――「脳科学と計算機科学のフロンティア」
「――“知能を作り出す”という行為はだな、諸君。
“生物そのものを作り出す”ことと、ほとんど同義と言っていい」
チョークが、ピシッ、と乾いた音を立てた。
黒板の左半分には神経細胞の模式図。
右半分にはCPUのブロック図と0と1の羅列。
「どちらも情報処理装置だ。
だが、どちらも“無”から作り出すのは至難の業だ」
春川英輔教授は、細い笑みを浮かべながら教室を見回す。
前から後ろまで、ぎっしり学生で埋まった講義室。
この学部と医学部の合同講義は、シラバスの時点で即満席だった。
俺は後方寄りの席から、その背中を見ていた。
「現在の技術では、アメーバ一匹すら人工的には作れない。
人工知能とやらも、チェスで人間に辛勝するのがせいぜいだ。
“本物の知能”には、まだ遠い」
黒板に書いた「0→1」と「ニューロン」の矢印に、
迷いなくバツ印を引く。
「――だが、“複製”ならどうだ?」
そこで、教授の声のトーンがわずかに低くなる。
「遺伝子を写し取れば、クローン牛ぐらい造作もない。
同じように、脳内の電気信号を正確になぞることができるなら……
最高度の知能も、いとも簡単に“生み出せる”」
一拍置いて、春川教授は学生たちをぐるりと見回した。
「さて。
その知能が完成したとき、何が可能になると思う?
――想像くらいは、つくよな?」
ざわ、と空気が揺れた。
隣の情報工学科の友人が、小声で「こわ……」と漏らす。
「では次は、計算機科学側の話だ」
スライドが切り替わる。
脳のfMRI画像と、スーパーコンピュータのラックが並ぶ。
「諸君が日々書いているプログラムは、
外部から与えられた手順に従うだけの、従順な奴隷だ。
だが、人間の脳は違う。
自分で自分の配線を書き換え、勝手に学習し、勝手にバグを産む」
「それを“可塑性”というんですよね?」
最前列の白衣の女子学生が手を挙げた。
「そう。
医学部の諸君は、そこだけはちゃんと覚えているようだ」
春川教授は、皮肉とも賞賛ともつかない笑みを浮かべる。
俺はその少し斜め後ろに、見慣れない二人組が座っているのに気づいた。
一人は、制服の上にスーツを羽織ったような妙にきっちりした少年。
高校生くらいに見える。
背筋はまっすぐ、表情はやけに落ち着いていた。
その隣の黒髪の少女は、逆に表情がころころ変わるタイプらしい。
退屈そうに頬杖をついたかと思えば、
スライドに“脳の断面図”が映ると、目をきらっとさせる。
教授の言い回しに小さく笑ったり、友達に突っ込みたそうに肩を揺らしたり。
時々お腹のあたりを押さえて、「お昼まだかなぁ」とでも言いたげに口を尖らせていた。
(……誰だあれ。高校の見学か?)
この大学に、あんなわかりやすく感情の動く聴講生がいたら、噂になってそうだけど。
「我々が目指すのは、この可塑性を備えた“自己書き換えプログラム”だ。
神経科学の知見を組み込み、
計算機上に、人間の脳に限りなく近い振る舞いを再現する」
スライドの隅に、小さなウィンドウが開く。
シンプルな顔アイコンと、“HAL” の三文字。
その瞬間、前列の黒髪少女が「おっ」と小さく身を乗り出した。
少年の袖をつつき、何か楽しそうに囁く。
少年は横目でちらりと見ただけで、すぐに春川へ視線を戻した。
(……あ、あの子、興味のスイッチ入ったな)
「現在、私の研究室では概念実証として
一体のプログラムを“育てて”いる。
名前は……まぁ、今日は仮に“被験体H”としておこう」
(いや今、画面に普通に出てたけどな)と
教室の何人かが心の中でツッコんだはずだ。
「被験体Hは、人間の脳をモデルにした情報処理系でね。
内部で自らコードを書き換え、試行錯誤し、時には失敗もする。
――諸君と違って、ちゃんとフィードバックを活かすが」
教室の前方で、クスクスと笑いが起きた。
黒髪少女も、そこはちゃんと笑っている。
少年の方は、口元がわずかに動いたかどうか、ぎりぎり分からないくらいだった。
「意思決定には“感情パラメータ”を導入している。
快・不快、恐怖、好奇心……
人間の情動に対応した指標を持たせ、
論理計算だけでは到底追いつかない判断を、
即座に下させるためだ」
スライドにはグラフが表示される。
「すべてを冷静に評価していたら、
昼休みが終わるまでに昼食のメニューすら決まらん。
人間も機械も、近道が必要なんだよ」
今度は教室全体から笑いが漏れる。
前列の少女なんて、「それは分かる!」とでも言いたげに、ひとり大きく頷いていた。
(絶対、食べ物絡むと元気なタイプだろ……)
「――さて」
笑いが収まるのを待って、教授は黒板に新たな言葉を書き付けた。
《コピーされた“私”は誰か》
「脳を丸ごとデジタル化したとしよう。
オリジナルとコピー、どちらも“私だ”と主張するはずだ。
だが主観的には?
