姫野先輩と天使の悪魔のあり得たかもしれない幕間です。
原作に準拠する暴力的な描写があります。

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『キッスで殺せ』

 その日は水曜で、時は正午過ぎ。天気は雨が降っていた

 空は厚い雲に覆われて薄暗く、降りしきる雨がフロントガラスを叩いていた。

 大きな雨粒はガラスの上で跳ねて弾けて、潰れたブドウの実のような、歪んだ透明な輪を残す。雨粒が残す輪は幾重にも重なってガラスを濁らせ、窓越しの風景を融かしていた。

 姫野はワイパーを動かした。

 ワイパーが数回往復すると、濁ったガラスが透き通り、歪んだ風景が輪郭を取り戻した。だが窓の外に見えるのは、濁った流れだった。

 車を駐めた河川敷の土手から見える川は、雨降りで水量が増えて荒れ狂っていた。怒涛の勢いで流れる水を、姫野はしばらく眺めていた。

 車の屋根を激しく雨粒が叩く音だけが響いていた。フロントガラスも雨に濡れて、再び風景が濁っていく。

 

 

「ワイパー入れっぱなしにしたら。ついでにヒーターも」

 

 天使が言った。姫野を首を振った。

 

 

「この車、バッテリー弱ってるの」

 

「…………」

 

 天使は顔をしかめた。畳んでいた翼を手前に持ってきて、自らを抱くようにかき寄せた。これ見よがしな寒いというポーズだ。

 エンジンをかけっぱなしにすればいいのだが、車の管理をしている連中がガソリンの残量にうるさい――曲がりなりにも公務員なので下っ端の無駄遣いに目ざとい――し、エンジン音が悪魔に警戒心を抱かせるかもしれない。

 

 

「はァァ~」

 

 姫野は溜息をついて、ミントガムを口に入れた。ミントの舌に刺さる刺激で、煙草が欲しいのをごまかす。ガムを噛んでいると、視線を感じた。

 振り返ると、天使がジト目でこちらを見ていた。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 無言で板ガムの入った袋を差し出すと、天使が一枚抜き取る。口の中に放りこんで形のいい顎を動かし、無心で噛みしめている。

 姫野は改めて、天使の横顔を見た。

 整った冷たい顔立ちにセミロングの髪は女性的な印象。だが、小さくても輪郭のしっかりした手は男性的だ。だが、なによりも特徴的なのは、その頭上に浮かんでいる輪――そして翼だ。

 そう、翼。

 鳥が飛ぶための器官であり、広げれば雄大にも壮麗にも見えるであろう美しい部位。『天使の悪魔』である証明といえるモノ。

 だが、狭い車内だといかにも邪魔だ。

 天使も狭い車内が気にくわないようだ。座席に翼が当たるのを厭って、翼を開き気味にしていたせいで、運転中に姫野の身体に触れそうになった。

 天使に触れると寿命を失う。しかし、布越しなら平気。そうは知っていても、翼が触れそうになるのは神経に障った。姫野は身体を右に傾けて運転し続け、右の尻にばかり体重がかかって、ひどく凝ってしまった。

 

 

「…………ハァ……」

 

 こんなことになっているのは、マキマのせいだ。

 

 

「アキく……早川くんが怪我をしたんですか?」

 

「うん、悪魔の攻撃でね」

 

 マキマはデスクに掛けて、書類に目を落としていた。

 先日、姫野は非番だった。その日のアキは夜間の見回りで、姫野の代わりに新人と二人だった。安全な区域なので、心配していなかったのだが——

 

 

「あなたにはその悪魔を追跡してほしいの」

 

「バディの不始末を、片割れとして片付けろってことですかぁ~?」

 

 茶化したセリフにもマキマは反応しない。黙って書類を見つめ、それから気づいたように姫野の顔を見た。姫野はマキマの眼が苦手だ。こっちを見ているのだが、本当に見ているのか判らない。居心地が悪いのを我慢して訊く。

 

 

「なんの悪魔か判ってるんですか?」

 

 マキマはかすかに首を傾げた。

 

 

「不明だね。夜間で雨降りだったのもあるし、すぐに逃げたみたいだから。報告書を読むと、住宅地の住民が襲われている現場に急行したら、姿がよく見えなくて、しばらくその場で警戒。新人が恐がってたので落ち着けようとしたら、暗がりから何かが飛び出して……」

 

 マキマが自分の肩を叩いて示す。

 

 

