先の異変で降り積もった雪も暖かな日差しにすっかり溶け切り、姿を現した大地に揺れる若草。そこから漂う花の香りや、蜜の匂いに誘われた昆虫が飛び交う。またそれらの虫を狙う小鳥の鳴く声がどこからか聞こえる。謳うような声がするのは、人里にある、少し古臭い家の敷地からだ。その家の庭に生えた木に、小鳥の巣があり、少し大きくなった雛が親鳥に矢継ぎ早に餌を催促している。
巣のある樹木が植わっている家も、いたる所に花が芽吹いたりしていた。しかし、花のさわやかな香りはしない。花とは別の匂いが僅かに漂う。それは臭くはない。しかし人によっては嫌な思い出が浮かび上がり、顔をしかめてしまう匂いだ。それが、家屋の窓から漏れ出て広がっている。
香りを外へ漏らしている窓の下には、上白沢慧音がいた。その前には机がある。机は、わずかな採光も無駄にしないため、窓際に置かれていた。机に向かう彼女のその手には、筆が握られている。机の上に広げられた和紙に、なにやら流麗な、しかし終筆が掠れた文字を書きつづっていた。
慧音は手早く筆を進める。しかし途中で、不意にその筆先がぴたりと止まる。思案顔をした彼女だが、いくら待てどもその先へ筆が動くことはない。目をつぶり、肩を力なく下げた。あたりにため息が響く。
慧音は顔を上げ、円い窓を眺めた。その窓から、人が見える。雑踏ほどではない。しかしそれでも彼女の家がある通りには十数人の人がいた。子供の手を繋ぐ母親。仕事場から昼を食べに行く男。冬の間にとれた大根などの野菜をたくさん入れた籠を背負う百姓。
普段と変わらないその光景。明るい光の下、人々は生き生きとしている。笑い声やら、楽しそうな声がする。
それがどれほど素晴らしい物か、慧音は良く知っていた。ワーハクタクである彼女は、二十歳そこそこにしか見えないその外見よりも、はるかに長生きだ。永久ともいえるほどの時を生き、その過程で多くの戦乱も目の当たりにした。人が人を殺し合う光景を。そのため、彼女は殺し合いではなく、手と手を取り合う平和をなにより愛すべきものだ、と思っている。だからこそ、こんな笑い合っている人々のいる光景がいつでも見れるのは嬉しかった。
しかしここ最近、その幸せであるはずの光景を見るたびに、胸がもやもやとするようになった。酷く、気が急かされる。先の異変で、なにもできなかったことを思い出してしまい。
――このままで良いのか。なにかしなければならない。
そう、頭の奥底で、自分の声がつぶやく。だが、いったいなにをすれば良いのか、慧音には分からなかった。
「
そんな気が散っている状態で、仕事などできるはずもなかった。慧音は机の上に置いた和紙が墨を吸い過ぎて、春雪異変と書いたばかりの文字を黒く塗りつぶしていることに気が付く。
「なにをやっているんだ、私は」
ため息がひとつまた漏れる。
ここ最近、慧音の仕事は捗らないでいた。どうしても、なにをしようにも窓の外が気になり、ついつい覗いてしまう。そしてそこから見える風景に、深く考え込んでしまい、仕事に手がつかなくなる。それを繰り返していた。良くないとわかっていても、彼女にはどうしようもなかった。一度など、窓のない小屋を借りてまで、仕事をしようとしたが、やはり外が気になり扉から様子をうかがってしまった。
最近の自身のだらしなさに、かつを入れようとは思う慧音である。だが、そのかつを入れる気力もなかなかわかずにいた。その自身の情けなさに、余計気がめいる。
とにかく駄目になった和紙を処分しなければ、と墨でべたべたになった紙を他の紙で包み、くずかごへ放り投げた。普段ならば、こんなこと慧音は決してしない。だが、今はくずかごのある場所まで行くのが面倒で仕方がない。そのために、行儀が悪いと理解しながら、失敗したものを放り投げた。
「食事でもしよう」
筆をおき、慧音は億劫に立ち上がる。またため息がひとつ自然とこぼれた。ついでに、紙は拾い、今度こそきちんと捨てた。
