紅美鈴という妖怪が生まれたのは、大陸にある小さな砂漠だった。昼は灼熱の日が射して体力を奪い、夜は極寒の風が吹き付け、体温が失われる死と砂の海に生まれ落ちた。周りにあるのは砂と星。あとはわずかなオアシスの水。それだけしかない孤独な世界がその時の彼女の全てだった。
過酷すぎる砂漠の環境を、灼熱の砂に這ってでも幼い美鈴は独りで生き続けた。餓えと渇きに苛まれながらも、時折であるが美鈴が住んでいるオアシスの近くを通りかかった旅人や商人を殺して。不思議なことに、どれほど体や心が辛い時でも人間を殺せば、それだけで幸せな気持ちになり、傷も癒えた。繰り返し人間を殺すうちに、その苦しみから解放される快感と、妖怪の主としての本能か、次第に美鈴はより多くの人間を殺そうと考えるようになった。
――何、人間程度幾らでも殺せる。
以前殺したから人間から剥ぎ取った服を着て、美鈴は長い旅路を歩む事を決めた。一か月も歩けば足元から伝わる熱気は次第に薄れ、脚を取られやすい砂から、しっかりと固まっている大地へと変わった。整備されているとは到底言えない道路を、その幼く可愛らしい体で踏破し続けた。途中で出会った人間は例外なく全員殺して。それがまた彼女の心を大いに充たしてくれた。
死ぬ間際の人間を彩る今際の顔が美しく、口から出る悲鳴は、耳から入りとろけ、甘美な味を脳髄へ伝える。人間という娯楽品を自由にできて、美鈴はご満悦でいた。砂漠に生きていた頃は、多くても数か月に一回しか来なかった人間が、この道にはたくさん往来している。わざわざ探すまでもなく、獲物から来てくれる。そして出会った人間を殺す快楽。人を殺すという行為にのめり込むのも仕方がなかった。
砂漠から出て道路を歩き始めて幾日か過ぎたころ、急に人通りが多くなった道を、美鈴は今にも転びそうなほどほどの速さで走っていた。あんまりにも人通りが多すぎて、美鈴は人を殺すことは諦めるかしかなく、不満がたまっていた。
――人間に逃げられるのは面白くない。一度に全員殺そう。住処に集まったところを一網打尽にしてしまえば、簡単に皆殺しにできるはず。
そう思うと美鈴の足は速くなり、我慢が効かなくなってしまう。早く早くと、駆けていく。その幼い後姿を、訝しげに睨みつける幾つもの瞳に気が付かずに。
「何これ」
街の入り口にある大門を前にそうこぼす事しか、美鈴にはできなかった。視界を埋め尽くす人の波。砂漠の砂程いる人間を見て、美鈴は無意識に一歩後ずさった。門の周辺にいるのは一握りのわずかな人間という事をさらに知ると、もう一歩下がった。
解放されている門から見える街の中にいる群衆が、美鈴にはとても大きな何かに見えた。だというのに、たった一人でその人間たちを殺そうとした自分があんまりにも小さくて、美鈴は人間たちに押しつぶされる圧迫感にさらされた。
地面をぶかぶかの靴が擦る。その音ですら、今の美鈴には恐怖でしかなく、今にも走って逃げだしたかった。
「ほう。どこへ行かれるのか」
しかしそれはできなかった。一歩一歩と後ずさるうちに、背中に何か大きくて生暖かい何かに触れてしまったのだ。震える体で、美鈴は振り返る。そこには大きく湾曲した中華刀を手に持ち、古く傷だらけではあるが汚れが一切ない鎧を着こんだ一人の男がいた。さらにその後ろには、弓矢を背負い男よりかは幾分新しい鎧を着て馬に乗った五人の人間たちが横一列に整然と並んでいた。
彼らはこの街で雇われている護衛であった。ここ最近は街道を歩く人間たちを護衛する任務に明けてくれていた。街に入る出入りの商人たちが少なっていた事から化生の仕業かと、そう考えた街の有力者たちによって、彼らは商人たちを護衛していた。
彼らは知っていた。鍛え抜かれた自分たちですら、きついと感じる道を、幼子が笑顔で元気よく走れるはずがないと。だから、彼らは美鈴に対してある確信を持って追いかけてきたのだ。
「なあ、化け物よ」
軽く振られた剣は振るった男が馬の背に乗っていたためか、距離感が狂い美鈴の肩口を浅く切った。
最初はただ熱かった。しかしすぐに堪え切れない何かを感じ、美鈴はおとがいを反らし、声にならない声で叫んだ。生まれて初めて、美鈴は痛みを知った。
もはや美鈴に人間を襲うなどという考えは残されていない。怖くて怖くてたまらなく、今は一刻も早く恐怖の下から逃げるという考えしか残ってはいなかった。
「イヤ、イヤアアア!!」
