2014年2月8日改訂
高天原に今日も元気いっぱいな悲鳴が響き渡る。
もはやここ最近恒例となっている命と月夜見の、見方によっては一方的なともいえるコミュニケーションだ。月夜見が悲鳴を上げているが、命にとっては天照大御神から頼まれた子守をしているつもりだ。幼少時、普通とはかけ離れた生活をし続けた命にとって、子守という言葉の意味が普通とは全く別物になってしまっている。年の離れた男性とのふれあいなど、父である素戔嗚の修行によって殺された記憶位しか存在しない。触れ合いという単語の意味を、命は体を鍛えることと認識している。そのため、月夜見からしてみれば死ぬ一歩手前まで追い込まれ続けるという理不尽な現状に陥ってしまっているが。
しかしその割に、月夜見の上げる悲鳴は、ただ逃げ惑うだけではなくどこか弾んでいて、周りにいる人間もそれが分かるのか、この頃になると特に警戒されるということもなくなっていた。
冬の寒い日の事だ。空からひらひらと淡い雪が降り、それがうっすらと積もる中、吐く息を白くしながら二人は外にいた。命はいつものように白い道着に赤い袴と言った特徴的な服装をしている。幾ら長袖をしているからとはいえ、その生地は薄い。それでも鍛えぬいた体には寒波など関係ないと言わんばかりに堂々と立っている。月夜見はさすがに寒いのか、厚い生地の服を二重に着て上着を羽織り、手袋や襟巻をして寒さに耐えている。
二人はそれほど広くはないが、動くには十分な広さの空き地にいた。空き地は一面真っ白で、命と月夜見の足跡が幾つも残っている。中にはうっすらとしか残っていない足跡もある。ほかに目につくといえば、空き地の中心を対照に積もった雪を垂直に積みかせねて二つの即席の壁があることだろう。かなりの厚さと固さで、まさしく氷壁と呼ぶのにふさわしい。そしてそこに隠れている月夜見と、隠れていて姿の見えないはずの月夜見がいる場所を的確に狙い、雪玉を投げつけている命の姿があった。月夜見の隠れている氷壁は、少し前までは立派だったがすでに穴だらけでボロボロだった。
「あんた、いい加減にしなさいよ!! いったいどこに雪合戦で壁を粉砕するほどの勢いで投げる奴がいるのよ!!」
「ここにいる」
こともなげに言い切った命へ、月夜見は雪の壁から体を出して雪玉を力いっぱい投げつける。投げられた雪玉は、およそ人間が投げられる速度ではない。余りの速さに人間の目には移らないだろう。しかしそれほどの速度でも、あっさり命に避けられてしまう。それどころか、返す刀で投げた命の雪玉が咄嗟に壁に隠れようとしていた月夜見の髪の一部をぷっつりとちぎって持って行ってしまう。
「バカ! そういう意味じゃないわよ! もうちょっと手加減しなさい。遊びなんだから」
「てか……げん? なんだそれは。それと遊びとはどういう意味だ? 雪合戦は合戦だろう」
「手加減自体知らなかった⁉ というより、雪合戦は遊びよ!! どこに子供が遊ぶ内容で合戦を始めるバカがいるって言うのよ!」
「ここにいる」と命は近くの雪をその大きな手で取れるだけ取り、万力で握りしめる。すると柔らかかった雪が圧縮し、まるで鉄のような硬さになっていく。その硬度のまま、命の手によってその雪の塊は剣の形に変えられていく。それを氷壁越しに見た月夜見は冷や汗をたらして、後ずさる。
「え? 嘘よね?」
「逃げんと切り裂くぞ?」
「ひ、イヤァアアアアア!!?」
氷壁は命の持つ雪の剣で一直線に切り裂かれた。逆袈裟切りに斬られた氷壁は、滑らかな切り口を滑りながら地面に落ちる。それを確認するよりも早く、月夜見は生きるために逃げ出した。後ろへ決して見ない。そんな余裕はないし、なにより後ろから聞こえる空を裂く音でどれだけ剣が近くにあるかが分かる。
「こっち来んな、バカ!」
死にかけるし、辛い時もある。一時などは子守というよりも、死刑執行人にしか命の事を思っていなかった月夜見ではあるが、少し前までは陰のある妖艶さすら窺えた顔は、今となっては活発で明るい、この年代の少女が浮かべるべき笑みが浮かぶようになっていた。
