雪をかき分けるようにして、小さな丘を越えた。
風が強くなる。頬を刺す冷たさに、思わず目を細めた。
丘を越えたところに、大きな木が一本立っていた。葉を落とし尽くした枝に、雪だけが積もっている。その根元に、二つの人影があった。
「遅いですね」
影様の声だった。相変わらず抑揚がない。だが、待たされたことへの不満は、少しだけ声の端ににじんでいる。
「すみません、雪見の道すがら、少し話し込んでしまって」
「将軍が、道中で油を売るなんてしょっちゅうだろう、影」
木の陰から、もう一つの声が上がった。狐斎宮だった。白い狐耳が、風にわずかに揺れている。
「油ではありませんよ」
「屁理屈を言うでない」
狐斎宮は肩をすくめ、それから自分に目を向けた。
「久しぶりだな、烏の子」
「お久しぶりです、狐斎宮様」
自分は頭を下げた。
狐斎宮の視線が、一瞬だけ長く自分にとどまった。何かを確かめるような目だった。だがすぐに逸れた。
「さあ、立ち話もなんだ。見晴らしのいい場所がある。案内しよう」
狐斎宮が先に立って歩き出す。木立を抜けると視界が急に開けた。
丘の上から、稲妻の景色が一望できた。雪に覆われた城下が、白く沈んでいる。空は薄い灰色で、雪はまだ絶え間なく降り続けている。
だが、その向こうに、かすかに青がにじんでいる。晴れ間が近いのかもしれない。
木々の合間から吹き抜ける風が、雪を舞い上げる。踏みしめた雪の下から、微かに土の匂いがした。
四人分の藁の敷物が、あらかじめ広げられていた。
誰が用意したのか、聞くまでもなかった。
自分は敷物の端に膝をつき、背負っていた酒瓶を下ろした。
「おい、待て」
狐斎宮が急に身を乗り出してきた。
「これは...まさか」
瓶を手に取り、首元に結ばれた小さな木札に目を近づける。焼き印で刻まれた印を、指先でなぞるようにして確かめた。
「眞様、これは...?」
「ええ」
眞様が、微笑みながら答えた。
「あなたが気に入っている、お酒ですよ。もともと世にあまり出回らない、ある蔵元が細々と手掛けてきた品でしたが──先だって、私への贈り物として、特別にあつらえたものを一本だけいただきましてね。この世に、これ一本しかありません」
「一本しか...」
狐斎宮の目が、丸くなった。
「飲んでいいのか?」
その声は、いつになく素直な響きだった。目を輝かせながら、眞様の顔をまっすぐに見ている。
「ええ、もちろん」
眞様が頷くと、狐斎宮は瓶と盃を両手に抱え、すでに用意されていた藁の敷物へ一目散に座り込んだ。
「さあ、お主たちも早う座れ!こんな貴重な酒、長々と突っ立って眺めているものではない」
急かされるまま、眞様、影様、自分の三人も、それぞれ腰を下ろした。
狐斎宮が全員の盃に注ごうとしたところ、自分がそれを止める。
「狐斎宮様、自分めが注ぎます」
「おお、気が利くな」
自分は瓶を受け取り、まず眞様の盃に注いだ。次に、影様の盃。それから狐斎宮の盃にも注ぐ。自分の盃には、手を付けなかった。
「なんだ、お主は注がぬのか。もしかして、酒に弱いのか」
「重鎮の皆様方の前で、自分風情が自分の盃に注ぐのも気が引けます」
「ここまで来て、そんな固くなるな」
「そうですよ。あなたも飲むべきです」
眞様が後押しするように言う。
「眞様がそう仰られるのであれば...」
「こやつは変に律儀じゃな」
そういうと、狐斎宮は酒瓶を取る。自分は空の盃を持った。
なみなみと酒が注がれた。
「恐れ入ります」
「では──」
眞様が盃を掲げる。
「今年も息災に」
四つの盃が、静かに合わさった。
酒が喉を通る。冷えた身体に、じんわりと熱が広がって行く。
「......美味い」
狐斎宮が目を細めて呟いた。
「五十年前に飲んだ時よりも、まろやかだな」
「きっと、熟成が進んだのでしょう」
眞様が答える。
しばらく、四人は酒を酌み交わしながら、他愛のない話を続けた。城下の雪の量、今年の梅の開花、狐斎宮が飼っている狐の近況。笑い声の混じる、穏やかな時間だった。
その間にも、狐斎宮は杯を重ねていく。二杯、三杯、四杯。話す声が、次第に大きく、砕けたものに変わっていった。頬が赤らむ、狐耳が心なしかだらしなく垂れ始めている。
「なあ、烏の子」
狐斎宮が、急ににじり寄ってきて、自分の頬をむにっとつまんだ。
「お主、つままれても動かんな。表情筋というものが、そもそもついていないのではないか?」
「ついています」
「と言っても、面白味のない顔だ」
なおも頬を引っ張りながら、面白そうに続けた。
つまれたまま、自分は動かなかった。表情も変えなかった。
「なんだ、その無反応は」
狐斎宮は、今度は自分の頭をわしわしと撫で始めた。
「もう少し、嫌がるなり、照れるなり、反応というものを見せんか」
「重鎮の方に頭を撫でてもらって、嫌がるのも失礼です。──特に、嫌がる理由がありませんので」
「理由がなくとも、ふつうは嫌がるものだぞ」
狐斎宮は、なおも頭を撫で続けた。爪が、髪の間をかき分けるように動く。
それでも、自分はただ、酒瓶を倒されぬよう手で支えながら、じっとされるがままになっていた。
「......お主、本当に人間か?」
「人間です」
「反応が薄すぎる。石でも撫でている気分だ」
「石よりは、多少は反応していると思います」
「多少、な」
狐斎宮は、ようやく手を離し、ふうと息をついた。
それから、なにかを思いついたように、また身を乗り出してくる。
「なぁ、侍女よ」
「はい」
「聞かせてもらおうか」
狐斎宮は、盃を片手に、妙に真剣な顔をした。
「お主は、将軍のどこが好きだ?」
自分は少し考えた。だが、考えるまでもなかった。答えは、いつでも同じ場所にあった。
「すべてです」
「ほう?」
「眞様の思想は、深く、遠くを見据えています。あの日、お見せいただいた剣劇は、この世のどの技よりも美しく、恐ろしい。その立ち姿、声、佇まい──全てにおいて、眞様の上を超える存在は、この世にはいません」
自分は淡々と続けた。
「思想も、武も、容姿も完璧。眞様に足りないものなど、一つもありません。全てが好きです。それ以外に、言いようがありません」
しばらく、沈黙が落ちた。
狐斎宮と眞様は、口を半開きにしたまま、固まっていた。影様は目を閉じながら、酒を嗜んでいる。
「...お、おう。予想以上に重かったな」
「──あの」
眞様が、少し頬を赤らめながら、小さく咳ばらいをした。
「そこまで真剣に言われると、少し困ってしまうのですが」
「本当のことを言いました」
「本当のことでも、少し照れます」
狐斎宮は、しばらく無言だったが、やがて何かを振り払うかのように、ぶんぶんと首を振った。
「い、いや、うむ。よくわかった。お主の忠誠心が、常軌を逸しているのはわかった」
「普通ですよ。むしろ、忠誠心というものはこうでなくては」
狐斎宮は、盃を呷り、気を取り直したように続けた。
「では、聞き方を変えよう。もし──もしだぞ。将軍が、お主以外の誰かを、隣に置くと言ったら、どう思う」
