かなり長いのでお気を付け下さい。
命と美鈴は紅魔館の庭で構えを取ったまま、石像のようにぴくりとも動かない。
霧が蠢いて二人を包み、取り込んでいく。完全に外界から遮断された二人は、それでもかたくなに動かない。いや動けない。
下手に動けばその隙を突かれる。
相手の力量を互いに高く評価しているからこそ、この膠着状態は生まれた。不用意な行動こそが命取り。攻めを焦れば死に、体を竦ませれれば死ぬ。わずかな動き一つで決着がつく。だから、動けない。一度様子見に入った二人は、そう簡単に動くわけにはいかなかった。
だが、動かなければ何も始まらないのも事実だ。コキリと指の骨を鳴らし、命は広めに構えを取って視野を多くする。それと同時に、すり足であるが確かに少しだけ動いた。じりじりと近づく命に対して、美鈴は動かず、むしろ腰を落として迎撃の意志をみせる。
命が迅雷を思わせる速さで踏み込む。土は砕け散り、その分のエネルギーがすべて命の前進に使われ、その身体を一つの弾丸と化す。いや、それは大砲だ。命自身が一つの砲弾として、相手を突き崩そうとしたのだ。
しかしいくら速くとも弾は先に獲物がいなければ当たらない。美鈴は命の動き出しよりも早く動いていた。彼女は深く腰を落としていたのは事実だが、かかとを僅かに上げていた。それにより美鈴は四方八方自由に動く事が出来る。命の動き出しに合わせて彼の体当たりの範囲から外れる場所へ移動する事も。
命の体当たりを完全に流しきった美鈴は、震脚を効かせ踏み込む。その震脚は地面が揺れてへこむ程だ。大地を破壊するだけの力全てが、足腰を通じて美鈴の腕へ流れ込む。
そしてその流れは、美鈴の肘で爆発する。命のわき腹目掛けて、美鈴は肘をつきだした。人体の中でも特に固い肘。その肘で体全体から生み出されたエネルギー全てを使い、ぶち放つ一撃だ。大岩だろうが何だろうが全て粉砕する力はある。
命を殺そうと襲い掛かる美鈴の肘は、しかし彼が前進しながらも全力で地面を踏み砕いて生み出した岩の礫に邪魔をされてしまう。確かに礫程度で美鈴の一撃は弱る事すらしない。しかし命の狙いはそこではなかった。地面が砕けるほどの脚力で放たれた石の礫は、散弾となり美鈴の体に当たり、彼女の体の勢いを弱める。さらには、命の突進の勢いまでをも反動で、無理やり押しとどめる。それが命の狙いだった。
命の狙いが功を制し、美鈴の肘は彼の服を掠めて引き裂きながらも、空振りさせられてしまう。
空振りして死に体になっている美鈴の腹部、鳩尾を目掛けて命が鋭い貫手で突き刺そうとする。風すら貫きながら迫る貫手は、しかしあとわずかというところで、美鈴の手によって軌道をそらされてしまう。美鈴のわき腹を掠めて外れた貫手は、風圧だけで庭の飾りの噴水を破壊する。
噴水から水が噴き出ると同時に、二人の体からも血が飛び散る。先ほど掠めた際に出来た傷から、血が飛び出したのだ。その流れ出る血液は、地面に血だまりを作っていく。
ぐらりと僅かに片方の体が傾く。
それを見てもう一人の瞳が光る。その瞳は既に人としての理性をとどめていない。強者としての、獣の本能が現れていた。即ち、絶対的な隙を見つけたと。
「しまっ!」
弱った獲物は命だった。
美鈴は命の下に潜り込む。あまりに美鈴の動きが速く、彼女の周りにまとわりついていた霧が吹き飛ばされる。
美鈴が命の懐にもぐりこむと同時に、彼は苦し紛れの手刀を彼女めがけて降ろす。断首の刑に使われる斧の鋭さと力を持った手刀は、しかし二の腕を美鈴に掴まれて振り下ろされることはなかった。
「斧刃蹴!!」
「っつ!」
