春川英輔 特別講義   作:ギアっちょ

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5.悪意の定義

 

教室に入った瞬間、空気がいつもと違うって分かった。

 

ざわざわしてるのに、落ち着かない。

みんな席には着いてるのに、誰もちゃんと座れてないみたいな、変な緊張。

俺もノートを机に出したはいいけど、ペンのキャップを外すのがやけに遅くなる。

 

――今日は「悪意の定義」。

 

先週までの“妖精さん”だの“観測不能の来訪者”だの、ああいう胡散臭い噂話の延長線に、なんでそんな単語が出てくるんだよ。

悪意って。そんなの、性格が悪いとか、嫌がらせとか、いじめとか、そういう…曖昧で、言い出したらキリがないやつだろ。

 

なのに。

 

教壇に立った教授が、こっちを見た瞬間。

俺は直感で理解した。

 

今日の話は、俺が知ってる「悪意」とかじゃない。

もっと、骨の中まで届くやつだ。

 

「静かに」

 

その一言で、教室が黙る。

まるで、音量を下げるボタンでも押されたみたいに。

 

教授は黒板に、迷いなく書いた。

 

――悪意=他者の選択肢を奪う構造(意図)

 

……は?

 

俺は思った。

“意地悪”じゃなくて、構造?

感情じゃなくて、設計図?

それって、機械の話じゃん。コンピュータの話じゃん。

 

でも教授は、俺の「は?」を、最初から見透かしてたみたいに続ける。

 

「君たちは悪意を“気持ち”だと思っている。浅い。

 悪意は“相手が何を選べるか”を狭めることだ。

 それも、本人が気づかない形で」

 

胸の奥が、ひやっとした。

 

……気づかない形で?

いじめって、分かりやすい暴力だけじゃない。

“空気”とか、“ノリ”とか、“察しろ”とか。

そういうのって、本人が「自分が悪いのかな」って思うように持っていく。

 

選択肢が消えていく。

でも、消えたことに気づけない。

 

教授の言葉が、俺の中の嫌な記憶の引き出しを勝手に開けてくる。

思い出したくないのに、思い出させる。

……これも、攻撃なんだろうか。

 

教授は黒板にもう一つ、書いた。

 

――脳=予測装置(推論→穴埋め→理解)

 

予測。推論。穴埋め。理解。

 

「脳は世界をそのまま見ていない。

 予測で世界を作っている。

 “妖精さん”も同じだ。見えたんじゃない。理解しただけだ」

 

教室の何人かが、息を呑むのが分かった。

あの噂――あの“見えた”やつ。

俺も、正直言うと見た。

見たっていうか……見た気がした、が一番近い。

 

でも教授は言う。

“見えた”のは、脳が勝手に穴埋めしただけだって。

 

……じゃあ俺が見たのは、俺の脳が作った「都合のいい納得」だったのか?

 

背中がゾワッとした。

 

人間って、そんなに簡単に騙されるのか。

いや、騙されるって言い方も違う。

人間は、勝手に騙されに行く。

“理解した”ことにして安心する。

 

教授は淡々と続けた。

 

「悪意は、この穴埋めを利用する。

 計算機科学で言えば、ユーザーの予測モデルへの攻撃だ」

 

攻撃。

その言葉が、教室の空気を一段冷やした。

 

サーバーを落とすんじゃない。

ユーザーの予測を落とす。

それって、要するに――人間の“判断”を落とすってことだ。

 

俺は喉の奥が乾くのを感じた。

水を飲みたい。けど、動いたら目立つ。

教授に見られたくない。

 

教授はこっちを見て、言い放つ。

 

「『みんなが言ってるから』

 『空気がそうだから』

 『怖いから』

 ――君たちが得意なやつだ」

 

……やめろ。

それ、俺がよく使ってる言い訳だ。

 

俺は急に、自分の座り方が変じゃないか気になった。

ノートの字が汚いのも、手汗も、隣のやつの視線も。

全部が“評価対象”に見えてくる。

 

教授の講義って、いつもこうだ。

知識を教えるふりして、こっちの弱いところに釘を打ってくる。

しかも、正しい釘。抜けない釘。

 

「質問だ。悪意の反対は何だ?」

 

俺は心の中で答えた。

善意。優しさ。愛。……いや、違う。

教授はそういうの嫌いだ。言葉が甘いから。

 

案の定、誰かが「善意」と言った瞬間、教授が即座に切り捨てる。

 

「浅い」

 

冷たい。

でも、なぜか納得してしまう自分が腹立たしい。

 

教授は言った。

 

「反対は“自由”だ。

 相手が選択肢を持ち続けること。

 悪意は、それを奪う技術だ」

 

――自由。

 

その言葉が、胸の奥に落ちて、重く沈んだ。

 

自由って、ただ好き勝手できることじゃない。

“選べる”こと。

逃げてもいい、断ってもいい、黙ってもいい、助けを求めてもいい。

 

そういう選択肢が、残っている状態。

 

俺は思った。

悪意って、誰かを殴ることじゃない。

殴られるしかない状況を作ることなんだ。

 

教授は黒板の「禁じ手」を示しながら言った。

 

「できると、やっていいは別だ。

 だから禁じ手が必要になる」

 

俺はその瞬間、なぜか安心した。

教授が“禁じる”って言うとき、そこには最低限の線引きがある。

冷たいくせに、勝手に暴走はしない。

……少なくとも、表向きは。

 

だけど。

 

講義の後半、教室の端に置かれた端末が、ふっと光った気がした。

俺は目を凝らす。

誰も見てない。

でも確かに、画面の白い文字が一瞬揺れた。

 

(……気のせいか?)

 

怖い。

でも目が離せない。

こういうのって、いちばん危ない。

 

その時、後ろの席に白衣の女が滑り込んできた。

学生じゃない。雰囲気が違う。

でも教授はただ一言。

 

「遅刻。減点」

 

女は軽く手を振って、平然と座る。

……あの人、誰だよ。

 

なのに、なぜか“この講義の中心”にいる気がした。

俺は直感で思った。

この世界、俺の知らないところで勝手に動いてる。

俺はただの聴講者で、舞台装置の端っこだ。

 

講義の締め。

 

教授は静かに言った。

 

「悪意は心ではない。構造だ。

 構造は設計できる。

 だから設計者になった瞬間から、倫理を外注できない」

 

“外注できない”。

 

その言葉で、俺は自分のスマホを思い出した。

SNS、広告、ランキング、通知、バズ、空気。

俺の毎日の選択肢って、本当に俺のものだったか?

 

俺は、誰かに設計された道を歩いてただけじゃないのか?

 

背中が冷える。

でも同時に、変な高揚がある。

 

――ここまで怖い話をされて、俺は何をワクワクしてるんだ?

 

講義が終わり、みんなが立ち上がる。

俺はノートを閉じるのが遅れた。

ページいっぱいに書いたはずなのに、頭の中は空っぽみたいだ。

 

「自由……」

 

小さく呟くと、知らない誰かが笑った気がした。

甘い笑いじゃない。

腹の底が空くような笑い。

 

俺は思う。

 

この講義、ヤバい。

でも――次も出る。

 

怖いからじゃない。

“選択肢”を奪われたくないから。

 

そう思った時、俺は初めて、ほんの少しだけ自分が“自由”に近づいた気がした。

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