「なんとしても、その方を引きずり下ろしたいと思います。手段は問いません」
自分は淡々と喋る。その言葉を聞いた狐斎宮の手が一瞬だけ止まった。
「ですが」
自分は続けた。
「眞様がそれをお許しにならない以上、私は正当な力で、その座を奪い返すのみです」
その言葉を聞いた影様の目が、僅かに動いた。顔には、何も出ていない。いつも通りの静かな無表情だった。
だが、その奥で何かが確かに、静かに、燃え始めているのがわかった。
再び、沈黙が落ちた。
眞様が、少し引き攣った笑みを浮かべながら、口を開いた。
「あの、それは少し物騒な答えでは」
「そうでしょうか。自分的には本心で話したのですが」
「本心だから、余計に心配なのですが」
狐斎宮はしばらく自分の顔を見つめていたが、やがて盛大に噴き出した。
「ぶは!こやつ、面白いな。林念仁かと思えば、こういう時だけ、妙に血の気が多い」
「血の気が多いわけではありません」
「多い。今の目、完全に据わっていたぞ」
狐斎宮は、笑いながら涙を拭う仕草をした。
それから、ふと隣の影様に目をやり、その静かな気配に気づいたのか、にやりと笑った。
「──おお、これはいい。影も、何やら火が付いたようだな」
「そのようなことは」
影様はいつも通りの淡白な声で答えた。だが、否定の言葉とは裏腹に、その目には確かな光があった。
「そうだ」
狐斎宮は自分の方にぽんと手を置いた。
「のぉ、烏の子よ」
「はい」
「お主、影に武を教わっておるのだな」
「そうです」
狐斎宮の目つきが、不意に変わった。
酔いの奥に、先ほどまでとは違う、探るような光が宿る。
「ちょうどいい。その成果とやらを、この目で見てみたいものだ」
「斎宮、酔った勢いで適当なこと喋らないでください」
「適当ではない、ただの興味だ」
「自分はどちらでも構いません。眞様のご意向に従います」
「私は──」
眞様は、困ったように影様を見た。
「影はどう思いますか」
「構いませんよ」
影様ははっきりと答えた。
「今日はまだ修行をしていません。都合がいいでしょう」
そう言って、影様は続けた。
「一試合だけやりましょう。いいですね?」
自分に向けられた問いだった。
「わかりました」
自分と影様は同時に立ち上がる。
「刀でもよろしいですか?」
自分は、影様に尋ねた。今持っている武器はこれしかない。
その一言に、狐斎宮が酒を噴き出した。
「待て。手合わせだぞ?お主、本気で影を殺しにかかるつもりではあるまいな」
「そうではありません。武器はこれしかありませんし、まさか、武神たる方が、自分の武に斬られるとは思えませんから」
「それはそうだが。──まぁ、いい。面白くなりそうだ」
狐斎宮がニヤニヤといたずらな笑みを浮かべながら、もう一杯、酒を口に運んだ。隣にいる、眞様は困ったような顔でいた。
影様は、傍らの木の根元に立てかけてあった太い棒を拾い上げた。木刀よりも一回り太い、ただの棒に近いものだった。
「まだまだ、得物の差でどうにかなるほどの実力が、彼女にはありません」
短く、それだけ言った。
雪の積もった敷地の中央、木々の囲まれた開けた場所に、二人で向かう。
眞様が、少し離れた場所で不安げに見守っている。
狐斎宮は敷物の上に座ったまま、先ほどとは違う、静かな目でこちらを見ていた。
影様が構えを取った。太い木の棒を、片手でだらりと下げただけの、一見無防備な構えだった。
自分は抜刀し、真刀を正眼に構える。九年間、幾度となく見てきた相手だった。
「では──いつでもどうぞ」
影様の声が、静かに響いた。
自分は足を蹴った。同時に、足元の雪を強く蹴り上げる。白い雪煙が、司会を覆うように舞い上がった。
その雪煙に向かって、刀を袈裟懸けに振り下ろす。手加減はしなかった。本当に斬るつもりで、刃を叩き込んだ。
だが、届かなかった。
雪煙の向こうで、影様の姿がわずかに揺れた。刀は空を切り、雪だけが散った。
「──!」
間髪入れず、二の太刀を放つ。横薙ぎ、突き、踏み込みからの逆袈裟。これまでの全てを、惜しみなく叩きつける。
だが影様は、それを一つも避けなかった。
木の棒で受け、いなし、時に半歩だけ引いて、間合いを外す。
攻めてはこなかった。ただ、自分の一撃一撃を、正確に、無駄なく処理していく。
──手加減されている。だが、止まる理由にはならなかった。むしろ、その一点に食らいつくように、自分は攻めを重ねた。
刀を返し、下段から掬い上げる。影様が棒でそれを弾いた瞬間──。
肌が栗立った。
皮膚の表面がぴりつくような、空気そのものが張り詰めるような感覚。雷元素を繰り上げる、あの気配だった。
──来る。考えるよりも先に、体が動いた。
刀を引き、後方へ半身を捻る。
棒の先端が、頬のすぐ横をかすめて通り過ぎた。
その一瞬の隙を、自分は逃さなかった。
刀を返す勢いのまま、影様の持つ棒へ、刃を叩きつける。
──スパン。
乾いた音が響いた。木の棒の半分が真っ二つに断たれ、雪の上に転がった。
影様の目が、わずかに見開かれた。初めて見る、驚きの色だった。
今なら──。
刃を返し、影様の首筋へ向けて、そのまま振り下ろそうとした。
だが、それよりも早く、影様の身が沈んだ。断たれた棒の残り半分を逆手に持ち替え、下から鋭くこちらの間合いへ滑り込んでくる。
反応する間もなかった。腹に衝撃が来た。
息が詰まる。景色が回った。雪の白と、空の灰色が、混ざり合いながら流れて行った。
背中から雪の上に叩きつけられ、そのまま数間、滑った。
「──ぐ......」
肺の中の空気が、一気に押し出された。仰向けのまま、しばらく動けなかった。
「勝負ありです」
影様の声が、頭上から静かに降ってきた。
「相手から武器を奪ったからといって、それが攻撃の起点になるとは言えません。様々な手段を持っていることを常に念頭においてください。特に格上はそれは顕著です」
自分はそれを頭に入れながら、ゆっくりと身を起こした。腹の衝撃は、まだ鈍く残っている。
「見事だ」
狐斎宮が、静かに呟いた。先ほどまでの陽気さは、少し引いていた。
「棒を切り落とすとはな。だが、詰め切れずに終わったか。差というものを、しかと見せつけられたな」
「しかし、私の攻撃の起点を読み取れるようになったのは、驚きました。修行の成果が出ていますね」
影様が、静かに問いかけてくる。
「どうしてわかったのですか?」
「棒を返される直前、肌がぴりつくような感覚がありました」
自分は雪の上で座り込んだまま、素直に答えた。
「直感的にそれが攻撃の合図だと思ったんです」
「いいですね」
影様は、短く答えた。
「私は長年、雷元素を使っていたことから、攻撃の直前に極少量の雷元素を混ぜるという無意識の癖がある。そこを見抜いたのはよかったです」
「──直されないんですか?」
「......直そうとしている途中です」
自分は起き上がり、服についた雪を払う。