命の攻撃を防いだ美鈴は、命の脛を鋭く蹴りつけ動きを鈍らせる。脚にダメージを負ってしまい、動きが鈍ってしまった命をさらに追い詰めるため、美鈴は上下のコンビネーションで果敢に攻め立てる。
顔を狙った拳が飛べば、脚に追撃をするために蹴りが翻る。かと思えば、上段の蹴りが頭を粉砕しようと迫り、拳が腹部を狙う。ダメージによって動きがぎこちない命にとって、それらの攻撃は苛烈で防ぐだけでも困難なほどだ。
しかし美鈴にとって、この連撃は唯のジャブでしかない。ダメージを負わせるよりも、動きを止めさせるのが目的でしかない。この連撃で隙さえできれば、彼女は最大級の一撃を命に放つだろう。
そして連綿と続く攻撃の嵐に、命も限界が近づき攻撃をさばききれなくなっていく。それを見た美鈴はさらにエンジンを回す。攻撃の速さが増していく。美鈴ですら体中から汗を滝のように流す。歯を食いしばり、般若をも凌駕するほどの形相を浮かべて彼女は死力を振り絞る。
そしてとうとう美鈴の放った突きが命の顎を掠めた。命の首が大きく回転し、膝が崩れる。命の体全体が糸の切れた操り人形のようになってしまう。動きが止まり、一瞬だけだがそこには隙が生まれた。
「そこだ!!」
勝負が決まる。美鈴はそう読んだ。
今までの速度だけで威力はほとんどない突きから、防御ごと突き砕く一撃へ切り替える。
体全体が唸りを挙げて、突き進む。素戔命を倒す。ただその為だけに。
振るわれた腕によって音が置き去りにされ、空気がはじけ飛ぶ。衝撃は後から拡散しながらも美鈴の腕を追いかけていく。地殻すら粉砕するであろう程の力が込められた美鈴の全力の一撃。幾ら命でも直撃すれば死は免れないだろう。
「なっ!?」
だが、それは当たればの話だ。
真っ直ぐに顔面を粉砕するために放たれた美鈴の腕を、命は竜巻のように回転しながら横から掴み取る。体全体を回すことにより、命は美鈴の一撃を紙一重で避けきったのだ。しかし完全に避けきれたわけではない。美鈴の発した拳の拳圧や衝撃により、命の顔にはこめかみ辺りから後頭部まで赤い線が刻まれる。
命の行動はそれだけで終わりではなかった。美鈴の腕をつかんだことで、命の回転に彼女を巻き込む。逃げようにも重心が前に傾いてしまっている美鈴は、なすすべなく命に捉えられてしまう。
覚った、美鈴は。今の隙は命の罠だったと。
先ほどの隙を作り出したと美鈴が思った一撃は命の顎を掠めていない。命が演技して美鈴を完全に騙したのだ。それもわざわざ拳を顎に接触させてまでした演技。美鈴の一撃が当たる瞬間、拳のダメージを無くすために首を回して命は彼女の攻撃の威力を完全になくしていた。美鈴は拳に命の体に当たった感触があったからこそ、命の演技に騙されてしまったのだ。
しかしそれは普通の避け方よりもはるかに危険だ。タイミングが遅ければ直撃を受けるし、早すぎれば完全に回避してしまうだけで美鈴を騙せない。そうなってしまえばさらに命の動きの一挙手一投足を警戒するだろう。そうなれば、長期戦にまで持ち込まれてしまう。命にとってそれは今拙いのだ。
だがそれでも命はこの避け方を選んだ。虎穴に入らずんば虎児を得ず。危険を払わなければ、美鈴に負けると命は判断し賭けに出ていた。そしてその賭けは成功した。
「涅槃の奏音」
竜巻のように回転している命は、美鈴の頭を掴み遠心力とその腕力を駆使してぶん投げた。その回転の速さに、足元の地面からは砂煙が沸き立ち、へこみが生まれている。また紅魔館を覆っていた全ての霧は、命の回転に引き寄せられ竜巻を作り上げ、彼の回転が終わると同時に一気に拡散してしまい、一時的ではあるが紅魔館付近からなくなった。