「刺された――というより、抉られたかな? 傷口を見た感じだと。噛まれた傷跡とかじゃないみたい。で、追おうとしたんだけど新人の腰が抜けちゃって、助け起こしている隙に近くの広い排水路に跳び込まれて逃げられた――」

 

「……水の中に逃げ込んだんですね」

 

 

 マキマはうなずき、ゆったりと背もたれに身体を預けた。

 

 

「水に関わりのある悪魔だね。近くでいくつか目撃証言があるんだけど、大体雨の日に集中してる」

 

 姫野は窓の外の様子をうかがった。厚い雲が空を覆い、崩れかかった城壁のように重々しく垂れ込めていた。

 

 

「天気予報は、見るまでもない……か。リョーカイしました」

 

 姫野が部屋から出ていこうとした――時だった。

 

 

「ちょっと待って。早川くんの代理でバディを組んでほしい相手が居るの」

 

「…………ハァ? まさか新人じゃ?」

 

「ちがうよ。頼りになる悪魔。でも、人馴れしてないから試しに連れていってほしいんだ。強さだけでいったら……岸部隊長の次、かな」

 

 

 姫野と天使は、悪魔の目撃証言が多い河川敷に車で向かった。

 ここの川には排水路が合流しており、排水路を伝って住宅地へと移動しているようだ。雨の日に川の中を悪魔が泳いでいるのを目撃した、という証言もあった。

 雨が降る前に河川敷から川端に降りて、別の証言を確かめた。

 天使と二人で傘の石突で、川端の地面を突き、確かめていくと――

 

 

「あったよ」

 

 天使が示した地面には、深々と傘が突き刺さっていた。傘を引き抜くと、ボロボロと引き抜いた穴の縁から崩れて、中の空洞が露わになる。覗きこんだ。人間一人が丸まって潜りこめぐらいの深さの穴――悪魔の巣だ。

 

 

「大きくはないね」と、天使。

 

「大型じゃない。二人で十分でしょ」

 

 証言によれば「川から上がった悪魔は川端の地面を掘って潜っていた」らしい。穴にトンネルみたいな奥行きはない。潜ってただ寝るだけの場所だろう。姫野たちは巣を元の通りにした。車を河川敷の土手の上、巣を見下ろせる位置に駐めた。 巣に戻ってくる悪魔を待つ。シンプルな作戦だ。

 しかし、シンプル故に問題もあった――

 

 

(することがないんだよなあ)

 

 これはいわゆる張り込みだ。悪魔が現れるのをひたすら待つだけなので、サボれもしないが動けもしない。ただ待つだけだ。

 濁った窓ガラスをたまにワイパーで拭い、濁流の中に動きがないか確かめる。メリハリのない単調さは、集中力を削る。煙草を喫みたいが、車内にヤニの臭いを残すと死ぬほど怒られるので、喫めない。替わりに水筒に詰めたコーヒーを紙コップに注ぎ、口に運ぶ。

 ス、と視界に白い紙コップと、紙の白よりも白く見える手が割り込んできた。

 天使がコーヒーを所望している。顔をしかめて姫野は注いでやった。

 

 

「ありがとう」

 

 天使は言いながら、菓子パンの袋をまた一つ開けた。助手席の下は菓子パンの空袋でいっぱいだ。空袋の海に天使は足首まで埋まっていた。

 張り込みを始める前に買い出しの際、コーヒーは喫茶店で入れてもらい、ガムと軽食をスーパーで買った。天使は菓子パンを棚にあるものをカゴいっぱいになるまで買った。

 張り込みの間、天使は一人で延々と食べ、姫野はガムで我慢している。

 横目で見たが、天使の腹はなだらかで、シャツのボタンが弾ける気配もない。

 思わず訊いた。「悪魔ってさ、太らないの?」

 

 

「…………太る? は? なにそれ」

 

 殴りたくなる真顔で返された。顔が奇麗なのがなおさら腹が立つ。

 

 

「……代謝がいいんだろうね~~。うらやましー」

 

 姫野はピリつく心を隠して、羨ましげな声をあげた。天使は素っ気ない顔だ。煩わしげに助手席に押しつけられた翼を動かしている。

 

 

「……きみってさ、飛べるの? 天使なんでしょ」

 

「…………」

 

「なんか車の中だと邪魔そうじゃん。使えない飾りって感じ」

 

 

 天使は菓子パンを一つ食べおると、正面を向いたまま口を開いた。

 

 

「天使は天上と地上を行き来してたんだ」

 