妖怪である美鈴の足は子供であっても速い。人間では追いつけないほどに。しかし五人組が馬に乗ったまま次々と狙いを定めずつるべ撃ちに射った矢の一本が美鈴の左手を貫いた。痛みに思わず足を止めそうに美鈴はなるが、それでも歯を食いしばって痛みを堪え逃げ続ける。後ろから聞こえる音が早く聞こえなくなるように。そう願いながら。しかしどれだけ走っても馬のひづめは後ろから追ってくる。それどころか離れはせずに、音はどんどんと近寄っている。
右から音が聞こえれば左に。左から聞こえれば右に逃げる。もはや美鈴にはどこをどう走っているかも分からない。どこに逃げるか、どうやって逃げるか。それすら考える事が出来ないほど、美鈴は追い詰められていた。走り続けたせいできりきりと脚が痛み、体中を鮮血で唐紅に染め上げても、走るのを止めず逃げ続けた。
「もう終わりだ。後ろは川。逃げられやせん」
それでも最後は来た。轟々と唸りを挙げて、今にも近くにいる美鈴すらも飲み込まんとする濁流の川を背に、美鈴は追手に囲まれていた。半円状に囲まれてしまった美鈴には、もはやその囲いから出る事は出来ない。それでも目を左右に揺らし、必死に逃げようとしている。
震えて怯えた目を男の方に向けた美鈴へ、男は部下に命じて矢を射らせた。子供と言えど妖怪。下手に近づいたら何をされるか分からないが故に。放たれた矢は、美鈴の胸に突き刺さり、吹き飛ばした。小さな体は川にのまれ、あっという間に見えなくなっていく。
「運のいい奴め。しかし、あれだけの傷だ。生き残れはしないだろう」
流れが穏やかな下流の河原に、美鈴は倒れながら急き込んでいた。体を丸めて尺取虫のようにしたその体は、ちっぽけで今にも消えそうだった。寒々しい空はそんな美鈴に重苦しくのしかかり、弱り切った彼女をいたぶる。
それでも残された力を振り絞り、美鈴は泥だらけになりながらも、石ころの上を這っていく。石ころは尖ってはいないが、それでも体重が掛かれば痛い。それでも我慢して、彼女は這い続ける。今にも死にそうな美鈴は、それでも生きようと抗っていた。だが現実は非情で、一歩分這うたびに彼女の力はなくなり、今にも消えそうなほどに弱っていく。もはや美鈴には生き残る術はほとんど残されていない。人を襲って糧にするか、それとも……。
息も絶え絶えで、身じろぎする事すらもう困難な美鈴は道に出てとうとう死を覚悟した。このあたりは人通りが少ないのか、最近残された足跡が無く、人が来そうにはない。
しかし砂漠を出てから不幸続きだった美鈴にも運が回ってきたのか、前方から一人の男が彼女の方へ近づいてくる。もしこれが大勢の人間ならば、美鈴は恐怖のあまりにもはや残されていない力をそれでも振り絞って、逃げ出してしまっただろう。そうしてのたれ死んだはず。だが今彼女の前にいるのはただ一人の人間。たった一人の人間。
生きようと抗っていた美鈴にとって、それは絶好の機会だった。道を歩いて近寄ってくる男を、美鈴は黙って待った。動くことも億劫な今、相手から近寄ってもらえるのは有り難い。
「大丈夫か?」
とうとう男は美鈴のそばまで来て、しゃがみ込んで肩に手を置き体をゆすりだす。その手の熱を感じ、美鈴は最後の力で男の首元を噛み切ろうとした。人間の脆弱な体なら、たとえ弱っていたとしても簡単に殺せる。そう信じてやまなかった。
人差し指一本で額を押さえつけられるまでは。
「やれやれ。せっかく心配してやったというのに。そこは妖怪というべきか?」
「あ、……ああ!!」
動けない。地面と指に挟まれる形にされてしまい、美鈴は首を動かすことができなかった。そこで気が付いた。男の指にはいくつもの傷が刻まれ、その体の奥底に自分と比べられようもないほどの力が隠されていることに。悔しかった。美鈴は。何故ここまで自分は弱いのか。そう思うと、どこに残されていたのかすらわからないが、腹の底から力が出た。気が付いたら、美鈴は叫んでいた。
「死に、たくない! 死んでたまるか!!」
「そりゃ、無理だ。弱い奴は簡単に死ぬ。それがこの世の理というもんだ」
「だったら、だったら強くなってやる!」
美鈴が涙を流しながら叫んだ言葉は、叶うはずがないものだった。もはやどうやっても生き残れる道理が無い。彼女の生殺与奪は男に握られているのだから。
「お前のそういったところは気に入ったよ」
男は笑っていた。
パチリパチリと焚火の爆ぜる音に、美鈴は気が付いて目を覚ました。体を動かそうとすると、体中を布が巻きつけられていて、治療が施されていた事を理解した。
――一体何が起きたの?
