春川英輔 特別講義   作:ギアっちょ

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発酵――ネウロ視点

 

学食という場所は、便利だ。

栄養が供給される。

それだけではない――情報が勝手に腐り、香りが立つ。

 

人間どもは、味の薄い真実をそのままでは飲み込めぬ。

ゆえに勝手に塩を足し、砂糖を足し、発酵させる。

発酵とは、つまり――穴埋めのことだ。

 

(春川が言った通りだな)

 

吾輩は柱の陰で、さも無関心そうに立っていた。

無関心ではない。

ただ、まだ“食わない”だけだ。

 

聞こえてくる。

 

「契約って出たらしい」

「教授が首輪つけられたってw」

「助手の人が直してたんだって」

「魔人が食うとか言ったらしい」

 

……魔人。

 

(あだ名がついたか)

 

人間は名付けが好きだ。

名付ければ理解した気になる。

理解した気になれば安心する。

安心すれば思考が止まる。

 

そして――止まった思考の周囲に、悪意は棲みやすい。

 

春川の講義は、そこまで見越していたか。

あるいは見越していない。

見越していなくても、彼は平然と刃物を置いていく。

 

人間どもがその刃物で勝手に遊ぶ。

それを見て、吾輩は腹が鳴る。

 

(いい香りだ)

 

契約。

首輪。

魔人。

助手。

妖精。

AI。

脳コピー。

 

どれも一部は正しく、一部は間違っている。

その混ざり方が、実に人間らしい。

 

一方で――吾輩は知っている。

 

“契約”の匂いは、謎の匂いと違う。

謎は、裂け目から立ち上がる。

契約は、裂け目に“縫い目”を作る。

 

縫い目は食いにくい。

だが香りは濃い。

 

なぜなら縫い目は、生きるための線だからだ。

 

吾輩は、食うべきか食わぬべきかを、舌の上で転がした。

結論は変わらぬ。

 

(まだ食わぬ)

 

完成前に奪えば、料理は死ぬ。

死んだ料理は、二度と香らぬ。

 

吾輩は、わざと雑踏の中を歩き、別の机の会話を拾う。

 

「先生、今日の講義ヤバかったよな」

「悪意の反対が自由とかさ」

「自由って何?」

「選択肢って言ってた」

「じゃあ俺ら、普段どれだけ選べてるんだろうな」

 

……ほう。

 

自分の“自由”を疑い始めたか。

それは良い。

疑いは、穴を開ける。

穴が開けば――何かが入る。

 

入るものが悪意とは限らぬ。

だが、入るものが“何か”である限り、謎は生まれる。

 

吾輩は笑いそうになり、寸前で抑えた。

 

すると、背後から足音。

 

(来たな)

 

あの女だ。

胃袋の女。

恐ろしく単純で、恐ろしくしぶとい。

 

が、トレーを返して戻ってきて、すぐ隣に立った。

目が、妙にキラキラしている。

 

「ねえネウロ」

「何だ」

「学食でね――」

 

吾輩は、分かっていた。

この女は、噂を拾ってくる。

拾ってきて、投げる。

そして自分が燃え尽きる。

 

「“教授が首輪つけられた”って噂になってた」

 

……来た。

 

吾輩は、わざと少しだけ沈黙した。

沈黙は味を濃くする。

 

弥子が続ける。

 

「あとね、“魔人”ってあだ名ついてた」

「ほう」

「ねえ、どう思う!? ムカつかない!?」

「別に」

「え、ムカつかないの?」

「名付けられるのは、人間の穴埋めだ。好きにさせておけ」

 

弥子は納得できない顔をした。

だが、その顔のまま、最後の一撃を投げる。

 

「それでさ。『教授とAIと助手と魔人で契約した』って言われてた」

「……」

「ちょっと!! なんでニヤけてるの!!」

 

吾輩の口元が、勝手に上がっていた。

自覚がある。

だが止める気はない。

 

「発酵が進んだだけだ」

「発酵?」

「噂は発酵する。発酵すれば香りが立つ」

 

弥子が顔をしかめる。

 

「香りって何!? また食べ物みたいに言う!」

「食べ物だからだ」

 

吾輩は淡々と言った。

 

「“首輪”という言葉は雑だ。だが雑さは強い。

 強い言葉は人間の脳を固定する。固定すれば選択肢が狭まる。

 つまり――噂そのものが、悪意の構造になり得る」

 

弥子が、ぱち、と瞬いた。

 

「……え、噂って、悪意になるの?」

「なり得る。本人が気づかぬ形で自由を削るならな」

 

弥子は、急に黙った。

その沈黙の匂いは、珍しく“学習”の匂いだった。

 

そして、弥子はおそるおそる言う。

 

「じゃあさ……誰かがHのこと、怖いって言い出して、みんながそれを信じたら」

「Hの選択肢が削れる」

「……それって」

「悪意だ」

 

弥子は唇を噛んだ。

普段ならすぐ怒鳴るのに、今日は怒鳴らない。

 

(面白い)

 

講義は、弥子の脳にも穴を開けた。

穴が開けば、塞ぎ方が問われる。

塞ぎ方が問われれば――契約が必要になる。

 

弥子が小さく言った。

 

「……やだな、それ」

「やだろうな」

「じゃあどうすればいいの?」

「知らん。人間は人間で決めろ」

 

吾輩は“突き放す”ように言っておいて、

そのくせ、ほんの少しだけ優しく続けた。

 

「だが、境界線を引け。

 噂を面白がるなら、面白がる相手を選べ。

 踏んでいい線と、踏んではいけない線を――自分で決めろ」

 

弥子が、じっと吾輩を見た。

 

「……ネウロ、今日ちょっとだけ優しくない?」

「気のせいだ」

「気のせいじゃないよ!」

「黙れ。プリンをよこせ」

 

「今日はあげないって契約した!」

 

弥子が胸を張る。

そして自分で言った言葉に、少しだけ驚いた顔をする。

 

吾輩は、静かに笑った。

 

「ほう。自由の味がする」

「だから味で言うな!!」

 

弥子が騒ぐ。

学食の空気が、少しだけ軽くなる。

 

その軽さの裏側で、噂はまだ発酵している。

だが、それでいい。

 

発酵の匂いが立つほど――

“境界線”は必要になる。

 

吾輩は食わない。

食わないまま、香りだけを楽しむ。

 

(……契約は、食えぬ。だが、腹が鳴る)

 

そして吾輩は思う。

 

次の一手は、Hだ。

Hが噂にどう触れ、どう避け、どう利用するか。

 

それが見ものだ。

 

吾輩は、弥子の頭を軽く小突いた。

 

「行くぞ、人間」

「ちょっと! その呼び方やめて!」

「嫌なら契約しろ」

「……契約、する!!」

 

弥子がムキになって叫ぶ。

それすら、今日は少しだけ“自由”に見えた。

 

吾輩は、またニヤりとした。

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