そんな大前提を踏まえたプロローグです。
急遽挿入www
朝、研究棟の窓をたたくセミの声で、春川英輔は目を覚ました。
白衣はイスの背もたれにかかったまま、ノートパソコンには昨夜のままの解析画面。
「……寝落ちか。学生に見られたら減点だな、これは」
ぼそりと呟いて伸びをすると、廊下の方から軽いノック音がした。
「失礼しまーす。教授、起きてます?」
扉の隙間から、見慣れた黒髪がのぞく。
「本城くん。……何度言えば分かる。ここは病棟じゃない、研究室だ。患者が勝手に歩き回るなと」
「患者じゃなくて、『被験者』でしょ? あなたの研究には欠かせない、貴重なサンプルですけど?」
悪びれもせずに入ってきた本城刹那は、手に紙コップのコーヒーを二つ持っていた。
ひとつを春川のデスクに置き、自分は回転イスに腰かける。
「今日は散歩長めにしてもらいました。許可済みです。先生の顔色が悪いから様子見てこいって、看護師さんからの指令付き」
「……余計な情報網を持ったな、君は」
春川はコーヒーをひと口すすり、苦みで頭を覚ましながら、モニターに視線を戻した。
そこには、昨日の彼女の脳波データが山のように並んでいる。
「結果はどうなんです?」
「知りたいか?」
「もちろん。私の頭の中、あなたより詳しい人いませんから」
春川は肩をすくめ、データの一部をプリントアウトして彼女に渡した。
波形のグラフを、刹那は嬉しそうに覗き込む。
「へぇ……この部分、前より安定してますね」
「そうだ。あの新しい薬の効果だろう。
おかげで君の“崩壊速度”は、予測よりずいぶん遅くなっている」
「……じゃあ、まだ少しは、一緒にいられるってことです?」
ほんの一瞬、彼女の声色に、病室で初めて会った時の影が差した。
春川はわざとらしいほど軽い調子で笑ってみせる。
「君が私の実験計画を、もう少し乱してくれるくらいにはね」
「それ、褒め言葉として受け取っていいですか?」
刹那も笑う。
その笑い方は、以前よりずっと自然になっている気がした。
――そう、出会いは闘病のためだった。
彼女の脳を蝕む奇病の原因を探り、治療法を作るため。
だが、研究対象としての彼女と過ごす時間は、いつのまにか、春川にとっても生活の一部になっていた。
その日の午後、二人は病院の裏手にある小さな林にいた。
蝉の声が、頭上から降り注いでいる。
「教授、見てください。今日で三つ目です」
刹那が嬉しそうに見せてきた掌には、殻から出たばかりのセミの抜け殻が載っていた。
「……君は本当に、脳か昆虫かどちらかの話しかしないな」
「変わらないじゃないですか。どっちも“変身”がテーマなんですから」
彼女は抜け殻を光にかざす。
枝に残された殻と、すでに飛び立った成虫の姿を、目で追いながら。
「一生のほとんどを地面の下で過ごして、最後の数日だけ地上で鳴いて飛ぶんですよね。
効率悪いなぁって、昔は思ってました」
「合理的でないものは、好きじゃないか?」
「いえ。今は少し、憧れます。
短くても、精一杯うるさくて、ちゃんと自分の声を残す。……私も、そういう人生でよかったのかもって」
春川は、横顔を見た。
自分の病を、ここまで淡々と、どこか楽しむように語れる人間を、彼は他に知らない。
「君の“声”は、脳波データという形で、嫌になるくらい残るぞ。
少なくとも私は、死ぬまで君を解析し続けることになる」
「え、それ、プロポーズですか?」
「違う」
「即答された」
そう言いつつ、刹那は少しだけ頬を染めた。
分かっている。これは研究者としての冗談だって。
それでも、自分の存在を必要としてくれる人がいるという事実は、彼女をひどく安心させた。
新薬の治験が進み、数か月が過ぎた。
奇跡と言っていいほど、病状の進行は止まりつつあった。
ある日、病院の会議室で、治療チーム全体のカンファレンスが行われた。
スライドには、刹那の脳画像がいくつも並ぶ。
「――以上が、本城刹那さんに対する新規治療の経過です」
春川の説明に、医師たちはざわめいた。
「この安定は……偶然では?」
「一例だけでは断定できませんが、プロトコルの再検証を――」
議論が交わされる中、春川はふと視線を窓際に向けた。
ガラス越しに、病棟の屋上庭園が見える。
そこには、白いワンピース姿の刹那が、ナースと並んで座っていた。
――彼女の病は、完全に治ったわけじゃない。
再発のリスクも、薬の副作用も残っている。
それでも。
「この治療法は、“時間”を与えます」
春川は会議室に向き直り、淡々と言った。
「彼女のような患者が、自分の人生を選びなおすための時間を。
それは、医学的にも、倫理的にも十分な価値があるはずです」
会議室が静まり返る。
やがて、ひとりの医師が頷いた。
「……続行の方向で検討しましょう。
彼女の協力が得られるなら、今後も長期的な観察を」
「ええ。彼女は、協力的ですからね」
あの皮肉屋の笑顔を思い出し、春川も小さく笑った。
退院の日。
病院の玄関前で、刹那は大きく深呼吸をした。