簡単に作れるもの、おにぎりでも作ろう。慧音は献立を決めて、台所へ向かう。
米を研ぎ、普段はめったにしないが、術を使って竈に火を起こす。火打石を使って火を起こすのも億劫だった。
すぐに、竈は熱い火がくべられ、米を炊きだす。火が消えぬように見張らなければならず、慧音は屈みこんでじっと火を見つめている。時折、ひかき棒で、火の面倒をみる。良く風が通るように、薪を掻き動かすとぱっと火の粉が舞いあがり、一瞬少し薄暗い部屋を照らす。その光で慧音は自分の手が見えた。綺麗な手だ。少し筆ダコはあるが、それ以外はなにもなく、染みひとつない。自身の手を見つめていたら、脳裏に昔一度だけ握手した、命の手を慧音は思い出した。固くて、握られていた慧音の方が痛みを覚えたほど、その手はごつごつしていた。
「私には、あの人のように守る強さはないのか?」
パチリと竈の火が爆ぜ、ゆらりと崩れた。
おにぎりは湯気を立てている。しかし熱さはあるがどこか味気なく感じられ、慧音は無理にそれを口へ運ぶことにした。早く食べ終えて、仕事をしなければならない。口へおにぎりを詰め込み、口がやけどしそうになりながらも湯飲みを傾け、水で胃へと流し込む。消化に悪いだろうが、彼女の体は半分妖怪のようなもの。この程度で腹を壊すはずもないと、ほとんど噛まずに彼女はどんどん食べ進む。
その甲斐あってか、おにぎりはすぐに跡形もなくなり、同時に空腹もなくなった。慧音は、最後に水を飲もうと、湯飲みをつかみ取ろうと手を伸ばす。しかし、指でひっかけて倒してしまい、水をこぼしてしまう。
「ああ! なにをやっているんだ、私は」
苛立ちを含め、慧音は慌てて持ってきた雑巾でこぼれた水をふく。畳にしみ込んでいく水を見て、またもや命を思い出す。
――あの方なら、こんな無様なことをしないだろう。
「ッ!!」
目頭が熱くなり、ぽたりと新たな水が畳へ落ちた。その水を、畳は吸わない。
悔しかった。なんで、こんなに弱く、それでいてしっかりできないのか。慧音は奥歯をかみしめる。
――なにが、人里の守護者だ。なにが、ワーハクタクだ。そんな大層な力、私にはないじゃないか。
また一粒、雫が落ちる。ポタポタゆっくりと、頬を伝い。
「あれ、先生? どうしたの」
声が聞こえた。その声は、慧音が教師として働いている寺子屋に通っている女生徒の声だ。窓からひょっこりと顔を出している。あどけない顔立ちの女の子だ。窓のふちに指を引っかけて、体をぶるぶるふるわせている。
「え? な、泣いているの!?」
涙をぬぐうこともせず、慧音は女の子へと顔を向けてしまった。
泣いている慧音に女の子は驚き、顔が引っ込み消えてしまう。ドタドタと外からあわただしい音が聞こえ、女の子が玄関から慧音の元へ駆け寄ってくる。
「せ、先生! なに、どうしたの。ポンポンいたいの? それとも、なにかなくしっちゃったの?」
あたふたと慌てふためき、慧音の顔を下から覗こうとする。女の子は慧音の姿に動転し、泣きそうになっていた。
「違う、違うんだ」
慧音はそんな女の子から顔を隠すために、抱きしめる。女の子は、
「先生?」
「大丈夫。ゴミが目に入っただけだから。ありがとう」
頭をなで、慧音は震えそうになる声を押しとどめる。
「本当?」
「本当だとも。心配してくれたのは嬉しいが、私は大丈夫だよ」
目頭をぬぐい、慧音は笑みの仮面をかぶった。すくっと立ち上がって、女の子を玄関まで見送る。
優しく笑いながら手を振っている慧音に、まだいぶかしげな顔をしながらも、女の子は手を振りかえしながら帰っていく。
女の子が見えなくなると、慧音は拳を握りしめ、鋭い顔つきに変わる。握りしめた拳は、あまりの力で握られ、血が出ていた。
先ほどまでさんさんと日差しがあったが、雲で太陽が隠れ、少し通りが薄暗くなる。そんな中、慧音の眼だけがギラギラと光っていた。
「子供たちは私が守らなきゃいけないんだ」
ポツリと漏らした言葉は、街頭の喧騒に消えていった。