ステーションの一角がいつの間にか少しだけ騒がしくなっていた。
廊下を走る小さな足音、笑い声。
慣れない重力に戸惑いながら、壁に手をつく仕草。
幽機生命体だった子供たちは、今はステーションの住人として、それぞれの生活を始めている。
「14番!」
背後から呼ばれて振り返ると、ノアが手を振っていた。
「今日のごはん、変な色だった!」
「それ、栄養ペーストだと思うよ」
「でも甘かった!」
「甘いのはいいこと。甘いは、美味しい」
そう言うと、ノアは誇らしげに胸を張った。
それを少し離れた場所から、ルアン・メェイが観察している。
腕を組み、穏やかな目で。
「興味深いですね」
淡々とした、でもどこか楽しそうな声。
「人格保持率だけでなく、情動反応の回復速度も予測値を上回っています」
「元気」
私がそう言うと、ルアン・メェイは小さく頷いた。
「生きたいという意思が最初から内在していたのでしょう。それを引き出したのは、紛れもなく貴女です」
評価なのか、事実の確認なのか、よく分からない言い方。
そこへ。
「おーぷん!」
いきなり背中に、軽い衝撃。
ふわりと、かつ大胆にスカートを捲られていた。
「……星」
振り返ると、星がにやにやしながら立っていた。
「いやー、なんかお姉さんしてるじゃん」
「やめて」
「照れてる」
「やめて」
星は、子供たちの方をちらりと見てから、わざとらしくため息をつく。
いつの間にかルアン・メェイは居なくなっていた。元々常にステーションに居る人ではないから、あまり驚きはない。
「それにしてもさ、ステーション、一気に生活感出たよね。前はザ・研究施設って感じだったのに」
「それは、いいことなのかな」
私がそう言うと、星は一瞬だけ真面目な顔をした。
「うん。いいことでしょ」
そして、すぐに軽い調子に戻る。
「ま、でも今日のメインイベントはそっちじゃないでしょ?」
「なに?」
星は、視線で示す。
研究室の奥。ガラス越しに見える、ヘルタ。端末に向かっているけれど、明らかにこちらを気にしている。
「ほら。そろそろイベント消化しないと付いてる爆弾が爆発しちゃうよ」
「え、爆弾? 何の話?」
「……聞こえてるよ」
背後から、低い声。
いつの間にか、ヘルタが立っていた。
「私、言わなかったっけ。彼女に余計なちょっかいをかけないでって」
「だってさー」
星は、私たちの反応を見て楽しんでいるように見える。
「ま、私はこれ以上いると邪魔になるし」
「デイリーあるし」
またそれ。
「じゃ、あとはごゆっくり~」
そう言って、星は本当に去っていった。
……。
沈黙。
子供たちの声は、少し遠い。
「本当に騒がしい」
ヘルタが言う。
「うん」
「……」
一拍。
「で」
ヘルタは私の前に立つ。
距離が、近い。
「後回しにしていた件についてだけど。議題として、再開しても?」
心臓が、一気にうるさくなる。
「……許可、する」
答えると、ヘルタは少しだけ困ったように笑う。
「……でも、ここでは嫌」
「はいはい。わかったよ」
そう言って、彼女はゆっくりとこちらへ手を差し出す。特に迷いもせずその手を握り返すと、強く引っ張られ抱き寄せられる。ヘルタの匂い。暖かくて、とても落ち着く。
すると気付けば景色はロビーではなく、見慣れた研究室の中だった。
研究室は、夜の静脈みたいに静かだった。
稼働を終えた装置は沈黙し、計測灯はすべてオフに設定されている。ここでは、時間さえも少しだけ速度を落とす。
研究室の奥、壁際に置かれたソファは本来は仮眠用のものだった。
夜間の長時間解析のため。
感情とは無縁の、機能的な家具。
――少なくとも、今までは。
「……」
ヘルタの視線が、一瞬だけ、そこへ向いたのを私は見逃さなかった。