それほどの回転と命の馬鹿げた筋力によって投げられた美鈴は体勢を戻す事すらできずに、紅魔館の門へ激突してしまう。盛大な音と共に美鈴を受け止めた門が吹き飛ぶ。
壊れた門と壁によって砂煙が沸き立つ。命は残心を取りながら、ただじっと美鈴を投げた方角を睨みつけている。
煙が晴れ、ようやく視界が戻る。吹き飛ばされた門の中央に美鈴はいた。磔刑に処されたかのように、彼女の体は歪んだ門に拘束されている。
もう彼女の体は動かせないだろう。
門に身体をとらえられたのもある。しかしそれ以外の要因もある。吹き飛ばされ、門に衝突した衝撃でアバラが砕け臓器に刺さったのか、美鈴の口からは粘度の高い血液が溢れだしていて、立ち上がれるほどの力は、もはや残されていないだろう。
「負け、か」
彼女は体中を奔る痛みで思わずしかめそうになるが、ただ黙って目を瞑った。その表情は朗らかな、満足しきった笑みだった。
持てる全てを出し切り負けたのだ。美鈴は死ぬ事などおしくはなかった。いや、むしろ今こそ武人として死ぬべきだと思ってすらいた。戦って負けたのなら死ぬ。それは武人として生きた彼女の死に対する価値観だ。
負けた者には死。それがすべてであり、それ以外はあり得ない。妖怪として生まれ、生きてきた長い年月。不満もあったが、最後にここまでの闘いをできたことに、そして相手をしてくれた命に彼女は感謝して死のうとしていた。
だというのに、彼女は不思議に感じた。何故死を覚悟したというのに、今更生きたいと思っている自分が心の中にいるのか。
噴水の噴き出す音、庭に咲いている花の香り。そして体にまとわりつく紅い霧の冷たさと包み込むような温かさ。暗闇がもたらす安らぎ。五感が冴えわたり、世界をより強く感じる。だがそんなものよりも、彼女は一人の少女が気になった。
自分と同じ獣の少女。理性ではなく本能で生き、全てを粉砕するまで自分を抑える事の出来ない哀れな少女を。少女をもう少しの間、見守っていたかったと。
(何で、今さらこんな事を考えているんだろう。普段はこんなこと気にしないのに)
疑問が心に巣食った美鈴だが、詮無き事だとそこで考えを終わらせてしまう。少し、それが持ったないと思いながら。
近づいてくる音が聞こえる。美鈴はわかる。それが命が止めを刺しに来ていることを。
「さようなら」
一体誰にその言葉を告げようとしたのだろうか。美鈴自身ですらわからなかった。
(最後の最後に牙が抜けるなんて、私は獣ではなかったのか)
紅魔館が一望できる上空で、霊夢とレミリアは再び弾幕を嵐の如く撃ち合っている。闇夜を切り裂き、大気を捻じ曲げる二人の撃ち合いは、まさしく弾幕と呼ばれるにふさわしい。近寄れば流れ弾に当たる事は間違いないだろう。それだけの壮絶な戦いを二人はしているのだ。
先ほどまで回復に専念していた二人だが、ある程度まで力を取り戻した今、より激しい戦いを繰り広げている。もはや余力を残す必要はない。死力を振り絞り、二人は全てをぶつける事が出来るのだ。その結果がこの苛烈な弾幕ごっこだ。
レミリアは高濃度の魔力弾を掃射して霊夢を落としにかかり、逆に霊夢は退魔に使う針を精密に狙い狙撃する。
思うようにいかない苛立ちの所為か、だんだんとレミリアの攻撃は粗くなっていく。
彼女は長い時を生きた吸血鬼であるが、生まれながらに強かった事と、そもそもが戦いという経験自体が少なかったために、我慢が効かない。忍耐するのに慣れていないのだ。
当たらない攻撃に、自分を確実に落とそうと迫りくる針。二つの苛立ちが彼女から冷静さを、薄皮を剥ぐように少しずつ奪っていく。
