講義が終わった瞬間、あたしの脳はこう言った。
(……むずかしい!!)
で、胃がこう言った。
(……お腹すいた!!)
人間って正直だ。
いや、あたしが正直すぎるのかもしれない。
教室を出る廊下は、なんか妙に静かだった。
いつもなら、教授の講義が終わった瞬間に「やべぇ」「意味わからん」「寝てた」みたいな声が飛び交うのに、今日は違う。
みんな、口を閉じてる。
でも、その静けさが“理解した”感じじゃなくて――
“口にしたら負ける”感じ。
あたしも、どこから考え始めればいいのか分からなくて、なんとなくノートを抱えたまま歩いた。
頭の中で、春川教授の声だけが残ってる。
悪意の反対は、自由だ。
自由。
それって、好き勝手することじゃない。
相手が“選べる”こと。
――そう言われた瞬間、あたしの中に、いつものネウロの顔が浮かんだ。
(……うわ。今の、すごい嫌な繋がり方した)
“選べる”って、何だろう。
だって、あたし。
ネウロに言われたら、結構な確率で“選べない”。
「弥子、行くぞ」
「弥子、餌を作れ」
「弥子、囮になれ」
……いや、あたしも一応、抵抗したり怒ったりするけど。
でも結局、あいつが言う“正解”に引っ張られていく。
それって……。
(……選択肢、奪われてる?)
ズキッとした。
自分で自分を殴ったみたいな痛み。
いや、待って。
ネウロは悪意でやってるわけじゃない。
……多分。
たぶんだけど。
あいつは、あたしの“自由”なんて考えてない。
ただ、謎が食いたいだけ。
それって――悪意じゃなくて、魔人だ。
カテゴリが違う。
でも。
「相手が気づかない形で、選択肢を狭める」
教授の言葉は、あたしが今まで見てきた犯人たちにも、ぴったり当てはまった。
脅して、殴って、縛って、みたいな分かりやすい悪党もいる。
けど、もっと嫌なのは――
“善意”の顔で近づいてくるやつ。
「君のためだよ」
「君を守りたいんだ」
「みんなもそう言ってる」
「怖いよね、だからこっちにおいで」
ああいうの。
優しい言葉で手を握って、気づいたら手首に縄が巻かれてる。
縄じゃない。
“空気”で巻かれてる。
逃げたくても、逃げる理由が言えない。
逃げると、悪者にされる。
(……それ、最悪)
廊下の窓から、冬の空が見えた。
冷たい光。
なんだか、今日の講義みたい。
そのまま学食に吸い込まれるように入ると、いつも通りの匂いがした。
揚げ物、ラーメン、カレー、甘いデザート。
(あぁ、世界が戻ってきた)
と思ったのに。
あたし、並びながらも、さっきの言葉を反芻してる。
悪意の反対は自由。
自由は選択肢。
選択肢は、奪われる前に気づけない。
……怖い。
怖いけど、変に腑に落ちたのも事実だった。
トレーを持って席を探してると、あいつがいた。
誰より自然に、当たり前みたいに、そこにいる。
。
もちろん食べ物はない。
なのに、あたしのトレーだけ見てる。やめろ。
「弥子」
呼ばれただけで、背中が反射で伸びる。
……これ、自由じゃないな。
あたしは乱暴に座った。
「ねえネウロ。今日の講義、聞いてた?」
「聞いた」
「どう思う?」
ネウロは、あたしの唐揚げを見たまま言う。
「人間は、よくあそこまで自分の性質を嫌味に言語化できるな」
「嫌味って言うな!」
あたしは唐揚げを一口で食べた。
熱い。正しい。落ち着く。
「悪意の反対は自由、ってさ。
……それ、どう思う?」
ネウロが、少しだけ口元を上げた。
「正しい」
「え、認めるんだ」
「だが“自由”は味が薄い」
「……何その感想」
ネウロは淡々と言う。
「自由は、謎を生まぬ。
謎は、自由が削れたところから立ち上がる。
奪われた分だけ、形になる」
あたしは箸を止めた。
「……それって、つまり。
謎って、悪意の結果ってこと?」
ネウロは、肩をすくめる。
「悪意に限らん。
善意でも、無知でも、偶然でも、自由が削れれば謎になる」
あたしは少しだけ安心した。
“悪意”って言うと、全部が真っ黒になる気がしてたから。
でもネウロは、続ける。
「だが、意図して削るのは香りが濃い」
「……やっぱり味の話に戻るんだ」
ネウロが、ちらっとあたしの顔を見た。
ほんの一瞬。
あいつが“あたし”を見る時は、大体嫌な時だ。
「弥子。お前は自由だと思っているか?」
「は?」
胸がギュッとなった。
だって、それ、答えたくない質問だ。
“自由だ”って言ったら嘘になる気がするし、
“自由じゃない”って言ったら、何かが壊れる気がする。
ネウロは楽しそうに言う。
「言えぬのか。
なら、既に削れている」
……こいつ。
「ムカつく!!」
あたしは思いっきりプリンを食べた。
甘い。最高。
でも、甘さが逃げ道になってるのも分かる。
教授が言ってた“雑なルール”に逃げてるだけ。
だから、あたしはちゃんと考える。
自由って、選択肢。
選択肢って、“断れる”こと。
断れるって、“怖くない”こと。
怖くないって……何だ?