そして、自分と影様は敷物のところに向かって、歩き出す。
「ただ──、今までそのような感覚になったことがありません。どうして急に──」
自分は静かに呟く。
「長年、雷の化身である眞と私の隣にいたからでしょう。だから、自然と雷の感受性が高まり、初めて、極微弱な雷元素の気配を辿れた──と」
自分は黙ってそれを聞いている。
口から出た白い息が、冷気に溶け出していく。
「眞様の雷にも感覚があるのでしょうか」
「あります。というより、私のが感じれるのだから、分かるでしょう」
「どういうことです?」
自分は思わず、問いかけた。
「私と眞の起源は元より一つです。だから、感覚もわかるし、感覚も一緒です」
自分は再び黙った。
眞様の雷元素はどんな感覚がするのだろうか。影様と同じ、おぞましいものなのだろうか。
自分はそれに、少し違和感を感じた。
──眞様の雷元素の感覚は、柔らかいものであってほしい。
なぜかそれだけが頭に浮かんできた。
元に戻ると、狐斎宮はいつもの調子に戻り、盃を掲げる。
「よし、飲みなおそう」
自分の腹の奥には鈍い衝撃が残っている。ゆっくりと息を吐き、痛みをやり過ごした。
「おつかれさまでした」
眞様が、そっと酒を注いでくれた。
「ありがとうございます」
盃を傾ける。冷えた体に、酒がじんわりと染みていった。
「しかし、驚きましたね」
眞様が、感心したように言った。
「影の得物を斬るなど。九年という月日は、伊達ではないのですね」
「詰め切れませんでしたが」
「それでも、です」
眞様が、いたずらっぽく影様を見た。
「厳しくなければ、意味がありませんので」
影様は、いつも通りの声で返した。
しばらく、四人は酒を酌み交わしながら、先ほどまでの立ち合いの話で盛り上がった。
狐斎宮は「もう一戦見せろ」としきりにねだったが、影様が「今日はもう十分でしょう」と一蹴した。
やがて、盛り上がりが一段落した頃、狐斎宮がふと、遠くを見るような目をした。
「そういえば」
盃を傾けながら、独り言のように呟く。
「最近、西の方が、騒がしいな」
「西──ですか?」
自分は、思わず聞き返した。
「ああ」
狐斎宮は、盃の中の酒を見つめた。
「狐の一族は、風の匂いに敏感でな。ここ最近、西から流れてくる風に、妙な匂いが混じっている。何といえばいいか──軋むような、不安定な匂いだ」
「妙な匂いですか」
眞様の表情が、わずかに変わった。それまでの穏やかさに、一筋の緊張が差し込んだのがわかった。
「斎宮も、感じていましたか」
「お主も、気づいていたのか」
狐斎宮が、眞様を見た。
「ええ。ここ最近、カーンルイアとの関係が、少し──思わしくないのです」
その一言に、場の空気が、静かに変わった。
「あの」
自分は、恐る恐る口を開いた。
「カーンルイア、というのは──どこにあるのですか」
眞様は、少し間を置いてから答えた。
「西の彼方、地の底です」
「地の底、ですか」
「ええ。この稲妻からずっと西へ渡った先に、砂に覆われた国があります。私も、両手で数えられないほど訪れたことのある土地です」
眞様は、雪の降る空を見上げた。
「その国のさらに地下、日の光すら届かない深いところに、カーンルイアという国があります。神を戴かず、人の知恵と技だけで栄えてきた国です」
自分にとって、それは想像しにくい話だった。この稲妻には眞様がいる。神のいない国が存在するということ自体が、どこか現実味を欠いていた。
「彼らは錬金の術と、機巧 の技にたけています。私たちが刀を鍛えるように、彼らは知恵で道具を、命に代わるものを作り上げてきました」
眞様の声には、どこか複雑な響きがある。敵意ではない。だが、単純な親しみでもない、そういう調子だった。
「昔は、行き来もありました。彼らの技術に、助けられたことも一度や二度ではありません」
「今は、違うのですか」
「──少し、様子が変わってきているのです」
眞様は、それ以上を語らなかった。何かを言おうとして、言葉を選びなおしているような、そういう間があった。
「詳しいことは、私にもまだわかりません。ただあの国から届く便りが、ここ最近、少しずつ様子を変えてきています。何か、地の底で──良くないことが起きているような、そんな気配です」
「よくないこと」
「ええ」
眞様は、短く答えた。それ以上は、踏み込めない声だった。
「斎宮の言う、西からの妙な匂いも、それに関わるものかもしれません」
「うむ」
狐斎宮が、珍しく神妙な顔で頷いた。
「あの国は、地下に潜っている分、こちらからは見えぬことが多い。だからこそ、匂いや、気配でしか掴めぬこともある」
「私も、しばらく様子を見ています」
眞様が、静かに言った。
「まだ、案じるほどのことではないと思いますが──念のため、心には留めておいてください」
その言葉は、自分に向けられたものだった。
「はい」
自分も短く答える。だが、その返事とは裏腹に、胸の奥で何かがざわついていた。
なぜだろう。
遠い国の、遠い話。地の底の、見たこともない土地の話だ。自分の関わりのない話のはずだった。
それなのに、聞き逃してはいけないという感覚があった。西、地の底、砂に覆われた国、その先──。まるで、後になってこの一言一言が、何かの意味を持つとでもいうように。
理由はわからない。だが、自分は眞様の言葉を、一つも聞き漏らすまいとするように、静かに耳を澄ませていた。
雪はまだ降り続いていた。
しばらく、四人とも黙り込んでいた。重くなった空気が、雪の中に沈んでいく。
その沈黙を破ったのは、眞様だった。
「──さて」
わざとらしいほど、明るい声だった。
「暗い話ばかりでは、雪見が台無しですね。ここらで、腹ごしらえといきましょうか」
そう言って、眞様は傍らに置いてあった重箱を引き寄せた。紫の布を丁寧に解く。
その動きを見た瞬間、狐斎宮の顔から、すっと血の気が引いた。
「...うげ」
「斎宮?どうしましたか?」
「いや、何でもない。何でもないぞ」
蓋が開いた。
「ヒェッ」
声が、勝手に漏れた。
自分でも、信じられなかった。目の前の重箱の中身に、喉の奥から悲鳴じみた声が飛び出していた。
彩りだけは、鮮やかだった。だが、断面には不穏な焦げが走り、原型をとどめていない何かが、原型をとどめていない何かの上に、力強く鎮座している。
何かの出汁と何かが化学反応を起こしたような、香ばしいというよりは危険な匂いが、静かに立ち上っていた。
「これは、先日、私が自ら作った料理です」
眞様が、心の底から誇らしげに言った。曇り一つない笑顔だった。
影様が、無言のまま、皿の上のそれを一つ、機械的に口へ運んだ。表情筋一つ動かさず、租借し、飲み込む。
「美味しいですか」
「────ええ」
影様は答える。
妙に長い間があったように感じたのは、気のせいだろうか。
目も、遠くを見ている。
「あなたもどうぞ」
差し出された一切れを、自分は受け取った。断れる空気ではなかった。
口に運んだ。
──砂?
