石の上に波が打ち寄せていた。
足元は草原ではない。ごつごつとした岩が、海岸線に沿って続いている。
寄せては返す波の音が、今度は、足の裏から直接伝わってくるような、妙な近さで響いていた。
空は、夕焼けでも夜でもない、その狭間のような色をしていた。西の方角だけが、地平線から燃えるように赤く染まり、頭上には、もう星輝いている。
──前は、草原だったはずだ。
そう思う自分が、どこか他人事のようだ。景色が変わっても、驚きはなかった。
視線の先、赤く染った地平線の方向へ、一羽の烏が飛んでいく。
羽ばたいているのに全く音がしない。ただ静かに、西へと、その黒い影は小さくなっていく。
見ていなければならない。そんな根拠のない切迫感が、いつものように、胸の奥で膨らみかけた。
だが、自分はそれを、静かに振り切った。
「──聞いていますか」
影様の声が聞こえた。
瞬きをする。波の音が遠のいた。石の海岸が、夕焼けと夜の狭間の空が、音もなく溶けていく。
目の前には、影様が立っていた。今日の修行内容を説明している途中だった。
「はい」
短く答える。
「そうですか」
影様は、呟いた。
納得したというより、様子を見るような、含みのある声だった。
あの雪見の日から一年。もう、あの丘には雪は残っていない。
ヤシオリ島の森にも、まだ肌寒さは残るものの、木々の隙間から差し込む光には、どこか春の気配が滲み始めている。
最近、あの光景を見る頻度が目に見えて増えた。
そして、場所も変わった。
あの、風うなる草原ではなく、今は決まって、この石の海岸に立っている。西へ向かう烏の姿だけは変わらなかった。
理由は相変わらず分からない。
だが、これだけ繰り返し見せられれば、体の方が先に慣れてしまうものらしい。
最初の頃のような、強い引力に似た感覚はもう薄れていた。不意に映り込むことがあっても、今では大抵振り切れる。
早く、失せて欲しい。
そう願う気持ちだけが、静かに積もっていく。
すると、目の前の影様が右手を軽くあげた。それ以上の考え事を辞め、それに注視する。
右手から紫電が、一瞬だけぱちりと弾けた。
次の瞬間、その右手には、一振りの薙刀が握られていた。
柄は黄金と紫の意匠が施され、刃元では金の装飾が渦を巻き、そこから緩やかに反り返る刃が、鈍く紫がかった光を放っている。優美でありながら、明らかに人を斬るための道具だとわかる、研ぎ澄まされた気配を纏っていた。
「――なんですか、それは。初めて見ました」
自分は尋ねた。
「私の得意武器です」
影様は、事もなげに答えた。
「刀も扱えますが、一番手に馴染んでいるのは、こちらです」
自分は、その薙刀を見つめながら、ふと疑問を口にした。
「結局、武器というのは、複数扱えた方がいいのでしょうか」
「理想を言えば、そうでしょうね」
影様は、薙刀を軽く一振りしてから、続けた。
「間合いも、状況も、敵の性質も、毎回違います。多くの得物を使いこなせれば、それだけ選択肢は増える」
「では――」
「あなたは刀一本すら、まともに使いこなせていないでしょう」
影様が、間髪入れずに切り返した。まるで自分が何を言おうとしているのか分かっているかのようだ。
「それが二つ目の得物ですか。何を言っているのでしょう」
「――ですが、抜刀の方は最近いい感じになってきました」
自分は、少しだけ食い下がった。
実際、ここ数ヶ月で、抜刀の精度は自分でも驚くほど伸びていた。
鞘から刃が走り出るまでの一挙動、そこに無駄な間が一切なくなってきている。
以前は意識して制御していた呼吸や重心の運びが、今では、考えるより先に、体の方が正確に再現するようになっていた。
「愚かですね。極めていけば、貴方はこれから伸び代があるというのに」
影様は刃に指を軽く触れながら言う。
