えて、鬼達が集まる方面に進んで行く。
その行進に気が付いた鬼達は、訝しみながらも彼らに注意を向けた。
「何用だ、人間よ?」
「儂らはあの村の者だ。ここで戦っていた男を返しに来てもらった。元々、あの人は旅人。あの人とは関係ない。我らの村は我らで決着するべきだったのだ! 儂らは儂らで最後を迎える!」
村長の声を聞いて、多くの鬼は呆気にとられた。しかし、一人の鬼が笑いながら前に出てきた。それは手には巨大な棍棒を持った鬼であり、力ある存在という事は村人たちにもわかった。
「わははははははは! 何だ! この村は既に強い人間でいっぱいだったじゃないか! こんな事なら一人ではなく、全員と戦っても良かったな!
安心しろ、村人よ! お前たちが心配している人間は、勇敢に戦って、鬼を打倒した!」
「なっ!?」
村長を含め、全ての村人はその言葉に騒ぎ始める。当り前だ。たった一人で鬼を倒すなんて信じられないのだから。
「とはいえ、人間の傷は深い。我ら鬼ならまだしも、お前たち人間では怪我をいやさせる事が出来ず、死なしてしまう程に。彼は我ら鬼が責任を持って預かり、怪我を治療しよう。怪我が癒えたら、お前たちの村に連れて行く」
「それは、本当にか?」
「鬼は嘘をつかない!」
その力強い宣告に、村人たちは呆然としてしまう。自分たちが死ぬ覚悟をしたのに、旅人は呆気なく買ってしまったのだから。
「それとだ、我ら鬼はお前たちの村には、二度と手を出さぬ。そう約束したからな」
歓声が爆発した。それは、村にとってどれだけ願った事だっただろうか。毎年、年若い娘は攫われることもあった。命を奪われた男もいた。反撃するために、鬼を倒す方法も創りだされたが、それとて必ず鬼を倒せたわけではない。結局逃げることもできず、とうとう村が滅ぶ瀬戸際まで来ていた村人たちにとって、これはどれだけ嬉しい事か。
村人たちは肩を組み合い、涙を流しながら命に感謝し始める。
「ああ、旅人よ。ありがとう。我らを救ってくださって!」
勇儀はその話をうれしそうに終えた。
「今どきの人間は、だんだんと嘘を吐くようになった。卑怯に、卑劣に、そして脆弱に流されてきた。だが、あの村人たちを見ろ。我ら鬼を恐れながら、義を忘れず闘おうとした! 何とも勇敢じゃないか!」
「……うれしそうだな」
少々苦しそうにしながら、命は勇儀に話しかける。
確かに勇儀の顔は何処までもうれしそうに笑っていた。
グビリ、と喉を鳴らしながら、ユギは酒を飲みほして、涙を流しながら言う。
「うれしいに決まっているだろう! 見限っていた人間が、私達の予想を覆したんだ。これが嬉しくなくて、何が嬉しいって言うんだい!」
「そうか」
それを聞いた命の口元は、わずかに笑みを浮かべていた。優しく、鬼という名の、一人の少女を眺めていた。
「鬼は人間を友だと思っていた。私たち鬼は人間を襲い、人間が鬼を退治する。それが古代から続いていた友情だった。だけど、それはどんどん変わっていってしまった。罠にはめて、嘘をついて、そして倒そうとしている。だけど、今夜集った人間は違った。策もなく、力で負けるのに、勇気で勝とうとしていた! それは昔からの、昔の友情と変わらない!」
「人は怖いものを恐れる。しかし逆に、怖いものを乗り越えようともする。恐怖を克服したり、飼い慣らして。それはいつかきっと、鬼という絶対的な恐怖に勝てるほどに」
「そうなってほしいもんだよ」
笑いながら、勇儀と命は話を続けていく。日が明けて、あの鬼が来て叱られるまで。
だがそこまでの光景は人間から見て、まるで長い友との語り合いのように見えていたことを、彼らは知らない。それは彼女も。
彼女は人との友情を欲していた。かつて存在していた友情を。しかしすでに彼女は手に入れていたのだ。人間と鬼との、戦いだけではない友情を。