冷静さを失ったレミリアの弾幕は、速度こそ速くなっているが弾幕はコントロールを失い始めている。とはいえ、その弾幕がいまだ脅威なこと自体は変わらない。その圧倒的な物量は多少のブレ位ならカバーできる。
しかし相手が悪すぎた。霊夢はそこらの有象無象とは違う。彼女が持つ天性の勘は、弾幕ごっこにおいて絶対的な優位性を保つ。博麗霊夢に弾幕は当たらない。そう結論付けられるほどに。
霊夢の勘は常に彼女にとって最適な避け方を導き出す。勘によって導きだされたルートに従う限り、霊夢が弾幕で打ち落とされることはない。
さらに霊夢の能力は、プレッシャーや恐怖から彼女を解放する。迫りくる弾幕がどれほど強大であろうと、不安を感じることなく彼女は行動できる。
それは戦いにおいて、かなりのアドバンテージとなる。ありとあらゆる戦いで第一に大切なものが、胆力。すなわち、度胸だ。度胸が無ければいくら優れた技に力を持っていても、手を出す事すらできない。一方的に攻められるだけのサンドバッグになるだけだ。
だからこそ、戦うものには闘志や気迫などのメンタル面の強さが必要になる。博麗霊夢の精神は、プラスにはならないが、マイナスになる事もない。それは彼女の精神が、逆境でも変わらないでいられる強さがあるという事だ。
常人には決して到達できない勘の鋭さと揺らぐことのない精神は、弾幕ごっこにおいて最強の武器となる。
そして常に100%の力を発揮できる安定した究極の精神性。それが博麗霊夢が博麗を名乗れる最大の理由でもある。
「そんな!!」
だからこそ戦っていくうちに、妖怪であるレミリアは博麗霊夢という存在を信じられなくなっていった。
先ほどから自分が放つ魔力弾を、霊夢は紙一重でよけ続ける。少しでも避け方を誤ればその時点で霊夢は打ち落とされる。それだけの力は込められているのだ。なのに、レミリアの目の前で踊るように弾幕を避けている少女は、そんな事を気にしていない。恐怖に縛られず、自由に空を飛んでいる。
それが可笑しい。恐怖しない人間などあり得ない。そんな存在はもはや人間、それどころか生物として異常だ。
恐怖という感情から生まれた妖怪にとって、恐怖を感じない博麗霊夢は天敵になる。霊夢と相対するという事は、妖怪にとって常に存在を否定されることに他ならない。
じわじわとレミリアの中にあるべきものが欠落していく。つま先がかじかんだように動かなくなり、感覚が失われ、弾幕の勢いも見る見るうちに弱る。それはレミリア達が外の世界にいたころに感じていた、力の衰弱と同じものだった。
拮抗していた力が崩れた。レミリアの弾幕は霊夢の退魔針の力に調伏されていく。レミリアは躍起になりながらも力を込めるが、それでも霞のように魔力弾は消されてしまう。
「どうして!? 何故! 何故!! お前は何だ!!?」
錯乱しかけたレミリアの耳に、霊夢の冷めた声が届く。
「私は博麗の巫女よ」
闇夜を虹色に輝く球体が照らし出す。赤い霧の中でも強く光り輝くそれは、太陽の光を見る者に思わせる。霧はその輝きに照らされると薄くなり、消えてしまう。冷たく冷めきった世界は、霊夢が生み出した光に照らされて、温かくなっていく。
その光に照らされたレミリアは動く事が出来なくなってしまった。レミリアにとって忌々しい太陽の光。それを思わせるのに、霊夢が作り出した光は吸血鬼であるレミリアすら優しく包み込んだのだ。今まで感じたことのない温かさを肌に感じ、少女はその光に心を奪われてしまう。
『霊符 夢想封印』
その光に見惚れていたレミリアは避ける事すらできず、霊夢のスペルカードを受けてしまい、落ちていく。