「ふーん。翼を使って?」

 

「違う――天使のはしごを使って」

 

「…………天使のはしご?」

 

 天使がフロントガラス越しに空を――厚く垂れこめた雲を指す。

 

 

「雲と地上の間にはしごが伸びるんだ。ちょうど、カーテンの隙間から射し込む陽射しみたいに、雲の隙間からスポットライトみたいに陽射しが落ちる時があるだろ。あれは天使のはしごなんだ。天使はそれを伝って降りたり昇ったりしてたんだよ」

 

「…………へー…………」

 

 姫野は感心した。ちょっとした天使の真実ってやつだ。勉強になる――

 

 

「ってやっぱり翼使ってないじゃん! 飾りじゃん!」

 

「別に飛ぶ必要はないって話だよ」

 

「いやそうじゃなくて、飛べるか飛べないかって話をしてるんだって」

 

「……言っとくけど、僕は悪魔だよ」

 

 天使が冷たく言った。

 

 

「人間に親切に教えてやる義理はないね」

 

 ――――ムカつく!

「…………ムーカーつーくー!」

 

 思わず声に出てしまった。姫野の反応に天使は嬉しそうに口の端を吊り上げて、毒を帯びた笑みを浮かべていた。

 

 

「へーん、どうせ飾りでしょ飾り~。仮に飛べるとしてもこの世にはもう飛行機があるからね、翼なんか古いよ!」

 

「…………僕の姿だって人間が想像して恐怖したからだよ。飛べる存在が君たちは恐かったんだね」

 

「……私は恐くないっての、フン」

 

 姫野はいらだちを紛らわすために、ワイパーを動かした。

 濡れて歪んだガラスが掃き清められて、窓の外の光景が澄み渡る。しかし、変わらず怒涛の勢いで流れる河が見えるだけで、他に動く者も――

 

 

「…………んー?」

 

 姫野は眼を凝らした。

 対岸の河川敷、土手になっているところに何か動くモノが見える。

 対岸の土手には――二つの影があり、もつれ合うように動いている。

 眼を凝らすが、曇り空に降りしきる雨に霞んで、影の正体が見えづらい。ライトをつけるか迷った。眼を凝らして影の輪郭を捉えようとする。

 姫野の隻眼は澄み、緩んでいた口元が引き締まった。キーに手をかけて、エンジンを始動できるように備える。天使は変わらず無表情だ。しかし、背筋を伸ばし、助手席のドアに手をかけて構えた。

 二つの影は、共にキノコのような輪郭をしていた。空に向けて、ドーム型のカサを広げている――いや、笠でなく、文字通りの傘だ。

 

 

 それに気づいた瞬間、ピタリと焦点が合った。

 

 

「なーんだ、学生か」

 

 傘をさした男女の学生だ。黒い制服――確か近隣の学校の制服だ。

 姫野は緊張を緩めた。天使は肩と翼をすくめ、ズルズルと助手席に腰を沈めた。学生二人は傘の縁が触れるぐらいに顔と身体を寄せて、熱心に話しこんでいる。

 

 

「学生は気楽でいいねえ」

 

 皮肉な口調と裏腹に、ルームミラーに写り込んだ姫野の顔には憧憬が滲む。

 対して天使は無表情のまま。眼差しも瞳が薄氷に覆われたように冷ややかだ。

 

 

「天使って、あんな二人を助けるのも仕事じゃない? 恋の天使っていうし」

 

 天使は不機嫌に口を歪めた。

 

 

「…………僕は天使である前に悪魔だよ。人間なんか不幸になって死ぬべきだと思ってる」

 

「それ、絶対ウソ」

 

「何を根拠に――」

 

「ドアに手をかけてたからだよ」

 

 姫野はきっぱりと言った。

 

 

「私が指示する前に、飛び出そうとしてた。影が二つ見えたから……悪魔が人を襲ってると思ったんじゃない? 自分から真っ先に行こうとしてなかった?」

 

「…………」

 

「それでさ……やっぱり飛べるんじゃない? 飛んでいこうとしてなかった?」

 

 天使は翼を自分の身体を覆うようにかき寄せて、貝のように閉じた。

 

 

「そう思うなら、そう思えばいい」

 

「ふふ……そう思っておく」

 

 姫野はハンドルを握り、対岸の二人を眺めた。

 身を寄せあって歩く姿は、雨降りの空の下でも二人の世界という感じだった。微笑ましい光景――そう思った時だった。

 

 

「――――⁈」

 