美鈴が覚えている限り、彼女はあの男に襲いかかり、一蹴され失意のまま死んだはずだった。だというのに、なぜか生きている事に、彼女は混乱していた。殺されるのならまだしも、こうやって生かされていることが信じられない。
「起きたか」
声がした方へ恐る恐る首を向けると、美鈴が襲った男が魚を焼いて、食していた。川魚の油が焼ける匂いは香ばしく漂い、その
「お前はこっちだ」
そう言って渡されたのは、粥に様々な草が混ぜられた、薬膳粥だった。始めて見る粥という料理に、美鈴は一度目を瞬かせ、匂いを嗅ぎ、そろそろと手を伸ばす。受け取った木の椀に直接手を入れて。
「熱い!!?」
砂漠でも味わった事のない熱さに、美鈴は思わず悲鳴を漏らした。
「そりゃそうだろう。お前、粥を食った事もないのか?」
「う、うん」
熱さの方に気を取られていた美鈴は、思わずと言った風に答えていた。男は一度ため息を溢すと、すぐにどこからか取り出したのか、椀と同じく木で出来たレンゲを取り出して、粥を掬う。
「こうやって食うんだ。ほら、口を開けろ。腹減っているんだろ」
何が起きているのかはさっぱり分からなかったけど、とにかく腹の虫が騒いでいた美鈴はつい言われた通りに口を開けて、レンゲの中身を食べた。
苦い。とっても苦くて、思わず吐き出しそうになってしまう程、それは不味かった。だけど、なぜか口にすれば抵抗なく喉を過ぎて、腹を満たす。草の青臭さと苦みで口内がいっぱいになった頃、ようやく美鈴の持った大人でも大きいと思う椀の中の粥は全てきれいさっぱり無くなっていた。腹が膨れると、急な眠気が美鈴を襲った。瞼を開くことはできないほど強く眠気が。何も考えられないほど深く、深くとらわれて、彼女の意識は沈み込んでいく。
また目が覚めた。その時には美鈴の傷も大分塞ぎ、普段通りの動きができるようになっていた。とはいえ、動き出すことはできなかったが。彼女が目を覚ました時最初に見たのは、仁王像のような異様な眼力で彼女を睨む男の目だったのだから。
人間に恐怖を与える妖怪である美鈴であったが、これで人間を恐れたのは三回目になった。恐ろしい目で睨まれていたのに気が付いた彼女が体をこわばらせてしまったのも仕方がない。幸いだったのは、その目に色欲等が含まれていなかったことだ。純粋に何かを観察するかのような目だった。
カチカチに固まっていた美鈴であったが、男が目を瞑ったのを見て、ようやく動き出せるようになった。それでもたっぷり十秒は動けなかったが。
「あ、あの」
「何だ。妖怪」
体が回復しきったからこそ、美鈴は男に聞かなければならない事があった。自分を生かしてどうする心算なのだと。男を殺そうとしたのは、自分だというのに。そう尋ねると、パチパチと目を瞬かせ、男は腹を抱えだした。
「お前が俺を殺す? 笑わせるなよ。お前程度が百人来たところで、かすり傷ひとつ負わせる事なんざできやしないさ」
その口ぶりは嘲笑が含まれ、美鈴の弱さを笑っていた。カッと美鈴の顔中が赤くなり、形相が歪む。その瞳にはどろどろと溶かし込んだ憎しみがあり、同時に羨望が渦巻いていた。その瞳の光を見た男は、だからこそ今度は心の底から愉快そうに笑った。
「かっかっか!! 所詮この世なぞ、そのようなものか。人間もお前のような妖怪も。そして、アイツも」
いきなり笑いだした人間に、美鈴は体をびくりとふるわせて、体にかけられていた粗末な布で身を隠す。ぐいっと急に身を乗り出し、彼女の顔の前に男は顔を突き出し一つの事を尋ねた。
「妖怪。お前、力が欲しいか?」
「え?」
告げられた内容は、あんまりにもお互いの関係性を無視していた。人が妖怪へ力を与える。そんな事は、古今東西有り得ない話だ。
だとしてもそれはこの二人には関係ない事だった。