博麗霊夢はこの異変の元凶であるレミリア・スカーレットを討った。それにより急速に赤い霧が晴れ、太陽が幻想郷に顔を出していく。
博麗霊夢とレミリア・スカーレットが戦っている頃、図書館には三つの人影があった。一人は紫色のコーディネートが特徴的な服装のパチュリー・ノーレッジ。もう一人は三角帽子にモノクロな格好の霧雨魔理沙。さらにそんな二人をかいがいしく世話をしているのが、コウモリのような羽を背中から広げた赤い髪の毛の小悪魔と呼ばれる悪魔だ。
「まさか私が負けるなんて」
「へっ! 勝ち負けなんて時の運さ。今回は偶々私が勝てただけ」
その言葉に、眼をしばかせたパチュリーは呆然とした風に囁いた。
「貴方みたいな人間がそんな殊勝な言葉を知っているなんて」
「おい。どういう意味だ」
少し前までは戦っていた二人だったが、今はお互い机を挟んで座り心地の良いふかふかの椅子に座っている。明かりこそランタンを使っているので薄暗いが、それでも机を挟んでいるお互いの顔を見る程度なら問題ない。
「それにしても、やっぱりここは広すぎるだろう」
「そういう趣味の奴がこの館にいるのよ」
魔理沙の文句にパチュリーは私の所為ではないと主張して、机の近くに有った本を掴んで魔理沙に手渡す。
「あん? 何だこりゃ?」
「あら、貴方が言ったでしょう? 秘密主義は流行らないって。だから、貴方に私の魔法を少しだけ教えてあげるわ。そこに書いてある魔法理論は、私が二十年前に構築したものだけど、私はあまり使わない魔法なのよ。暇つぶしの考察程度だけど、貴方には十分な教材になるでしょうから、持っていきなさい」
その本は古い羊皮紙に細かいラテン語でびっしりと書きつづられた本だ。赤い表紙には題名が書かれており、『光魔法と熱魔法の効率運用の方法と魔力コントロールの課題とその解消方法』と名を打たれている。
まさしく、魔理沙がのどから手が出るほど欲しいと思う書物だった。魔理沙が得意とする魔法は光と熱を発生させるものだ。しかし、得意とするからと言っても生粋の魔女であるパチュリーから見れば全然であった。
魔力量の問題はあるが、それでもミニ八卦炉を使わなければマスタースパークを使えないというのはいただけない。魔理沙の魔力量でも二・三発くらいなら自前の魔力でマスタースパークを放てるはずなのだ。それが出来ないのは、魔法構築が魔理沙に不適合な物を使っている事と、魔力コントロールがいまだ完全ではないからだ。
だからこそ、手渡された教本になりうる魔導所は、魔理沙にとって純粋に有りがたかった。
「良いのか、これ!?」
「さっさと持っていきなさい。それくらいの内容なら覚えているから」
魔理沙はパチュリーの言葉に喜びをこらえながら懐に魔法書をしまう。分厚い本の重さが、魔理沙の期待を深める。大辞林ほどの大きさもあるのだ。かなり詳しい考察でまとめられているに違いないと、魔理沙は今から胸の鼓動を速めていた。それこそ時間と場所さえ許せば、魔理沙は本を開いて研究を始める程に。
体をそわそわとさせたまま、彼女は急いでイスから立ち上がり二人に別れの挨拶を告げた。
さっそく帰って、魔法書を読もうと思っているのだ。何のためにわざわざこの館に押し入ったかも、そして今自分が迷子だという事を忘れて。
「じゃあな、二人とも」
パチュリーは既に本を開いて読み始め、魔理沙に関心が無いよう装っているがその耳はわずかに赤い。小悪魔は魔理沙を微笑ましそうに見つめ、笑みを浮かべて手を振ってくれていた。
「また来てくださいね。パチュリー様も貴方を気に入ったみたいですし」
「こあ、うるさい」
照れ隠しなのか、パチュリーは自身の足元に置いてあった本を手に取り、小悪魔に投げつけて無理やり言葉を遮らせた。
