春川英輔 特別講義   作:ギアっちょ

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難しいけど――桂木弥子視点

講義が終わった瞬間、私は真っ先に思った。

 

……お腹すいた。

 

いや、ほんとに。

頭使うと、糖分が欲しくなるって言うじゃない?

さっきの講義、たぶん私の脳みそ、ずっとフル回転してた。

してたはず。たぶん。

内容は……うん……難しかった。ものすごく。

 

教室から人が流れ出してくる。

みんな、妙に静かだ。

 

いつもなら、講義終わりって「うわー眠かった」とか「ノート貸して」とか、もっと軽い音がするのに。

今日は違う。

空気が、ちょっと重い。

 

理由は簡単だ。

春川英輔の声がまだ頭に残ってる。

 

「善意は感情ではない。プロトコルだ。」

「悪意の反対は優しさではない。自由だ。」

 

……いやいやいや。

優しさじゃないの?

自由って何? 自由って、好き勝手していいってことじゃないの?

 

「わかんないけど、すごいこと言ってる」

っていう感覚だけが、胸の奥に沈んだまま。

 

隣を歩いていた男子が、友達に言う。

 

「結局さ、善意って“やさしい気持ち”じゃないんだってよ」

「それって冷たくね?」

「でも“手順”って言われると、わかるような……怖いような……」

 

怖い、って言葉が出るの、わかる。

 

だって春川教授の講義って、

“人間の心”を扱ってるのに、人間らしさが置いてけぼりになる瞬間がある。

 

それが――私は怖い。

 

でも。

 

でも、その怖さが、ただの怖さで終わらないのが……もっと怖い。

だって、納得しちゃうから。

 

「じゃあさ、悪意って止められないの?」

別のグループの声が飛んでくる。

男の子が苛立ったみたいに言ってる。

 

「止めろって言っても止まらない、って言ってたろ」

「じゃあどうすんだよ」

「入力変えろ、回路変えろ、増幅切れ……だっけ」

 

入力。回路。増幅。

まるで機械みたい。

人の心が、配線みたい。

 

――その時。

 

後ろから、ちょっと声が弾んだ女子の声が聞こえた。

 

「ねえ、聞いた? 今日の講義さ、“妖精さん”関係あるらしいよ」

「え、あの噂の?」

「そうそう。教授の研究室にいるっていう……」

「“AI”ってやつでしょ?」

「魔人が連れてきたとか、連れてないとか」

 

私は足が止まりそうになった。

 

……妖精さん。

あの、教室にいた“何か”のことだ。

 

今までの私は、

「かわいい」とか「不思議」とか、そういう軽い感想で済ませてた。

 

でも、今日の講義で“打ち消し手順”を聞いた後だと――

噂が、ただの噂に見えない。

 

噂って、増幅する。

同じ言葉が繰り返されると、だんだん“真実っぽく”なる。

怖いとか面白いとか、そういう感情が乗ると、もっと増える。

 

……それって、教授が言ってた“悪意の回路”に似てる。

 

「妖精さんって、何するの?」

「知らない。でもさ、AIならさ……洗脳とかできそうじゃない?」

「うわ、こわ」

「でも魔人がいるなら大丈夫じゃね?」

「魔人って何だよ」

 

その「洗脳」って単語が出た瞬間、

胸の奥が、ひゅっと冷えた。

 

私は思い出してしまったのだ。

 

あの、研究棟の廊下で一瞬見えた――

“メンテ中スクショ”。

 

たまたま目に入っただけ。

モニタに走ってた文字列。

ログ。設計。英数字。

それが、いま耳に入った言葉と繋がってしまった。

 

……もし、あれが“人の脳”に触れるような何かだったら?

 

私は、無意識にスマホを握りしめた。

スクショ、残ってない。

残してない。

残してないけど、記憶に焼けてる。

 

Procedure detected

Convert to survivability protocol

Drafting Experiment_003

 

――“生存”。

“設計”。

 

「弥子、どうした?」

横から声がする。

 

振り向くと、脳噛ネウロが、いつもの顔で立っていた。

相変わらず、腹立つくらい余裕そうな顔。

 

「……な、なにが?」

「顔色が変わっている。糖が足りんのか?」

 

私はムッとした。

 

「ちがう! 講義が難しすぎただけ!」

「ほう。難しさで顔色が変わるのか。人間は便利だな」

 

便利って言うな。

 

私は、むずむずする不安を振り払うみたいに歩き出した。

学食の方向へ。

ネウロは、当たり前みたいに隣に付いてくる。

 

「ねえネウロ……」

 今日の講義の話、どう思った?」

 

「“打ち消し手順”か。面白い“料理法”だ」

 

料理……。

 

「え、料理?」

「悪意という食材は、放っておくと腐る。

腐る前に火を通すか、塩を当てるか、冷やすか。

手順とは、つまりそういうことだ」

 

また難しいこと言う。

でも、変にわかりやすい。

 

「……じゃあ、悪意って、止められるの?」

「止める、という言い方が浅い。

火を止めるタイミングが肝要だ、と言ったろう?」

 

……それ、前も言ってた。

 

私は、唇を噛んだ。

 

「ねえ……妖精さんの噂、聞いた?」

「聞いたとも。すでに発酵が始まっている」

 

発酵。

またその単語。

 

「笑ってる場合じゃないよ!

“洗脳できそう”とか言ってる人いたし……!」

「ほう」

 

ネウロの口元が、ほんの少しだけ上がった。

 

――やだ。

この人、面白がってる。

 

「ねえ!!!」

「騒ぐな。増幅器になる」

 

その一言で、私は黙った。

 

増幅器。

教授の言葉が、ここで刺さる。

 

ネウロは、私の反応を眺めるように、静かに言った。

 

「お前は良い。不安になっている。

不安は、固定ではない。

固定は悪意を呼ぶが、不安はまだ自由の側だ」

 

自由。

またそれ。

 

私は、言い返せなかった。

だって、ちょっとだけ――

ほんのちょっとだけ、納得してしまったから。

 

学食が見えてきた。

匂いがする。

カレー。揚げ物。

それだけで、胃が反射的に動く。

 

ああ、やっぱり私は単純だ。

でも、単純で良かった。

こういう時、ちゃんと現実に戻れるから。

 

「弥子」

ネウロが、いつもより少しだけ低い声で言った。

 

「今日の噂を、吾輩に“ぶっ込め”。

聞いた言葉を、できるだけ正確にな」

 

「……え?」

 

「噂は、料理前の匂いだ。

匂いが濃くなる前に、味見をしておく」

 

私は背筋がぞわっとした。

 

味見。

舌の上。

謎。

 

「ネウロはやっぱり魔人だよ」

「今さら気づいたか」

 

ネウロは平然と言って、学食の列に並ぶ。

 

私はその背中を見ながら、もう一度だけ思った。

 

難しい。怖い。

でも――

“わからない”って思えるうちは、まだ大丈夫なのかもしれない。

 

教授が言ってた。

自由とは、選び直せること。

 

そして今、私は選ぶ。

 

とりあえず――

カレー大盛り。

 

だって、脳みそ使ったんだもん。

糖分と塩分と油が必要。たぶん。うん。

 

だけど。

 

カレーの匂いの向こう側で、

今日の“噂”が、確かに鳴いていた。

 

蝉みたいに。

しぶとく、うるさく。

 

そしてそれが、次の実験の匂いに変わり始めている気がして――

私は、スプーンを握る手に、少しだけ力を込めた。

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