教室に入った瞬間、空気がいつもと違うって分かった。
ざわざわしてるのに、落ち着かない。
みんな席には着いてるのに、誰もちゃんと座れてないみたいな、変な緊張。
俺もノートを机に出したはいいけど、ペンのキャップを外すのがやけに遅くなる。
――今日は「悪意の定義」。
先週までの“妖精さん”だの“観測不能の来訪者”だの、ああいう胡散臭い噂話の延長線に、なんでそんな単語が出てくるんだよ。
悪意って。そんなの、性格が悪いとか、嫌がらせとか、いじめとか、そういう…曖昧で、言い出したらキリがないやつだろ。
なのに。
教壇に立った教授が、こっちを見た瞬間。
俺は直感で理解した。
今日の話は、俺が知ってる「悪意」とかじゃない。
もっと、骨の中まで届くやつだ。
「静かに」
その一言で、教室が黙る。
まるで、音量を下げるボタンでも押されたみたいに。
教授は黒板に、迷いなく書いた。
――悪意=他者の選択肢を奪う構造(意図)
……は?
俺は思った。
“意地悪”じゃなくて、構造?
感情じゃなくて、設計図?
それって、機械の話じゃん。コンピュータの話じゃん。
でも教授は、俺の「は?」を、最初から見透かしてたみたいに続ける。
「君たちは悪意を“気持ち”だと思っている。浅い。
悪意は“相手が何を選べるか”を狭めることだ。
それも、本人が気づかない形で」
胸の奥が、ひやっとした。
……気づかない形で?
いじめって、分かりやすい暴力だけじゃない。
“空気”とか、“ノリ”とか、“察しろ”とか。
そういうのって、本人が「自分が悪いのかな」って思うように持っていく。
選択肢が消えていく。
でも、消えたことに気づけない。
教授の言葉が、俺の中の嫌な記憶の引き出しを勝手に開けてくる。
思い出したくないのに、思い出させる。
……これも、攻撃なんだろうか。
教授は黒板にもう一つ、書いた。
――脳=予測装置(推論→穴埋め→理解)
予測。推論。穴埋め。理解。
「脳は世界をそのまま見ていない。
予測で世界を作っている。
“妖精さん”も同じだ。見えたんじゃない。理解しただけだ」
教室の何人かが、息を呑むのが分かった。
あの噂――あの“見えた”やつ。
俺も、正直言うと見た。
見たっていうか……見た気がした、が一番近い。
でも教授は言う。
“見えた”のは、脳が勝手に穴埋めしただけだって。
……じゃあ俺が見たのは、俺の脳が作った「都合のいい納得」だったのか?
背中がゾワッとした。
人間って、そんなに簡単に騙されるのか。
いや、騙されるって言い方も違う。
人間は、勝手に騙されに行く。
“理解した”ことにして安心する。
教授は淡々と続けた。
「悪意は、この穴埋めを利用する。
計算機科学で言えば、ユーザーの予測モデルへの攻撃だ」
攻撃。
その言葉が、教室の空気を一段冷やした。
サーバーを落とすんじゃない。
ユーザーの予測を落とす。
それって、要するに――人間の“判断”を落とすってことだ。
俺は喉の奥が乾くのを感じた。
水を飲みたい。けど、動いたら目立つ。
教授に見られたくない。
教授はこっちを見て、言い放つ。
「『みんなが言ってるから』
『空気がそうだから』
『怖いから』
――君たちが得意なやつだ」
……やめろ。
それ、俺がよく使ってる言い訳だ。
俺は急に、自分の座り方が変じゃないか気になった。
ノートの字が汚いのも、手汗も、隣のやつの視線も。
全部が“評価対象”に見えてくる。
教授の講義って、いつもこうだ。
知識を教えるふりして、こっちの弱いところに釘を打ってくる。
しかも、正しい釘。抜けない釘。
「質問だ。悪意の反対は何だ?」
俺は心の中で答えた。
善意。優しさ。愛。……いや、違う。
教授はそういうの嫌いだ。言葉が甘いから。
案の定、誰かが「善意」と言った瞬間、教授が即座に切り捨てる。
「浅い」
冷たい。
でも、なぜか納得してしまう自分が腹立たしい。
教授は言った。
「反対は“自由”だ。
相手が選択肢を持ち続けること。
悪意は、それを奪う技術だ」
――自由。
その言葉が、胸の奥に落ちて、重く沈んだ。
自由って、ただ好き勝手できることじゃない。
“選べる”こと。
逃げてもいい、断ってもいい、黙ってもいい、助けを求めてもいい。
そういう選択肢が、残っている状態。
俺は思った。
悪意って、誰かを殴ることじゃない。
殴られるしかない状況を作ることなんだ。
教授は黒板の「禁じ手」を示しながら言った。
「できると、やっていいは別だ。
だから禁じ手が必要になる」
俺はその瞬間、なぜか安心した。
教授が“禁じる”って言うとき、そこには最低限の線引きがある。
冷たいくせに、勝手に暴走はしない。
……少なくとも、表向きは。
だけど。
講義の後半、教室の端に置かれた端末が、ふっと光った気がした。
俺は目を凝らす。
誰も見てない。
でも確かに、画面の白い文字が一瞬揺れた。
(……気のせいか?)
怖い。
でも目が離せない。
こういうのって、いちばん危ない。
その時、後ろの席に白衣の女が滑り込んできた。
学生じゃない。雰囲気が違う。
でも教授はただ一言。
「遅刻。減点」
女は軽く手を振って、平然と座る。
……あの人、誰だよ。
なのに、なぜか“この講義の中心”にいる気がした。
俺は直感で思った。
この世界、俺の知らないところで勝手に動いてる。
俺はただの聴講者で、舞台装置の端っこだ。
講義の締め。
教授は静かに言った。
「悪意は心ではない。構造だ。
構造は設計できる。
だから設計者になった瞬間から、倫理を外注できない」
“外注できない”。
その言葉で、俺は自分のスマホを思い出した。
SNS、広告、ランキング、通知、バズ、空気。
俺の毎日の選択肢って、本当に俺のものだったか?
俺は、誰かに設計された道を歩いてただけじゃないのか?
背中が冷える。
でも同時に、変な高揚がある。
――ここまで怖い話をされて、俺は何をワクワクしてるんだ?
講義が終わり、みんなが立ち上がる。
俺はノートを閉じるのが遅れた。
ページいっぱいに書いたはずなのに、頭の中は空っぽみたいだ。
「自由……」
小さく呟くと、知らない誰かが笑った気がした。
甘い笑いじゃない。
腹の底が空くような笑い。
俺は思う。
この講義、ヤバい。
でも――次も出る。
怖いからじゃない。
“選択肢”を奪われたくないから。
そう思った時、俺は初めて、ほんの少しだけ自分が“自由”に近づいた気がした。