「半端な状態で色々なものを使ってしまったら、実力があやふやになる。そういうのを器用貧乏って言います」
影様の言葉は続く。
「それに、何本の獲物を背負いながら戦う者などいません。結局は、一本の武器で戦うことになる。そう考えると、端から一本の武器を極めた方が生き残りやすいでしょう」
そして、自分の顔を見た。
「こういうことです。わかりましたか」
理屈はわかった。筋も通っている。
自分は納得し、軽くうなづいた。
「始めましょう」
そう言うと、影様は薙刀を構え直した。
自分は、迷わず地を蹴る。一の太刀、二三の太刀。踏み込みながら、続けざまに斬り掛かる。
だが、そのどれも届かなかった。
三太刀目を薙刀の柄で受け流された瞬間、体ごと弾き飛ばされた。
宙で体勢を立て直す間もなく、影様の姿が、すでに追撃の間合いに入っているのが見えた。
──このまま真正面で受ければ、押し切られる。
自分は着地と同時に、傍らの太い幹に飛びつき、一息に駆け上がった。
枝を蹴り、隣の木へと飛び移る。木々の合間を縫いながら、高低差と遮蔽を使って、死角から間合いを詰めていく。だが、薙刀の穂先はこちらの動きに僅かな遅れもなく追いついてくる。
ならば。
木の根に足を取られるふりをして、体勢を崩す。影様の意識が、一瞬そこに引き寄せられた。
その隙を逃さなかった。
崩れた体勢から、逆に地を蹴り、薙刀の間合いが最も薄くなる右側面へ一気に踏み込む。柄尻が、こちらを崩しにかかる。
半身で躱し、懐へ潜り込もうとするが、影様は、さらに半歩下がった。
──距離が詰まらない。
自分は足元に残っていた雪を、爪先で強く蹴り上げた。白い粉雪が、影様の顔の高さめがけて、霧のように舞い上がる。
同時に、地面にある石を拾い、投げつける。狙いは当てることではない。視線を一瞬だけ、逸らすためだ。
影様がわずかに顔を背けた。その一瞬を見逃さない。
雪煙の死角──影様の背後に近い位置へと、音もなく踏み込む。呼吸を整える暇すら惜しみ、腰の刀に意識を落とした。
刀を鞘に納め直す。抜刀の構え。腰を落とし、柄に手を添え、動きの起こりを極限まで殺す。
雪煙が、まだ晴れ切らない。
低い姿勢のまま、間合いを一足で詰める。
鯉口が切れる音と、刀が鞘走る音が、ほぼ同時だった。
下から上へ、胴を薙ぐ軌道。薙刀がそれを迎え撃つが、反応はわずかに遅れていた。
刃が柄をかすめ、軌道が逸れる。影様の構えが僅かに崩れた。
その勢いのまま、返す刀で、首筋へ上段から振り下ろす。
刃が、空気を裂いた。だが、それは届かない。
刃の切っ先、その数寸手前で、ぴたりと止まっていた。
見ると、影様の人差し指と中指の二本だけが、刃の側面をまるで何でもないことのように、挟み込んでいた。
抜けない。挟み込む力が強すぎて、指から刀が抜けなかった。
しばらく、沈黙が流れたが、影様が自分の刀に何か気づいたようだ。
「──刃こぼれがありますね」
「え──」
力が緩むと同時に、刀を引き抜き、目を落とす。
言われて初めて気づいた、小さな刃こぼれだった。
出立ち前には、いつも欠かさず刀を検めている。柄の緩み、刃の錆、油の乗り具合──そのどれも毎朝、確かめてきたはずだった。
だというのに、この傷にはまったく気づいていなかった。
「申し訳ありません」
「別に責めているわけではありません。あなたが、道具の手入れをしているのはわかります。それが、これを見落とすというのは、少し珍しい」
影様はそこで一度、言葉を切った。
「これ以上、この刃を振るえば、その傷から広がって折れます。今日は、刃を交えるのはここまでにしましょう。新しい刀に取り替えるまでは、しばらく体術の修行にします」
影様は薙刀を消し去り、素手のまま、こちらに向き直った。
「──はい」
自分は、いつもの構えを取った。地を蹴り、組みつこうとする。