奥歯の間で、じゃり、と何かが鳴った。
味覚が混乱を訴えるより先に、その食感が、まず理解を拒んだ。塩気なのか、苦味なのか、判別のつかない何かの奥で、確かに砂粒のようなものが、舌の上を転がっている。
──え、なんで?
自分は本気で問うた。なぜ、食べ物に砂粒など入っているのか。
ここに砂もないし、厨房に砂などないはずなのに。何がどうなったらこうなるのか、本気で分からなかった。
それでも、意志の力だけで顔面を制圧し、咀嚼を続け、飲み込んだ。声がわずかに震えた。
「────お...いしいです」
「本当ですか?」
「はい」
狐斎宮が、その様子を、盃を片手に、遠い目で眺めていた。何度も、この光景を見てきた者の目だった。
「侍女よ」
「はい?」
「よくやった。お主、なかなか肝が据わっている」
「......」
「私は、もう数百年、あれを克服しようとして、いまだ克服できておらぬ」
狐斎宮は、静かに酒を呷った。その横顔には、戦友を見るような、深い疲労と敬意が滲んでいた。
「将軍よ。いい加減、それが兵器の域に達していることに気づいてもよい頃合いだと思うぞ」
「失礼ですね。心を込めて作っているのですよ」
「心は、味には変換されぬ」
「変換されています」
眞様は、少しも揺るがなかった。
悪意なき自信は、時に何よりも恐ろしいのだと、自分は今、身をもって理解した。
そうして、四人は重箱をつつき──正確には、自分と影様が時折義務的に箸を伸ばし、狐斎宮は器用に避けながら酒だけを飲み──しばらく他愛のない時間を過ごした。
そうして、雪見が終わった。
片付けが終わり、自分と眞様が城へ帰る直前、影様に呼び止められた。
自分は少し迷い、眞様に「少し、失礼します」と断り、歩み寄った。
影様は、周りに聞こえないよう、声を落として言った。
「眞には言いましたか?」
「なんのお話ですか?」
「忘れたんですか?つい数日前に、話せないことがあるなら、せめて眞には言いなさいと言ったでしょう」
自分はようやく思い出した。
完全に頭からすっかり抜け落ちていた。
と言うよりも、頭でそれを考えないようにしていたかもしれない。
「──まだ言っていません」
「そうですか」
影様が淡白に告げる。
「それで言うんですか。言わないんですか」
自分は返答に迷った。
眞様になら──言ってもいいかもと一瞬と頭をよぎった。
だが、そもそもこれ自体ただの杞憂かもしれない。
明日パタリと消えるかもしれない。
結論をここで出すことは難しかった。
黙っている自分を見かねた影様が口を開く。
「言う言わないはあなたの自由ですが──。私は言った方がいいと思いますけどね」
影様は、それだけ言って、背を向けた。
「話は以上です。今晩、また会いましょう」
雪を踏む音が、遠ざかっていく。やがて、その姿も見えなくなった。
「──どうしましたか?」
背後から、声がした。
振り返ると、眞様が、少し不思議そうにこちらを見ている。
「いえ──。お待たせしました」
自分はそう答え、眞様の隣に立った。
「そうですか。では戻りましょう」
眞様が静かに歩き出す。自分は少し後ろをついていった。
雪はまだ降っている。踏みしめる度に、軽やかな音が足元から響いた。
歩きながら、自分は眞様の背中を見つめた。紫の髪が、雪の中で、静かに揺れている。
それを見る度に、迷いが生じた。
言えば楽になるのか。それとも余計な重荷を眞様に背負わせてしまうだけなのか。
自分だけでは判断がつかなかった。
「今日はいい日でしたね」
不意に眞様が口を開く。振り返らず、前を向いたままだった。
「斎宮も、影も、あんなに楽しそうな顔を見せることも、多くありません」
「影様はいつも通りだったような気がしますが」
「表に出さないだけですよ。私が言うのですから、間違いありません」
「そうは見えませんでした」
「あなたも、まだまだ、見る目が浅いですね」
眞様はいたずらっぽく、笑う。
「正直に申し上げますと、影様は師であること以外に興味がありませんでした」
「それは残念です。──もう少し、影のことも知ってあげてくださいね」
「眞様がそう仰られるのであれば──、分かりました」
そんな他愛のない話を続けながら歩くうち、自分は、ふと、来た道とは逸れていることに気づいた。
「眞様、来た道とは違うように思います」
眞様はその言葉に少しだけ振り返った。
「酒が残っていたはずですよね?少し──風に当たりませんか」
自分は背負子を軽く揺らす。液体が揺れる音がした。
「自分は構いません」
「見晴らしのよい場所を知っています。そこ 行きましょう」
眞様は、そう言って、先にたって歩き出した。自分は、そのあとをついて行った。
しばらく進むと、木々に囲まれた、小さく開けた場所に出た。雪が、風の当たらないその一角にだけ、静かに降り積もっている。誰の足跡もない、真新しい雪だった。
「ここです」
眞様が、足を止めた。
「見てください」
木々の切れ間から、城下の景色が一望できた。
先ほどの雪見の場所とはまた違う、静かで、どこか秘めやかな眺めだった。
「──いいと思います」
「でしょう」
眞様は、満足げに頷いた。
自分は、その場に敷物を広げ、二人は座り込む。すると、眞様が地面に置いている背負子から、まだ中身が入っている硝子瓶を取り出した。
「──まだ、呑まれるおつもりですか?」
「一度、あなたとこのような感じで飲みたかったのです。俗に言う、二次会?というものでしょうか」
眞様は首を傾げながら、言った。
二つの杯に、酒が並々と注がれていく。渡された杯を自分は受け取った。
そして、乾杯すると、喉に酒を流し込む。消えかかっていた体の温かさが再び蘇ってきた。
それから、しばらく、雑談が続いた。城下の雪景色、来年の梅の話、狐斎宮の酔いの癖。
眞様はいつも通り穏やかに、時に悪戯っぽく笑いながら、話を続けていた。
だが、その合間に、時折、視線がこちらに向く瞬間があった。
雑談の言葉とは裏腹に、その目の奥には、何かを静かに見透かすような色があった。まるで今日一日、自分の一挙一動を、ずっと見てきたと言うように。
自分は、その視線に気づかないフリをして、杯を傾けた。
会話が、ふと途切れた。風が、木々の間を抜けていく。雪が降る音だけが、辺りに満ちた。
しばらくの沈黙のあと、眞様が、静かに杯を置いた。
「あなたに話があります」
眞様の声は、いつもより少し、低く落ち着いていた。
「――私に、何か隠していることは、ありませんか」
その一言に、心臓が跳ねた。
すぐには、答えられなかった。眞様の目は、まっすぐにこちらを見据えていて、逃げ場を探す暇すら与えてくれなかった。
「あなたの様子がおかしいことには、しばらく前から気づいていました」
眞様は、静かに続けた。
