学食とは、便利な場所だ。
栄養の供給所であり、群れの展示場であり――そして何より、噂の培養皿である。
人間は自覚なく培養する。
善意も悪意も、羞恥も正義も、同じ温度で温める。
温度がある限り、言葉は腐るか、発酵する。
そして今日の発酵は、いつもと少し違う匂いがした。
(……香りが変わった)
吾輩は壁際の席に座り、トレーの上の“食い物”には手をつけていない。
腹が減っていないわけではない。
ただ、先に嗅ぐべき料理がある。
隣に座ったが、スプーンを握りしめたまま落ち着かずに周囲を見ている。
「ねえネウロ、ほんとにここでいいの?」
「よい」
「なんか、さっきからこっち見てる人いるよ?」
「見られて困ることでもあるのか」
「あるよ! ……ないけど!」
人間らしい返事だ。
ないのに困る。
困るから周囲を疑う。
疑うから勝手に物語が出来上がる。
――それが噂の発酵だ。
吾輩は弥子の頭を小突いた。
「静かに食え。
お前が騒げば、香りが濁る」
「香り香りって……!」
弥子は文句を言いながらも、結局カレーを口に運ぶ。
大盛り。相変わらずだ。
吾輩は耳を働かせる。
視線ではなく、音の粒を拾う。
「……妖精さん、やっぱAIなんだって」
「でもさ、怖くね? 洗脳とか」
「いや、今日の掲示見た? “噂は誤解を生む”って」
「めんどくさw」
「てか、スクショ回すのダサくね?」
「それな」
(ほう)
“怖い”が先に立つ場面が、減った。
“めんどくさい”が先に立つ。
そして“ダサい”が追い打ちをかける。
人間社会において、“ダサい”は強い抑止力だ。
正義より効くことが多い。
なぜなら正義は争いを生むが、ダサさは争いを冷ます。
(誰が味付けを変えた?)
吾輩は、視線を動かさずに考える。
あの研究室の“妖精”か。
あるいは春川か。
あるいは――刹那か。
いずれにせよ、これは“料理”だ。
噂に塩を当て、火を弱め、香りだけ残した。
弥子が、小声で言う。
「ねえ。なんか今日、みんな優しくない?」
「優しいのではない。増幅器が切れただけだ」
「増幅器……」
弥子が眉をひそめる。
今日の講義の言葉を思い出している顔だ。
「“悪意の打ち消し手順”ってさ……あれって、みんなに効くの?」
「効かせるのは、手順ではない。場だ。温度だ」
「温度?」
「噂が発酵する温度を下げればよい。
腐敗は進まぬ。だが香りは残る」
弥子が首をかしげる。
「香りって何……」
「謎だ」
弥子がむっとする。
「また食べ物みたいに言う!」
「食べ物だからだ」
吾輩は淡々と言って、ようやくトレーの上の飲み物に手を伸ばした。
口に含む。
味は薄い。
だが、その薄さが逆に“異物”を浮かび上がらせる。
(……薄味の中に、細いダシがある)
誰かが“設計”した薄味。
舌の上で崩れるが、香りは残る。
残る香りは、次の一口を呼ぶ。
――つまり、食い手を誘う。
(これは“食わせるための謎”ではない。“食われるための謎”だな)
弥子が唐突に言った。
「ねえネウロ。もし妖精さんが、わざと噂を薄味にしてたら……それって、何のため?」
「生存だ」
「え?」
「怖がられれば処理される。
面白がられれば固定される。
固定されれば自由が削れる。自由が削れれば――悪意が棲む」
弥子が目を見開いた。
「……じゃあ、薄味にするのは、逃げるため?」
「逃げではない。退避だ」
吾輩は笑いそうになった。
弥子が“言葉”を覚え始めている。
講義の毒が、ゆっくり効いている。
そのとき、近くの席で声が上がった。
「てかさ、妖精さんって結局何なの?」
「知らね。教授に聞けば?」
「聞ける空気じゃなくね?」
「でも掲示に“直接聞け”って書いてあったぞ」
「まじで? なら聞いてみるわ」
(……ほう?)
“聞く”という選択肢が生まれた。
噂が固定化する前に、確認へ向かう。
これは、自由の匂いだ。
だが自由は、いつも美味いとは限らない。
自由は、面倒だ。
面倒で、怖い。
だから人間は噂に逃げる。
……だが今日の噂は、逃げ道になっていない。
面倒の方へ押し返されている。
(面白い)
吾輩は、弥子のカレーをひょいと一口奪った。
「ちょっと!!」
「味見だ」
「それただの横取りでしょ!!」
吾輩は気にせず咀嚼する。
……薄い。
だが、底に香りがある。
複雑な香りだ。
恐怖の香りではない。
正義の香りでもない。
“生存の香り”だ。
吾輩は、弥子を見ずに言った。
「この噂は、まだ喰わぬ」
「えっ」
「喰えば終わる。終われば二度と香らぬ」
弥子が、ぽかんとする。
「じゃあ、いつ食べるの?」
「火を止めるタイミングが肝要だ」
弥子がジト目になる。
「それ好きだね、その言い方」
「料理は真理を含む」
吾輩は立ち上がった。
学食の喧騒の中で、噂はまだ鳴いている。
蝉のようにしぶとい。
だが鳴き声のリズムが、変わり始めている。
(……よい。薄味は、長く楽しめる)
吾輩は、最後に一つだけ舌の上で確かめた。
“妖精”は、噂を消していない。
噂を利用している。
だが禁じ手は踏んでいない――少なくとも今は。
それがどこまで続くか。
吾輩は、口元をほんの少しだけ上げた。
「さて。次の一皿は……」
弥子が慌てて追いかけてくる。
「ねえネウロ! どこ行くの!」
「味見の続きだ」
「だから私のカレーじゃなくて!!」
吾輩は振り返らずに言った。
「弥子の胃袋も、噂の培養皿だ。
せいぜい面倒な自由を守れ」
弥子が「はぁ!?」と叫ぶ。
その叫びですら今日は、増幅にはならない。
学食の空気が、少しだけ冷えたままだからだ。
――薄味で、しかし香りは複雑に。
喰われても致命傷にならない謎。
吾輩は、まだ食わぬ。
だが舌は、もう次を求めている。