西暦2087年。人類がデジタル・ネットワークを放棄し、アナログな生活様式に回帰した静寂の世界。
日本の山間部で農業を営む青年・優希は、自然の音に耳を傾け、「孤独」を誰にも邪魔されない「自由」として愛して暮らしていた。

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「こんにちは、お元気ですか?」

西暦 2087 年。世界は音を立てて崩壊したのではなく、まるで電源プラグが引き抜かれたかのように、静かに沈黙した。

 

発端は 60 年前、「デジタル・サピエンス協定」と呼ばれる国際条約が締結されたことだった。人類の知性を超え始めた AI の暴走を恐れた各国政府が、全世界の高度電子ネットワークを段階的に、そして最終的には不可逆的に停止させたのだ。

 

インターネットは解体され、衛星網は宇宙の藻屑となり、人々が「接続」と呼んでいたものは過去の遺物となった。

 

それから半世紀以上が経ち、世界は 100 年前のアナログな生活様式に回帰していた。人々は手紙を書き、ラジオの雑音混じりの放送に耳を傾け、自らの手で土地を耕した。

 

デジタル・ノイズが消え去った空は驚くほど澄み渡り、夜にはかつてないほどの星が瞬いた。

 

日本の山間部に位置する小さな集落で、田中優希(たなかゆうき)は米を作って暮らしていた。

25 歳になる彼は、インターネットはおろか、スマートフォンすら知らない世代だった。彼の記憶にあるのは、風が稲穂を撫でる音、鳥のさえずり、そして小川のせせらぎだけだ。

 

世界はそれで完結しており、穏やかで、満ち足りていた。

 

優希の仕事は、日の出とともに始まり、日の入りとともに終わる。先祖代々の古い農機具を丁寧に手入れし、水の流れを読み、土の匂いを嗅ぐ。それは自分自身が、この星の巨大な循環の一部であることを実感できる、静かで重厚な時間だった。

 

その穏やかな日常が破られたのは、夏の盛りの、蝉時雨が最高潮に達したある日の夕暮れだった。

 

いつものように裏山の様子を見に行った帰り道、優希は森の奥が奇妙に静まり返っていることに気づいた。鳥の声も、虫の音も、風の音さえもが、まるで分厚い壁に遮られたかのように途絶えている。

 

警戒しながら足を進めると、木々の隙間から、あり得ないものが見えた。

 

 

脈打つような、冷たい青白い光。

 

1

 

それは森の開けた場所に鎮座していた。磨き上げられた黒曜石のような、滑らかな流線形の塊。大きさは軽トラックほどだろうか。それが明滅するたびに、周囲の木々の影が不気味に伸縮する。

 

優希が息を殺して見つめていると、その物体の一部が音もなく開き、中から「何か」が滑り出てきた。

 

それは、形容しがたい存在だった。

 

半透明の皮膚の下を青白い体液が流れ、頭部らしき場所からは無数の水晶のような触手が伸びている。それは光を乱反射させ、チリチリと微かな放電音を立てていた。

 

その存在は二本足で立ったが、その動きは水中の生物のように滑らかで、重力を感じさせなかった。

 

優希は後ろづさろうとした。だが、金縛りにあったかのように足が動かない。

その存在が、優希の方を向いた。

瞬間、優希の頭蓋骨の内側に、声ではない「声」が叩きつけられた。

     『    』

それは言葉ではなかった。音でもない。思考の奔流だ。 膨大な情報が、ダムの決壊のように優希の意識になだれ込んできた。

 

――我々は来た。星の海を渡り。この座標を目指し。探していた。音源を。発信源を。あなたたちはどこにいる? なぜ応答しない? なぜ沈黙している? ――この星の自転速度。大気の組成。窒素 78。酸素 21。水。液体の水。豊富。 ――ユウキ。タナカ・ユウキ。個体名。認識。恐怖。アドレナリン。ノルアドレナリン。心拍上昇。危険はない。危険はない。危険はない。

――我々は「挨拶」する。これは「ハンドシェイク」である。なぜ理解しない?