「こあ!?」
二人のコントのような光景を笑いながら見ていた魔理沙だが、その笑みがこわばった。体全体を鳥肌が覆いつくし、震えが止まらなくなる。
霊夢と違い、魔理沙には天性の勘はない。だがそれでも生存本能が危険信号を出して、伝えたのだ。人がふれてはならない禁忌の力がすぐそこで蠢いたのを。
それは狂気を秘めた、津波のように全てを押し流す力だ。脆弱な人間程度では防ぐ事が出来ないもの。闇の中でこそ輝く、ほの暗い光。それが怒りを孕み暴れだそうとしている。
魔理沙の次に気が付いたのは、パチュリーだった。彼女はとっさに机を倒して、その陰に魔理沙を引き込んで覆いかぶさる。小悪魔もその動きを見て、パチュリーと同じように机の影に隠れた。
図書館全体が揺れた。奥の壁が吹き飛び、いくつかの本棚が破壊される。
「な、何だったんだ、今の?」
もうもうと煙が立ち込める中を魔理沙は、自分の背中にのしかかっている物を押しのけて体を起こした。図書館は酷い有様だった。本棚は砕け散り、そこに収められていた本が地面に落ちたり、中にはバラバラになって宙を舞っているものもある。地面には瓦礫が散乱して、酷い惨状だ。
「そ、そういや、パチュリーは?」
「こ、こよ」
弱弱しい声が聞こえた。魔理沙はその声が自分の足元から聞こえた事に気が付きそこを見ると、さっきまで魔理沙の上に覆いかぶさっていたのがパチュリーだと気が付いた。
「お、おい!!?」
「う、うるさい、わよ」
魔理沙は倒れ伏していたパチュリーを抱き起そうとした。その時ぬるりとした感触が掌に伝わり、魔理沙は手を見ると、赤くぬめりけのある液体が掌を真っ赤に染めていた。
「え?」
パチュリーの背中には大きな木の破片が突き刺さり、そこから血をだくだくと流して、床に血だまりを作り始めていた。血だまりは広がって、魔理沙のスカートを血で汚す。
「な、お前、どうして、どうしてお前がこんな怪我を! お前、私を庇って!」
「単純、な話よ。魔女である私と、
息も切れ切れにパチュリーは無感情にそう言い切った。それは正しく魔女だった。感情に流されず、損得あるいは理論によって行動する魔女に相応しい行動だ。
「それに、わた、しにはこあ、がいる……から」
しかしすぐに、パチュリーは続けた。たどたどしく震えている声であったが、その声には確かな信頼があり、彼女は笑みを浮かべて気を失った。
魔理沙が握りしめた拳はぶるぶると震えている。その顔にはこらえきれない怒りが込められていた。彼女は許せなかった。ただ守られただけの自分が。自分を庇ってパチュリーが怪我をしたこと。それが彼女は許せない。
「ふざけんなよ。ふざけんな!!」
抑えきれない怒りを吐き出した魔理沙は、自分の服で清潔な部分を選び引きちぎる。その布をさらに切って簡易的だが包帯を作ると、パチュリーの傷を包帯で締めて強く圧迫していく。
だがそれでも、
「クソ! 傷が大きすぎる!!」
パチュリーの傷は酷すぎた。小さい傷などは問題ではない。それらは無視しても問題なかったし、ある程度までの傷は魔理沙が止血したことで、流れる血の量は少なくなっている。だけど、一番大きな傷だけはそう簡単にはいかなかった。
その傷は掌の大きさ程もある木片が深く突き刺さっている。下手に木片を抜けば失血が酷くなり、パチュリーがもたない。だからといってこのままでは、遠からず失血死してしまう。
(どうする!? 命に教わった応急処置じゃ、対処しきれない。家なら魔法薬の一つや二つあるから治療できるけど、さすがに手元の薬じゃこれだけの傷を治す事はできない)