「ほ、しい。欲しい。欲しい!! もう、人間に追われるのは嫌だ! 私は妖怪だ!! 妖怪なんだ!! 人間なんかを怖がっていたら、私じゃない!! 強くなって私は人間を殺してやる!!」
純粋で、どこにも飾りのないその一言は、男をさらに楽しませた。
「良い良い! 人間も妖怪もそうでなくては! お高く留まっておべんちゃらを呪文のように唱えて終いに『師事してください』の一言を伝えられるより、お前のような飾り気のない言葉の方が心を打つというものよ!」
ひとしきり盛大に笑った男は、ひょいと美鈴の首を掴むと子猫のように運んで歩いていく。
「な、何するの? それにどこへ行くの?」
「何、俺の家へ行くだけさ。光栄に思え。お前を俺の内弟子にしてやる」
男に猫のように掴まれたまま運ばれた美鈴が見たのは、とある山奥にある東屋だった。今にも朽ち果てそうな、雑草が屋根に生い茂って雨漏りの酷い、洞窟の方がまだましではないかと思うくらい酷い家で、お世辞にもい柄とは到底言えそうにない。そこに連れてこられた美鈴は唖然とした。何せ、砂漠に住んでいた当時の彼女の方が、生活面では良かったのだから。愕然としたのは仕方がない。
男のあんまりな生活能力に辟易しながらも、美鈴は男の言った力を手にするまでは、黙って従っていようと決心した。
――弱い自分は嫌だ。何かを恐れ続けなければならないなんて。そんな生ならば、いらない。強く、強く、強くなってやる。
強くなれば、もうあんな痛い思いはしないし、みじめにならない。そう思って。
ただし、その決意は修行が始まった初日に掻き消えることになるのだが。
「ちょ、無理!! 死ぬ! 死ぬ!!」
「安心しろ。これくらいなら、人間でも死なない。妖怪であるお前なら、後二十分はできる」
時には崖を手の力だけで上り下りをさせられたり、
「熱い! 熱いから!! 薪を増やすな!!」
「何、まだまだ」
「変な光を目から出して、嫌な笑みを浮かべるな」
燃える薪の上に置かれた鉄板の上で、歩法の練習を強要され。過酷な修行に疲れ果ててぶっ倒れても、食事を用意しなければ、食べる事すらできず、何度闇討ちして美鈴は男を殺そうとした事か。三ケタを超えてから、彼女は数えていない。実際、実行したこともある。「ほれ、まだ脇が甘い」やら「おお、今回は罠をしかけたか。しかしこの程度では足止めにもならん」と言われ、ありとあらゆる行動が無意味になったが。
修行、家事、そしてなぜか男に様々な勉強を教えられながら、美鈴は日々を過ごし続けた。時にはどうやったのかは分からないが、妖怪を連れてきて、戦わせられたこともあった。その度に、血だらけになりながらも辛くも勝って生き残り、男に食ってかかる生活が続いた。そんな生活は美鈴を強くした。
そしてあれほど弱かった美鈴が強くなるだけの年月が過ぎれば、成長の遅い妖怪である美鈴にも変化は訪れる。砂漠の過酷な環境に適応していた体は、すくすくと伸び、男の身長を越した。その際、男は関節を決めた後、万力の如く力を込めて、頭を押さえつけていたが。
そんな修行ばかりではなく、思い出すとくすりと笑ってしまうような事を思い出し、美鈴は自分が建てた昔とは見違えるほど立派になった家の用事を片づけていく。朝早くから家事をしないと、日課に間に合わない。
「
扉の前で、美鈴は声をかけた。返事はない。この頃男は、朝がめっきりと遅くなっていた。少し前までは朝日よりも早く起きていたというのに、今は美鈴が起こさない限りこんこんと眠り続けている。それどころか、布団から出ない日も珍しくなくなっていた。そんな時は、美鈴が男の世話をした。
「ほら、行きましょうか」
腰は曲がり切り、白くなってしまった髪を見ながら、美鈴は寂しさを覚える。何時からだったか。美鈴がありとあらゆる面で男を越えたのは。若いころ、いや幼いころの決意などは長く一緒に生活したことですぐに崩れ去った。情が生まれ、今更男の元を離れることはできなくなっていた。