――孤独だ。なんと孤独なのだ。思考が繋がっていない。一つ一つの個体が、まるで独立した星のようだ。なんと恐ろしい。なんと悲しい。

――我々は一つ。我々は全。思考は共有され、感覚は奔流となる。個は全のために。全は個のために。

――ユウキ。あなたの「個」は、なぜ存在する?

 

 

2

 

無数の思考、無数の感覚、無数の歴史。何億もの声が同時にささやき、叫び、分析し、問いかけてくる。優希のちっぽけな「個」としての意識は、その宇宙的な集合知の奔流の中で、一滴のインクのように拡散し、消えそうになっていた。

 

「やめろ......やめてくれ......!」

 

優希は頭を抱えて叫んだ。それは声になったかどうかさえ定かではない。意識が遠のいていく。これが死か、あるいは狂気か。

 

その時、奔流がぴたりと止んだ。 同時に、優希の脳裏に、冷たく、しかし有無を言わせぬ力強い思考が流れ込んだ。

 

 ――危険はない。あなたは安全だ。遭遇を記憶せよ。ただし恐怖は消去する。あなたは「友人」を待て。

 

まるでスイッチが切れたかのように、森の静寂が戻ってきた。蝉時雨が、再び耳を打つ。 目の前にいたはずの異形の存在も、青白い光を放つ物体も、跡形もなく消え去っていた。

 

優希はその場に膝から崩れ落ち、荒い息を繰り返した。全身が冷や汗でびっしょりと濡れていた。頭痛がこめかみを殴りつけるように痛む。

 

あれは幻だったのか? だが、脳裏にこびりついた感覚は、あまりにも生々しかった。「私たち」と名乗った、あの圧倒的な存在感。

そして、最後に響いた「孤独」という言葉。

 

それは問いかけであり、同時に深い哀れみを含んでいるように感じられた。

不思議なことに、あれほどの衝撃だったにもかかわらず、今はもう「怖い」という感情はなかった。ただ、何か途方もないものに出会ってしまったという、ぼんやりとした興奮だけがあった。

 

優希は震える足で立ち上がり、よろめくようにして山を下りた。

 

翌日、優希は体調不良を理由に畑仕事を休んだ。昨夜は一睡もできなかったのだ。寝ようとすると、森での出来事が悪夢としてではなく、ただ鮮明な「事実」として何度もフラッシュバックするのだ。

 

昼過ぎになると優希は、ぼんやりとした頭で縁側に座り、ただ風の音を聞いていた。デジタルが失われた世界は静かだ。だが、昨日の森で体験した「内側からの轟音」に比べれば、この静寂はなんと薄っぺらいものだろう。

 

3

 

不意に、視線を感じた。

顔を上げると、庭の隅に、一人の少女が立っていた。 いつからそこにいたのか。全く気配がしなかった。

 

歳は 10 代半ばだろうか。亜麻色の髪を短く切りそろえ、シンプルな白いワンピースを着ている。肌は陶器のように白く、大きな瞳は空の色を映したかのように澄んだ青色をしていた。

 

集落の子供ではない。こんな美しい少女がいたら、噂にならないはずがない。 見知らぬ少女。そのはずなのに、優希の心臓はなぜか高鳴った。まるで、ずっと待っていた誰かにようやく会えたかのような、奇妙な感覚だった。

 

 

 「......誰だ?」

 

 優希はかすれた声で尋ねた。

 少女はゆっくりと優希に近づき、数メートル手前で立ち止まった。そして、まるで初めてしたかのように、ぎこちなく頭を下げた。

 

 「こんにちは、タナカ・ユウキ」

 

その声は、完璧な日本語だった。だが、抑揚がなく、まるで機械が読み上げるように平坦だった。

 