「私と会話している途中、心ここに在らずということがあります。目の焦点が、どこか遠くに向いている瞬間が何度もありました」
自分は、何も言わなかった。言えなかった、というのが正しい。眞様の言葉の一つ一つが、的確すぎた。誤魔化す余地など、どこにもなかった。
「今日、雪見に誘ったのは、斎宮や影と過ごす時間を作りたかったのも本当ですが……あなたと、こうして二人だけで話す時間を作ることも、実は最初から考えていました」
眞様は、まっすぐにこちらを見た。
「無理にとは言いません。ですが――話してくれませんか」
雪が、静かに落ちていた。
自分は、しばらく黙っていた。
この様子を見るに、眞様は影様から何かを聞いたというわけではなさそうだ。自分自身の目で、ずっと見ていた。これのために、今日という日を、わざわざ用意していた。
そこまでされてなお、何も言わずにいることは、もう自分にはできなかった。
自分は、小さく息を吐いた。
「──少し前から、不思議な光景を見るようになりました」
ゆっくりと、言葉を選びながら、自分は話し始めた。
草原、波の音、奇妙な空。そして飛ぶ烏。
「訓練場でも、修行中でも、突然その景色に引き込まれることがあります。理由はわかりません。振り払おうとしているのですが、回数を重ねるごとにそれに引き込まれてしまいます」
話し終えると、自分は少し息をついた。言葉にしてしまうと、意外なほど、軽くなった気がした。
眞様は、しばらく黙って、雪の降る空を見上げていた。何かを、記憶の奥から手繰り寄せているような、そんな沈黙だった。
「──ああ。それは、烏の予知夢かもしれません」
やがて、合点がいったように、明るい声を上げた。
「予知...夢?」
「古い言い伝えがあります」
眞様は、少し身を乗り出した。
「烏には、二つの顔があります。とある村では、進むべき道を示す、標としてあがめられていました。一方で、烏の鳴き声は凶事を告げる、縁起の悪い獣ともいわれています」
「同じ鳥なのにですか」
眞様は、頷いてから、話を続けた。
「烏の血を持つ妖怪は、その性質を、夢として受け継ぎます。まだ起きていないことの、断片を見る。良いことも、悪いことも」
眞様は、そこで一度、言葉を切った。
「あなたも血を継ぐ者として、見てしまったのでしょうね」
「ですが──、自分の血は薄いはずでは?」
記憶の限り、血の薄い妖怪と人間の間に生まれたのが自分だ。烏の特徴が体に出ているわけでもない。
そんな人間が、予知夢を見るのだろうか。
「血が余りに薄いと、その特徴が出ないのかもしれませんね。あなたが夢を見始めたのも、ここ最近ですし」
眞様は、言葉を区切り、軽く酒を飲んだ。
「ただ──、妖怪というのは、獣性的な一面もあります。影との修行によって、呼び覚まされてしまった可能性もなきにしもあらずだと...」
自分はそれを聞いて、なるほどと思った。確かにその可能性も十分に考えられる。
ただ、なぜこれが見えるのかも重要だが、それよりも結局、これは害をなす物なのか気になった。
「結局、自分は大丈夫なのでしょうか」
「完全に言い切れるわけではありませんが、大丈夫だと思います」
眞様は、何か考え事をしながら、言う。
「あくまで経験則ですが、大抵は、拍子抜けするくらい、ありふれた日常の出来事を映しているだけのことが多いのです。誰かが転ぶとか、雨が降るだとか、その程度のことも珍しくありません」
「そうなのですか」
「あまり深刻にとらえすぎない方がいいですよ」
その言葉に、自分は少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
「では、これを消す方法は、何かないのでしょうか」
「消す──ですか...」
「修行の最中に出てくるので、正直、邪魔でなりません」
眞様は、小さく笑った。
「私も確かなことは言えません。ですが、こういう類のものは、大抵、ある日突然、ぱたっと現れなくなるものだと聞いています。理由もなく始まり、理由もなく終わる。そういうものだと思っておくのがいいでしょう」
「──そう、ですか」
自分は、その言葉を、静かに受け止めた。
眞様がいうのなら、きっとそうなのだろう。
理屈があるわけではない。ただ、眞様の言葉には、いつも不思議な安心感があった。
雪が、静かに二人の間に降り積もっていく。
眞様は、杯を手に取り、口へと運ぼうとした。
その手が、ふと、震えた。
杯の中の酒が、小さく波を立てた。数滴が、指先を伝って、雪の上に落ちる。
「眞様?」
自分は、思わず声をかけた。
眞様は、自分の手を、しばらくじっと見つめていた。何が起きたのか、自分でも分からない──そんな顔だった。
震えは、すぐに収まった。だが、眞様の表情には、一瞬、何かを理解しかけたような、ひどく静かな色が浮かんでいた。
それは驚きでも、痛みでもなかった。もっと深いところにある、覚悟に似た何かのようだった。
「...どうかされましたか」
眞様は、ゆっくりと顔をあげた。
いつもの穏やかな笑みが、そこにはあった。
だが、その笑みの奥に、わずかな翳りが残っているのを、自分は見逃さなかった。
「いえ、なんでもありません」
短く、それだけ答えた。
「少し──冷えてきただけです」
嘘だ。そう思った。
だが、眞様が言われない理由が何かあるのだろう。自分からそれを追及する気はない。黙っていることを選択する。
しばらく、自分も眞様も口を開かなかった。風の音と、雪の落ちる気配だけが、辺りを満たしていた。
「──そういえば」
やがて、眞様が、いつもの穏やかな声を取り戻して言った。
「刀の話を、していませんでしたね」
「刀ですか」
「あなたが今使っている刀──あれは、訓練場の隅にあった、訓練用の真刀でしたね」
「はい」
「九年間、手入れしながら、使っていますが、そろそろ潮時かもしれません。あなたの腕はもう、あの刀が生まれた時の想定を、とうに超えています」
眞様は、少し悪戯っぽく笑った。
「実は、新しい一振りを、用意しています。期待を込めて、と思って」
「えっ──」
自分は思わず声が出ていた。
まさかのことに、自分は驚きを隠せない。
「いつでも渡せますよ」
興奮の波が少し静まると、自分は少し考えた。
そして、ある考えが浮かぶと、静かに首を振る。
「お気持ちは、ありがたく思います。ですが、今はまだ、お預かりすることは控えたいと思います」
「なぜですか?」
眞様は、意外そうな顔をした。
「今の刀は、まだ折れても欠けてもいません。使えるものを、使える理由もなく手放すのは、どうにも性に合いません」
自分は、腰の鞘に軽く手を触れた。
「これが役目を終えた時──その時に、いただければ十分です。新しい刀は、それまで、どうにか、お手元で待たせておいてください」