ネウロは、あたしの思考の音を聞くみたいに黙っている。
ムカつくのに、こういう時だけ静かに待つ。
余計にムカつく。
あたしは、ようやく言った。
「……自由って、あるかないかじゃないんだと思う」
「ほう」
「少しずつ削れる。
削れてることに気づいたら、戻せる。
戻すためには、……誰かに“言える”のが大事なんだと思う」
言い終わって、あたし自身が一番びっくりした。
自分の口から、そんな真面目な言葉が出るなんて。
ネウロは、ほんの少しだけ笑った。
「その程度は“自由”の味がするな」
「味で判断するな!!」
怒鳴ったけど、
ちょっとだけ、救われた気がした。
講義で言ってた“契約”とか“境界線”って、
こういうことなんだろう。
「ここから先はダメ」
「これは嫌」
「これは怖い」
「それでも一緒にいる」
言えること。
言っても、壊れないこと。
あたしはふと、廊下で聞いた噂を思い出した。
妖精さん。
二択じゃない。
どちらでもないとしたら。
あれも、誰かが“自由”を守るために引いた線だったのかもしれない。
……いや、守るためというより、“生きるため”。
あたしはスプーンを置いて、ネウロを見た。
「ねえネウロ。
Hってやつ……自分で“契約”作ってるんでしょ?」
ネウロの目が、細くなる。
「そうだ」
「それって、悪意なの?」
ネウロは、少しだけ間を置いて言った。
「悪意にならぬように、悪意を定義している。
それが一番、香りがいい」
……わけ分かんないのに、分かる気がした。
あたしは立ち上がって、トレーを持った。
「じゃあさ。
あたしも、ちょっとだけ契約する」
「何をだ」
「ネウロ。今日は、プリンはあげない」
「……ほう」
ネウロが一瞬だけ固まって、そして笑った。
「それは自由の味がする」
「だから味で言うな!!」
廊下に出ると、空はまだ冷たい。
でもさっきより、ちょっとだけ呼吸がしやすかった。
悪意の反対は自由。
自由は、選べること。
選ぶためには、線を引くこと。
あたしは、まだ怖い。
でも、怖いって言える自分は、少しだけ自由だ。そう思った。
学食って、便利だ。
お腹が満たされる。
あと――噂が勝手に育つ。
育つっていうか、発酵する。
あたしがトレーを返却口に置いて、手を洗って、出口に向かおうとした時。
ちょうど後ろの席から、あの感じの声が聞こえた。
「ねえ、聞いた? 例の“妖精さん”」
……来た。
あたしは、来たことに対して、ちょっとだけ嬉しい自分がいるのが嫌だ。
だって、こういう時のあたしは、明らかに“聞き食い”してる。
脳が勝手に椅子の背に貼り付いて動かなくなる。
「何それ」
「B-304。画面が人によって違うやつ」
「あー、バグでしょ?」
「違うって。今日のは“契約”って出たらしい」
「は?」
……契約。
(やめてやめてやめて)
あたし、さっき言った。軽いノリで。
プリンを守るための自由の境界線として。
なのに、その言葉だけが一人歩きしてる。
「“契約”って、何と契約?」
「知らん。でも“教授が契約させられてる”って」
「春川先生が?」
「そう。相手は……“もう一人の私”らしい」
「は!? なにそれこわ!」
(こわいの方向、そこ!?)
あたしは心の中で頭を抱えた。
違う。そんなホラーじゃない。
……いや、ホラーではあるか。教授が教授だし。
「でもさ、今日の講義、“悪意の反対は自由”って言ってたじゃん」
「言ってた」
「自由って、選べることだろ?」
「うん」
「だから契約って、自由を守るやつなんじゃね?」
ここだけは、ちょっとだけ真面目だ。
でも真面目な話って、学食ではだいたい長生きしない。
次の瞬間には、別のやつが割り込んでくる。
「いや、契約って言ったら“縛る”じゃん」
「それ。首輪」
「首輪ww」
「教授、首輪つけられたの?」
「やばwww」
(やばいのはお前らの想像力だよ!!)