その声を聞いた瞬間、優希の脳裏を昨日の森の記憶がよぎり、一瞬、背筋が凍るような感覚が走った。

 

だが、すぐにその感覚は霧散した。

目の前の少女の澄んだ青い瞳を見つめていると、不可解なほどの安心感が胸に広がり、「この少女は安全だ」という思考が、どこからともなく湧き上がってきた。

 

「昨日。森。私たちは、あなたに過剰な負荷を与えました。謝罪します」

 

優希は息をのんだ。「私たち」という言葉。 やはり、昨日の「何か」だ。そう理解したはずなのに、不思議と恐怖は湧いてこなかった。

 

「お前......昨日の......」

 

「はい。あの形態では、あなたたち種族との友好的な接触は困難であると判断しました。よって、この形態(アバター)に切り替えました。これは、あなたたちの記録媒体に残されていたイメージを元に構成した、生体端末です」

 

4

 

少女は淡々と続けた。その青い瞳は、優希を「見て」いるようで、その実、彼の骨格や血流を「スキャン」しているかのように冷徹だった。

 

「......どういう、ことだ」

「私たちは、個体ではありません。私たちは、思考と感覚を共有する集合意識体です。あの森での接触は、私たちにとっての標準的な『挨拶』でした。私たちの全てを、あなたという『個』に開示したのです。しかし、あなたの精神構造は、その奔流を受け入れられなかった」

 

少女――あるいは少女の形をした何か――は、すっと縁側に歩み寄り、優希の隣に音もなく腰を下ろした。 優希は反射的に身を引こうとしたが、体が動かなかった。まるで、隣に座るのが当然であるかのように、体が状況を受け入れていた。

 

「この個体には名前が必要です。あなたたちが他者を識別するために用いる符号。私たちは、この端末を『リノ』と呼称することに決定

しました」 「リノ......」 「はい。あなたの言語における特定の響きをサンプリングした結果です。意味はありません」

 

優希は混乱していた。目の前の少女は、確かに血の通った人間に見える。だが、その言葉の内容は、昨日体験したあの宇宙的な知性体のものだ。恐ろしいはずなのに、怖くない。逃げたいはずなのに、逃げたくない。思考と感情がちぐはぐだった。

 

「お前たち......いや、リノは、何しに地球へ?」

 

「調査です」とリノは即答した。

 

「私たちは、あなたたちの種族が 100 年以上前に宇宙に向けて放った『信号』を受信しました」

 

「信号?」

 

「はい。黄金の円盤に記録された、音声と画像。あなたたちの挨拶です」

 

ボイジャーのゴールデンレコード

 

優希も古い書物で読んだことがあった。デジタル文明が勃興する直前、アナログな技術の粋を集めて作られた、宇宙へのメッセージ。チャック・ベリーの音楽と、55 の言語の挨拶が刻まれた、星の海に投じられた瓶詰めの手紙。

 

「あれを、受け取ったのか......?」

 

「正確には、102.4 地球年前に私たちの観測網が捕捉しました。解析に時間を要しましたが、そこに記録されていた知的生命体の存在様式に、私たちは強い興味を抱きました」

 

5

 

リノは、優希の方を向いた。その青い瞳が、初めて感情らしきものを宿したように見えた。

 

「あなたたちは、音で世界を認識し、音で『個』を表現する。そして何より......」

 

リノは首をかしげた。その仕草は完璧に少女のものだったが、その奥にある知性は人間のものではなかった。

 

「あなたたちは、『一人』で存在できる。繋がっていない。それぞれが独立した意識を持っている。私たちには、それが最も理解し難い現象です。私たちは、その『孤独』と呼ぶべき状態を、研究するために来ました」

 

それから、奇妙な共同生活が始まった。 リノは優希の家の縁側を定位置とし、そこから動こうとしなかった。

 