だが、影様の姿は、瞬く間に消えていた。
腹に、重い衝撃が来る。受け身は取れたが、殺しきれず、背中から地面に転がる。
そこから先は、ただの繰り返しだった。何度立ち上がっても、何度組み付こうとしても、指先一本、届かなかった。
やがて、辺りが薄暗くなり始めた頃。自分は、地面に這いつくばったまま、動けずにいた。
「──は、あ...っ、は......」
息がまともに整わない。肺が焼けるように痛い。土の匂いが、鼻の奥に染みついている。
「今日はここまでにしましょう」
影様の声が遠くから聞こえた。
自分は返事をする代わりに、地面に突っ伏したまま、ただ荒い呼吸だけを繰り返していた。
「刀の、崩しの発想はよかったです」
声が上から降ってくる。
「ですが、二の太刀に繋げられなかった。崩した後、詰め切る力が足りていません」
「は、はい......」
「体術は──まだまだです。型は入っていても、実戦の間合いが、まるで身についていない」
自分は地面に頬をつけたまま、何も言い返せなかった。全身が鉛のように重い。
「今日は以上です」
しばらくして、ようやく体を起こす。膝に手をつき、なんとか立ち上がった。
「──では、失礼します。本日もありがとうございました」
体や着物についた汚れを取ろうと、近くの小川に行こうと歩を進めようとした。
「いつもの川にいくのですか。ついでに私も行きましょう」
「はい?」
自分は、一瞬返答に詰まった。
影様は用が済めば、大抵はその場で気配ごと消える。ついてくる、という選択肢自体、これまで一度もなかった。
「なにかの修行の一環ですか?」
「今日の修行は終わりといったはずです。ただの個人的な交流のつもりですが」
「──わかりました」
自分はそれ以上を問わず、先に立って歩き出した。
影様が黙ってその後についてくる。
しばらく無言の時間が続いた。
「修行は、辛くないですか」
影様は不意に口を開く。
「辛くない──と言ったら、嘘ですが、これをもう10年も続けていますし、慣れました」
「そうですか。良かったです」
「なぜこの事を?──まさか、辛そうだから甘くするとか言いませんよね」
自分は、少しだけ振り向きながら、聞いた。
「まさか」
影様はとんでもないと言うような口調で答える。
「これからも厳しくするつもりです。むしろ、これでも、まだ甘いと思っています」
「それは──恐ろしいですね」
一応、軽い乾いた笑いを出して、向き直す。
会話はそこで途切れた。
眞様となら、こういう時、自然と言葉が続いていく。だが、影様に至ってはそうはいかない。
何か一言返しても、その先が続かない。気まずさというより、そもそも間の埋め方がわからない、という感覚に近かった。
木々の間を進むうち、ふと鉄の匂いが鼻をかすめた。
血の匂いだった。
視線を巡らせると、少し離れた木の陰に鹿が一頭、倒れていた。後ろ足が、猟師の仕掛けた罠に食い込んでいる。逃げようともがいたのか、周囲の土が大きくえぐれていた。
まだ息はある。荒い呼吸のたび、腹が小さく上下していた。
影様が、その光景に僅かに眉を寄せた。何かを言おうとする気配があった。
だが、それより先に、自分の体が動いていた。
気づいた時には、もう刀を抜いていた。
一閃。
鹿の首が、静かに地面に落ちる。
切り離された首から、血が土に染み込んでいく。まだ何か言いたげに開いたままの目が、夕暮れの光を映して、ゆっくりと濁っていった。
呼吸で上下していた腹も、もう動かない。周囲を満たしていた、あのもがくような気配が、音もなく消えていた。
「──何を」
影様の声は、短かった。だが、その一言だけで困惑が伝わってきた。
辺りを見渡す。
木々の隙間から差し込む夕方の光、雪解けの土の匂い、先ほどまでのもがき苦しんでいた気配が、嘘のように消えていた。ただ、鉄と血の匂いだけが、微かにその場に残っている。