あたしは目を閉じて、深呼吸した。
逃げたい。
でも聞きたい。
……どっちだよあたし。
「でさ、聞いた? あの助手の人」
「白衣の?」
「そう。遅刻して入ってきた女」
「あの人、めっちゃ強そう」
「先生に減点されてたのに平然としてた」
「“減点はデータで返します”って言ったらしい」
「何それかっこいい」
(刹那さん、人気出るなこれ)
嫌な予感がした。
この大学の噂って、だいたい“強い女”を見つけると燃える。
「その助手がさ、契約の文面を直してたんだって」
「直すって何?」
「知らんけど、端末の画面、覗いてたって」
「覗いてたの?」
「覗いてた。いや、覗かせてた?」
(どっちもありそうなのがまた……)
「あの助手、教授の元カノじゃない?」
「え、急に恋バナ」
「だって距離感おかしかった」
「元患者らしいよ」
「患者!? じゃあ教授が治したの?」
「え、じゃあ恩人じゃん」
「恩人に首輪つけるんだ?」
(情報の混ぜ方が下手!!!)
あたしの頭の中で、教授の黒板がよぎった。
――脳=予測装置(推論→穴埋め→理解)
……ああ。これだ。これ。
今この学食で、人間たちの脳が
推論して、穴埋めして、勝手に理解してる。
しかも、すごいスピードで。
「ていうか“妖精さん”って呼んでるけどさ」
「うん」
「ほんとはAIじゃね?」
「AI?」
「教授が自分の脳をコピーして作ったとか」
「え、脳コピーできんの?」
「できるらしいよ。だって教授だし」
「教授ならできる」
「教授万能説ww」
(万能じゃない。怖いだけだ)
「で、そのAIがさ、契約して、“禁じ手”をやらないって誓ってるらしい」
「禁じ手?」
「報酬系いじるとか、依存作るとか、洗脳とか」
「洗脳!?」
「やば」
この辺りで、一気に温度が下がった。
笑ってたやつらの声が小さくなる。
(……やっぱり、そこは怖いよね)
でも、怖さの方向がまたズレる。
「じゃあさ、逆に“禁じ手”やったらどうなるの?」
「やるの?」
「いや、やったらって話」
「そしたら、あの魔人が食うんじゃね?」
……魔人。
(え)
今、さらっと“魔人”って言った?
学食の噂に、魔人って単語が混ざっていいの?
混ざるんだな。混ざるんだよな。
この大学、怖。
「魔人って、あの女の連れてる黒髪の男?」
「そうそう。いつも一緒にいるやつ」
「何者なの?」
「知らん。でも目が怖い」
「魔人ってあだ名、合いすぎ」
(あだ名で済ませるな!!)
「でさ、その魔人が言ったらしい」
「何を」
「“これは食えない謎だ”って」
「謎?」
「契約は謎じゃないって」
「何それ意味わからん」
「でもなんかかっこいい」
(かっこよくない!!!)
あたしは、ついに耐えきれなくなって席を立った。
立ってしまうと、逆に耳が遠くなる。
噂の輪が、後ろに引いていく。
でも最後に、一番やばい一言だけ聞こえた。
「つまりさ――
教授とAIと助手と魔人で、“契約”したってことじゃね?」
(……違う!!!!!!!!)
違う。
違うけど。
違うと言い切れない部分があるのが、もっと嫌だった。
廊下に出て、あたしは壁にもたれた。
胸が熱い。
恥ずかしい。
怖い。
ちょっと面白い。
教授が言ってたのは、これだ。
――理解は穴埋めだ。
――穴埋めは、世界を勝手に作る。
――世界を作れば、そこに“悪意”も勝手に生える。
あたしは深呼吸して、決めた。
(よし。次、ネウロに言おう)
「学食で“教授が首輪つけられた”って噂になってたよ」って。
絶対、あいつ。
笑う。
笑って、**“香りが良くなった”**とか言う。
……やだなぁ。
でも、ちょっと見たいなぁ。
あたしは自分の頬を叩いて、歩き出した。
自由って、選べること。
だったらあたしは、今日――
“噂に飲まれない”方を選びたい。
でも。
噂が発酵する匂いって、妙に腹が鳴るんだ。