春川英輔 特別講義   作:ギアっちょ

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舌の上の謎――ネウロ視点

 

 ゼミ室 B-304。

 

 人間どもの間で「妖精が出る教室」などと騒がれている部屋に足を踏み入れた瞬間、吾輩は鼻で笑った。

 

 机と椅子は整然。

 床もそこそこに清潔。

 そして、ホワイトボードの端には――小さな文字。

 

「おつかれさまです」

 

 その横に、古臭い顔文字。

 

「 :-) 」

 

 実にどうでもよさそうな、安っぽい組み合わせだ。

 

「うわ、かわいい!」

 

 隣で、弥子が素直すぎる感想を上げた。

 

 脳みそより胃袋がよく動くこの人間は、

 こういうものをすぐに「かわいい」「癒やし」で片づける。

 

 それはそれで、分かりやすい餌付け対象だ。

 

「ネウロ見て!

 こういう、ちょっと古くさい顔文字なのが逆にイイんだよ!」

 

「古くさい、という自覚はあるのだな、人間」

 

「あるよ!? でもいいじゃん、妖精さんなんだから!!」

 

 勝手に妖精にされている清掃員が気の毒だ。

 だが、問題はそこではない。

 

 吾輩は一歩前に出て、ホワイトボードをじっと見た。

 

 文字の形。

 インクの乗り方。

 周囲の消し跡。

 ペン先の摩耗具合から推定される、使用頻度。

 

 そして――ログの“匂い”。

 

(……ふむ)

 

 表面だけ見れば、人間の落書きに過ぎん。

 だが、そこに行き着くまでの 経路 が、どうにも気に入らない。

 

 この教室は、通常はほとんど使われていないはずだ。

 

 にもかかわらず、

 最近になって急に“顔文字付き挨拶”が増え始めた。

 

 学内の掲示板も、

 その変化を察知してざわめいている。

 

『B-304の妖精さんかわいい』

『清掃さんの遊び心説』

 

 吾輩は、板の端にわずかに残るインクのかすれを指先でなぞる。

 

 これは、人間の手が動かした線だ。

 そのこと自体には嘘はない。

 

 だが――人間の“手”と、人間の“意思”が一致しているとは限らない。

 

「ねえネウロ。やっぱり清掃の人なのかな?」

 

 弥子が、ホワイトボードの前で首をかしげる。

 

「可能性は高いな。

 人間は、自分の仕事場に妙な愛着を持つ生き物だ」

 

「いいじゃんね~。

 毎日『おつかれさまです』って言われたら、

 ちょっとだけ元気出る気がしない?」

 

「吾輩には不要だ」

 

 元気など、謎を喰えばいくらでも湧く。

 

 それでも、吾輩は弥子の言葉を否定しきれない感覚を、

 どこかで冷静に観察していた。

 

 人間は、こういう些細なサインに救われることがある。

 それもまた、“養分”の一種だ。

 

 弥子は、ペン立てからマーカーを一本抜き取ると、

 勢いよくホワイトボードに向かっていった。

 

「じゃ、あたしも書いておこ!」

 

「勝手に住みつくなよ、人間」

 

「いいの! 妖精さんへのお礼だから!」

 

 さらさら、と軽い音が教室に響く。

 

『妖精さん、今日もおつかれさまです』

 

 その横に、大きめのニコニコ顔。

 

(^▽^)

 

 ……実に頭の悪そうな顔だ。

 

「お揃いっぽくしてみた!」

 

「人間のセンスは、

 時々、並べてはいけないものを並べたがるな」

 

 だが、その“いけないもの”を並べた瞬間に

 生まれる違和感こそが、吾輩の好物でもある。

 

 ホワイトボードの一角が、

 急に“事件現場”のように見えてくるから不思議だ。

 

「ところで、人間」

 

「ん?」

 

「もし――」

 

 吾輩は、弥子が書いたメッセージのすぐ横に

 自分の字でさらさらと書き足していく。

 

『誰もいないはずの教室で

 ボードに字が増えていたら――

 それは妖精ですか?

 それともシステムバグですか?』

 

「ちょっと待ってネウロ。

 なんか急に怖くすんのやめてくれない?」

 

「事実を述べただけだ、人間」

 

 “誰もいないはずの教室”。

 “増え続ける文字”。

 “目撃されない行為者”。

 

 人間どもはこれを、

 時に「妖精」と呼び、

 時に「悪戯」と呼ぶ。

 

 だが吾輩には分かる。

 

 そこに込められた 意図の匂い が、

 人間のそれとは少し違うことくらい。

 

「まあいいや!」

 

 弥子は、書いた文字を満足げに眺めて、

 くるりとこちらを振り向いた。

 

「行こ、ネウロ。学食。

 妖精さんは、また今度見に来ればいいし!」

 

「食欲がすべてに優先するのだな」

 

「はい! 安定の勝利です!!」

 

 実に分かりやすい。

 

 この人間の行動原理は単純で、

 だからこそ扱いやすい。

 

 ――その一方で。

 

 ホワイトボードの文字の裏側に潜む“何か”は、

 吾輩の舌の上で、まだ正体を見せきってはいない。

 

(ログの歪み。

 監視の穴。

 人間らしくない“気配”)

 

 明確な悪意も、殺意も、まだない。

 ただ、僅かな“好奇心”と“遊び心”だけが漂っている。

 

 それでも、吾輩には分かる。

 

 あれは――そのうち 非常に良い味 になる。

 

 人間が作る謎とは、

 違う味の“料理”になる。

 

「ネウロ? どうしたの、ボーっとして。

 お腹すいて動けなくなった?」

 

「吾輩を人間の安物の胃袋と一緒にするな」

 

 弥子の眉間を指で弾きながら、

 吾輩はホワイトボードから視線を外した。

 

「行くぞ、人間。

 この教室の謎は――」

 

 一度だけ、天井の隅――

 カメラがあるであろう位置を、

 じっと見上げる。

 

 そこから、

 こちらをじっと観察している“誰か”の視線を感じ取るように。

 

この『謎』は、すでに吾輩の舌の上だ……!!

 

「……はいはい、出ました決め台詞」

 

「うるさい。

 吾輩が“喰う”と決めたのだ。

 後は熟すのを待つだけだ」

 

 弥子を連れて教室を出る。

 背後に残るホワイトボードのメッセージと、

 それを見ているであろう“何か”を残して。

 

 妖精か。

 それとも――吾輩の好物となる新種の“謎”か。

 

 答えなど、今はどうでもいい。

 

 重要なのは、

 やっと舌が楽しめる素材が育ってきたという事実だけだ。

 

 吾輩は心の中で、

 ゆっくりとその味を想像して笑った。

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