何をしたのか、頭では分かっている。だが、なぜそうしたのかという問いには、依然として、何も答えが出てこなかった。
罠にかかったままもがき続ける獣の姿。それを見た瞬間、考えるより先に体が動いていた。理由を後から探そうとしても、何も出てこない。ただ、あの状態をこれ以上続けさせてはいけないとそう思っただけだった。
「申し訳ありません。どうかしていました」
自分は、刀を鞘に収めながら詫びた。
そのまま鹿をその場に残し、立ち去ろうとする。
「待ちなさい」
影様が呼び止める。
「どうかしてた、という一言で納得する者がいると思いますか」
「本当にどうかしてたんです。──それに、詳しいことを知ったとしてどうするおつもりですか」
自分は正直に問い返した。
この行為について詫びたし、どうかしてたという理由以外に思いつかないので、これ以上何をしていいのか分からない。
「知って終わらせるつもりはありません」
影様は、地面に横たわる鹿へと目を落とした。
「あなたが刃を振るった以上、この命には、もう始末をつける責任が生じています。理由が分からないまま斬った、では済みません」
影様は続ける。
「命を奪った以上、無駄にするべきないのでは」
「自分はそうは思いませんが」
「それはだめです」
影様の声に有無を言わせない響きが混じった。
「せめて、この鹿を食べたりしなさい。これは師としての命令です」
「個人的にはどっちでもいいので、分かりました」
自分はそれ以上を問わず、頷いた。
そうして、影様に言われるまま、鹿を手早く捌いた。皮を剥ぎ、内臓を取り除き、使える部位を切り分けていく。
給仕班になった時に何度かやったことがあるので、ある程度は慣れていた。
折れた枝と乾いた下草の山に、影様が細い雷を放出すると、一気に火が燃えあがる。
安定した焚火に、串に刺した肉をその上に翳す。脂が滴り、炎に落ちるたびに小さな音を立てて弾けた。
焼きあがった肉を自分が口へ運ぼうとした時、強い視線を感じる。
顔を上げると、向かいに座る影様がこちらをじっと見つめていた。
何かを訴えるような、それでいて、決して口には出さないという頑なな沈黙を纏った目だった。
自分はしばらくその視線を受け止めた後、無言のまま一本の串を差し出した。
影様は、「ありがとうございます」とつぶやきながら、それを両手で受け取る。串を持つ指先を軽く揃え、一口分だけを静かに口へ運んだ。
歯を立てる音も、咀嚼の音も、ほとんど聞こえない。脂で汚れた口元を指先でそっと拭う仕草にも無駄がなかった。
野営の食事とは、まるで似つかわしくない所作だ。
自分は、次の一本を焼きながら口を開く。
「そんなに食べたかったんですね」
「別に」
「今、物凄い目で見ていましたが」
「気のせいです」
「二本目もいりますか」
「はい」
即答だった。
「この後、城で夕餉もあるので助かります」
しばらく、無言の時間が続いた。
炎の爆ぜる音だけが静かに響く。焼けた肉の匂いだけが、夜の気配に混じって漂っていた。
ひと段落した頃、自分は火を見つめたまま、ふと口を開いた。
「しかし意外でしたね」
「何がですか」
影様がすぐさま反応する。
「先程の命の責任云々の話です。まさか、そういうことを気にされる方とは思いませんでした」
「私をなんだと思ってるんですか」
その声に、僅かに棘があった。
「──敵を淡々と処理していくしていく方かと」
自分は正直に答える。
影様はしばらく黙っていた。それから、静かに口を開く。
「敵と、今回のような者は違います。私は眞と稲妻に害をなすようなものであれば、迷いなく刃を振るうでしょう。ですが、今回のようなものは──そもそも、敵ではありません。ただ、人が生き延びるために、命を奪わなければならない相手です。だからこそ、その責任からは逃れられないのです」
