男は湧いてくる汗を袖で拭いながら石段を上っていた。
春真っただ中だというのに、今日の気温は動いただけで汗ばむぐらい。山の中腹なら幾分マシだろうと軽装で来なかったのが悔やまれる。
「でも、せっかくのお得意様に知らせないのもマズいしな」
口元を綻ばせながらせっせこ足を持ち上げる。
男は旅の一座の一人だった。彼の所属する一座は定期的に泡沫山の温泉街に足を運び、地元の客などを楽しませながら旅の疲れを癒しているのだ。
……ここの湯は疲れに効くんだよなぁ。
湯に体を沈めたときの、骨の髄にまで染み渡る心地良い熱を思い出しながら、一層気合を入れて屋敷へと向かう。
泡沫山には、泡沫の園と呼ばれる地主の館がある。地主である女性に一座の来訪と商売の許可を貰うのが通例だ。
「ふぅ、ついたついた。相変わらず綺麗だなぁ」
やっとの思いで石段を上り切った男は、正面に聳える屋敷に感嘆の声を上げる。
針葉樹を多く用いた屋敷は華やかな装飾が少ない。だからこその気品と言うべきか、親しみと厳格さを兼ね備えた様は地主の性格を表しているみたいだ。
……そういえば、この前結構な被害に遭ったんだったか。
二週間ぐらい前に、強大な力を持つ妖が園を襲ったとの噂を聞いたことがある。無事に討伐したとのことだが被害は尋常ではなかったそうで、そのせいで一座は来訪を延期したのだ。
「まあ妖刀なんて不気味なもんを守ってちゃしょーがねぇか」
男は石畳を歩いて玄関に着くと、柱に取り付けられた呼び鈴に手を伸ばす。
「あれ、なにかご用っすか?」
不意に後ろから声を掛けられ男は振り返る。
「え? ああ、ちょっと天羽様に用があってね」
「そうだったんすか。今ちょうど離れにいるので呼んできますね。ちなみにご用件って聞いても良いっすか?」
「ああ、もちろん」
使用人だろうか。光のない黒紅色の瞳が特徴的な少年だ。背格好は平均的で一般的、しかし腰に差す刀は真逆の異彩を放っている。
見ているだけで鳥肌が立つ。全体が紫紺で統一され、鍔は歪で模様は蝶の翅を思わせる。じっと見ていると斬られてしまいそうだ。
「麓の街でちょっとした舞台を開こうと思っていてね。天羽様ならこれだけで伝わるはずだ」
「舞台……そういえば、前回から一月経ったんでしたっけ」
「よく知ってるな。新人だと思ったんだが」
屋敷の使用人は数が少なく、月に一回の頻度で何年も来ていれば顔も覚えてしまう。
記憶にない顔に首を傾げていると、少年は気付いたように声を上げた。
「そういえば自己紹介もまだだったっすね。申し訳ないっす」
「いや、俺の方こそ名乗らずに済まなかった。健仁という」
男はお辞儀をした。
少年は顔を輝かせながら、満面の笑みで応えた。
「泡沫の園の使用人、悠って言います!」
第一章はこれにて完結となります。
次章は来週の月曜日に投稿します。