軽くなってしまった男を難なく担ぎ上げ、美鈴は山を登っていく。頂上で見る景色を、男が好きなことを知っているからだ。今でもこの場所に来ると、男はその細く閉じた目を開き、キラキラとした光を見せる。その目が美鈴は好きだった。修行に明け暮れていた時、師父から与えられた修行をこなし、一つ一つ強くなるたびに、見せていた目と同じだったから。
「ああ、強くなったな」
背負っていた師父のかすれた声に、美鈴は悲しみを覚えた。かつての力強い声はもう聞けないのかと。
「そりゃ、強くもなりますよ。あれだけ鍛えたんですから」
にっこりと笑うその顔は、もう男には見えない。
「お前は本当に強くなった」
「師父?」
「最初はただ、俺の武を受け継ぐ後継者となればいい。そう思っていた。善悪も、倫理も道徳も関係ない。武術など、所詮人殺しの技術の総称よ。だからこそ、妖怪であり、強さを求めていたお前にはぴったりだと思った。だが、予想は外れた。受け継ぐどころか、お前は俺を越えていった。お前より強い者などいないだろう。それこそ、呂布や関羽でも。お前は俺の誇りの愛弟子だ。……」
「師父? 師父?」
男は美鈴の背中で死んだ。美鈴と出会ってから百年も生きたのだ。大往生と言えるだろう。それに、弟子である美鈴が大成したのだ。これほどうれしい事が有るはずもない。その人生に満足して逝ったためか穏やかな死に顔をしていた。だが、残された美鈴はそうではなかった。
「師……父」
力なく垂れ下がる手を握りしめ、美鈴は涙を流しながら男を背負い続けた。山頂を照らす太陽の光が煩わしく、彼女は自分の体で男の亡骸を隠した。
亡骸を埋め終えたのは、太陽が沈むころだった。
「寒い」
春だというのに、美鈴は寒さを感じた。まるで砂漠の夜のように。男を埋め終えた彼女は、失意のまま住み慣れた家に帰ってきた。なのに家の中が急に違うものになってしまったことを彼女は実感した。そしてそれを実感してしまえば、もう彼女にはこの家に住むことなど出来やしなかった。寒くて、広くて、ただ空しい。そんな家には耐えられなかった。
翌朝早く、美鈴は荷をまとめて出発した。目的もなく、終着点も分からない旅路へ。ただ、男の最後の言葉を胸に。
『強くなった』
師の言葉を胸に刻み込み、美鈴は広い世界を回る。そのうち中華を飛びだし、様々な国を訪れるようになった。時にはその国の固有の妖怪と戦う事もあった。人間を相手取る事も。そしてそのすべてに勝ち続けた。男に誇れる自分であるように。その思いが削れて消え去るほどの時間が過ぎてもなお。
何時頃からか、美鈴の目的は失われていた。それでも彼女は失ってしまった何かを求めるかのように力を欲した。霞みの先にある何かを必死に手を伸ばして。掴めそうで掴めないそれは、しかし彼女の心を放さない。
「それで、貴方は一体我が館に何の用かしら?」
「……」
薄花色が鮮やかに彩る髪の少女が、門の所で立っている美鈴が館に足を踏み入れるのを拒絶するかのように、立っていた。西欧。そう呼ばれる地域を美鈴は訪れていた。ある一つのうわさを聞いたからだ。満月の日、紅い館に屈強なモンスターが現れるという噂を。そして、その噂が本当ならば、是非とも戦わなければならないと。そして己が最強の証明の一つとすると。
そして訪れた紅い館を守るように、その少女は立っていた。中庭に立っているその姿は威風堂々としており、美鈴にはなぜかとても眩しげに見えた。
「言葉も話せない、いえ、話すつもりもないのね」
強い者を求め続け、美鈴はとうとう少女の元まで来ていた。西洋で最も恐れられている妖怪であるヴァンパイアの元まで。噂から訪れたこの紅い館からは、噂に違わないとてつもない『気』を感じた。それだけで彼女にとって、戦う理由になる。そして戦うのならば、話す必要もない。