影様は、火を見つめながら続けた。
「ただ──数千年、武神として在り続けていると、その境界が、どうしても揺らいできます。分けなければならないと、頭では理解しているつもりです。ですが、どのような者を斬っても、いつしか、何も感じなくなっていました」
「では、今日は何なのでしょうか」
「あなたに武を教えると決めた、十年前──あの日から、少しずつ、その麻痺が解けてきたのです。命が本来持つべき重みを、また取り戻せたような、そんな気がします」
「そうですか。それは良かったです」
自分は、あっさりとそう言い放ち、鹿肉を頬張った。
再び、沈黙が落ちる。
かじりかけの肉と、その向こうで揺れる炎を、ぼんやりと見つめていた。すると、ふと、一つの考えが、静かに頭をもたげてきた。
「自分は、眞様と眞様の思想以外には、あまり興味はありませんが──」
自分は前置きのように言った。
「命への責任とか、弱い者を強い者が扱う時のあり方とか──そういう話を聞くと、滑稽だなと思うことがあります」
実際、興味があるかどうかで言えば、限りなく薄い。ただ、今の話の流れで頭の中に浮かんだものを、そのまま口にしてみただけだった。
「どういうことです」
影様が、火から視線を上げた。
「例えば、この鹿です」
自分は、串の先に残った肉を軽く掲げた。
「罠にかかったのを見て、迷わず斬りました。そして今、影様はそれに責任を持てと仰った。ですが──斬ったことも、こうして食べていることも、結局、自分が困らないようにしているだけだと思います」
炎が、パチリと爆ぜる。
「見過ごせば、あの姿が頭に残り続ける。放っておけば、無駄にしたという居心地の悪さが残る。だから、始末をつける。それだけのことです」
自分は、言葉を継いだ。
「人を殺めた者が、罪を償うのも、同じだと思います。償ったところで、死んだ者は戻りません。ですが、償えば、少しは楽になる。周りから後ろ指を指されずに済む。つまり──自分を許すための、道具なのだと思います」
「......」
「立派な理由をつけて語られていますが、結局は、自分が安心したいだけのこと。それを、さも意味のあることのように扱うのが──自分には、少し滑稽に見えます」
言い終えてから、自分はまた、肉を一口かじった。
味は、いつも通りよくわからなかった。ただ、口を動かしながら、頭の片隅では今しがた自分が口にした「後味の悪さ」という言葉が、なぜか、しばらく離れなかった。
影様は、しばらく黙って、火を見つめていた。
「一理は、あるのでしょう」
やがて、そう言った。
「ですが、それだけでは説明がつかないこともあります」
「なにですか」
「あなたが今、生きていられること」
影様が続ける。
「十二年前、眞があなたを引き取ったのも、同じ理屈です。あなたの家を壊した罪悪感を、そのままにしておけなかった。あなたの理屈で言えば、あれも、眞の自己満足だったということになります」
炎の爆ぜる音だけが、しばらく響いた。
自分は、すぐには答えられなかった。
あの日のことは、覚えている。
ヤシオリ島の廃屋。崩れた柱と、飛び散った瓦。
自分に向かって差し出された、白い手。
あれを、ただの自己防衛の一言で片付けることに、なぜか強い抵抗があった。
理屈では繋がるはずなのに、そこだけは、どうしても、飲み込めなかった。
「それは──」
自分は、言葉を探した。
「否定はしません。眞様も、そうだったのかもしれません」
「では、あなたも同じ理屈の上に立っているということです」
「わかっています」
自分は、静かに答えた。
「ですが、それでも構いません。自己満足だろうと、罪悪感の処理だろうと──拾われた事実は、変わりませんから」
