煌々と輝く月が大地を照らしている。
人間どもはこの月を異世界の太陽だと考えているらしい。現世が夜の時、薄皮一枚を隔てたように存在する世界では昼で、そこで燦燦と照る太陽が現世の夜に光の余波を届けるという。
……下らない。幼子が思い描く空想を、さも事実かのように言い伝えるとは。
大地にのさばる
「にしても、随分と数を増やしたものだ」
木々の隙間から夜空を見上げ、一匹の獣は目を細めた。
白銀の体毛を纏った細身の獣だ。優美な肢体からは四本の脚がスラリと伸び、滲み出る鋭気を表すようにその面持ちは厳めしい。
何よりその獣の両前足には、一対の湾曲した刃が備わっていた。同様の刃は尻尾からも生え、揺れ動くごとに草葉や空気を切り裂いている。
「風に乗って、奴らの臭いが鼻につく」
己が命の危機に陥ることも知らず、日々を惰性で生きるだけの木偶の坊どもの臭いだ。
失望が腹に落ちる反面、胸には言いようのない高揚が浮かんでいた。
力なき者が得た泡沫の平和を壊す瞬間ほど、心から愉悦を感じるときはない。
弱者の蹂躙、強者への昇華。
相反する二つを、同時に味わう瞬間こそが、現世に戻った理由だ。
「ふんふん……ほう、未だに
鼻を鳴らして大気を嗅ぎ、獣は首をゆっくりと彼方へ向けた。
陽が沈む方角、小高い山に建てられた殿堂へ。
「早々に破壊すれば良いものを。力が惜しかったのか、破壊する力もないのか」
どちらにせよ僥倖。
両足で大地を踏みしめ、一息の間に空へと飛びあがる。
「まあいい。ならば、誰がふさわしいかを知らしめるとしよう」
中空で一瞬漂ったのち、凄まじい速度で飛び去った。
数多の血肉を吸った妖刀の下へと。
リンリンと鳴らされた鈴の音に、悠は雑巾がけの手を止めて玄関へ目を向けた。
後光を浴びて浮かび上がった影は奇妙な形をしていた。大きな菅笠に角ばった胴体、手には杖と思しき棒が握られ、先端には輪っかが鎖状に伸びている。
訝しげに見ていると、影は再び鈴を鳴らした後、杖を振るって別の音を立てた。
シャン、シャン
軽やかな音は祭囃子で聞いたことがあるような気がして、悠は警戒しつつ声を掛けた。
「はい。どちら様でしょうか」
「……」
「えっと、参拝の方でしたら麓のお社でしてほしいんですが」
「……」
「ど、どうしよ」
口が無いのかもしれない。
ひとまず応援を呼びに、悠は影に断りを入れてその場を去る。
やがて、部屋掃除をしていた龍己を見つけて事情を話すと、いつも無表情だった顔に明確な戸惑いが浮かんだ。
「分かった。俺が応対する。貴様は久遠様を居間にお連れしろ。今の時刻なら書斎にいるはずだ」
「了解っす」
聞きたいことはあったが、悠は頷いて久遠を呼びに書斎へ。
同様の説明をすると久遠の表情も曇り、すぐさま居間へと向かった。
そして。
「———というわけなの。今日中に都へ行かなければいけないから、荷造りの準備を手伝ってちょうだい」
居間に集められた使用人を見渡して、久遠は静かにそう告げた。
「今日中に、ですか。随分と急ですね」
「恐らく賊の襲撃に関して文句を言いたいのでしょうね。だからって使いを寄越すには遅い気がするのだけれどね」
なんでもあの人影は朝廷の使いらしく、緊急招集の旨を伝えに訪れたそう。
応対した龍己が不機嫌な辺り、あまり愛想のよい人間では無いらしい。
……いや、よく考えたら俺の対応が下手だったせいか。
持っていた棒は錫杖だったらしく、あれを二回振ることが朝廷の使いを示す証だという。遠路はるばる来たのに外で待たされれば機嫌も悪くなる。
「気にする必要ないよ」
俊人が耳打ちした。
「言ったでしょ。朝廷の人からすればここは田舎、使いの人だって来るのは嫌だろうからね」
「そ、そっすね。……いやでも、それなら表に出さなくったって」
「まあまあ、嫌な感情って簡単に消えないものだしさ、多めに見てあげようよ」
大人な対応に、思わず先輩と言いそうになる。
「でも今日中にか……。準備自体は昼までには終わりますけど、宿の方は取れるんでしょうか」
「大丈夫。この私を呼んだんだもの、必ず取らせるわ」
挑戦的な笑みを浮かべる久遠に、俊人は若干気圧された。
ついでに悠も。
「さて、早速準備をしてちょうだい。同行は瑞野にお願いするわね」
「任せて!」
元気な返事を皮切りに散開。
役割も決まっているようで、俊人は麓の街へ買い出しに、龍己は久遠不在の間の仕事の引継ぎに、瑞野は自身の荷造りを始めた。
一方、手持無沙汰な悠はどれに手を付けるか悩んでいると、
「いらっしゃい。あなたには私の荷物を手伝ってもらいましょうか」
「は、はい!」
久遠に続いて悠は彼女の私室へ。
私室と言っても家具は最低限しか置かれておらず、生活感はあまり無い。掃除こそ行き届いているが、あまりの綺麗さに空き家のような寂しさが漂っていた。