「今日はあの子が不安定になる日。貴方のような来客をもてなす余裕はないの。だから、ここで消えなさい」
美鈴の体が彼女に教える。世界が蠢いたその瞬間を。『気を使う程度の能力』。それはただ気を使うだけではなく、世界にある気を感知する能力でもある。魔力だろうが妖力だろうが、力が集まればそれに付随して気も集まる。それを感知した美鈴は駆けだした。
結局美鈴は武人なのだ。近づいて、戦う。それが一番性に合っている。
「ハッ!!」
門から中庭までの数十メートルもの距離を一瞬で踏破する。それだけの加速がついた跳び蹴りは、しかし少女が虚空から取り出した鋼鉄の槍で受け止められた。そのまま少女は、見た目からは思えない膂力で槍を振り回して美鈴を吹き飛ばす。吹き飛ばされながらも体勢を立て直した美鈴は、大地に足がつくとすぐにまた少女へ間合いを詰めていく。それを嫌った少女は一旦上空へ飛び上がり、魔法を放ち距離を保とうとした。
極彩色の弾が美鈴を襲うが、それらを全て余裕を持って回避して彼女は少女へと詰めていく。一撃放てば、勝てる。そう確信して。
少女は隠そうとしていたが、美鈴は見抜いていた。蹴りを受け止めた槍を持っていた右腕が、震えて握りが緩くなっていたことを。全力の一撃でなく、牽制の一撃であれだけのダメージを喰らっているのなら、全力ならば一撃で倒せる。そう確信して。
少女にどんどんと近づき、あと少しで攻撃可能な距離というところで、美鈴の眼前を斜め下から膨大な炎が飛んできて焼き尽くし、進めなくなった。立ち止まった彼女は、眉の寄った顔で炎の来た方角を睨んだ。そこには、もう一人の少女がいた。先ほどの紅い少女にそっくりな子が。髪の色は違う。その少女は金髪だ。服も違う。フリルがふんだんに使われているのは同じだが、色合いが違う。今まで美鈴が戦っていた少女はピンク色の服だが、金髪の少女は赤と白に分かれた服を着ている。ありとあらゆるものは違う癖に、その二人の瞳の色だけはよく似ていた。
「コワレチャエ」
体に冷えた鉄の棒を入れられて、ぐちゃぐちゃにかき回されたかのような恐怖が美鈴を襲う。
――拙い。
決断は早かった。薄花色の少女はおいて、金髪の少女は一刻も早く殺す必要がある。迷いはなく、その攻撃は放たれた。
「
前蹴りに近い形で繰り出された足は、元々の効力に合わせ、上空から踏み潰す動きも合わさり、金髪の少女を地面に叩き付けて逃がさない。追撃の逆突きを確実に喰らわせるために。
鈍い感触と共に、少女の頭が美鈴の拳で破裂する。美鈴の鍛え抜かれた一撃は、少女の脆い体では耐えきれるものではなかった。
「莫迦! まだ終わっていないわ!!」
「っな!!?」
頭を確実に潰した。美鈴は不死性を持った敵と戦った事もあるが、その際は頭を完全に潰してしまえば、それで終わりだった。今回も同じだと、美鈴は侮っていたのだ。吸血鬼の不死性は、それらのなかでも格段と高いと知らないで。
今度は踏みつけていた美鈴の右足が握り潰れた。勢いよく伸ばされた腕から逃げようとはしたが、回避が間に合わず握り込まれ、潰されてしまった。
「っち!!」
体が傾き、倒れかかる。美鈴はあえて逆らわず、その流れに乗り、一回転した分の遠心力を蓄えた裏拳を、少女の頭の残骸に叩き付けた。もはや潰れたどころか、威力に耐えきれず首から上が千切れ飛ぶが、それでもなお、少女の腕は緩んで放してしまった美鈴を掴んで壊そうとする。
「こ、んの!」
残された足と、腕で無理やり後ろに跳び、美鈴はその腕から逃れた。
頭のない体がふらふらと浮かび上がる。浮かび上がったその体に、周りから小さなコウモリが駆け寄り、外界からの視線を遮断する。コウモリがいなくなった頃には、金髪の少女には傷一つついてなかった。