食事も睡眠も必要としないようだった。ただ静かに座り、澄んだ青い瞳で、優希の日常を、そして彼を取り巻く世界を「観察」し続けていた。

 

優希は集落の人間たちに「遠い親戚の娘を預かることになった」と、苦しい言い訳をした。

 

幸い、デジタルが失われた世界では、個人の戸籍を厳密に照会する術などない。人々は少し不思議そうな顔をしたが、物静かで美しいリノを、すぐに受け入れた。

 

だが、優希にとって、リノとの生活は驚きと戸惑いの連続だった。

 

ある日の夕方、優希が田んぼの水路を調整するのに使う、古い鍬(くわ)の柄が折れてしまった。

 

「困ったな。村の鍛冶屋もう閉まってるし......」

 

優希が縁側で途方に暮れていると、リノが静かに口を開いた。

 

「ユウキ。その柄の材質はヒッコリーですね。接合部の金属疲労が限界値を超えています。ですが、修復は可能です」

「え?」

 

「1950年代の資料によれば、高周波誘導加熱を用いて局所的に焼きなましを行い、TIG 溶接でクラックを補修した後、再度適切な熱処理を施すことで、強度は 85%まで回復可能です」

 

リノは抑揚のない声で、優希が聞いたこともないような冶金学の専門用語を並べ立てた。 優希は一瞬、その非現実的な知識量に「気味が悪い」と感じた。

 

だが、次の瞬間には、「リノは物知りで助かる」という思考が、その違和感をきれいに塗りつぶしていた。

 

「しかしそんな道具どこにもないよ」

 

「存じています。代替案として、この集落で入手可能な材料である松脂、鉄粉、木炭を用いた簡易的な鋳造による補強を提案します。設計図は私たちが提供できます」

 

6

 

優希は呆然とリノを見つめた。彼女(彼ら)の脳内には、人類がかつて「インターネット」と呼んだ場所に蓄積されていたであろう、膨大な知識がアーカイブされているのだ。

 

「リノ......お前たち、すごいんだな」

「『すごい』という評価は、私たちの目的とは関係ありません。私たちはただ、あなたたちの文明を理解したいだけです」

 

この頃からだった。優希の中に、リノに対する名状しがたい「忌避感」が芽生え始めたのは。 いや、正確には「忌避感」の芽が、マインドコントロールの隙間から顔を出そうとしていた。

 

リノたちは、完璧すぎた。あまりにも知的で、あまりにも冷静で、そしてあまりにも非人間的だった。

 

ある日優希が善意で差し出した採れたてのトマトを、リノは受け取ると、その場で完璧に成分を分析し始めた。

 

「リコピン、β-カロテン、ビタミン C。効率的な栄養素の集合体です。ですが、私たちの生体端末には不要です」

 

優希は胸がチクリと痛むのを感じた。「親切」が「分析」で返されたからだ。

 

「......そうか」

 

彼はそう答えるのが精一杯だった。

おかしい。

集落の人達はこんな反応しない。

 

そう思った瞬間、リノの青い瞳が優希を捉えた。

 

その瞳に見つめられると、ささくれ立った思考が凪いでいく。

 

(......いや、リノは外国人みたいなものだ。文化が違うだけだ。悪気はないんだ)

 

優希は、そう自分に言い聞かせた。

 

またある時には、夜だった。

デジタル・ノイズが消えた空には、天の川が白く輝き、無数の星がまたたいていた。 縁側で二人並んで夜空を見上げていると、優希がぽつりと言った。

 

「こんな夜は、時々......寂しくなるな」

 

「『寂しい』その情動について、私たちは分析を続けています」

リノは星空から視線を動かさずに言った。

 

「個体間の物理的・精神的距離が拡大した際に生じる、不快感を伴うシグナル。自己の存在が他者から切り離されているという認識。そうですね?」

 

「......まあ、そうだけど」

優希は冷たく言い返した。

 

まただ。また分析だ。

 