背後から剣を振るう命に追われ、高天原中を駆けずりまわって命からがら生き延びた月夜見は、翌日の早朝布団にくるまれながらぐっすりと眠っていた。その寝顔は無垢な子供のそれであり、母性愛をかきたてるものだ。思わずいつまでも見ていたいと思えてしまえる。だがその安らかな寝顔はすぐに消えてしまう。
月夜見の瞼が開き、とろんとした瞳のままあくびを一つする。そのあと、周りをぼんやりしたまま見渡し、首をかしげる。何か足りない気がしてならず、月夜見はしばらく布団の中で考え込んでいた。
「ああ、そうか。今日は、命来ないんだっけ?」
日の出より早く起きた月夜見は、布団の中で残念そうに呟いた。普段命に叩き起こされる時間が来たので、無意識に起きてしまっていた。しかし今日は命の予定が合わず、月夜見の元を訪れることはない。だからいつもならば仁王立ちして月夜見が起きるのを待っている姿が見当たらなかった。
布団の中でつまらなそうに顔をすぼめた月夜見は、命の定位置になっている部屋の隅を見る。いつもならそこに背中を預けているのに、今日はいない。そのせいか部屋が無性に広く感じてしまう。
起きてもする事が無い月夜見は、手持ちぶたさにどうやったらあの子守=体を鍛えると勘違いしている奴を一泡吹かせられるのかと思案ばかりする。罠を仕掛けようかしら。それとも……。いくら考えても、その考えた策ごと力づくで壊されそうな気がして、月夜見は次第に考えることが馬鹿らしくなってやめた。しかしその顔は先ほどと違いとても楽しそうだ。
そうやって朝の穏やかな時間を暖かな布団の中でぼんやりとして過ごしていたら、ふすまが開いて月夜見を呼ぶ声をかけられた。その声に月夜見はようやく布団からはい出した。
「あら、起きてましたか月夜見様」
「うん」
「それじゃ、朝食にいたしましょう」
以前命を案内した老婆を月夜見が追いかけるように、食事の用意がすっかり終えている居間へ向かう。いつもなら、命の分も用意されているが今日はいないため用意されていない。二人は久方ぶりの静かな二人だけの朝食をとった。
「静かですねぇ」
「そうね、アイツ一人いないと静かで良いわ」
「昔からああいう方でしたから」
「あら、昔のアイツを知っているの?」
「ふふふ、秘密ということにしておきましょう」
皺だらけの顔で、穏やかに笑みを浮かべる老婆に、はぐらかされたと月夜見はふてくされた。
「まあ、大きくなれば分かりますよ。私とあの人の関係も」
「本当に?」
「ええ」
用事がある。そう月夜見に告げていた命は、天照大御神の本殿を訪れていた。変わらぬ威厳をひしひしと周りに伝えるその社の上には、珍しく暗雲が浮かんでいた。
社に足を踏み入れると、静謐な社の奥で天照大御神が一人憂いを帯びた顔で、命を待っていた。常に朗らかな微笑を浮かべ、全てを温かく見守る天照大御神らしくないその顔に、命は違和感を覚えた。
「久方ぶりです。此度はどのようなご用件でしょうか?」
天照大御神の眼前まで来てから頭を下げ、命はそう問いかけた。命には天照大御神に呼び出される理由が皆目見当もつかず、理由を欲していた。
「ええ、久しぶりですね。年が終わり、また新しい年がくるこの季節、出来る限りは私も平穏に、そして素晴らしい日々を過ごしたいものです。しかし、時に願いというものは裏切られる。それは私であっても逃れられないことなのでしょう。命、残念ながらあなたが月夜見の子守をもうする必要はもうありません。本当に残念なことですが」
「……元より私には似合わないことだったのです。これも自然の摂理というものです。何、私よりもよっぽど上手く子守をできる者もいることでしょう」
一瞬顔をひきつらせながらも、命は言いきった。これで良いと、もともと子守など自分のような武骨者にできるはずがなかったのだ。自分なんかよりも、よっぽどあの子を上手く育てることのできる神はいる。無理やりに自分自身を納得させるために、そう心で呟いて。