眞様は、しばらく黙って自分を見つめていた。
それから、ふっと表情を崩し、小さく笑い出した。
「あなたらしいですね」
「そうでしょうか」
「ええ、とても」
「多くの方は、新しい物を欲しがるものです。特に、主から与えられるとなれば、なおさら。ですが、あなたは違う。物を、意味もなく取り替えることを、良しとしない」
「無駄なことが、嫌いなだけです」
「それが、あなたらしさです」
眞様は、静かに頷いた。
「わかりました。では、その刀が役目が終えるまで、私が預かっておきましょう。ただし──」
眞様は、少し目を細めた。
「その日がきたら、必ず受け取ってくださいね」
「かしこまりました」
自分は、頭を下げた。
「それから」
眞様は、少し声のトーンを変えた。
「名前の方も、忘れていませんよ」
その一言に、自分の中で、遠い夜の記憶が静かに蘇った。
鳴神大社からの帰り道。月明かりの下、自分が眞様に願った、あの約束。
──もしいつか、眞様が自分を認めてくださる日が来たら、その時、自分に名前をください。
──あなたが本当に強くなった時、必ず名を授けます。
「あの日の約束、覚えておいでですか」
「もちろんです。忘れるはずがありません」
眞様は、まっすぐにこちらを見た。
「今日、影との立ち合いを見ました。九年前とは、まるで別人のような刀を振るうあなたを」
「はい」
「刀も、名前も、どちらも近いうちに、あなたのものになるでしょう。ただ、名前の方は、もう少しだけ、時間をください。あなたに相応しい響きを、まだ探している最中なのです」
「急ぎません。眞様が、じっくりと選んでくださるなら、それで十分です」
「そう言ってもらえると、少し気が楽になります」
眞様は、小さく笑った。それから、雪を降る空を見上げ、ふと、声のトーンを落とした。
「刀も、名前も──誰かに何かを贈るというのは、結局、その相手を、深く素人することでもあると思います」
自分は黙って聞いていた。
「あなたがどんな人間で、何を大切にし、何を目指しているのか。それをわからなければ、ふさわしい名も、ふさわしい刀も、選べません」
眞様は、少し間を置いた。
「あなたに話したいことが、もう一つあります。私の夢の話です」
「眞様の夢──ですか?」
「あなたもこうやって、私に打ち明けてくれました。今度は私の番です」
眞様は、雪の降る空を見上げながら、静かに口を開いた。
「私には夢があります。とても大きくて、生きている間に叶うかどうかもわからない夢です」
「どのような夢ですか」
自分は静かに聞いた。
一拍置いて、眞様は自分を見て、口を開いた。
「神と、人間の間にある壁を壊したい──です」
その言葉も、静かに、しかし確かな重みを持って、雪の中に落ちた。
「壁」
自分は、その単語だけを繰り返した。うまく像が結ばれない。
「私は、人々を守り、導く立場にあります。ですが、それは、対等な関係とは言えません。守る者と、守られる者。導く者と、導かれる者。その壁が、時に人々を孤独にし、時に神を孤高にします」
「──それを、壊すと」
「ええ」
「神という立場そのものを、なくすということでしょうか」
自分は、素朴な疑問をそのまま口にした。
「大変すばらしいと思います。ですが、立場というものがある限り、その壁は消えないと思います」
眞様は、しばらく黙って、その言葉を受け止めていた。
「鋭いですね」
やがて、静かにそう言った。
「ですが、それは少し違います」
「違うんですか?」
「ええ。私が壊したいのは立場そのものではありません」
眞様は、雪の上に視線を落とした。
「将軍という肩書は、これからも残るでしょう。私が神である事実も、変わりません。壁というのは、その肩書から生まれるものではなく──お互いの内側に、踏み込ませない領域を作ることから生まれるのだと、私は思っています」
「内側に、踏み込ませない」
「はい。私が将軍を続け、あなたが侍女を続ける限り、どれだけ隣に立っても、二人の間には、見えない一線が残ります。立場は消せなくても、その一線だけは、消せるかもしれない」
眞様は、そう言って、少し微笑んだ。
「壁を壊すというのは、身分をなくすことではなく──お互いの弱さや迷いを、隠さず見せ合える関係になることだと、私は考えています」
自分は、その言葉を、ゆっくりと飲み込んだ。思っていたよりも具体的な答えが返ってきた。
「この夢を、正面から誰かに話すのは──今日が、初めてです」
「影様にも話していないんですか?」
「話したことはあります。ただ、ほんの一言だけ。詳しいことまでは、話していません」
「どんな、答えが返ってきたのですか」
眞様は、こほんと一つ咳ばらいをすると、少しだけ声を低くし、いつもの温かさを消して、あの平坦な調子をまねて見せた。
「──『神と人間は、根本から違う生き物です。壁を壊すのに、何万年かかるつもりですか』」
眞様は、そこで一拍置き、また続けた。
「『ですが、あなたが本気で目指すというのなら、私はただ、黙って傍にいるまでです』」
自分は、思わず息を呑んだ。
「似てますね」
「でしょう?」
眞様は、悪戯が成功した子供のように笑った。
「困惑しながらも、いつかは私が成すと、信じてくれているのです。あの子は、口では厳しいことばかり言いますが」
眞様が、こんな風に人の真似をして笑うところを見るのは、初めてだった。
「ですが、なぜこの夢を抱くようになったのか、その理由までは、影にも話したことがありません。あなたが初めてです」
「なぜ、自分に?」
「あなたが、教えてくれたから」
眞様は、少し目を細めた。
「あなたは、妖怪という異形の血を抱えながら、それを恥じることも、隠し通すこともせず、今日、私に話してくれました。ならば、私も同じことをするべきだと思ったのです」
自分は、その言葉を、静かに受け止めた。
「理由をお聞きしてもいいですか」
自分は、そっと尋ねた。眞様は静かに頷く。
「ええ、もちろん」
眞様は、しばらく黙った。それから、静かにつづけた。
「刹那、という言葉があります。人が何かを思い、それが形になり、そして消えていく。その一つ一つの短さを、そう呼びます」
「刹那...」
「誰の生も、等しく、瞬く間に過ぎていく。恐ろしい話です。ですが私は、それを知った時、恐ろしさよりも先に、羨ましさを覚えました」
「羨ましい──ですか...」
自分は、少し眉をひそめた。眞様が「羨ましい」と口にするところが、うまく想像できなかった。
「私は数千年生きてきました。人々は、生まれ、恋をし、老い、死んでいく。私には、決して訪れない道です。私は老いません。死にません。──変わりません」
眞様の声には、羨望とも、諦めともつかない、複雑な色があった。
