月夜見の用意した寝所から起き上がった命には先程まであった傷が一つもなかった。肩から袈裟懸けに斬られた刀傷も、腹を貫いた風穴も。それらすべてが完全にふさがっており、強靱な筋肉を覆うなめらかな地肌だけが見える。
その手には先程射ち込まれた矢が握られている。霊力が込められている矢は、命の手でへし折られた。
折れた矢は、永琳が愛用している矢だった。鏃には何かを塗られた痕跡がある。おそらくは永琳の薬が塗られていたのだろう。
永琳の薬とは千早振る神代の薬だ。尋常ならざる効果を発揮する。たとえば蓬莱の薬。ひとたび口にすれば、その薬は服用者を永遠に生きる“なにか”にしてしまう。それほどの薬を作れるのが、永琳だ。ならば神である命にすら影響を与えうることも可能だ。
だがあれだけの傷を一瞬で治しきった神代の薬とはいえ、それでも限界はある。命の身体の傷はなくなったが、ダメージは未だ深く残っている。その証拠に、ただ立っているだけだというのに、命はわずかにふらついていた。
あまりに弱々しい姿。命の普段を知っているものからすれば、見るに堪えない醜態だ。それでも命は立ち上がった。
「命、無理して立つな。その身体で何ができるというのだ。このまま月へ帰ろう。帰れば全てが丸く収まるのだ」
「いいや、解決しない。このまま月へ帰れば余計悪化するだろう」
肩を落とした月夜見が、ため息をこぼしながらも命へその拳を向ける。その顔にはありありと失望が浮かんでいる。
「そうか。ならもう一度お前を倒して月へ連れて帰るとしよう」
その言葉を聴き、命は再び身体を震わした。
――わかっていたというのに。自分のせいで、月夜見は狂ってしまっているという事実を突きつけられて、また逃げようとしている。
もう逃げないと命は覚悟した。向き合うとそのために覚悟を決めたのだ。
息を一度吸う。
あとは思いを伝えるだけ。
「いいや、ここですべてを終わらせよう。もう私の罪で周りを傷つけ続けるのはごめんだ。……月夜見、お前は私が高天原とお前を捨てたと思っているのだろう。ああ、そうだ。客観的に見れば確かに私はお前たちを捨てたことになるだろう」
「……何を言っている、命。私はそんなどうでも良いことを聞きにこんな辺鄙な場所へ来たわけじゃない」
月夜見の困惑する声を無視し、命は続ける。
「だがな、それでも私はお前を見捨ようとしたわけじゃない。私は、私を恥じていた」
月夜見が困惑する中、命は話を滔々と続けた。ずっと押し殺してきた罪悪感をさらけ出し。
「確かに地上を心配していたのもあった。だが何よりも、お前の言う汚れなき地である月に、血を分けた姉を殺した私がいるわけにいかないと思った。私は私が一番穢れていると今でも思っている」
「だからそんなことはどうでもいいと言っている!」
「だから私は逃げたのだ。自分を恥じ、お前に失望されたくなく、それよりも前にお前の視界から消えたのだ」
「私はそんなことを聞きたいんじゃない!」
かぶりを振り、命の言葉を遮るように絶叫した月夜見が、駆け寄る。無理矢理黙らそうとしているのだろう。鋭い回し蹴りが繰り出される。全身に力を込めそれを受け止めた命は、攻撃をするのでなく語りを続けた。
「それでいいと思った。何者にも迷惑をかけず、私のような者が消え去るだけだから。そう思った。それに惨めだと思った。神でもない私が、神のための都に行くというのは。力がない故に、守られていろ。そう言われているようで」
「違う! 私はただ命が傷ついてほしくなかった! もう、あんな風に怪我をしてほしくなかった!」
「ああ、そうだろう。お前は優しいからな。それだけだったのだろう。だが当時の私にそんな余裕はなかった。ただ逃げた。話し合うでなく、ただ逃げただけだ。そうしてお前を傷つけた」
月夜見が命の手を振り切り、飛び退った。命の言葉を拒絶するように何度も首を振る。
「黙れ! そんな言葉を聞きたいんじゃない! 私が聞きたいのは、月へ帰るというその言葉だけだ!」
「今のお前とともに行くことはできない。周りを見ることすらできなくなってしまったお前を止める。それが私のすべきことだ」
命が腰を落とし、構えをとる。拳を天と地へ向け威圧を放つ。その構えは普段とる構えと違い、威圧殲滅のための攻撃の型だ。
それは一つの決意を形にしたもの。逃げないために。もう後ろに下がらないために、自身を追い込んでいく。
「いくら攻撃に力を振り分けようとも、私の力にかなうわけがないだろう。それすらも分からなくなったか!」
「いな。確かに力は負けているだろう。業もまた負けた。だがそれでもただ一つだけ、私が今のお前に勝てる要素はある。すなわち、心だ。行くぞ、月夜見」
もはや残り少ない体力を振り絞り、命は全身に力を込めていく。
だがそれは余りに隙が多い。そしていくら力を振り絞ろうとも、単純な力では月夜見を上回ることなどできやしない。
命はただ、隙をさらしているだけに過ぎず、その隙を突かないほど月夜見はもうろくしてはいない。
「これで終わりだ」
一瞬で命の背後をとった月夜見は拳を振り下ろす。それはまるで噴石の如き威力を秘め、さしものの命といえども今の状態では受け止めきることなど不可能な力が込められている。
それだけの一撃が命の後頭部へ叩きつけられる。それで長き戦いは終わる。
そのはずだった。
月夜見の拳は命に当たることなく、空を切った。
月夜見の眼前に、命はいなかった。影すら残さず消えていた。
「『禁術 素戔嗚尊』」
命の静かな声が月夜見の耳朶に届いた。それは背後から聞こえた。
月夜見が振り返れば、命が立っている。
月夜見ですら怖気の奔るほどの力を発して。
まるで世界そのものが凝縮して命の身体に無理矢理縫い付けられたかのように。
月夜見の足が止まる。
「なんだ、それは? 知らない。私は知らぬ。そんな業、私は知らない!」
「当たり前だ。これは誰にも伝えるつもりはなく、教えることなどできやしない。そも、お前には必要ない業だ」
命がわずかに身体を動かす。
瞬間月夜見の拳が突き出された。咄嗟だったのだろう。月夜見自身、驚愕が顔に張り付いている。
それを命は剛力を持って打ち据えた。月夜見の体勢が崩れる。凄まじきほどの剛の業。そしてそれは命らしからぬ業だった。神としての力を発せぬ命は、自然自身の力を多く必要とする剛よりも、磨き抜いた業による柔を好んでいた。少なくとも、真に強き的を相手取るとき、負けられぬ闘いであればあるほど、たぐいまれな業を見せてきた。
ゆえに月夜見は対処が遅れた。返しの突きが月夜見の腹を打ち据える。
鈍い音が響く。月夜見の口から黒々とした粘ついた血が吐き出される。
地上において初めてのまともなダメージ。月夜見は命をにらみつけ、目を見開いた。
「み……こと……、なんだそれは」
そこに立つ命の右腕は壊れていた。内側から破裂したかのように筋肉が露出しており、噴水のような勢いで血が吹き出ている。ばちゃばちゃと音を鳴らし、地が血に濡れる。
今にも引きちぎれそうな右腕を命は月夜見にさらしていた。