命の言葉を聞いた天照大御神の顔は、憂いをさらに帯びたものに変わってしまう。それに命は気づくことが出来ずにいた。
「分かりました。それでは命、また来年に会いましょう」
「はっ、分かりました」
静かに天照大御神の前から退出した命は、さびしげにつぶやいた。
「そういえば、久しぶりだったな。ああやって家族のように食事をするのは」
騒ぐ月夜見と、彼女をいさめる命。それを微笑ましそうに見る老婆。その暖かな食事の風景はかつて命が二度失った光景だった。
老婆の作った食事は子供が好むような派手さこそない物の、栄養をよく考えており量も月夜見的に満足なものだった。しかしそのほとんどは野菜で、味の濃いものを好む月夜見には物足りないものがあった。
これで命がいれば、文句こそ言わないが味付けの濃いものを苦手としているため、さりげなく月夜見に味の濃いものを譲ってくれ、食事がさらにおいしく感じられるのに。
そんな益体もない事ばかり月夜見は自分の部屋で考えていた。普段ならばどうでも良い事として切り捨てる様なものばかりが月夜見の頭に浮かんでくる。たかだか一日命が来ないだけで平穏がやってきたが、どこか物足りなさ、退屈さを感じてしまっている。体を動かしたい。じっとしているよりも、体を動かしている方がまだマシか。そう考え、月夜見は外へ出かける用意をし始めた。
「月夜見様ー、天照大御神様から使いがおいでです!」
外へ出かける準備をしている月夜見に、珍しく姉である天照大御神からの連絡が来た。姉妹であっても、月夜見が天照大御神を苦手としているせいで、あまり姉妹仲はよろしくない。
顔をわずかにしかめた月夜見ではあったが、階下からの声に返答した。
「分かったわ! すぐに行くからもう少し待っててもらいなさい!」
使いは月夜見の家の玄関にいた。大きな黒い体をしており、引き戸を壊さんばかりに頭を無理やり玄関につきこんで、家を軋ませている。
「あら、八咫烏じゃない」
そこに居たのは八咫烏だった。天照大御神の使いにして、自身もまた黒い太陽の神である霊鳥。その大きさは人一倍大きく、八咫という名まえを与えられもしたほどだ。月夜見など、八咫烏の半分ほどしか背がない。命の身長と同じくらい大きいのだから当然だ。
それほどの大きさの違いをものともせず、月夜見は八咫烏の前まで躊躇なく歩いていく。八咫烏も、月夜見が近づいてくるのを大人しく待っている。
「それで、お姉さまは何ておっしゃってるの?」
「『命のことで大切な話があります』とのことです」
霊鳥から返ってきた思いもしない言葉に嫌な予感がした月夜見は、すぐに出かける事にした。幸い出かける準備はしていたため、あとは天照大御神のいる社へ向かうだけで良い。
「八咫烏、私をお姉さまの元へ連れて行って」
「分かりました」
八咫烏の巨体がはためき、空を飛ぶ。空を飛ぶ八咫烏の足に月夜見はしがみ付いて天照大御神の社を目指す。さすがは天照大御神の使い。あっというまに天照大御神の社へたどり着いた。八咫烏は月夜見を降ろすとどこかへ飛んでいく。おそらくは次の知らせを伝えに行ったのだろう。八咫烏から降りた月夜見は、姉の元へ一心不乱に走っていく。
社へ飛び込んだ月夜見は姉を見つけると急いで近寄った。彼女は顔を紅潮させていた。
「お姉さま、いったいなんだというのです。命が何かをしたというのですか?」
「いいえ、違います。あの子は何も悪くありません」
噛みつくかのようにどこか切羽詰まった風な月夜見へひどく言いづらそうに、そして憐憫を含んで天照大御神は悲しげに伝えた。
「貴方の子守から命を解任させることが決まりました」
「え?」
視界が揺れる。月夜見は今姉が口にした言葉を理解する事が出来なかった。したくなかった。
「私たち神々は、話し合いを何よりも重視します。それは最高神たる私ですら覆せないほど神聖なもの。その話し合いの中で、命が議題に挙げられてしまったのです。彼らは命の行動を問題視したのです。私はもちろん反論しましたが、他の多くの者が命を解任させるべきだと声を荒げたのです」