「うわ、外の空気、ちゃんと匂いがします」
「当たり前だ。鼻は病気じゃない」
「そういう意味じゃなくて。……実感ってやつです」
彼女は紙袋を抱え直す。
中身は最低限の荷物と、セミの抜け殻が入った小さな箱。
「教授、本当にいいんですか? 大学の近くのアパート、紹介してくれるなんて」
「君が定期的に検査に来てくれないと、私の研究が困るからね。
“協力者”を逃がさない最低限の囲い込みだよ」
「……じゃあ、私は研究室に飼われるわけだ」
「嫌なら、違う病院を紹介するが?」
「いいえ。“今のところ”は、この研究者に飼われておきます」
刹那はいたずらっぽく笑い、玄関の段差を軽く飛び降りた。
少し前なら、体のバランスを崩していただろう動きだ。
春川はその後ろ姿を見ながら、心の中で呟いた。
――これは、ずいぶんと贅沢なデータだな。
病の経過も、感情の変化も、全部自分だけが記録している。
それは研究者としての優越感であり、同時に、ひどく個人的な喜びでもあった。
数年後。
大学の構内を歩く学生たちの間を、ひとりの女性がすり抜けていく。
白衣を着て、腕にはファイルとノートパソコン。
「教授、本日のゼミ資料、確認しました」
「ありがとう、本城助手。誤字は?」
「三か所直しました。あと、例の脳画像、学生が見たらトラウマになりそうなので、モザイクかけました」
「私の芸術作品にモザイクを……? 倫理委員会より君の方が怖いな」
研究棟の廊下で、二人は昔と変わらない調子でやり取りをする。
ただひとつ違うのは、刹那の白衣の胸ポケットにも、春川と同じ大学の名札がぶら下がっていることだ。
「それと教授。今夜の外来カンファレンス、私も出ていいですか? 同じ病気の女の子が来るそうで」
「感情移入しすぎるなよ。君は“元患者”であって、“治療者”だ」
「はいはい、自覚してます。
でも、あの子にセミの話をしてあげたいんです。
――変身する時間は少なくても、鳴き声は選べるって」
春川はふと、窓の外を見上げた。
あの日と同じように、蝉の声が響いている。
「……好きにしろ。ただし、データも忘れず取ってこい」
「了解です、教授」
刹那はくるりと背を向け、軽い足取りで階段を降りていく。
その背中を見送りながら、春川はポケットから小さな箱を取り出した。
中には、古びたセミの抜け殻が一つ。
年月で少し欠けているが、まだ形は保っている。
――あの夏、病室の裏庭で拾ったものだ。
彼女の脳を救いたいと願った研究者と、
自分の運命を、静かに受け入れていた患者。
もしあの時、治療が間に合わなかったなら。
彼女は今ここにはいない。
今の自分も、きっと違う場所で違う研究をしていただろう。
春川は箱を閉じ、白衣の内ポケットに戻した。
「本城刹那。君は、私の人生計画をめちゃくちゃにしたな」
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「――だが、悪くない“誤差”だ」
その夜。
カンファレンスが終わった後、二人は大学の屋上にいた。
街の明かりの向こうで、夏の星座が霞んでいる。
「教授。もし、あの時、治療がうまくいってなかったら……」
刹那がぽつりと口を開く。
「私は今ごろ、どうしてたと思います?」
「知らないな。死んでいるか、どこか別の病院で実験されているか。
あるいは私が君をデータだけの存在にして、パソコンの中で飼っていたか」
「うわ、やっぱりロマンがない」
「研究者にロマンを期待する方が間違いだ」
彼女はくすりと笑い、フェンスに背中を預けた。
「じゃあ、現実にこうして生きてる私は、どう扱うつもりですか? 教授」
春川は少しだけ考えるふりをしてから、答えた。
「そうだな。
適度に研究を手伝わせて、時々は患者の前で勝手に喋らせて、
それから――」
「それから?」
「……私より先に死なないように、ちゃんと見張っておく」
刹那の目が、驚いたように丸くなる。
「それ、もしかしなくても……」
「プロポーズではない」
「また即答だ!」
けれど、彼女は声を立てて笑いながら、そっと春川の隣に並んだ。
肩が、ほんの少し触れる距離。
「じゃあ、せめて“共同研究者として、一生付き合え”くらいは言ってくださいよ」
「……検討しておく」
「それ、実質OKですよね?」
夜風が、二人の白衣を揺らす。
遠くで、最後の一匹になったのかもしれないセミが、しぶとく鳴いていた。
――闘病のために出会った二人は、
いつのまにか、闘病の先の生活を、当たり前のように共有していた。
それは、誰が見ても「幸せ」と呼べるほど派手ではない。
日々のデータと講義と、時々セミの話で埋め尽くされた、静かな生活。
けれど、彼らにとっては十分だった。
少なくとも、今この瞬間だけは。
世界のどこにも、脳の崩壊も、悪意も、殺意もない場所。
ただ、ひとりの研究者と、ひとりの元患者が並んで立つ、
ささやかな屋上の夜空――それが、彼らの「幸せな生活」だった。