いまだ散り切らぬ桜の花が風に乗り、頼りなさげに舞う様を眺め命は酒を飲む。秘蔵であるはずのそれは、なんの味も感じられなかった。
「ぷはぁ! 弱いけど、旨いね。やっぱり味だけならば人間のが一番かな?」
博麗神社の瓦葺きの屋根に座り込み、命と異変の元凶たる伊吹萃香は酒を酌み交わしている。命が持つ猪口の、澄み渡る清酒に、萃香の紅潮した頬が映る。ぐいぐいと樽ごと
霊夢が異変解決に出かけたのは二日前。誰も居なくなった博麗神社で、命と萃香は酒を飲み続けてきた。周りには空になった徳利やら樽やらが乱雑に投げ出されている。すべて萃香が飲みつくしては空いたものを放り投げた結果だ。
「なぁ、萃香」
「んあ? なんだい、命」
猪口に残っていた酒を一気に呷る。やはりなんの味もなく、余計に水が欲しくなるばかりだった。
「この幻想郷に、私がいなければならない理由はあるか?」
「ないね」
逡巡する様子もなく、さっぱりとした口調で萃香は命の顔を見ずに答えた。むしろ、新しい酒の方に気を取られているようだ。
「そりゃ、いた方が人間には都合がいいだろうさ。でもね、武神なんて争いのある時以外、役立たずなんだよ。特に、命は武以外司るものがないだろう? 人の助けなんてできっこないさ。多分ね」
酒樽を拳で叩き割り、萃香は飲み干していく。豪放磊落なその様は、まさしく鬼そのものだ。悩みなどないようなその姿は、気楽であり縛られぬ者特有の、まつろわぬといわれた妖怪らしい自由が感じ取れる。自分がしたいからする。したくないならしない。簡単でいて、とても難しいそれを。
嘘が嫌いな鬼だからこそ、そういった生き方ができるのかもしれない。そう思うと、命としては鬼という存在が少し羨ましく思う。けしてできないからこそ憧れてしまう。
桜の花びらが散る。あと少しですべての花が散り、葉桜になり若々しい葉が生えていくことだろう。だがその葉桜を時には降りしきる冷雨が腐らせてしまうのではないか。ふと、そんなことを命は考えてしまった。
「急にそんなことを聞いて、なにか悩んでいるの?」
「いや、ただ知りたかっただけだ。長く生きすぎると、道を変えるだけでも大変になる。……そうだな、後押しをしてもらいたかったのかもしれん」
「ふうん」
気のない返事だ。しかしそれも当たり前かもしれない。鬼が好むのは豪胆な者。弱気になり、くよくよ悔やむような者では決してない。少なくとも、ここにいる命など鬼が好きになるはずもない。
酒の映る己の顔を見て、命は嗤ってしまった。武神と謳われるような男がする顔ではない。神になっても、迷い続けているのは変わらない、かと思う。
父も姉もこんな悩みを抱えていたのだろうか、命は思案に暮れる。
「まあ、命の悩みなんて贅沢なもんだよ。悩めるだけね。それよりも、私の相手をするっていう人間の方はどうなの?」
萃香は体を動かしながらそう言った。その顔は興奮に照り輝いている。幼子ががよくする、祭りの前日のような顔だ。
「霊夢と魔理沙、か」
その気になれば、萃香はこの場にいながら霊夢と魔理沙のことを知り尽くせるだろう。技の四天王と呼ばれ、鬼の中でも強い部類に入る萃香の能力は、木端妖怪と比べ物にならない強さと応用力を持つ。『密と疎を操る程度の能力』という、萃める力と散らす力を持っている。
この能力はただ物を萃めたり散らすだけではない。物質の密度を操ったり、人妖の心にまでも影響させることができる。この能力を使えば、自身の力を分けて、己と全く同じ思考回路などを持つ分身を作り出すこともできる。
分身は密度を薄くして霧状にすることも可能だ。あたかも
だがそんな無粋なことをするはずがない。萃香にとって、鬼にとって人間の挑戦者というのは神聖な者だ。弱い存在でありながら、鬼という怪異へ勇気をもって戦う。それこそが鬼が認める人間の強さだ。
だというのに、鬼である萃香が人間相手に調べたりするなど、相手を侮辱するようなもの。相手の強さを一方的に知ってしまえば、不公平であり卑怯だ。鬼はそんな戦いなど望まないだろう。
とはいえ、待つのも限界が近くなっているようで、しびれを切らし始めているようだが。命は楽しみを削がない程度に教えてやることにした。
「霊夢は巫女だ。強いぞ。魔理沙は普通の魔法使いだ。人としては強い方だろうが、霊夢と比べればそこまではいかない。だが心は間違いなく強いぞ。踏まれ続け、折れても生きることを諦めない、雑草のようなたくましさがある」
命の言葉を聞いた、萃香は唇を大きく歪めた。飲み干したであろう樽を柏手を打って潰し、笑いだす。
「いいねぇ。力を持つ者。勇気ある者。そのどちらも、鬼と戦う資格はある。楽しみだ。だけど、ね。忘れているようだけど、命。その程度の相手ならば一切合切を殺してきたのが鬼だよ。その霊夢と魔理沙とやら。生き残れるとでも?」
酒を飲む。今度こそ、その酒の味が命には分かった。
「生き残れるとも。二人とも私が知っている以上に強くなっているだろうさ。それが人間という生き物だ」