都の東に、天皇が住む宮よりかは少し小さいが、それでも他の貴族には到底真似できないほどの大きさの屋敷がある。しかもただ大きいだけではなく、その家には見事な装飾が彫られて格調高い。それだけでどれほどの価値があるか、誰も答えられないだろう。またその屋敷には、技巧の限りを尽くして作られた家財道具がいくつも無造作に並んでいる。だれもが一度は住んでみたいと思う豪邸がそこにはあった。
それだけの屋敷の主である、人生を謳歌しているといえる藤原不比等は、自室で胡坐をかき、何やら思案顔で考え込んでいた。これだけの屋敷に住んで、苦労という苦労を知らない貴族らしからぬ態度のまま、しばらく不比等は黙り込んでいた。しかし黙っていた口が動きだすと、苦虫を噛んだような苦い表情に歪み、腹にたまった泥を吐き捨てだした。
「私以外にも姫に求婚するものがいるとは。あれ程の美貌。それも致し方がないだろう。しかし
帯刀の柄をその柔らかな、きめ細やかな肌をした手で撫でる。数日前、不比等はある女性の元を訪れていた。巷では絶世の美女と呼ばれ、その噂に違わず彼をその美貌によって一目で骨抜きにした姫の元に。
その姫の黒髪は長く艶やかな輝きを保ち、その華奢な体は思わず力いっぱい抱きしめたくなる。白魚の様な手は男ならば握りしめて独り占めしたくなるだろう。それほどの美という言葉そのものが人となったかのようなその女性に、不比等は一目ぼれしていた。
しかしいくら権力を持ち、周りから羨望の目で見られ幾人もの女を囲っている不比等であっても、なかなかあの姫はおとせずにいた。それどころか、自身のほかにも有力な貴族達が現れ、彼女に求婚している。うかうかしていると姫が誰かに取られてしまうかもしれない。恋のライバルであるその貴族達の顔を思い出すと、不比等は腹の底がカッと熱くなり、喉が渇きだす。
「誰か! 酒を持ってこい!!」
不比等の声に、下人が慌てて酒を持ってきた。
ひったくるようにして下人から酒の入った徳利を受け取ると、不比等は酒を酒器に移し入れることもなくそのまま口の中に流し込む。そして荒々しく徳利を床に叩き付けた。
下人は不比等が声を荒げ、普段はしないような見っともない醜態をさらしているのに肩を震わせて、急いで逃げ出した。他の下人もその逃げていく下人を見て、主の機嫌の悪さを悟り部屋から離れて行く。
しかし、一人の女性は違った。皆が離れて行く部屋へ、覚悟を決めて踏み入る。
「お父様、どうなされたのですか?」
下人と入れ違いになるようにしずしずと入ってきたのは、若々しく、煌びやかな着物を着た美しい姫だった。しかし美しいとは言っても、不比等が恋をしている姫と比べてしまえば幾らか劣ってしまう。
その姫は不比等の実の娘だった。しかし娘の母は身分が低く、まわりの貴族にはその存在を知らせてはいない。それでもその美しさと母親譲りの聡明さから、不比等は娘を大切に扱っていた。
「お前か、気にするな」
自身の娘であるその姫に、無碍な言葉で不比等は自身の悩みを隠そうとした。姫は一瞬暗い顔をしたがすぐに明るく柔らかな笑みを浮かべて、父を諭そうとした。
「そうは言われましても、家中に響く声で叫ばれては何かあったのなど私でも分かってしまいますよ」
くすくすと穏やかに笑う姫に、不比等は苛立ちを覚え、徳利を投げつけた。その顔は真っ赤に染まり、眼が吊り上っている。
「キャッ!!」
「黙らんか! 娘風情が私を心配するだと!? 私を侮辱するつもりか!」
「ち、違います、お父様! ただ私は……!」
「ただ私は? お前に何ができるというのだ! 私の悩みをお前が解決できる訳ないだろう!」
徳利を投げつけられ体を震わせ泣いている娘にそう吐き捨てた不比等は、床を勢いよく踏み鳴らして去っていってしまう。
投げつけられた徳利の当たった左の手の甲を抑え、すんすんと姫は、一人取り残されたまま泣き続けている。
不比等の怒鳴り声と姫の泣き声が聞こえたのか、それとも主が突然いなくなったのを見て気になったのか下人の一人がおそるおそろとふすまを開き、不比等の部屋の様子を覗いた。部屋の中央付近で泣いている姫の姿に下人は驚き、慌てふためいて近寄った。
「お嬢様!! ああ、お召し物がこんなに濡れてしまわれて。このままではお風邪をひいてしまわれます」
先ほど不比等に酒を持ってきた下人が、その顔や服を綺麗な布でふき始める。泣いている姫は、弱弱しくその下人に問いかけた。