「面倒くさい……!」
足が潰された美鈴は歩くことも出来ない。戦うために残されているのは、空中戦しかない。得意とは到底言えない空中戦だが、それでも戦えるのならそれでいいと考え、少女と一定の間合いを保ったまま空を不安定に飛ぶ。
「コワレナイノ?」
そう歪な笑みを浮かべた金髪の少女の瞳を見て、美鈴は恐怖した。まるで自分をそのまま写したかのような、孤独という毒に蝕まれた
寒い。寒い。また何時もの夜のように、寒さが美鈴に忍び寄る。手足はかじかみ、動かなくなっていく。
「コワレロ」
「あっ」
少女の右腕が握りしめられ……。
気が付いたら、美鈴は真っ赤な装飾ばかりの、目に痛々しい部屋の豪奢なベッドに寝かされていた。
「あら、気が付いたのね。あれだけの傷を負っていたのに、なんでもうほとんど回復しているのよ。不死性とまではいかないけど、それに近い回復力ね」
ベッドの近くの椅子には、あの紅い少女が座っていた。どこか呆れた様子で、美鈴の体を興味深そうに見ている。
「私は……」
「覚えていないの? あの時あの子、フランが能力を使おうとしたら、馬乗りになってタコ殴りにしていたというのに? あの子の体、貴方に殴られている間、存在していなかったのよ」
うっすらと美鈴は覚えている。殺られる。そう思った瞬間体は動き、敵であった金髪の少女を殺そうとした事を。結局殺しきることはできなかったが。それが良かったのかどうかは美鈴には分からない。
「ああ、まだ私の拳は弱い」
「あれだけしておいて弱い、ね。……ねえ、貴方、この紅魔館で門番をしない?」
「……いきなり何を?」
「あら、別にいいじゃない。私は色々な事情から、あの子の面倒を見ないといけないの。それには時折私たちを滅ぼそうとする愚かな人間たちが邪魔になる事が有るのよ。普段ならいざ知らず、あの子が暴走している時はね。そんな時、貴方が人間を止めてくれれば、あの子の方に専念できるわ。それが私のメリット。貴方のメリットは、歯ごたえのあるエクソシストと戦えるわ。昔と比べて質が落ちているとはいえ、それでもモンスター退治の専門家だから、人間とは思えない強さの持ち主ばかりよ。貴方の運命を果たすには良いと思うのだけど?」
少女は美鈴が強者を望んでいることをその瞳から読み取った。たしかに美鈴はより強い敵を倒すことを、もはや義務のようにとらえている。だが、
「……。良いですよ。ただ、一つだけ条件が」
「条件?」
「あの子と、会わせてください」
体が浮き上がる。揺れ動く視界に、あの時とは違う様子の少女が入り、途切れかけていた意識が揺り起こされる。
約束したじゃないか。あの子と。もう二度と、約束は違えちゃいけない。もう、師父との約束は破ってしまったのだから。歯に亀裂が奔る。耐えきれない痛みでも、耐える。たった一撃だけだ。耐えなければならないのは。
「ぁああああああ!!」
美鈴の体が後転する。命の拳の衝突のエネルギーが、すべて回転に使われていく。
「なっ!」
「
二人分の力が込められた蹴りが、命の顎へ炸裂する。轟音が辺りに響き渡り、空気が震えた。のけぞった姿勢のまま、命は後ろへと倒れていく。倒れていく命の瞳からは意志が消えていた。命が倒れると同時に、紅い霧が完全に晴れて、月光が世界を照らした。
「美鈴!!」
「わ、フランお嬢様!?」
フランは美鈴に抱き着き、うれしそうに笑っている。その表情には陰りなどなく、あの恐ろしいまでの狂気はない。抱き着いてきたフランを、美鈴は愛しそうに、折れていない腕で頭をなでる。
「ああ、師父。ようやく、最後の、本当に最後の約束は守れました」
かつて最後に死の間際に言った言葉。ようやく思い出せたその言葉。その約束を。
『幸せになれよ』
命が負けました。とはいえ、それについてはきちんとした理由があります。