影様は、少し目を細めた。何かを確かめるような、そんな視線だった。
「命というのは、そもそも自己中心的なものです」
影様は、火を見つめながら続けた。
「他者のために生きているつもりでも、根底にあるのは、自分の心を保つためです。あなたの言う通り、責任も、贖いも、その延長線上にある。ですが、それを認めた上でなお、他者と共に在ろうとする。その折り合いの付け方こそが、社会というものだと、私は思っています」
「折り合い──で、ありますか」
「自己中心的なもの同士が、ぶつかり合いながらも、なんとか形を保っている。それが、この国であり、この城です。滑稽だとしても、無意味ではありません」
自分は、その言葉を静かに受け止めた。
火の粉が、また一つ、夜の中に舞い上がって消えた。
「──変わりましたね」
自分は、素っ気なく喋った。
「そうですか?」
「以前の影様なら、こんな風に命の意味について、わざわざ語ろうとはしなかったと思います。もっと素っ気なく、切り捨てるだけだったはずです」
「変われるんですよ、私も──」
影様はそう呟き、空を見上げる。
焚き火から舞い上がった灰が、自分たちの頭上を舞っていた。
自分はその一つ一つを目で追いながら、頭の奥でまだ何かを探り続けていた。
先ほど、自分の口から出た「後味の悪さ」という言葉。あれは、後悔とほとんど同じ意味だったはずだ。
だが、口にしたときはただの一般論のつもりだった。責任というものの正体を他人事のように解剖しただけの、ただの言葉遊びのつもりだった。
灰がまた一つ、闇に溶けていく。それを見送るうちに、思考がゆっくりと一つの形へ収束していった。
あの鹿を迷わず斬った。
罪悪感からではない。ならば、何があれほど迷いなく体を動かしたのか。もがき続ける姿を、これ以上見ていられなかった。見続ければ、それはきっと自分の中に、ずっと残り続ける。
その残り続けるものの名前を、自分はすでに口にしていた。
「──そうか」
思わず、声が漏れた。
「鹿を斬った理由は──後悔したくないからかもしれません」
「先ほどの話と同じことでは」
影様がこちらを見る。
「言葉にしていました。ですが、それが自分自身の行動とつながっているとまでは、気づいていませんでした」
口にして初めて腑に落ちた。頭の中で薄く張っていた霧が、一枚剥がれ落ちていくような感覚だった。
「後悔という言葉に、随分と引っかかっているようですね」
影様が、火の粉を目で追いながら、静かに問うた。
「昔、似たようなことがあったので」
「話を聞いても?」
少し考えた。だが、迷いはなかった。
この記憶は、もう自分にとって何の重さも持たない。過ぎたこと、終わったことだ。今更どう扱われようと、揺らぐものは何もない。
だからこそ、言葉は思っていたよりずっと滑らかに出てきた。
「昔──兄が二人いました」
よどみなく話し始めた。他人の昔語りでも聞かせるような、平坦な口調だった。
「その二人が幼い自分を育てていたのですが、とある日、野草を採りに行ったきり、なかなか帰ってこなくて──。近くの山まで様子を見に行きました。そうしたら、ちょうど野盗に囲まれているところでした」
炎の明かりが影様の横顔を赤く照らしている。その揺れる光を見つめながら、つづけた。
「自分は、木の陰からそれを見ていました。月明りも薄く、姿はよく見えなかったけれど──声だけははっきりと聞こえました」
弟の悲鳴。兄が庇うように前へ踏み出した足音。刃が振り下ろされる鈍い響き。土を掻く、もがくような音。そのどれもが暗闇の中で、やけに近く、やけに鮮明に届いていた。
息を殺し、瞬きすら忘れて、その一部始終を、ただ見ていた。
「兄は弟を庇って死にました。──二人とも助かりませんでしたが」
「それを見て、どう思いましたか」