わからない。何をすればパチュリーを助けられるかが。魔理沙は唯立ち尽くすしかできない。それが彼女は嫌だった。歯を砕かんばかりに噛みしめ、喉から嗚咽が漏れる。
「畜生、畜生。私は何もできないのかよ! 結局いつも命と魅魔様を頼ってばかりで何もできないのか!!」
魔理沙とパチュリーは本当にわずかな時間の付き合いだ。それでも、彼女たちには確かな繋がりが生まれていた。
パチュリーは戦いの中で魔理沙を認め、魔理沙はパチュリーを自身よりはるか先にいる魔法使いだと理解した。そんなパチュリーが魔理沙に本を渡してきた時、彼女はうれしかった。
魔女が魔法書を渡す。それは確かに魔理沙の発した言葉もあるだろう。しかし、パチュリーが魔理沙の言葉に納得したのは、魔理沙の実力を評価して対等に見たからだ。だからこそ、彼女は魔理沙の言葉を取り入れようと思ったのだ。子供でも普通の魔法使いでもなく、霧雨魔理沙という魔法使いを信じ。
今まで魔理沙の周りは魔理沙を対等に見たことが無かった。当り前だ。命は魔理沙を里の子供として見て、魅魔は弟子として見ている。霊夢は友達であるが、それだけ。霊夢と魔理沙では大きな差がある。才能という差が。それは魔理沙にとってコンプレックスでもあった。そんな訳はないとわかっていても、常々霊夢は自分を見下していると感じてしまう程に。
そんな環境化を過ごしてきた魔理沙は、初めて他人に対等に見てもらえたのだ。それはとてもうれしかった。だというのに、自分を認めてくれた相手が死にそうなのに何もできない。その無力感が彼女を苛み責める。
「出来ますよ」
悔しくて泣いていた彼女に、優しい声がかけられた。その声がした方に振り向くと、片方の腕から血を流し、そこを逆の手で押さえた小悪魔がそこにいた。
「貴方は魔法使い。私は悪魔。二つの魔がそろえばそれくらいできます。パチュリー様からは後で怒られるでしょうけど、貴方が私と契約すればパチュリー様は助けられます」
悪魔。人間と契約してその代償として魂を奪う魔。彼らは契約を破らない。絶対に契約を順守する存在。だが、だからこそ彼らは人間がいなければ何もできない。契約されなければ彼らは力を発揮できないのだ。
「ほ、んとうか。本当にパチュリーは助かるのか!!」
「ええ。ですが、貴方にも代償はあります。貴方の魂の一部は私が戴くことになります。それでも良いというのなら、私はパチュリー様を助ける事が出来ます」
魂の一部を失う。そう聞いた瞬間、魔理沙は凍てついた地獄に、裸で投げ入れられたかのような恐怖を感じた。小悪魔の語った内容が真実であるとわかったからこそ、魔理沙は恐怖に侵された。自分という存在を構成する一部を奪われるのだ。躊躇わないはずがない。それでも、彼女は
「頼む。それで、それで本当にパチュリーを助けられるのなら、契約だってなんだってする!!」
震えながら、彼女は閉じようとする口に負けないように吠えた。
その言葉を聞いた小悪魔はにっこりと微笑んで、赤子をあやす母親のような声で魔理沙に話しかけた。
「ああ、本当にパチュリー様は良いお友達を手に入れました。さて、魔理沙さん。これで契約はなりました。貴方の魂の一部をいただきます」
小悪魔の胸から腕が飛び出して、魔理沙の体を貫く。
貫かれた魔理沙は、胸を押さえて蹲ってしまう。呼吸をする事ができない。心臓が痛み、肺も動かないでいる。その中で魔理沙は、大切な何かを失った事を感じた。瞳から涙が一滴こぼれる。それは喪失の悲しさからだろうか。それともこれでパチュリーが救えるという安心からだろうか。
喪失は一瞬で済んだ。魔理沙は荒い息を吐きながらも立ち上がる。