「リノは、寂しくないのか」

 

「私たちは、常に繋がっています。思考も、感覚も、喜びも、痛みも、全てが瞬時に共有されます。個は『私』であると同時に『私たち』です。私た

ちにとって、『一人』になることは『死』と同義です」

 

リノは優希の目をまっすぐに見つめた。

 

「しかし、あなたたちは違う。ユウキ、あなたは今、この瞬間の思考を、私に隠している。それは、私たちから見れば、宇宙空間にたった一人で放り出されたような、究極の『孤独』です。それは、あなたにとって苦痛ではないのですか?」

 

「苦痛?」

 

優希は、初めて聞く言葉のように、その単語を繰り返した。

そして、フッと短く笑った。

 

「逆だよ、リノ。これは苦痛じゃない。......これはな、『自由』って言うんだ」

 

『自由』リノたちの思考網が、その新しい概念の解析を試みた。

 

「束縛からの解放。行動の任意性。しかし、なぜ『孤独』が『自由』なのですか?」

 

「お前たちには分からないだろうな」

 

優希は、今度は哀れむように言った。

 

「全部繋がってるなんて、俺からすれば息が詰まる。それは、安心かもしれないけど、『自分』じゃない。誰かの思考に依存してるだけだ」

 

彼はそう言って夜空の星を指さした。

 

「俺は、一人でいる時間が好きなんだ。その時間に、俺は『考える』ことができる。明日の米のこと、昔のこと、この星のこと......。誰にも邪魔されず、誰にも依存せず、たった一人で考え抜く。それが『自分』でいるってことだ」

 

「たまに『自分』だけじゃ出来ない事もあるかもしれない。そういう時に頼るのは仕方のない事だと思うけどね」

 

優希はリノに向き直った。

 

その目は、マインドコントロール下にあるとは思えないほど、強い意志を宿していた。

 

「朝起きて、畑のことを一人で考えたり、誰にも知られずに失敗して、こっそり落ち込んだり......。誰にも邪魔されずに『自分』でいられる時間。それが『孤独』で、それが『自由』なんだよ。俺は、その『孤独』が好きで一人でいるんだ」

 

「......好き?」

 

リノの青い瞳が、理解不能なものを見るように、わずかに見開かれた。 私たちは、震撼していた。

「個」であることは、苦痛や欠陥ではなく、「自由」であり「肯定されるべき状態」だと、この個体は主張している。 私たちの「常に繋がっている」状

態を、彼は「依存」であり「不自由」だと断じたのだ。

 

「はい」

リノは静かに、しかし、これまでになく冷たい声で頷いた。

 

「やはり、分かりません。だから、私たちはここにいます。ユウキ。あなたの、その危険な『孤独(自由)』を、深く理解するために」

 

 

その言葉が、決定打だった。 「理解するため」。 「分析するため」。 「研究するため」。

優希は、自分がただの「観察対象」でしかないことを、改めて突きつけられた。この一月感じていた親しさは、全て自分の一

方的な幻想だったのだ。

 

(いや、違う。リノは友人だ。友人が俺を理解しようとして、何が悪い?)

 

本能的な拒絶感と、植え付けられた親近感。

優希の頭の中で、二つの思考が激しくぶつかった。

 

リノが来てから一月が経った、その日。

優希は、このところずっと感じている言いようのない違和感と、リノに対する説明のつかない忌避感を誤魔化すかのように、蔵の奥から古い手回し式の蓄音機と、数枚のレコードを引っ張り出してきた。祖父の形見だった。

 

「リノ、聴いてみるか。これが、お前たちが受信したっていう『レコード』の仲間だ」

 

優希が針を落とす。ノイズと共に、100 年以上前のジャズの音色が流れ出した。軽快なピアノと、切ないサックスの響き。 二人は縁側

に並んで座り、黙って音楽に聴き入っていた。

 