影様が静かに尋ねた。
「あー、と思いました」
あっさりと答えた。
「それだけです。悲しいとか、悔しいとか、そういうものは特に浮かびませんでした。ただ、ああ死んだな、と」
炎がパチリと爆ぜた。
「ただ──、その後ずっと考えるようになりました」
串の先の炭をじっと見つめる。
「兄は弟を見捨てれば、命は助かったでしょう。ただ、そうしなかった。弟も庇い、自分も弟も死んだ。どちらも中途半端な結果になったんです。だからそれ以降、中途半端が一番よくないと思うようになりました」
炎が風に揺れ、影様の輪郭を一瞬だけ大きく歪ませた。
「守るなら、完全に守り切る。やると決めたら、ほかのことに気を取られず、全力でやり通す。周りに気を配りすぎれば、惑わされて、結局は何も守れなくなる。だから、自分はできるだけそうしないようにしています」
「──あの鹿も、その延長ですか」
「はい」
頷いた。
「長く苦しむ姿を見続ければ、それはきっと後々まで自分の中に残ります。だから、迷わず終わらせました。それが、後悔を残さないための、自分なりのやり方です」
影様はしばらく黙っていた。夜風が、焚火の炎をわずかに横へ流した。
「一つ聞きます。十年前、私はあなたに言いました。道が途絶え、光が消える時が来る。その時、あなたは後悔する、と」
自分は黙ってそれを聞いている。
「あなたはこう答えたはずです。道がないなら、作ればいい。道の終わりは、自分で決めないと」
「はい」
「それが今、あなたの言う後悔と繋がっているように聞こえます」
しばらく、黙っていた。
焚火がパチパチと小さな音を立て続けている。
「自分は本気ですよ。昔も、今も」
炎から目を上げた。
「自分は眞様の刃になると決めました。決めた以上、最後までやり遂げます。周りがどう思おうと、何を言われようと、関係ありません。中途半端に投げ出して、あとで悔やむくらいなら──」
一度、言葉を切る。
「死ぬ気でも追い求めてみせます」
言い終えても胸の内は静かだった。昂ぶりも、気負いもない。ただ、当たり前のことを口にしただけだった。
影様は、すぐには何も言わなかった。
炎の向こうで、その目がわずかに細められる。弟子の太刀筋を見定める時の目ではなかった。
もっと遠いもの──ずっと昔にどこかへ置いてきた何かを、そこに見つけてしまったような目だった。
「死ぬ気で、と言いましたね」
声がいつもより低かった。
「私もかつて、そう決めて刃を振るい続けました。その果てに何が残ったかは、十年前に話した通りです」
影様は手にしていた串をそっと火の縁に置いた。
「ただ──あの時、話していないことがあります」
「なんでしょうか」
「麻痺が解け始めたのは、ただ一つを追うのをやめてからでした」
意味が、すぐには飲み込めなかった。
「眞のためだけに刃を振るっていた頃、私は何も感じませんでした。それが変わり始めたのは、もう一つ目を離せないものができてからです」
影様は、それが何なのかを言わなかった。炎だけを見ていた。
「一つに全てを注げば、迷いは消えます。ですが、その一つしか見えなくなる。あなたの言うノイズの中にも、本当は、見るべきものが混じっているのかもしれません」
「……自分には、一つで十分です」
「そうでしょうね」
影様は、責めるでもなく頷いた。
「では、もう一つだけ。あなたが追うその先が追われることを望んでいるとは限りません」
「どういう意味ですか」
「眞は、誰かが自分のために死ぬことを何より嫌う人です」
炎が、パチリと爆ぜた。
返す言葉を探したが見つからなかった。
眞様が嫌う。その一点だけが他のどんな理屈よりも重く、胸の底に沈んでいった。
「その生き方に、後戻りは、ないのですか」
「ありません」
今度は迷わなかった。