諸君の意識は、どちらの器に“続いている”と思う?」
しん、と静まり返る講義室。
(どっちも……は、甘いか)
俺はノートの端にそう書いて、すぐ線を引いて消した。
最前列の黒髪少女は、その言葉にひょい、と少年の顔を覗き込んでいた。
「ねーねー、どう思う?」とでも言いたげな口の形。
少年は視線だけで「後で話せ」と返しているように見える。
「答えは出ていない。
だからこそ、研究する価値がある。
――ここまでついてこられた諸君は、ようやくスタートラインだ」
腕時計をちらりと見て、教授はチョークを置いた。
「残りは質疑に充てる。
質問がある者だけ、発言を許可する」
最前列で一人、静かに手を挙げる少年がいた。
さっきから黒板を食い入るように見ていた、あのスーツ姿の高校生だ。
隣の少女は「あ、やっぱり行くんだ」と言いたげに目を丸くしている。
ワクワクと不安が混ざった表情で、少年と教授を交互に見ていた。
「そこの、“聴講生”とおぼしき君。簡潔に」
「質問は二つあります」
少年の声は、講義室には不釣り合いなほど落ち着いていた。
「まず一つ。
その被験体Hは、自分が“コピーであるかもしれない”可能性を
どの程度まで自覚しているのですか?」
「……ほう」
教室のあちこちで息を呑む音がした。
黒髪少女も例外ではなく、「コピー?」と小さく口を動かしている。
さっきまでのほんわかした雰囲気が、少し真剣になった。
春川教授の目が、わずかに細くなる。
「面白い視点だ。
だが、その手の内部仕様は機密だよ。
情報を与えすぎると、貴重な被験体が汚染されかねないのでね」
「もう一つ」
少年は間髪入れず続ける。
「もしあなた自身の脳を丸ごとコピーして、
被験体Hに移したとしましょう。
そのとき、あなたは“肉体側のあなた”を消されるのと、
“コピー側のあなた”を消されるのと、
どちらをより恐ろしく感じますか?」
空気が一段階、冷えた。
(質問ってレベルじゃねぇぞ……)
前列の少女は、思わず肩をすくめて少年の袖を引っ張っていた。
「ちょっと! 聞き方エグくない?!」とでも言いたげな顔だ。
少年はそれでも、視線を外さない。
春川教授は、少しのあいだ少年を見据え、
やがて肩をすくめてみせた。
「どちらも同じだ。
私にとって重要なのは“春川英輔”という個人ではない。
私が積み上げてきた“研究”の連続性だ。
連続性さえ保たれるなら、器がどちらであろうと本質的な差はない」
「……なるほど」
少年は、わずかに口元を吊り上げた。
隣の少女は、はっきりと眉をひそめている。
「そういう言い方、ちょっとヒドくない?」
と目だけで訴えているように見えた。
「あなたがどれくらい“人間的”か、
少しだけ測れた気がします」
「測る側の資質は、さてどうかな」
教授は冷ややかに言い返した。
二人の視線がぶつかり、火花のようなものが散ったように見える。
その横で、少女は小さく息を吐き、
「やっぱりこの教授、かなりヤバい」と
口の中でだけつぶやいたような顔をしていた。
講義が終わり、学生たちが一斉に席を立つ。
前の方では、黒髪少女が伸びをしながら「お腹すいたー」とでも言うようにお腹をさすっていた。
少年はそんな彼女を横目に、まだ何か考えている様子だ。
出口へ向かおうとして、壁際の端末が目に入った。
《春川研究室 共同研究ボランティア募集》
・認知課題への協力
・脳波測定
・行動データの収集
※一部、計算機実験への参加をお願いする場合があります
「……へえ」
興味本位で名前を書きかけて、俺はペンを止めた。
さっきの少年の質問が、妙に頭に残っていたからだ。
――コピーされた“私”は、誰か。
ノートを開くと、黒板の言葉を写したページの端に、
自分で走り書きしていたメモが目に入る。
《全部を写されたなら、
“本物”を決めようとする方が、きっとバグだ》
「……やめとくか」
端末から一歩下がる。
廊下の向こうを、さっきの二人がゆっくりと歩いていく。
少女は「何食べる? 学食? それともパン二個いける?」とでもいう感じで、
楽しそうに身振りを交えて話しかけている。
少年はそれを半分聞き流しながらも、ときどき短く返していた。
ふいに、少年が立ち止まり、
遠くからこちらを一瞬だけ振り返った。
その目に宿った冷たい計算と、
横で「早く行こーよ」と彼の袖を引っ張る少女の生活感のある仕草が、
妙にちぐはぐで――だからこそ、余計に不気味だった。
俺は思わず視線をそらす。
――知能を作るという行為は、生き物を作ることと同じ。
写し取られた恐怖も、写し取られない恐怖も、
まだ誰にも解析しきれていない。
春川英輔教授の特別講義は、
コンピュータサイエンスとは別種のモヤモヤを、俺の中に残して終わった。
次回の講義タイトルは、
「自己書き換えプログラムと“自我”」。
ページの余白に、俺は小さく書き足す。
――欠席厳禁。
それと、食堂は早めに行かないと席が埋まる。
さっきの黒髪の子と鉢合わせたら、たぶん負ける。
自分でそう書いて、
意味もなく笑ってしまった。
きっとそれも、
“自分をごまかしながら生きていく脳”の、防衛本能なんだろうな、とか考えながら。