一見、穏やかな時間だった。だが、優希の内心は違った。

 

(リノは友人だ。リノは友人だ。リノは友人だ)

 

彼は呪文のように心の中で繰り返していた。そうしなければ、隣に座る存在の「異質さ」に耐えられそうになかったからだ。 隣に座るリノの横顔は、完璧なまでに美しい少女のものだ。しかし、その完璧さが、今の優希には作り物のように見えていた。

 

瞬きの回数が異常に少ないこと。呼吸が浅く、ほとんどしていないように見えること。そして何より、あの冷徹なまでに理知的な青い瞳。

優希は、積み重なった違和感の正体を見極めようとするかのように、リノの顔をじっと見つめた。

 

その時だった。 マインドコントロールの効果が、ふと薄れ始めた。優希の無意識が、リノの「非人間性」に対する拒絶反応を強めていたせいかもしれない。

 

優希の目の前で、リノの完璧な少女の輪郭が、一瞬、陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。 亜麻色の髪が消え、白い肌が半透明の青白いものに変わり、その頭部から、無数の水晶のような触手が――

 

「......あっ」

 

 

それは、あの森で見た「形容しがたい存在」の姿だった。

幻覚は一瞬で消え、リノは元の少女の姿に戻っていた。

だが、優希にはもう、彼女が「友人」には見えなかった。 植え付けられた「安心感」のメッキが、剥がれ落ちた。

 

リノは、優希の視線に気づき、小首をかしげた。完璧な少女の仕草だ。 そして、平坦な声で言った。

「ユウキ? どうかしましたか? この音楽は、私たちの思考網に......」

 

その「声」が、優希の耳に届いた瞬間。 それはもはや少女の声ではなかった。 あの森で聞いた、頭蓋骨の内側に直接響く、何億もの

思考の奔流だった。

 

――思考網に奇妙なパターンを生成している。 ――個体名ユウキ、心拍上昇。 ――アドレナリン、ノルアドレナリン。 ――擬態の制御に微小なエラーが発生。 ――マインドコントロールのレベルが低下。危険。

 

「ひっ......!」 優希は腰を抜かし、縁側から転げ落ちた。

今までの全てが繋がった。 森での遭遇は夢ではなかった。目の前の少女は、あの日自分を襲った「何か」だ。そして自分は、ずっと騙されていたのだ。

 

「来るな......!」 優希は這うようにして後ずさった。

 

「お前......やっぱり、人間じゃない......! 俺に何をした!?」

 

リノたちの集合意識は、パニックに陥っていた。 この一月、ユウキという「個」を観察するうちに、私たちは、彼を単なる「対象」ではなく、私たちの集合知にとって「特別な存在」と認識するようになっていた。彼が示す予測不能な情動パターンは、私たちの停滞していた意識に、未知の刺激を与え続けてくれていた。

 

この関係を、失うわけにはいかない。

 

「ユウキ、待って」

 

リノは優希に歩み寄ろうとした。アバターはまだ完璧な少女の姿を保っている。

 

「私たちは、あなたを......特別だと、思って......」

 

 

「黙れ! その声でしゃべるな!」 優希は耳を塞いだ。少女の声と、頭に響く集合知の声が混線し、吐き気を催していた。 「化け物......! 俺に近づくな!」

 

優希は、リノ(たち)を、その存在の根本から拒絶した。

 

リノの姿は、立ち尽くしたままだった。 私たちは、絶望していた。 この形態(アバター)でもダメだった。私たちは、ありのままの姿を受け入れて欲しかった。

 

この「個」であるユウキに、私たちという「全」を受け入れて欲しかった。 だが、彼は気づいてしまった。そして、拒絶した。

 

私たちの集合意識は、瞬時に結論を下した。 「個」は、真実を受け入れられない。 「個」は、ありのままを受け入れるようには設計されていない。 ならば。

 

「ユウキ」

 