「眞様が望まなくても、です。それで眞様をお守りできるなら、嫌われても構いません」
影様は何も言わなかった。ただ、ほんのわずかに目を伏せた。悲しんでいるのか、呆れているのか、自分には読み取れなかった。
焚き火がパチパチと小さな音を立て続けている。炭になりかけた薪が崩れ、赤い光が一瞬だけ強く瞬いて、また沈んでいった。
灰の舞う夜空を見上げた。星がいくつも瞬いている。
迷いはない。決めた道は変わらない。
ただ、眞様は誰かが自分のために死ぬことを嫌う──その一言だけが払っても払っても、頭の隅から消えなかった。ノイズなら切り捨てればいい。いつもならそうしてきた。
それなのに、この一言だけはどうしても捨てられなかった。
ふと、炎の向こうを視線に戻す。
影様が、いなかった。
火の縁に置かれた串も、腰を下ろしていた倒木の窪みも、そのまま残っている。
ただ、そこにいたはずの人だけが、音もなく消えていた。
「──影様?」
返事はない。
立ち上がりかけた、その時だった。
背後で枯れ枝を踏み折る音がした。
振り返るより先に、手が柄に伸びていた。
「ま、待ってくれ!怪しい者じゃない!」
藪をかき分けて現れたのは、一人の男だった。
粗末な野良着に、穂先の欠けた槍。額には汗が噴き出し、肩で荒く息をしている。片腕に巻いた布が、赤く黒く濡れていた。
島の番屋に詰める足軽か、近くの漁師か。いずれにせよ、ここまで走り通してきたことは一目で分かった。
男は焚き火と、自分の腰の刀と、傍らに積まれた肉山とを、忙しなく見比べた。
「あんた、刀を使えるんだろう。頼む、手を貸してくれ」
「何か?」
「海岸だ。魔物が──とんでもない数の魔物が、海から上がってきてる。番屋の連中だけじゃどうにもならねえ」
男の声は震えていた。
「この島で魔物なんざ珍しくもねえ。けど、あれは違う。数が違うんだ。見たこともねえ奴らが、次から次へと──」
その先は言葉にならないようだった。
自分は柄から手を離した。
「──いいでしょう。向かいます」
「本当か!恩に着る!」
男は何度も頭を下げると、来た道を転がるように駆け戻っていた。
藪の揺れる音が遠ざかり、やがてその気配もふつりと途切れた。
それと、ほとんど同時だった。
「──行きましたか」
すぐ脇の木の陰から、影様が姿を現した。
驚きはしなかった。
「聞いていましたか」
「ええ」
影様は海の方角へ視線を向けた。木々の向こう、夜の闇の底から漂う潮の匂いが、いつもより濃い気がした。
「この島の瘴気で魔物が湧くのは珍しくありません。ですが、海から、しかも群れで、というのは......」
影様の眉がわずかに寄った。
自分も同じ方角を見る。
石の海岸。西の地平線を染める赤。音もなく飛んでいく、一羽の鳥。
見慣れたはずのあの景色が一瞬だけ瞼の裏によぎった。
振り払う、今はそれどころではない。
腰の刀に手を添える。鞘の内で刃こぼれを抱えたままの刃が、いつもよりわずかに重く感じられた。
「その刀でいくつもりですか」
影様の声が静かに問う。
「これしかありません」
「これ以上振るえば折れると、いったはずです」
「承知しています」
影様は何か言いかけた。
その言葉を飲み込むように、影様は不意にこめかみへ指先を当てた。
「眞...?」
視線が自分を通り越して、夜の向こうへ逸れる。ここにはいない誰かを探すように。
「──なんですか?」
誰に向けた問いなのか、わからなかった。影様は、この場にいない声に、じっと耳を澄ませている。
やがて、こめかみに充てられていた手がゆっくりと下りた。
影様の顔から表情が抜け落ちていた。いつも揺らぐことのない瞳が焦点を失ったまま、炎の上に留まっている。
その唇だけが何かに弾かれたように、ふいに動いた。
「カーンルイアから......魔物が...?」
第十五話【完】