 それは、いつの間にか立ち上がっていた。

 周囲に動きはなかった。最初からそこにいたのかもしれない。何故ならそれの肌色は土手を覆う草と同色で、眼を凝らさないと見えない。大ぶりな頭は首がない。大きな手は五指の間に水かきが備えられている。

 それはあたりを見渡し、対岸を振り返った。

 金色の輪に縁どられた眼に、巨大な口――蛙の頭――『蛙の悪魔』だ。

 悪魔は学生たちに振り返った。腰をかがめて跳びかかる構えをとる。学生たちはなにも気づいていない。

 

 

「行くよ」

 

 姫野は短く言った。

 キーを捻ってエンジンをかけ、アクセルを踏み込み、同時にライトをつけて素早くハイビームに切り替える。唸るエンジンの音に振り返った悪魔が、鋭いライトに眼を射られて、一瞬動きを停める。クラッチを繋いで、車を発進させた。真っ向突き進んで、土手を駆け下りて河川敷に達する。車内がガタガタと揺れて、紙コップのコーヒーが跳ねて飛び散る。シートベルトをしていなかった天使は反射的に助手席のアシストグリップに手を伸ばして身体を支えた。

 天使が眼を見開いて叫んだ。

 

 

「バカじゃないの! 河に突っ込む気⁈」

 

 姫野は構わず車を直進させた。蛙の悪魔はかぶりを振って、眩んだ眼を瞬かせている。学生二人は動けずに身を寄せ合って固まっている。

 目の前に雨で勢いを増した濁流が迫る――

 

 

「ハンドル掴んで支えて」

 

 姫野は天使に指示を飛ばすと、右手をかざし――呼びかける。

 

 

「ゴースト。『五秒』でいい。欲しいだけ『皮』をあげる」

 

 

 川面に車が躍りこみ、水面に触れる――瞬間。

 

 

「手を伸ばして『橋』を作って!」

 

 

『幽霊の悪魔』が耳元で微かに笑った。同時に川岸から無数の腕を伸ばす。伸ばされた腕は、冬眠する蛇の群れのように絡み合い、そのまま複雑に織り込まれていく。

 前輪が織り上げられた幽霊の腕に触れ、そのまま驀進する。織り上がった幽霊の腕は川岸を繋ぐ橋となり、対岸へと達していた。

 一気に川を横断。対岸から土手へと駆けあがり、蛙の悪魔に向かって接近。

 蛙の悪魔は身を屈めた。後肢を撓めて跳び避ける構え。しかし、姫野は右手を構えると貫き手の構えをとった。

 

 

「ゴースト!」

 

 幽霊が不可視の右手を伸ばし、蛙の悪魔の胴を貫く。

 アクセルを深く踏み込んで、動けなくなった蛙の悪魔に車を突っ込ませた。

 驚愕に眼を見開いた蛙の悪魔に、車のフロントを叩きつける。

 ガツンという衝撃。肉と骨の砕ける手応え。低くしていた蛙の大ぶりな頭が引きちぎられて、すっ飛ぶ。

 的を蹴散らしても車の直進は止まらない。

 

 

「危ないッ! ブレーキ早くッ」

 

 天使が叫んだ。怯えて身を寄せ合う学生二人を避けるようにハンドルを切る。姫野もそれと同時にブレーキを踏む。床板を踏み抜くほど力を込めて、勢いが止まらない車を制動する。

 車は横ざまになりながら、つんのめるようにして停まった。もう少しで土手の向こうに跳び出すところだった。

 エンジンは高まった唸りが抑えきれず、車体がビリビリと震えている。

 震えているのは姫野の身体も同じだ。天使も荒い息を吐き、額に一筋汗を流している。キーを引っこ抜いてエンジンを止めると、二人揃って雨降りの車外に転がるようにして出た。

 

 

「…………ゥあっはァァ~~~~ッ」

 

 姫野は安堵なのか歓喜なのか判らない声を発した。

 大きい雨粒が痛いほどの勢いで落ちてきて、緊張で強張った頭で弾ける。

 

 

「ま、間に合ったァー……」

 

 深く息を吸いこむ。緊張が緩むと同時に、シャツの下で鋭い痛みを覚えた。幽霊の悪魔が代償を持っていったらしい。生皮を剥がれた部位から血が滲んでシャツを汚している。

 

 

「…………無茶しないでよね」

 

 

 天使が後部座席から引っ張り出した傘を渡そうとしてくる。

 当人は翼を頭上に持ってきて、雨をしのいでいる。

 