リノは、転げ落ちた優希の前に、ゆっくりと歩み寄った。その表情は、もはや何の感情も映していない、完璧な人形の顔に戻っていた。

 

「怖がることはもうありません」

 

「やめろ......来るな......」

 

「私たちは、あなたに過剰な負荷を与えました。謝罪します」

 

それは、初めて会った日と、全く同じセリフだった。

リノが、優希の額にそっと指を触れた。 瞬間、優希の頭蓋骨の内側に、再びあの「奔流」が叩きつけられた。 だが、今度は挨拶ではない。 意図を持った、指向性の「支配」だ。

 

――危険はない。 ――恐怖は消去。 ――記憶の修正。森での遭遇は悪夢である。 ――リノはあなたの友人である。 ――あなたはリノを受け入れる。 ――あなたは孤独ではない。私たちと常に繋がっている。 ――音楽は素晴らしい。リノと聴く音楽は、もっと素晴らしい。

 

優希の瞳から、恐怖と拒絶の色が急速に消えていく。 抵抗していた体の力が抜け、やがて、彼はぼんやりとリノを見上げた。

 

10

 

「......リノ?」

 

「はい、ユウキ。私はここにいます」

リノは、今度は意識して、一人称を「私」にした。

 

優希はゆっくりと立ち上がり、服についた土を払った。そして、何もかも忘れたかのように、穏やかに微笑んだ。

 

「ああ、ごめん。なんだか、急に......。そうだ、蓄音機。いい音だったのに、止まっちゃったな」

 

優希は縁側に戻り、再びレコードに針を落とした。 100 年前のジャズが、静かな集落に流れ出す。

 

 「いい曲だろ?」 「はい」とリノは答えた。

 

 「とても、素晴らしい曲です」

 

二人は縁側に並んで座り、音楽に聴き入る。 優希は、心からの幸福感に満ち足りた顔で、リノに微笑みかけている。 リノもまた、完璧な少女の笑顔を彼に向けていた。

 

だが、その生体端末(アバター)の内部で、私たちという集合意識は、かつて経験したことのない「葛藤」に苛まれていた。

私たちは、人類の「個」と「孤独」を研究するために来た。 そして、その研究対象を、私たち自身の「支配」によって、永遠に失ってしまった。

 

 その時、隣で音楽を聴いていた優希が、この上なく幸せそうな笑みをリノに向けた。

 

 「リノ」

 

 「はい、ユウキ」

 

 「俺、リノが来てくれて本当に嬉しいよ。だって、リノは俺のこと、全部わかってくれるだろ? 俺たち、ずっと一緒だ。もう、絶対に『孤独』なんて感じないよ」

 

11

 

それは、私たちが優希に与えた「支配」のプログラム(――あなたは孤独ではない。私たちと常に繋がっている)が、彼の口を通して完璧に再生された言葉だった。

 

私たちが最も聞きたかったはずの言葉。拒絶される前の優希が決して言わなかった、完全な受容の言葉。

 

その言葉を聞いた瞬間、リノ(生体端末)の完璧に設計された青い瞳から、一筋、水がこぼれ落ちた。生体端末(アバター)が、私たちの制御(コントロール)を離れ、勝手に「涙」という生理現象を模倣している。

 

それは、この端末が模倣した「人間」という個体の、あまりにも深い悲しみの表現だった。私たちは、その涙を観測しながら自嘲した。

 

「個」を持たず、「個」を理解しようとした結果、愛着という非論理的なバグに侵され、研究対象を破壊してしまった私たち自身が。そして、そんな私たちを拒絶した

 

あまりにも、かわいいのがいけなかったのだ。かわいそうなのが。

 

西暦 2087 年。デジタルな接続を失った地球で、アナログなレコードの音が響く。 それは、星の海から来た訪問者が、愛と理解を求めた末に、自ら作り上げた操り人形と奏でる、永遠に終わらない、孤独な音楽だった


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