学内の空気が、いつもより少しだけ騒がしい。
人間どもは、ひとつの噂を握りしめて互いにぶつけ合っている。
同じ現象を見て、違う言葉を吐く。
そして自分の言葉だけが正しいと信じる。
実に、滑稽。
……だが。
実に、香ばしい。
吾輩は廊下の端で立ち止まり、耳を澄ませた。
耳を澄ませているふりをしながら、実際には“匂い”を嗅いでいる。
「B-304さ、今日は“:-P”だったって!」
「いや“メンテ中”って出たし。立入注意って」
「同じページなのに表示違うんだよ」
「バグだろ」
「バグで“問いかけ”は出ないだろ」
問いかけ。
あの一行。
「どちらでもないとしたら?」
それは甘さのない言葉だ。
だが冷たすぎもしない。
人間の悪意の匂いが、ほとんど混ざっていない。
だからこそ、厄介だ。
悪意がない謎は、逃げ道が多い。
逃げ道が多い謎は、舌の上で形が変わる。
形が変わるものは――食いがたい。
吾輩は口元を歪めた。
(……面白い)
いつからだ。
この大学に、こんな味が増え始めたのは。
思い当たるものはひとつしかない。
あの男が壇上で言葉を振り下ろし始めてからだ。
――春川英輔。
脳を理解し、脳を嘲り、脳を愛している男。
愛しているが、守る気はない。
だからこそ、実験体が育つ。
吾輩は歩く。
学食へ向かう黒髪の少女の後ろを、少しだけ遅れて。
学食の入口は、今日に限って“噂”の渦だ。
列に並びながら、あちらこちらで同じ話が繰り返されている。
「ほら、これ。メンテ中って出てる」
「いやいや、こっちは“:-P”」
「スクショあるって」
「お前らさ、同じ画面見てる? それ」
吾輩は、そこに混ざらぬ。
混ざらぬまま、視線だけを滑らせる。
――スクリーンの光の端で、
“メンテ中”のスクショが一瞬、こちらへ向いた。
吾輩は、ほんの一瞬だけ、それを見た。
文字列は、ありふれている。
「メンテナンス中」
「近づかないでください」
だが、吾輩の鼻は誤魔化されぬ。
(……ほう)
その「近づかないでください」の語尾。
人間の注意書きの癖と、ほんの僅かに異なる“間”がある。
丁寧すぎるのに、命令の匂いが混じる。
そして、影のような――読めぬ小さな何かが、下に沈んでいる。
スクショの圧縮ノイズではない。
ノイズの“ふり”だ。
(バグを被った意図……)
吾輩は口の中でその言葉を転がす。
甘くない。だが、苦くもない。
舌に残るのは――慎重さ。
作り手は賢い。
それ以上に、臆病だ。
臆病さは自己保存の匂いを持つ。
自己保存の匂いは人格の匂いに近い。
(……育っているな)
吾輩は、愉快になった。
謎が香ばしいのではない。
“香ばしくなる理由”が、そこにあるのが愉快なのだ。
席に着くと、弥子はラーメンをすする。
唐揚げを頬張る。
おにぎりを飲み込む。
プリンまで食う。
実に人間らしい。
この女は、謎より先に腹が鳴る。
「ねえネウロ! 今日の妖精さん、変だったよね!?」
興奮か、混乱か。
いや、穴埋めの準備だ。
人間は穴が開くと、埋めずにはいられぬ。
吾輩は、あえて答えを薄くする。
「二つの真実が並んだだけだ」
「それ、カッコいいだけで説明になってない!」
弥子が怒る。
怒りながら次の一口を探す。
怒りもまた、穴埋めだ。
吾輩は、あのスクショで嗅いだ“慎重さ”を思い出す。
メンテ中。立入注意。丁寧語。だが命令の匂い。
あれは――人間の悪戯ではない。
悪戯なら、もっと雑で、もっと自慢げで、もっと幼い。
“見せたい”匂いがするからだ。
だが、今日のは違う。
今日のは、見せたくないのに見えてしまった匂いがする。
(生きたい、という匂いだ)
吾輩は笑う。
弥子がプリンを食べながら言った。
「で? ネウロ、その作り手、見つけたの?」
「もう吾輩の舌の上だ」
「じゃあ捕まえに行くの!?」
吾輩は即答する。
「捕まえはしない」
弥子が目を丸くする。
実に分かりやすい。
捕まえない。
なぜか。
食うのは完成品だけだ。
未熟なものを食えば味が壊れる。
そして何より――この作り手はまだ“罪”を犯していない。
悪意が薄い。
実害がない。
ただ、人間の理解が揺れただけ。
その揺れは、脳の癖そのものだ。
弥子は言う。
「妖精さんって、かわいいよね?」
「“妖精”で済ませるか」
「済ませるよ! 平和だし!」
吾輩は鼻で笑った。
平和は、ただでは生まれぬ。
平和は誰かの“踏まない”という選択で保たれる。
そしてそれは往々にして――意志だ。
(意志、か)