「何が悪かったのかしら。ただ私はお父様を心配しただけだというのに」
「……不比等様は気難しい方ですから、娘に心配をかけさせたくないのでしょう。大丈夫ですよ、お嬢様。きっとすぐに優しい不比等様に戻られます」
「本当に?」
「ええ」
藤原の姫君が下人になぐさめられている頃、不比等は一人屋敷にある井戸の前にいた。
「何をやっているのだ、私は。自分の苛立ちを娘にぶつけるなど、馬鹿馬鹿しいことではないか。しかもわざわざ心配してくれたというのに」
分かっているのに、自身の性が素直になる事を邪魔してしまう。藤原不比等はそんな自分が嫌いでならなかった。もっと素直になれれば、娘にあんな仕打ちをすることなく、もしかしたら竹取の翁の所にいる姫にもすでに好かれていたかもしれないのに。考えれば考えるほど、不比等はふさぎ込んでしまう。
その背中は小さく、みじめなものであった。
都にある一つの家。そこには年老いた翁と媼、それに美しい姫がいた。姫はその神々しさすら覚える美しさ故に、幾多の男たちから求婚され、今では幾人もの貴族たちにすら求婚されている。それどころか今ではその貴族たちですら裸足で逃げ出す大貴族たちによって、取り合いすらされているほどだ。しかし姫はいまだ一度もそれらの求婚を承諾してはいない。誰がどれだけ愛の言葉を語ろうとも、その首を縦には振っていない。
家は静けさに満ちていた。媼は今日の夕飯の材料を買いに出かけ、今は姫と翁しかいない。いつもならば貴族が押しかけて、我こそが姫の相手に相応しいと言い争うというのに、今日は貴族が一人も訪れていない。
「暇ね、お爺様」
「仕方がないじゃろう。先日のあの大男が都にいるかもしれん。貴族の方が外をうろつくわけにもいくまい」
翁は姫の言葉に答えながら切った竹を器用に編みこんで様々な道具を作り出していく。すでに一生を終えるだけには十分なお金は持っているが、仕事をする事こそが幸せな翁は、ついつい暇なときには竹細工を作り続けていた。家の中は、翁の作った竹細工でいっぱいになっている。
「今は何を作っているのかしら、お爺様は」
「籠をな。そろそろ山の幸がおいしくなる頃じゃ。この籠一杯の幸を婆さんと一緒に食べよう。婆さんの料理は日本一じゃからな! 今から待ち遠しいわい」
翁が快活に笑う。それを眺めていた姫は、その口元を衣で隠した。
「そろそろ頃合いなのかしら?」
「うん? どうした輝夜?」
「何でもないわ、お爺様」
その日の真夜中、誰もが眠りについている時間、輝夜は縁側に静かに座っていた。目を瞑り、周りから聞こえてくる生き物が鳴らす音に静かに耳を澄ませている。虫たちや風のざわめきに、静かにその口角は上がっていく。今にも彼女は立ち上がり、踊りだしそうだった。
誰もが魅了される笑みを浮かべる姫の隣には、いつの間にか銀髪の女性が一人音も立てずに座っていた。
「地上の世界は楽しかったですか、姫?」
急に現れた怪しい女の唐突な話に、姫は笑みを崩さずに返した。
「そうねぇ、楽しかったわ。月では経験のできない事ばかり。何より、ここにいる人は
「楽しまれたようで何よりです。……それにしても、生きているですか」
「そうよ。月の世界は確かにここより便利だし、美しいものも多いわ。でもね、どこかしら負がないとダメなのよ。負があるから幸せが分かる。それを忘れ切った月の民は死んでいるも同然だわ。ねえ、××」
「はぁ、姫様の事です。どうせ続く言葉は、月へ帰るのを何とかしてくれないかでしょう?」
「あら、良く分かっているわね。さすが私の従者」
「もったいなきお言葉です、姫様」
「あははは! 似合わない!」
クスクスと二人は顔も見ずに笑い合った。
「そうなると、名前が必要ね」
「名前?」
「あら、私の蓬莱山輝夜はまだしも、貴方の名前は地上では誰も発音できないわ。隠れ住むにしても、地上風の名前を用意しないと。そうね、八意永琳はどうかしら? 貴方の本名に出来るだけ近い発音にしてみたのだけど」
「姫様がそうおっしゃるなら」
プラプラと足を縁側から投げ出し、輝夜はふと「そういえば」と口に出した。
「この地上で面白い人を見つけたわ」
「面白い人?」
「ええ、人ではないかも知れないけどね。とても大きな体の人よ。高天原の時代から生きていて、月夜見様を呼び捨てにしていたわ。一体その正体は誰なのかしら?」
話に夢中になっていた輝夜は気づけなかった。輝夜がもらした言葉に永琳の顔がこわばったことを。