「書斎で寝てしまうことが多いから、この部屋はあまり使っていないの」
「そうなんすか⁉ ちゃんと部屋で寝たほうが良いんじゃ……」
「瑞野にも言われたわ。もし知られたらたくさん怒られちゃうから、みんなには内緒ね」
「う、うっす!」
人差し指を唇に宛がう艶めかしい仕草に、つい反射的に頷いてしまった。
当人のことを考えれば引きずってでも連れて行った方が良い気がするが、後の祭りか。
「さ、あなたは書類や筆記具を風呂敷に詰めてちょうだい」
「任せてくださいっす」
敬礼なんかをして見せ、支度にとりかかる。
携帯用の筆箱や書類を纏めていると、不意に久遠が口を開いた。
「私がいない間も、稽古はしちゃだめですからね」
「……はい」
「やっぱりしたい?」
「したいというか、しなきゃいけないって思ってます」
熾葉の下で宣告されてから今日で三日。午後の稽古では加わるどころか見学さえも禁じられ、その間はずっと部屋で勉強する日々を送っている。
悪いのは悠自身だ。だが、理性だけでは抑えきれない焦燥が日々募るのを感じて、ふと気を抜くと飲み込まれそうになる。
きっと猶予はない。力を得る機会も無い。
居場所だって……とっくに……。
「ごめんなさい」
「謝る必要はないわ。誰だって追い詰められたら自暴自棄になってしまうものよ」
でもね、と諭すような口調で。
「やっていいことと悪いことがあると理解してほしいの。それに、どうしようもないことも生きていれば起こるものよ」
「……やっぱり、俺はここにはいられないんでしょうか」
「ええ」
間を置かない肯定が、酷く無感情に聞こえた。
その、努めたような声音が一層罪悪感を掻き立て、悠は唇を強く噛む。
血が滲んでも構わず。それこそ自らを罰するように。
「今すぐ追い出すつもりはないわ。私が都から帰ってきたら、今後のことについて話し合いましょう」
「分かりました」
それきり会話は生まれず、準備の時間は過ぎていった。
やがて荷造りを終えて玄関へ行くと、すでに他の準備も終わっていたらしい。
玄関の戸を背に居残り組が並び、向かい合うように風呂敷を持った瑞野が立っている。
そして、その隣には。
「……」
「……えっと、え?」
「そうか。貴様は初めて見るのか」
戸惑う悠に、顎を撫でながら龍己は言った。
「瑞野の式神だ。奴は妖術の才があるのでな。送迎でよく手伝ってもらっている」
「な、なるほど」
式神、と呼ばれたソレを、悠は改めて観察する。
一言で表すなら巨大な鳥か。背丈は久遠に勝るとも劣らないほど高く、顔立ちは鶏に近い。一方で羽毛の色は主人に似て緑色で、胸元だけ黄色や赤といった極彩色で彩られている。
金色の瞳は獣とは思えない理知的な雰囲気を漂わせ、人語を介するのではとさえ思ってしまう。
「えっと、初めまして、悠って言います」
「……」
「あっ、どうもご丁寧に」
お辞儀にお辞儀で返す社交性の高さ。
思わず背筋を伸ばす悠に、じっと見ていた瑞野は口元を押さえ。
「そんなに畏まらなくていいのに。なんなら撫でてみる?」
「いやっ、大丈夫っす。勝手に触るのも失礼なんで」
「あははっ! 悠は礼儀正しいね! 今度一緒に飛んでみようよ!」
なぜか式神ともども期待の籠った眼差しを向けられ、愛想笑いを返す。
「瑞野は妖と仲良くなるのが得意だものね」
後ろから久遠が。
……いや、妖って?
聞き捨てならない言葉にがばっと振り向くと、久遠は式神を眺めながら言った。
「式神は術師と主従関係を築いた妖のことよ。大抵は一人につき一体か二体が限界なのだけれど、瑞野はたくさんの式神を抱えているの」
「えっへん!」
自慢げに胸を張る瑞野。
素人どころか門外漢な悠には明確なことは分からなかった。
とりあえず、瑞野がすごいというのは分かる。
「さ、行きましょうか」
「うん!」
瑞野と久遠は式神の背に乗ると、最後に残った三人を見下ろした。
「留守の間、よろしくお願いね」
「お任せください」
「お気をつけて」
「い、いってらっしゃいっす」
別れの挨拶もそこそこに、式神は瞬く間に天高く飛翔すると、彼方へと飛び去ってしまった。
主である久遠と賑やかな瑞野がいなくなってしまい、屋敷はいつもよりがらんとしてしまった。
なのに、不可解なことに久遠の帰還を待っていない自分がいる。
それどころか、彼女が帰ってこなければいいとさえ思ってしまう。
……話し合いって言ったって、追い出されるのは決まってる。
力が無いどころか、機嫌を損ねたのだ。今更どんな弁明をしようが通じない。
「はぁ、ずっといたいな……」
「悠」
「ひょっ⁉ ど、どうしました?」
突然声を掛けられ肩が跳ねる。
まさか……聞かれた?
「昼餉を終えたら玄関に集まれ」
「わ、分かりました。でも、どうして?」
龍己は久遠が去っていった方角を眺めながら、口の端を僅かに吊り上げた。
「妖術の稽古をする」