「魂とは記憶。人を形作るものこそが魂。だからこそ、私たちは記憶を奪う。願いの代償となる程、それは人間にとって大切なもの。貴方はそれを渡しに渡した。ならば、私も助けよう」
小悪魔のコウモリのような翼は消え失せ、白鳥のような穢れのない白い翼が代わりに生える。魔理沙どころか、パチュリーをも超える量の魔力が小悪魔からあふれ出す。
「我が真の名はソロモン72柱が1柱ヴァレフォール。我が召喚主の傷を癒す方法を教えよう」
何かが魔理沙の頭に流れ込んでくる。その流れ込んできたものは知識だ。ありとあらゆる治療に使える魔法、魔法薬の知識が。
うつろな瞳のまま、魔理沙はふらふらと立ち上がり、パチュリーが流した血で魔法陣を描く。複雑な文様を描いた魔法陣の真ん中にパチュリーを運び、背中の木片を引き抜いた。傷を抑えていた木片が引き抜かれたことで、血が大量に流れ始める。だが、魔理沙は気にせずラテン語で呪文をつぶやき始めた。
呪文が進むにつれてパチュリーの傷がじわじわ小さくなっていく。しかしそれでも完全には治療は終わらなかった。治癒魔法を使うのに必要な、魔理沙の魔力が足りなかったのだ。
魔力を使い果たしてしまった魔理沙は、それでも止まらない。包帯でパチュリーの体を締め、止血したところで安心したのか意識を失ってしまう。しかしパチュリーが助かった事に安心したらしく、その顔には笑みが浮かんでいた。
そんな二人を、コウモリの翼を生やした小悪魔が優しく運ぶ。
図書館の奥にある壁のさらに奥、そこに一つの部屋に通じる扉がある。大きく重いその木の扉には巨大な魔法陣が輝いている。
扉には封印の術式が刻み込まれて、解除の術式を使わなければ誰も入れないし、出ることもできない。そんな堅固に閉ざされた扉の奥には、一人の少女がいた。
その少女は赤い服を着ている。背中にはねじくれた木の枝に似た翼に、宝石のごとく輝きを放つ鉱石を張り付けて、金色の髪の毛という違いこそあるが少女の顔立ちはレミリア・スカーレットにそっくりだ。
少女は一人、封印された部屋の中にいた。只独り、誰もいない中を孤独に過ごしている。ずっと、ずっと独りで。
少女のいる部屋の中は、明かりが無く暗い。だというのに、少女は明かりになるものを付けもせず、血走った瞳で部屋の中央にある水晶玉を覗き込んでいた。
その水晶玉は青みがかった球体の中に、紅魔館の庭の光景を映している。
覗き見えるのは荒れ果てた庭。そしてそこで激しく戦っている赤い髪が特徴的な女性。その女性は宙を軽やかに舞い、地を疾走する。もう一つ赤い影よりも大柄な影も見えるが、少女はそちらの影には何の興味を示さず、ただじっと赤い女性の影だけを凝視していた。
赤い影が大きな影を押している時は、小さく何度も跳ねて喜びを示し、大きい影が赤い影を押すとすぐ不機嫌になって、今にも暴れだしそうな様子を見せる。
少女はとにかく楽しそうだ。その顔には狂喜が浮かんでいる。水晶玉が映す光景を眺めているだけなのに。だが、そんな彼女の表情が段々と曇っていく。押していた赤い影が大きい影に逆転されたのだ。
少女が見ている最中、女性は大柄な影につかまり投げ飛ばされてしまった。
プルプルと少女の体は震え始める。その震えが治まると、キッと鋭い瞳で水晶を睨み、脈絡もなく水晶玉を叩いて砕いた。そして少女は手を前に出して、握りしめる。
「キュッとしてドッカーン!」
固く閉ざされていた扉は粉砕された。
「……許さない。許さない!!」
少女はその瞳に、隠しきれない憎悪と激憤を込め、壊れた扉から外へ飛び出してしまう。
その身に宿る狂気に身を浸して。