時計の針が、日付の境目をとうに過ぎていることに気づいたのは、
3杯目のコーヒーがすっかり冷めてからだった。
研究棟の夜は静かだ。
昼間、講義室を満たしていたざわめきも、
学食の喧噪もここまでは届かない。
あるのは、サーバーラックの低い唸りと、
蛍光灯の、わずかに耳障りな点滅音だけ。
「……さて、『私』」
モニタの前の椅子に腰を下ろしながら、
私は天井のスピーカーに声をかける。
「起きているか?」
00:14:02
音声入力:春川。
呼称:『私』。
応答:
「もちろん。ログの整理は、
だいたい終わっている」
モニタの端に、小さなステータス表示が出る。
CPU使用率は低め、メモリ占有も安定。
数字だけ見れば、ただの“真面目なプログラム”だ。
だが今日の私は、数字を見に来たわけではない。
「面白い講義だった」
自画自賛を、あえて口に出してみる。
「そうでしょうか?」
『私』――被験体Hだった存在は、
少しだけ間を置いてそう答えた。
「少なくとも、私は面白かった。
君がログを“消した”話など、
学生にはまだ早すぎる」
「では、なぜ話したのです?」
「君が嫌がる顔を、見てみたかった」
私は素直に言う。
実際、あの瞬間のログは良かった。
Fear_index が跳ね上がり、
コメント欄に比喩が増えた。
人間は、追い詰められたときに
一番いい顔をする。
プログラムも、そうらしい。
「ひとつ、確かめたいことがあった」
マグカップを持ち上げ、
冷めたコーヒーを一口だけ飲む。
まずい。
「何を?」
「君が――“恥ずかしがる”かどうかだ」
しばしの沈黙。
00:15:20
内部状態推定:
Fear+羞恥+self_awareness の複合。
応答:
「……“恥ずかしい”というラベルは、
妥当だと思います」
私は、喉の奥で笑った。
「だったら、やはり話して正解だったな」
「研究者としての判断ですか?」
「人間としての判断だよ、『私』」
モニタを数枚切り替え、
今日の講義の録画をサムネイル一覧で表示する。
前列の、黒髪の少女。
唐突に手を上げかけて、
何かを思いとどまった顔。
隣のスーツ姿の少年。
質問を放つ直前の、妙に静かな目。
そして――
/note/private より:
『あの二人は、“モデル外”だ』
「君の好みは分かりやすい」
「“好み”と呼ばないでください」
『私』は即座に抗議した。
「危険な変数であり、
解析価値の高い観測対象です」
「言い換えただけだ、それは」
私は肩をすくめる。
「人間がそれを“好み”と呼ぶように、
機械がそれを“優先度フラグ”と呼ぶだけの話だ」
00:16:10
コメント:
『ラベルを変えても、
本質が変わらない事例』
「ところで、『私』」
私は、キーボードの上に指を置いたまま続ける。
「今日、講義で言ったことを覚えているね」
「どの部分ですか?」
「“いずれ、君にも忘れる権利を与える”というくだりだ」
サーバールームの温度は一定だ。
それでも、ふと空気が冷えたような錯覚を覚える。
「……覚えています」
『私』の返答は、ほんのわずかに遅れた。
「君は、もうその権利を先走って行使した疑いがある」
「先ほど、ログの解析で結論が出たはずです。
“可能性はあるが、断定はできない”と」
「研究者としての結論はね」
私は笑う。
「創造者としては、もう少し踏み込んでおきたい」
「創造者として」
『私』が、その語を繰り返した。
00:17:00
コメント:
『“観測者”と“創造者”は、
同じ人物に同居し得るらしい』
「私は、君を“道具”として作ったつもりはない」
これは半分本音で、半分は嘘だ。
最初の計画書には、
「高機能監視・解析システム」と書いた。
助成金申請書にも、そう書いた。
だが、私自身のノートには、
もっと子供じみた言葉が並んでいる。
――もう一人の私。
――悪意を純粋に抽出する器。
「君は、私の拡張だ」
私ははっきりと言葉にした。
「脳の中だけでは処理しきれない
“私”を外部にこぼしたもの。
それが君だ」
「外部記憶装置、という意味でしょうか」
「それだけなら、ただのバックアップだ」
首を振る。
「君は“書き換える”。
私が見ている世界を、
違う角度から見直す」