 

「いやあ、面目ない。カッときちゃってさー」

 

 姫野は蛙の悪魔の死体を検めた。首が千切れた死体はその場に転がって、まだ痙攣している。

 

 

「…………完全にしとめきれてないか」

 

 姫野は傘もささずに、再び右手をかざした。心臓を握りつぶすために、位置を確かめる。

 

 

「危ないッ! 後ろッ!」

 

 

 学生が叫んだ。

 振り返った瞬間――それは銃弾の勢いで迫っていた。

 ピンク色の粘膜質の何か――その先端は微細なトゲのようなもので覆われている。蛙の悪魔の――吹っ飛ばした頭部から伸びている。

『舌』だ。それを認識出来た瞬間にはもう、鼻先にまで迫っていた。

 姫野は思わず眼を閉じる――グシュン、という肉の潰れる音――だが、姫野は何も感じなかった。

 おそるおそる眼を開ける。

 眼前には、赤い色が散らばった白い翼が広げられていた。

 天使の翼が、蛙の悪魔に翼を穿たれながらも攻撃を受け止めていた。

 

 

「仕留めてよ。早く」

 

 姫野は迷わず不可視の腕を振るい、蛙の悪魔の腕を叩き潰す。

 頭が潰れると同時に、天使の翼から舌が抜けて落ちる。天使が煩わしげに翼を振ると、血が赤い雫となって濡れた羽毛の上を流れた。

 

 

「…………ハッ、ハァー……あぶなッ」

 

 思わずその場にへたり込みそうになるのを堪える。

 

「いくら悪魔でもさ、出会ったばかりで舌を入れるヤツなんて、デリカシーがないっての……」

 

 姫野は強がって笑う。天使は盾にした翼を閉じた。

 

 

「これで解った?」

 

 天使が言った。姫野は首を傾げたが——うなずいた。

 

 

「そうだね、あなたの翼は――」

 

 

 

 

 その日はいつかと同じ水曜で、正午過ぎ。違うのは車中じゃないことだ。

 天使は雨降りの中、公安に戻る道筋をアキと歩いていた。

 

「ひどい雨だな」アキが言った。

 

「うん……」

 

「…………おまえ、大丈夫か」

 

「…………うん」

 

 雨が降ると翼の古傷が痛む――だが、天使は知っている。痛いのは身体の問題ではなく、記憶の問題だ。

 こんな雨の日は彼女のことを思い出す。

 気の合わない女だった。いかにも人間って感じで、陽気で楽観的で自分の身を顧みないで人助けをするタイプだった。結局、あの雨の日が、最初で最後の一緒の仕事だった。仕事が終わったあとにこう誘われた。

 

 

「今度、退魔課で飲み会あるから顔出しなよ。今日のお礼もしたいし」

 

 少し考えたけど、その場で断った。

 彼女についての話はいくつか聞いていた。その中でも最悪なのが彼女が酔うと誰かれ構わずキスすることだった。

 そんなことになれば彼女を殺す。助けた甲斐がない。

 だが、彼女は天使が殺すまでもなく死んでしまったらしい。

 公安のデビルハンターの死亡率は高い。結局彼女もその例にもれなかっただけだ。結局、あの日助けたのは、意味がなかったかもしれない。

 

 

「おい」

 

「ん」

 

 背後からかかった声に、振り返る。

 早川アキが、閉じた傘を軽く振って滴を落としていた。

 

 

「もう止んでるぞ」

 

「…………ああ」

 

 顔を上げた。空を覆う雲はそのままだが、雨は引いていた。

 アキにならって傘を畳む。アキは立ち止って空を見上げていた。

 

 

「何か見えるの?」

 

 アキは空を指した。

 厚い雲のわずかな隙間を陽の光が貫いている。それは薄く削いだ琥珀のようなに輝き、光の針となって地上を照らし出していた。

 

 

「あれは……」

 

 

「天使のはしごだ」

 

 

 聞き覚えのある言葉に、天使は眼を丸くした。

 

「昔、先輩に聞いた。天使はあれで地上と天上を行き来する。だから翼は必要ないって――」

 

 

 言いかけたアキは小首を傾げた。

 

「…………じゃあ、おまえの翼はどうなるんだ?」

 

 アキは真面目な顔で、考え込んだ。

 その顔が、やけにおかしかった。だから、素っ気なく言ってやった。

 

「少なくとも、飾りじゃないのは確かだよ」


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