「そ、そうですか、で、でも別にそこまでしなくとも……」
「言ったでしょう、月夜見。話し合いというのは神聖なもの。それは権力で拒絶して良いものではなりません。一度でも権力を使ってしまえば、次から行われるのは話し合いではなくなってしまいます。それは権力を持つ者の独裁に変わり果ててしまいます。だからこそ私もその決定を覆さないのです」
「な、なら仕方がない、のでは?」
月夜見の口から出た言葉は、抑揚のないものだった。心が震えて寒くなる。嫌だ! なぜだかそう叫びそうになった自分を抑えるのに苦労してしまう。いやむしろその言葉を抑えたくはなかった。
けれども、月夜見にだって立場がある。天照大御神の妹という立場が。それは自分の勝手を簡単に押し通して良いものではない。押し通せるからこそ、押し通してはならない。想いが現実によって殺されていく。
月夜見に残された選択肢は一つしかない。
「……そうですか。では、月夜見。貴方は帰りなさい。これから私は政務があります。貴方にかまうことはできません」
「……はい」
うつむいたまま月夜見は天照大御神に背を向けて、足取り重く出口へ向かう。その小さな背に言葉が投げかけられた。
「貴方が望むようにしなさい。私はそれを否定しません。例えどれほど神聖なものでも、それこそ私たちの父であっても貴方の意志を曲げることはできないのですから。貴方が嫌だというのならば、ほかの神も無理は言わないでしょう」
その声を振り払うために、月夜見は社を飛び出した。
命は高天原の外れも外れにある墓地を訪れていた。そこは酷くさびしげな場所だった。あまり人が足を運ばないせいか、雑草や苔が生い茂ってしまっている。
高天原では、死というものは穢れているという考えがある。その為に、たとえどれほど高位の存在であろうとも、死した場合は中心地から離れた場所にある墓に入れられる。それはたとえ三貴子の一人であっても例外ではない。
この墓場にある墓地の一つ、そこに素戔嗚から成り立つ素戔という一族の骸が眠っている。その中には、命にとって大切な人・も眠っていた。
「櫛名田、子育てというのは存外難しいものなのだな。お前に子供たちは任せっぱなしだったとはいえ、子守一つ満足にできんとは思わなかった」
うなだれたまま、手元に用意した酒を命は煽った。今はただ胸の中にくすぶる火を消したく、浴びるように酒を飲んでいた。それでも火は消えず、より強く燃え上がり、言葉に出来ない喪失感が胸の中で訴え続けている。
「気がつかないうちに情が移ったか」
天に上る月夜見の力の象徴である月を眺めて、苦い笑みを力なく浮かべた。残っている酒を一息に飲み干す。命の口から白い息が漏れだしてしまう。
「せめてあの子が立派になるまでは見ていたかったものだ」
呟いた言葉は静かに消えていく。誰にも聞かれることもなく。そのはずだった。
素戔家の墓から最も遠くにある墓に身を隠し、月夜見は命の様子を覗き見ていた。かなりの距離はあるが、命のせいで身体能力が向上しており、いくら距離があるからと言っても地平線の先でもないためにその姿は良く見えるし、声も聞こえる。
「莫迦。私だって、離れたくはないわよ」
座り込んで月夜見もまた空を見上げた。自身の力の源でもある月が、涙を流しそうなほど悲しく見える。輪郭がぼやけていく。いや、これは
「涙?」
涙がこぼれる。
「可笑しいな。何で涙が。嫌だな、こんな涙。命と一緒にいた時に流した涙は温かいのに、この涙はこんなにも冷たい」
「こんな所で何をしている」
泣いている月夜見の後ろには命がいた。泣いている彼女に背中を合わせ、座っている。
「何でもない、わよ」
「そうか。……そろそろ帰るぞ。夜も深い。これからどんどん寒くなる」
「うん」
握られた手は温かく、放したくなかった。
(ああ、そうか。私は、命と一緒にいたいんだ)