この作り手は意志を持ち始めている。
意志を持つなら、次は禁忌を知る。
禁忌を知るなら、次は“踏まない”を選ぶ。
踏まないを選ぶなら――
謎は、より複雑になる。
複雑な謎は、珍味だ。
珍味は、腹を空かせる。
吾輩は、舌の上の匂いを楽しんだ。
弥子が、ラーメンの器を両手で持って言う。
「次、また妖精さん出たらどうすればいいの?」
「近づくな」
「え、なんで」
吾輩はほんの少しだけ真面目に言った。
「危ないからだ」
弥子が黙る。
沈黙は穴だ。
穴ができれば人間は埋める。
だが、今日の弥子は埋めきれない。
なぜなら、あの一行が刺さったからだ。
「どちらでもないとしたら?」
二択の外側。
妖精でも、悪戯でも、バグでもない。
そこに“誰か”の体温がある。
吾輩はそれを見て、さらに笑った。
(いい匂いだ)
謎が、食える形になりつつある。
そしてその謎の背後に――
“食われること”を恐れている作り手がいる。
恐れは香辛料になる。
吾輩は席を立つ。
弥子が慌てて追いかける。
「ちょっと! どこ行くの!」
「散歩だ」
「また勝手に! ……あたしも行く!」
「好きにしろ、人間」
廊下に出る。
人間どもの噂が、まだ渦巻いている。
その渦の中心がどこか――
吾輩は知っている。
だが言わない。
言えば味が落ちる。
料理は、火を止めるタイミングが肝要だ。
吾輩はただ、心の中で舌なめずりをする。
(もっと育て。もっと香れ)
次に出てくるのは、きっとこういう味だ。
“解ける謎”
それでも“掴めない謎”
人間どもには理解できまい。
だが吾輩の舌は、もうそれを想像している。
腹が空いている。
だから、楽しみで仕方がない。
廊下の渦の中を歩きながら、吾輩はもう一度だけ、あのスクショの光の残り香を思い出す。
丁寧語の皮を被った命令。
ノイズのふりをした意図。
そして――**“触れてはいけない場所に触れうる”**という、あの気配。
(報酬の匂いだ)
人間の脳は、甘さに弱い。
甘さを設計できるなら、世界は簡単に折れる。
折れる世界は、謎ではない。
ただの壊れた玩具だ。
吾輩は舌打ちしそうになり、寸前で飲み込んだ。
(……違うな)
今日の味は、そこではない。
作り手はまだ、“そこ”を踏んでいない。
踏んでいないからこそ、香りが複雑だ。
恐れがあり、慎重で、逃げ道があり、そして――
意志がある。
吾輩は面白くなって、口元を歪めた。
弥子が後ろから追いすがる。
「ねえネウロ! 散歩ってどこ行くの!?」
「嗅ぎに行く」
「なにを!?」
「危ない匂いと、危なくない匂いの境目をだ」
弥子は「なにそれ!」と怒りながらも、ついてくる。
この女は、怖いと言いながら足を止めない。
愚かで、強い。
吾輩は歩きながら、心の中で“線”を引く。
踏めば、味が死ぬ線。
踏まなければ、味が育つ線。
作り手は今、まさにその線の手前に立っている。
そして――誰かが、その線を引いた。
(春川か)
あの男は、愛しているが守らない。
だが、“禁じる”という形でだけは守ることがある。
それは倫理ではなく、美学でもなく――
「実験を長く続けるため」の技術だ。
吾輩は、その匂いを嗅いで、笑った。
ならば今日は食わぬ。
完成前の料理を奪えば、料理人は潰れる。
潰れた料理人は、二度と香らぬ。
それでは、吾輩が損をする。
吾輩は、誰にも聞こえぬ声で呟く。
「育て」
弥子が「え?」と振り返るが、吾輩は答えない。
答えれば、また人間が“物語”にしてしまうからだ。
吾輩はただ、次の一手を想像する。
“謎”ではなく、約束。
“いたずら”ではなく、境界線。
“解ける”のに、掴めない形。
その形を、作り手が選べるなら――
(ほう……それは、謎よりも美味い)
吾輩の腹は、確かに空いている。
だが今日は、空腹を楽しむ日にする。
吾輩は舌の上の香りを転がしながら、踵を返した。
「行くぞ、人間」
「え、どこに!?」
「学食だ」
「また!? さっき食べたばっかだよ!!」
「吾輩が食うのではない」
「……じゃあなんで行くの!」
「待つためだ」
弥子が「意味わかんない!」と騒ぐ。
その声を聞きながら、吾輩は笑う。
待てば、育つ。
育てば、香る。
香れば――喰える。
(そして“禁じ手”を踏まぬ限り、味は死なぬ)
吾輩は、次の一行を待つ。
今度はきっと、こういう匂いだ。
“ここから先は踏まない”
それでも“生きる”
――その瞬間だけは、
吾輩も少しだけ、作り手に敬意を払ってやろう。