次の瞬間。
彼女の手が、私の肩にかかる。
逃がさない、というほど強くはない。
でも、躊躇いもない。
「……ヘルタ?」
名前を呼ぶより早く、身体が前へ傾く。
背中がソファに触れ、柔らかく沈む。
視界が、天井に切り替わる。
「……っ」
驚きで声が漏れる前に、ヘルタが私の上に影を落とした。
起き上がろうとした私の手首を片手で押さえ込む。
乱暴じゃない。
でも、明確に主導権はこっちとでもいう様に抗い難い雰囲気がある。
「――今」
低い声。
「あなたが、逃げる選択肢は想定していない」
「……それ、確認じゃなくて断定?」
「そう」
そう言って、ヘルタは私のすぐ上で体重を支える。
距離が、近すぎる。
呼吸が、直接、頬にかかる。
「……でも」
ヘルタは、ほんの一瞬だけ、動きを止める。
「不快なら、今なら止められるよ」
その言葉があるからこそ私はちゃんと笑えた。
「ヘルタなら、いいよ」
そう答えると、彼女の口元が、わずかに緩む。
「了解」
その一言と同時に、ヘルタは私の手首を押さえたまま、顔を近づけた。
額が触れる。鼻先が、かすめる。視線が絡む。
「今の私は」
ヘルタが囁く。
「理性よりも欲望を優先している」
唇が、触れる。
押し付けるでもなく、奪うでもない。
当然ながら逃げ場はない。逃げる気もない。
短く、確かなキス。
一度離れて、もう一度。
今度は、ほんの少しだけ長い。ソファが、二人分の体温を吸い込んでいく。
「……ヘルタ」
名前を呼ぶと、彼女は私の額に額を寄せたまま答えた。
「なに」
「ちょっと、強引」
「……否定しない」
そう言って彼女は、私の手首を押さえていた手を少しだけ緩める。
完全に自由にはしない。でも、拘束というほど強固でもない。
「でも」
小さく続ける。
「あなたが、受け止めてくれると分かってるから」
私はソファに沈んだまま、彼女の服の袖をそっと掴んだ。
「……ちゃんと、責任とってね」
その言葉に、ヘルタは、少しだけ困ったように笑った。
「もちろん」
研究室には、二人しかいない。静かなはずの場所で空気だけが、はっきりと熱を帯びていた。
研究室の夜は昼間よりも輪郭が少ない。白い机も、モニタも、壁の配線も、仕事のための物という主張をいったんやめて、ただの背景に下がっている。
「……」
ヘルタは、前を見たまま小さく息を整えていた。
規則正しい呼吸。
「ヘルタ」
私が声をかけると、
彼女は、すぐには振り向かない。
「なに」
低い声。落ち着かせた音。
「さっきのこと」
言葉を選びながら続ける。
「びっくりしたけど……嫌じゃなかった」
ヘルタの指が、肩の上で、わずかに動く。
視線が、こちらに向く。
「……そう」
短い返事。
「現時点で最も重要度の高いデータだね」
「……データなんだ」
でも、その言い方にいつもの切れ味はなかった。
私は、少しだけ体をずらして、ヘルタの胸元に顔を寄せる。
物理的な距離が縮まる。ピクリとヘルタの体が反応する。
「……ヘルタは?」
「私?」
「どうだった?」
ヘルタはほんの一瞬、考える。
理屈を探すように。でも、今回は、すぐに見つからないみたいだった。
「……」
それから、小さく息を吐く。
「想定外」
「どのへんが?」
「……あなたを、制御変数として扱えなかったところ」
その表現があまりにも彼女らしくて、少し笑ってしまう。
「それって、いい意味?」
「……」
一拍。
「少なくとも、排除したい誤差ではない」
そう言って、ヘルタは、私の方へ少し身を寄せる。
私は、その動きを止めなかった。
「……」
視線同士が絡む。
ヘルタのアメジストの瞳が私を覗き込む。彼女の目には私はどう映っているんだろう?