月夜見の瞳は黙って先を行く命を見つめていた。
月の民を見つけたは良いが、貴族に見つかり敵視され、一時その姿を隠さなければならなくなってしまった命は都から少し離れたところにある山の奥深くに潜んでいた。命の容姿は目立つ。おそらく既に都では命の姿を見かけたら捕縛するよう命令が出ているだろう。それが手に取るように分かるからこそ、命は隠れることを選択した。これでもかつて高天原において軍部の長であったのは伊達ではない。
しかしその命ですら予想はできなかった。おそらくは月から来たであろう船が都から離れ、月へ目掛けて跳んでいくうちに炎を上げて墜落するなど。
「何が起きている?」
月の技術の高さはその前身である高天原の時代から高かった。その当時の技術を知っているからこそ、命はなぜ船が墜落しているのか分からなかった。
情報というものは隠れ潜む命にとって何より重要なものである。情報を知っていれば姿を隠しやすくなるし、知らなければ逃げ辛くなる。しかし今回は訳が違う。情報を得ようにも、その情報源自体が命を追っているであろう月の民だ。下手に接触するわけにもいかない。引くか、引かぬか。命は選択した。
「このまま落ちたら丁度この山の麓、都の反対側か」
黒煙を上げる船は山向こうの平野に高度を下げながら落ちていく。その落ちていく場所へと命は足を向けた。
「酷い惨状だ」
命の足でも数十分かかる場所に、船は墜落していた。轟々と黒煙を上げ、油の焼ける嫌な臭いが辺りに立ち込める。幸いなのは平野であるために、今すぐこの炎が広がる可能性は少ないということだろう。船は墜落の衝撃の所為か、ちょうど中央の部分で真っ二つに割れている。そこからはひしゃげた金属が転がっている。燃え盛る船の中に命は足を踏み入れた。
神ではないといっても、その体はもはや人類と比べるべくもない命の体だ。直接触れば別だが、燃え盛る炎の熱でも熱いと思う程度で火傷はしない。黒煙もまたほとんどその体に悪影響を及ぼせずにいた。
「生きているものは要るか?」
月の民はそのほとんどが高天原にいた者達だ。穢れのほとんどない時代から生きていた彼らの体は今を生きる人間をはるかに凌駕する。この程度で死ぬとは到底ありえず、命はとりあえず生きている者を探した。殆どの人間はどうやら脱出しようとしていたようで、出口の方に集まっていた。しかし全員が気を失っている。
「これは……。いや、今は気にするべき事じゃない」
さすがに彼らを一々外に出しているのは時間が掛かりすぎると判断した命は出口を開け、倒れた人間を出口へ通じる一本路に集め、
「波ッ!!!」
両手を熊手の部分で合わせ、腰だめに構え一気に前へ押し出す。その掌底に似た一撃は突風を発生させ、気絶していた人間を吹き飛ばしていく。吹き飛ばされた人間たちは出口から投げ出されて平野の方へ追いやられる。もう残された人間がいないことを船内を駆け抜けて確認した命は自身も脱出するために出口へ向かった。真っ直ぐな一本道を走り、出口から地面へと飛ぼうと足をかがめた瞬間、背後から風切り音が響いた。とっさに命は体をそらして、唸りを上げる物体を避けた。それは、鋭い矢じりのついた矢だった。
背後へ振り向いた命は確信を持ってその矢を放った人物の名前を告げた。
「お前か、××」
「久方ぶりね、命」
炎の影から顔を出したのは、かつて高天原にて命と月夜見と協力していた八意××だった。変わらない赤と蒼が交互に代わる独特な色合いの服を着て、黒光りする良く手入れをされた弓を命に向けていた。その弓には既に先ほどの矢とは違い、霊力が凝縮した力で出来た矢がつがえられていた。
「なぜ、というべきかこれは」
「あら、私はそう思わないけれど。あの時、勝手に全てを投げ捨てた男にこれくらいは許されるというものよ」
とげのあるその言葉に命は苦々しく顔を歪める。自分が責任を放棄していたことは理解している。それでもあの時はそうするしかなかった。八意ならば理解してくれる。そう思っていたのは甘かったのか。
