肌をじりじりと焼く夏の日差しも和らぎ、幻想郷を吹く風が涼しくなった。その風に乗りどこからか芋を焼く甘い匂いが漂う。豊作を祝う祭りがほとんど毎日どこかしらで行われている。供え物の香りだろうか。
人里中に甘い香りが広がる中、祀られる側である命は、邸の縁側にて一人座っていた。傍らには今年の作物で作られた茶菓子がある。時折菓子に手を伸ばしつつ、命は庭の紅葉を眺めている。
一枚の葉がちぎれ、命の足元へ落ちた。それを拾い上げた命は、再び葉を風に舞わせる。どこかへ飛んでいく葉から視線をそらすと、人里から遠く離れた空から高速で向かってくる羽ばたきの音が聞こえた。
その羽音が天狗のものであると鋭敏な感覚でとらえ、音のする方角へ顔を向ける。はるか遠くの空に、天狗の影が見えた。人どころか妖怪をも凌駕する命の目は、それがかつてであった天狗のものであることを看過する。
「ふむ。私に用か?」
その天狗は命の邸へ一直線に向かっている。あと数分もしないうちにたどり着くだろう。命は立ち上がると、手早く手甲と足甲を鍛錬用のものから普段使う物へ取り替えた。
予想通り、天狗は五分程度で屋敷の中庭へ降りたった。翼を仕舞いすぐさま蹲踞すると、非礼をわびる。
「突然の御訪問、誠に申し訳ありません、命様」
「別に良い、それよりも顔をあげろ。確か、射命丸だったか」
「はい」
上げられた顔はわずかに紅潮し息も荒れている。よほど急いできたのか、髪の毛が乱れてしまっている。
「どうしたというのだ。私は天狗とあまり関わるわけにはいかないということくらい知っているだろう」
「はっ、それは存じ上げています。しかし此度妖怪の山で起きた異変、我々天狗だけで解決すること叶い違わず。命様、貴方様の御力が必要なのです。どうかその御力をお貸しください」
しばし腕を組み目を瞑った命であるが、静かに瞼を開けると力強い声で答えた。
「分かった。お前には春雪異変のときに力を借りた。その借りを返そう」
「ありがとうございます」
「それで、異変といったがなにが起きている?」
射命丸の話は事実のみを簡潔にまとめたものだった。整理整頓され、支離滅裂さがないその話は容易に命へ山の現状を伝える。最後まで話を聴き終えると、命は額を一度抑え、射命丸へ
「しばらくこの家を留守にするかもしれん。お前はここにいて、私を訪ねてきたものを上手い具合にあしらえ」
「分かりました」
すぐさま命は駆け出す。あっという間に最高速へ至り、人里から離れた妖怪の山へ向かう。
妖怪の山は静かだった。普段ならば懲戒している白狼天狗の姿や、川のほとりに河童の気配がするが、ただ深い森だけが命を待ち受けていた。妖怪たちは住処に隠れているのだろう。隠れている気配はおびえが混じる。妖怪の山がこうなるのは、それこそかつて鬼が支配していたころくらいだ。鬼に匹敵するだけの力を持った存在が突如現れたことにより、困惑しているのだろう。
「早くカタを付けなければならんか」
さらに命の速度が上がる。雲をも突き抜ける高さの妖怪の山を、一気に駆け上がる。道中、何度か天狗の視線が向けられたが、それらすべてを無視する。
「やはり、な」
たどり着いた神社は、かなり大きなものだった。名のある神が住まう社だ。それこそ土地神程度ではここまで巨大な神社は建てられない。多くの人間に信仰されてきた神が祀られる場所だ。
しかし信仰の香りはまったくといっていいほどしない。幻想郷へ逃げてきたということは、信仰されなくなったということであろうが、それでもここまで大きな神社が信仰されなくなるとはさしもの命も驚きを隠せない。
境内へ足を進める。鳥居をくぐった瞬間、本殿から膨大な神力が命へ襲い掛かる。殺意も敵意もない。ただのあいさつ代わりだ。足を止めることなく、命はまっすぐ誘われた本殿へ向かう。
「久方ぶりだねぇ。もう何万年以来か」
「そうだな。もうそれだけ経つか」
本殿の一番奥に、胡坐をかいた女神がいる。背には注連縄を背負い、胸には鏡を下げている。その鏡はかつて命が造らせたものだ。そしてその神へ送ったものだ。
「神奈子、なぜこんなことをする?」
「決まっているだろう。私は軍神であり、征服神だ。土着の力を削ぎ落し、私の力にする。それは私がいままでしてきたすべてだよ。軍神と武神の違いはあれど、私たちは似たようなものだろう、なあ、爺様?」
ニタニタと含み笑いを見せつつ、八坂神奈子は胡坐を崩す。
「だとしてもここは妖怪の地であり、人間の神であるお前にふさわしい場所でない」
「それがどうしたっていうんだい? それに妖怪を倒すのも私たち神が求められることのひとつだろう?」
「正気か? 幻想郷の掟を守る気はないと?」
「正気さ。それに、私が作った掟じゃない。ならばそれに従うどおりはない」
ゴギリ。鈍い音が命の拳からする。握りしめられた命の拳が隆起した筋肉で一回り大きくなる。
「おいたがすぎるぞ、神奈子」
「いつまで私を子ども扱いするんだい?」
神奈子もまた立ち上がると、膨大な神力を身にまとう。
二人の額には青筋が浮かんでいた。
「表へ出ろ。灸をすえてやる」
「はっ! アンタの考えが古臭いって教えやるさ、このクソ爺!」
神社の屋根が吹き飛んだ。二人は石畳へ足を付けると、距離を詰め、同時に殴り掛かった。