「……さっき」
ヘルタが言う。
「あなたを押し倒した瞬間、自分でも驚いたわ」
「……強引だった」
「ええ」
即答。
「でも」
声が、少しだけ柔らぐ。
「あなたが、受け止めてくれると分かっていたから踏み込んだ」
その言葉が、胸の奥にゆっくり広がる。私は、ヘルタの服の袖に指をかけた。引っ張るほどではない。でも、触れる理由になる程度。
「……なら」
小さく言う。
「もう一回、近付いてもいい?」
ヘルタは私の目をまっすぐ見た。
逃げられない。逸らせもしない。
「どうぞ」
短い許可。
私は、ゆっくりと距離を詰める。
今度は、押し倒される側じゃない。
額が触れ、鼻先がかすめ、呼吸が重なる。
唇が、自然と近付く。
触れる前に、一瞬、止まる。その間が、お互いの意思を確かめる様に存在していた。
それから――唇へ触れる。
柔らかく。さっきより、少しだけ長い。
深くはしない。
離れもしない。
キスの間、ヘルタの手が私の背中に回る。
押さえつけない。でも、逃がさないという意思の表れのようにも感じる。私はヘルタに独占されている。本当は逆かもしれない。
ソファの上で、二人の影が静かに重なる。唇が離れた後も、距離は残らない。額と額が触れたまま、互いの呼吸がゆっくり落ち着いていく。
「……」
ヘルタが、小さく言う。
「今のは……悪くない」
「うん」
その言葉に、徐々に頬が熱くなっていくのを感じた。
私は、ヘルタの肩にそっと頭を預けた。
「今日は」
「ええ」
「ここまで、だね」
「……ええ」
少し残念そうな声。でも言った通り、押し通そうとはしない。
研究室の静けさが、また、二人を包む。ソファに残った体温はまだ完全には冷えていない。
研究室には、二人しかいない。
だからこそこの距離がこんなにも濃く、静かに燃えていた。
研究室の午後は、意外なほど賑やかだった。
賑やかと言っても、音量ではなく、言葉の密度が。
「存在の定義は、観測主体によって揺らぐ――」
「ええ。ですが揺らぐという表現自体が、既に観測者中心の視点です」
「では、揺らぎを含めて存在だと言いたいの?」
「少なくとも、排除する理由はありません」
向かい合う二人――
ヘルタとルアン・メェイは、楽しそうに言葉を投げ合っている。
楽しそう、というのが重要だ。
二人とも表情は淡々としているのに、会話のテンポが明らかに軽い。
そして私はというと。
「……ねえ」
小さく声を出す。
返事はない。
「ヘルタ」
「今、重要な分岐点だよ」
ヘルタの声は冷静だった。
その冷静な声が、私の耳のすぐ後ろから聞こえるのが問題なんだけど。
私は今、ヘルタの膝の上に座らされ、後ろからしっかりと抱き締められている。
逃げられない。
二本の腕でしっかり固定されている。
「重要そうな話なのは分かるけど……」
少し体を動かそうとすると、背中に回された腕がわずかに締まる。
「動くと、思考が乱れるでしょ」
「乱れるのは私の集中じゃなくて……」
「?」
「……何でもない」
ルアン・メェイが、ちらりとこちらを見る。
「観測対象が不満を呈していますね」
「今は彼女の事は気にしなくていいよ」
「よろしいんですか?」
「今は聞くより保つフェーズ」
「……私、保たれる側なんだけど」
思わずぼやくと、ルアン・メェイが小さく笑った。
「これは興味深い。理知的な対話の場において身体的拘束が安心として機能している」
「拘束って言わないで」
「安心って言ってない」
私の意見は当然のように聞き入れてもらえず、二人はまた自然に小難しい話へ戻る。
「感情は定義できませんが、観測はできます」
「へぇ、あなたが定義できないものを排除しないなんて珍しい」
「少しアプローチを変えてみる事にしたのです。もちろん、科学者が最も苦手とする領域なのは認めますが」
その間、ヘルタの顎が私の頭の上に軽く触れている。会話に興じているのを見るにまるで意識していない様な触れ方。
私は、溜息をつく。
「……ねえ、二人とも」
「なに」
「はい」
「いつまで私は、この難解な会話の間に挟まれないといけないの」
一瞬の沈黙。
それにはルアン・メェイが、淡々と答える。
「椅子ではありません。安定装置です」
「……何に対する安全装置なの」
ヘルタが、珍しく黙っていた。
その代わり、私の肩に頬を預ける。
「不満?」
「……少し」
「でも、降りたいとは言っていない」
それは質問ではなく、確認。
私は、しばらく黙ってから言う。
「……言ってない」
「なら、問題なし」
ルアン・メェイは、満足そうに頷いた。
「結論が出ましたね」
「どんな?」
「あなたたちは思考と感情のバランスが現時点で最適化されています」
「最適化って……」
私は、もう一度溜息をつく。
でも確かに、不思議と嫌ではなかった。
二人の難しい言葉の間で、こうして捕まっているのは少し困るけど。
「……終わったら、降ろして」
「検討はしてあげる」
「検討で終わるやつだ」
ヘルタの胸が、くすっと揺れた。
その小さな振動が背中越しに伝わる。科学者同士の小難しい会話はまだ続いている。その中心で、私は相変わらず不満そうに、でもどこか安心したまま、彼女の一番近くで事の成り行きを傍観していた。
こんな日常も、悪くはない。
今度こそ、本当に完結です。
当初は全4話ほどの構成を想定していたのですが、物語を進めるうちに設定や描写を少しずつ足していき、気がつけば全20話になっていました。
多少急ぎ足になってしまった部分はありますが、それでも最後まで書き切り、無事に完結を迎えられたんじゃないかと。もしかしたらまた蛇足に筆を執る可能性もありますが、その時はその時ということで。
ところでキスってR-15に入りますか? 教えてエロい人。