「確かに私は全てを投げ捨てた。しかしそれに――」
一閃。炎の上昇気流をも利用し、軌道の変わる矢を命はつかんだ。しかし、
パシン
放った矢を追いかけて接近していた八意の張り手を防ぐことはできなかった。八意の顔は、冷たい拒絶の色があった。
「少なくとも、少なくともあなたは知らなければならないわ。私が怒っているのはそんなくだらないものでないことを。貴方は他者の心を省みなさすぎる。いえ、自分の価値を低くとらえ過ぎている。貴方を見失った月夜見がどうなるか考えたことはある? 私があの時地上にいるべきと言ったのは、あくまでも貴方達が話し合いをして、お互いが納得するのが前提だったのよ」
下げずんだまま、八意は命の横を通り出口から出た。
「貴方はその罪を償いなさい」
ぽっかりと浮かぶ三日月が無性に空しく、燃え盛る船体から脱出した命は力なく座り込んだ。後ろで燃えている船は、既に燃料を燃やし尽くしたのかだんだんと下火になっていた。
「私の罪か。一体いくら積み重なっている事やら」
自嘲した乾いた笑いは炎に焼かれ天そらへ昇る。そこに込められた思いを置き去りにして。
カツカツと病院の廊下を一人の女性が歩く。薄紫色の長い髪の毛を後ろでまとめ、ポニーテイルにしている女性だ。腰には一振りの長刀があり、彼女が放つ雰囲気はまるで抜身の刀のように鋭く、とがっている。周りにいた看護師や医師たちは、歩いているその女性を見ると慌てて踵を返して離れて行く。
廊下を歩いていたのはかつて命に敗れた依姫だった。彼女は地上へ蓬莱山輝夜を迎えに向かったはずの部隊が全員倒れ、それでも何者かに助けられ何とか月に戻りはできたという、月の民にとって荒唐無稽な話を聞いていた。月の民と地上の民では身体能力が大きく違う。月の民が危機になるのならば、地上の民では助けられないだろう。そう高を括っていた。
しかし彼らの話を聞いた依姫には、一つの違和感があった。その違和感が彼女を安易な考えに走らせることはなかった。
(おそらくは師匠が船を落とした。ここまでは良い。あの人は姫を溺愛している。大方姫が地上にいたいと言ったのだろう。その後だ、問題は。誰が彼らを救った? 師匠は優しくない。むしろ合理的な思考の底には冷酷な部分が強い。敵となるはずの月の人間を自ら救うということはしないだろう。ならば、誰かが助けたことになる。彼らに出来ていたあの傷、あれは……。いや、莫迦な。そんなはずがない)
切り捨てたその考えは依姫の中で長い間潜み続けることになる。本当だったら調べに行くのが一番早い。しかしそういう訳にもいかなかった。
「月夜見様もなぜこのようなことを」
依姫はポケットに入れていた紙を取り出す。そこには今回の件を深入りすることを禁ずるという月夜見の命令が書かれていた。
風が吹く。穢れを含まない風が。月の都をすり抜けて吹く風に、金色が混ざる。そこには白い狩衣を着た月夜見がいた。彼女は空に浮かんでいる青い故郷を凝視していた。
「アハ、アハハハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
狂乱だ。気が狂う程、月夜見は喜んでいた。ようやく探していたものが見つかった。愛しい愛しい人が。
「いつの間にかくれんぼなんて遊びを覚えたの、兄さん? うふ、うふふ。アレは私にあてたメッセージなんでしょう。負傷者の体に残った傷跡、あれは兄さんの放った衝撃波。鬼は私で、兄さんは逃げるほう。安心して、見つけたら今度は離さない。ああ、楽しみ。本当に楽しみ。待っていて、兄さん。必ず見つけるから。そしたら今度は私の番。世界が終わるまで一緒に、ずっといよう。なあ、命」
愛情がドロドロに淀み、零れ落ちていく。濁り切った瞳に、耳まで裂けた笑みを浮かべ月夜見はいつまでも笑い続けていた。
一応、まだ過去編の月夜見は親愛の情だけです。
最初の頃の月夜見がツンデレ。現在の月夜見がヤンデレ。