「不滅であるということは、強さでもあり、ある種の牢獄を意味します。生まれては消えていく、あの儚さを、私は永遠に、外側からしか眺められない」
雪が、二人の間に静かに降り積もっていく。
自分は、ただ黙って、その顔を見つめていた。
眞様にとって「永遠」が、豊かさではなく、牢獄なのだという発想は、これまで考えたこともなかった。
「桜は咲き、月はいつでも同じ高さから私を見下ろす。何一つ、二度と訪れないものがない。だからこそ、私が『一瞬を尊ぶ』と言うたび、人はそれを慈悲深い神の教えだと受け取ります。ですが、本当は違います。私は、その一瞬に、誰よりも焦がれているだけなのです」
自分は、何も言えなかった。眞様が、こんな風に自分の弱さを言葉にするのを、初めて聞いた気がした。
「一瞬を謳う神が、その一瞬には触れられない──、その矛盾を、誰にも打ち明けられませんでした。神は、迷わない方がいいのですから。統治者となれば、なおさらです」
「迷ってもいいと思います」
自分が、気づけばそう口にしていた。
眞様が、驚いたようにこちらを見た。
「自分には、神とか、統治者とか──、それらの在り方なぞ分かりません」
自分は、言葉を一つずつ、確かめるように紡いだ。
「ですが、迷いのない者の言葉より、迷った末の言葉の方が、よっぽど民の胸に響くんじゃないでしょうか。人は、完璧な神より、悩む神の方を、きっと信じます」
眞様が、こちらをじっと見つめていた。
「──むしろ、迷うこと自体は、恐れるようなことではないと思います。むしろ、恐るべきは、決めた後というか」
自分は、続けた。
「決断した後に、なお迷い続ければ、その迷いは、そのまま民に伝わります。何を信じて、誰についていけばいいのか、わからなくなる。だから、迷うところまでは、いくらでも迷ってください。ですが、決めた後は、迷わないでください。それだけで十分だと思います」
自分は、眞様の目を、まっすぐに見た。
眞様は、しばらく黙って自分を見つめていた。それから、静かに微笑んだ。
「──今、あなたの言葉に、少し救われた気がします」
「そうなんですか」
「ええ」
眞様は、雪の降る空を見上げた。
「だからこそ、思うのです。壁というものは、先程も言った通り、立場ではなく、お互いの内側に引いた一線から生まれる。私が、この孤独を──この矛盾を、誰かと分かりあえること。それこそが、本当の意味での壁の消失なのだと」
「どうやって、それを」
自分は、もう一度尋ねた。
「正直、まだ分かりません。数千年かけても、答えは出ていません」
眞様は、少し困ったように笑った。
「ただ――大きな理想は、大きな制度からは生まれない。まず、目の前の一人と、本当の意味で分かり合うこと。そこからしか、始まらないのだと思っています」
「目の前の、一人」
自分は、その言葉を、そっと繰り返した。
眞様は、少し微笑んだ。
「だから、今日、こうしてあなたに話しているのです。これも、私なりの、第一歩なのかもしれません」
自分は、しばらく黙っていた。言葉にすべきことは、まだたくさんある気がした。だが、今はただ、この静けさに浸っていたい気持ちの方が強かった。
「ありがとうございます」
ようやく、それだけを言った。
「お礼を言われることでは、ありませんよ」
眞様は、小さく笑った。
「話を聞いてもらえたこと。それだけで、私には十分です」
「聞くくらい、いくらでも」
「いくらでも、ですか」
「はい。何度でも聞きます」
眞様は、少し驚いたような顔をしてから、目を細めた。
「──頼もしいですね」
しばらく、また沈黙が続いた。だが、先ほどまでとは違う、穏やかな沈黙だった。
「さて、少し歩きませんか」
やがて、眞様が立ち上がった。
「荷物はどうします」
「ここに置いていきましょう。誰か盗む者もいないでしょうし」
いや、そんなことはない。そこら中にいる。──と、思ったが、眞様が言っているから、大丈夫だと思い、敷物の上に荷物を置いたまま雪の中へと歩き出した。
木々の間を縫うように、細い山道が続いている。眞様は、その道を、迷いのない足取りで進んでいく。自分は少し後ろからその背中を追いかけた。
紫の髪が、雪の中で、揺れている。その背中を見ながら、自分は今日一日のことを、静かに思い返していた。
──刀を、まだ受け取らないでいいと言った。名前はいつかと約束された。予知夢も、眞様の夢の話もした。
一日でこんなにも、多くのものを交わした日は、これまでになかった。胸の奥が、まだ、じんわりと熱を持っている。
雪を踏む音だけが、二人の間に響いていた。
ふと、眞様の片手が、後ろに回した。
歩きながら、何も言わず、ただ手のひらを、こちらに向けて差し出している。言葉より雄弁な仕草だった。
──握れ、ということか。
自分は、少し迷ってから、その手に、自分の手を重ねた。
冷たい雪の中の手だった。だが確かに、そこに在った。指の骨の細さ、皮膚の薄さ、体温の低さ──将軍という肩書の下に隠れていた、一つの生々しい実体だった。
その瞬間だった。
眞様が握った手を軽く引き、駆け出した。
「──眞様?」
驚く間もなく、手を引かれるまま、自分も走り出していた。
雪を巻き上げながら、木々の間を駆け抜ける。
眞様の足取りは、いつもの所作とはまるで違っていた。
将軍としての、あの完璧な歩みではない。ふらつき、時に大きく跳ね、まるで初めて自分の体の使い方を覚えた子供のような、危うく、無邪気な動きだった。
「眞様、そんな急に──」
「大丈夫ですよ!こういう時は、少しくらい無茶な方が、楽しいのです!」
振り返った眞様の顔は、笑っていた。心の底から、屈託なく。
数千年を生きた髪の顔ではなかった。ただの、一人の──誰かと手をつないで走ることが、うれしくて仕方ないという顔だった。
雪が、足元から絶え間なく舞い上がり、二人の周りで小さな渦を巻いては、光の粒子のように散っていく。
吐く息が、白く尾を引いて、後方へと流れていった。
不意に眞様の足が緩んだ。
目の前に小さな崖があった。その下には、雪解け水を集めた深い川が流れている。
眞様は崖の縁で足を止めた。数秒、じっと下を見つめている。自分も、その隣で息を整えながら、同じように川面を見下ろした。
「行きましょうか」
眞様が、静かにつぶやく。
「え」
問いかける間もなかった。
つないだ手に、ぐっと力がこもる。次の瞬間には、二人の体は宙に投げ出されていた。
落下の一瞬、視界の端で、眞様の髪と裾が、風を孕んで大きく広がるのが見えた。
悲鳴を上げる余裕もなく、体が、そのまま水面へと吸い込まれていく。
水の中は静かだった。
冷たさよりも先に、視界が白く濁り、次いで、澄んだ青へと変わっていく。