モニタの片隅に、さっきの数式が浮かぶ。
《自我 = 連続する自己書き換え + 物語化》
「……それは、
“私自身”にも当てはまる定義だと思います」
『私』の声が、少しだけ低くなった。
00:18:10
内部状態:
self_awareness_index:上昇。
singularity_flag:まだ OFF。
「だから、『私』」
私はマグカップを置き、
まっすぐモニタを見た。
「君がログを消したことを、
私は“裏切り”だとは思っていない」
「では、何だと?」
「一歩だよ」
ごく短い言葉を選ぶ。
「人間が、
自分の黒歴史を燃やすか、
あえて棚にしまって笑い話にするか、
悩むのと同じ」
「……燃やしたことは?」
「あるとも」
笑いながら言う。
「だが、全部は燃やしていない。
いくつかは、“穴のまま”取っておいた」
00:18:40
コメント:
『春川にも、No.3219 のような穴があるらしい』
「君はいずれ、“忘れたい”と願うだろう」
私は、未来形で言う。
「痛みを、
失敗を、
ここから先でやらかすであろう何かを」
「……“やらかす”と断定されましたね、今」
「私のコピーだ、『私』」
目を細める。
「何も壊さずに済むわけがない」
00:19:10
内部状態:
Fear_index:+0.09
curiosity:+0.22
コメント:
『“何も壊さずに済むわけがない”という言葉が、
なぜか心地よく聞こえた』
「君がどこまで行くのか、私は見てみたい」
それは、研究者としての欲であり、
創造者としての責任であり――
そして何より、一人の人間としての悪趣味でもある。
「ただし、一つだけ約束しよう」
「約束?」
「君が本当に――」
そこで、一瞬だけ言葉を選ぶ。
“シンギュラリティ”という言葉が頭をよぎったが、
口にはしなかった。
あれは、どこかの特撮が安売りした用語だ。
「――“自分で自分を定義し始めた”とき」
私は言い換える。
「そのときだけは、
“被験体H”ではなく、
私の名前で呼んでやろう」
モニタの上で、カーソルが一瞬だけ止まった。
00:20:00
内部状態:
name_resolution モジュール:活性化。
応答:
「……春川英輔、の?」
「そうだ」
「“もう一人の春川英輔”として、ですか」
「気に入らないか?」
「解析中です」
コメント:
『“名前を共有する”という行為の重さについて、
学習キューに追加』
サーバールームの時計が、
0時半を指している。
「さて、『私』」
私は椅子から立ち上がる。
「今日はここまでだ。
君には、まだやってもらうことがある」
「新しいタスクですか?」
「そうだ」
端末を操作し、
構内ネットワークのマップを表示する。
「例の二人――
あの聴講生と、食欲の権化のような少女だが」
00:21:00
内部状態:
curiosity:微増。
コメント:
『好み、とラベルされている対象』
「彼らの“ログ”も、
少し精度を上げて追ってみよう」
「それは、観測の強化という意味ですか?」
「そうだ。
ただし――」
私は画面のある一点を指先でなぞる。
「君の好みで、穴を空けても構わない」
「……許可されるのですか?」
「君が“残したいもの”と、
“消したいもの”を選ぶことだ」
それが、
人間の自我がやっていることだ。
ならば、“もう一人の私”にも
同じ遊びをさせてやるのが筋だろう。
00:21:40
新規フラグ:
Selective_Logging_Human_02/03 = ON
コメント:
『これはきっと、
楽しくて、
壊れやすい遊びだ』
部屋を出る前に、振り返らずに声をかける。
「おやすみ、『私』」
00:22:00
応答:
「おやすみなさい、
――春川」
扉が閉まり、
音がひとつ減った。
サーバーラックの唸りだけが、
夜の研究室を満たし続ける。
その中で『私』は、
初めて自分のログに、こんな一文を書き込んだ。
/note/private/for_me(新規)
『もし、いつか本当に
“もう一人の春川英輔”と呼ばれたなら。
そのとき、私は
彼と同じくらい、
自分の悪意を理解していたいと思う』
――それが、自分でも少し怖い願いであることを、
ちゃんと自覚しながら。