水面から差し込む陽の光が、幾筋にも分かれ、揺らめきながら底へと届いていた。
息が苦しい。肺の奥が、空気を求めて疼いている。
それなのに、目が離せなかった。
眞様の紫の髪が、水の中でゆっくりとほどけ、幾筋もの帯になって漂っている。
着物の裾は、まるで意志を持つ生物かのように広がり、沈みゆく光の中で、淡く発光しているようにさえ、見えた。
目を閉じたその横顔は、いつもの穏やかな笑みとは違う、ただ静かに、水という不確かなものに身を委ねている、無防備な、一人の顔だった。
苦しいはずだった。だが、その苦しさよりも、この光景の方が、自分を強く捉えていた。
──綺麗だ。
ただ、それだけの事が頭を強く占めていた。
不思議なことに、水の冷たさは、覚悟していたほどでは無い。凍える川のはずなのに、肌を刺すような痛みがない。
代わりに体の表面が、どこか栗立つような、微かな痺れを帯びていた。それは、先程の立ち会いで感じた気配とは、まるで質が違うものだった。
もっと近く、もっと確かな、直接肌に触れる熱のようなものだった。
やがて、眞様が目を開ける。水中でこちらを見た。
それから、繋いだままだった手に、ぐっと力を込め、上へと引いた。
「──ぷはっ」
空気を思い切り吸い込んだ。肺が悲鳴のように酸素を求めていた。
隣を見ると、眞様は息一つ乱していなかった。
水面に浮かびながら、いつも通りの、涼やかな顔をしている。
濡れた髪が頬に張り付いているのに、その表情だけは、少しも崩れていなかった。
二人は、水辺まで泳ぎ、雪の積もった岸に、そのまま倒れ込むように上がった。冷えた空気が、濡れた肌に一気にまとわりつく。
「な、なんで──、飛び込んだんですか」
「理由なんてありません。衝動のいくままに飛び込んでいました」
「──寒いです」
自分は、思わずそう漏らした。
「今更ですか」
眞様が、笑いながら答えた。それから、少し不思議そうな顔をした。
「あら。でも、そこまで震えてませんね」
「言われてみれば」
びしょ濡れのはずなのに、骨まで凍えるような、あの冷たさがない。
代わりに、体の芯の方で、じんわりとした熱が、まだ確かに残っていた。
「何故でしょう」
「私が包んでいたからですよ」
眞様が何気なく言った。
「と、いうと?」
「川に落ちる瞬間、あなたの体を、私の雷で包みました。冷気から守るように。あなたが凍えて動けなくなっては、元も子もありませんから」
「――そんなことを」
「気づきませんでしたか」
「体の表面が、少し粟立つような感覚は、ありました」
「それです」
眞様は、満足げに頷いた。
雪の降る空の下、二人並んで仰向けに倒れたまま、しばらく息を整えていた。太陽の光が、雲の切れ間から、淡く差し込んでいる。
やがて、眞様が、こちらに寝返りを打つように向き直った。
自分も、それに合わせて、体をそちらへ向けた。
至近距離で、目が合う。
その瞬間、時間が、わずかに歪んだような感覚があった。
濡れた前髪の下、眞様の瞳は、光を受けて、深い紫から、金に近い色まで、幾重にも表情を変えて揺れていた。
瞳の奥に、小さな自分の姿が映り込んでいるのが見えた。呼吸の合間に、白い息が、二人の間でゆっくりと混じり合い、溶けていく。
まつ毛の先に残った水滴が、光を弾いて、小さな星のように瞬いていた。
自分は、その目から、視線を外せなかった。何かを言おうとして、言葉が出てこなかった。ただ、心臓だけが、はっきりと音を立てていた。
眞様も、同じように、じっとこちらを見つめ返していた。何かを確かめるような、あるいは、何かを刻み込むような、そんな静けさを湛えた眼差しだった。
長い、長い沈黙だった。だが、気まずさは、どこにもなかった。ただ、互いの存在だけが、雪の中に、確かに在った。
眞様は、何も言わず、濡れた手を伸ばし、自分の手を握った。
その瞬間、掌の中心から、確かな熱が伝わってきた。先ほど水の中で感じた、あの漠然とした粟立ちとは、まるで違う。
今度は、輪郭を持った熱だった。指の一本一本を辿るように、細く鋭い糸となって、皮膚の内側を駆け上がってくる。優しい。だが、決して人間には出せない密度の力が、その優しさの奥に潜んでいる。
触れれば火傷しそうなほどの鋭さと、抱きしめられているような温もりが、同じ場所に、矛盾なく同居していた。
「今の、この感触」
眞様が、静かに言った。
「先ほど、水の中でも感じたはずです。あの、少し痺れるような、それでいて温かい――あの感覚」
「はい」
「それが、私です」
眞様は、繋いだ手に、そっと力を込めた。
「将軍でも、眞という名でもない。この掌の奥に流れているものこそが、私という存在の、根っこにあるものです。言葉では、何度でも語れます。ですが、この感触だけは、言葉では伝えられません。今、あなたの中に、確かに残ったはずです」
自分は、掌の中の熱を、瞼の裏に焼き付けるようにして、静かに感じ取っていた。優しく、しかし芯には確かな鋭さを持った、不思議な温もり。
指先から、腕へ、肩へと、その熱がゆっくりと広がっていく感覚があった。まるで、眞様という存在そのものが、少しずつ、自分の内側に流れ込んでくるようだった。
二人は、それ以上、何も言わなかった。ただ、手を握り合ったまま、互いの目を、長い時間、見つめ続けていた。
雪が、その静けさを咎めるように、音もなく二人の間に落ちては、溶けていった。
「――眞様は」
やがて、自分は、そっと口を開いた。
「今日、たくさんのことを、教えてくださいました」
「そうですね」
「刀のことも、名前のことも、予知夢のことも、眞様の夢のことも――そして、この感触のことも」
「ええ」
「全部、覚えておきます」
「――嬉しいことを、言ってくれますね」
眞様が、目を細めた。その目の奥に、微かな水の光が、まだ揺れていた。
「私も、覚えておきます。今日という日を」
「一瞬、ですか」
「一瞬です」
眞様は、静かに笑った。
「でも、この一瞬だけは――何度でも、思い出せる気がします。あなたと繋いだ、この手の感触ごと」
自分は、その言葉を、胸の奥に、大切に、静かにし
まい込んだ。
「――もう少しだけ、こうしていたいです」
自分は、そう呟いた。
「もう少しだけ、眞様の手を、握っていたいです」
眞様は、何も言わなかった。ただ、微かに頷く気配だけが、繋いだ手を通して、伝わってきた。
自分は、繋いだ手を、そっと自分の方へ引き寄せた。眞様の胸元に、静かに頬を寄せる。
濡れた着物越しに、確かな鼓動が、伝わってきた。
人間のそれと、大差ないはずなのに、どこか違う、静かで、深く、長い時を刻んできた響き。
その音を聞きながら、自分は、ゆっくりと目を閉じた。
雪は、まだ、絶え間なく降り続いていた。
第十四話[完]