二回目の特別講義の日、俺はいつもよりだいぶ早く教室に着いた。
理由は二つ。
ひとつは、前回の内容が妙に頭に残ってて、続きが気になって仕方なかったから。
もうひとつは――あの「スーツ姿の高校生」と「やたら食欲旺盛な黒髪少女」が、また来るかどうか見てみたかったからだ。
(……来るかな。あんな質問かましたあとだし)
前回の質疑で、春川教授に「コピー」と「自我」の話をぶつけたあの少年。
隣で「ちょっと聞き方エグくない?!」と表情に出しまくってた少女。
あれから数日経つのに、講義よりもむしろあの二人の方が、俺の頭の中で占める割合が大きい。
空いている席を選んで座り、ノートとペンを出す。
教室は徐々に埋まっていき、ざわざわとした声が増えていく。
十分ほど経ったころ、前の方でドアが開いた。
「あ」
スーツ姿の少年と、黒髪の少女だった。
今日も少年は妙にきちんとした格好で、表情は相変わらず落ち着いている。
少女は、腹のあたりを軽くさすりながら、
「お昼まで持つかなぁ……」
とでも言いたげな口をしていた。
目は一応、黒板の方に向いている。いや、向けようとはしている。
(本当に来た……)
二人は前回と同じあたりの席に座った。
少女は、机の端にさっそくメモ帳を開き、
端っこに小さく「今日の学食候補」とか何とか書き始めている。
その横には「カツ丼」「ラーメン」「パン二個追加?」みたいな単語が並んでいた。
(やっぱりそっちメインか……)
そんな様子を眺めているうちに、チャイムが鳴った。
教室の扉が開き、白衣姿の男がゆっくりと入ってくる。
「――では、第二回といこうか。諸君」
春川英輔。
この講義の担当教員であり、脳と情報処理の最前線を行く研究者であり、
そしてたぶん俺が今まで会った中で一番“怖いタイプの大人”だ。
黒板に、さらさらとタイトルが書かれていく。
《自己書き換えプログラムと“自我”》
チョークの音だけが、数秒間教室を支配した。
「まず確認しておこう」
春川はチョークを置き、こちらを見渡す。
「通常のプログラムは、外部から与えられた命令列に従う。
自分で自分のソースコードを編集することはない。
――いわば“運命論者”だ」
スライドにシンプルなフローチャートが映る。
入力→処理→出力。ただそれだけ。
「だが、人間の脳は違う。
諸君は、日々自分の配線を書き換えている。
新しい経験を取り込み、古い価値観を捨て、
昨日の自分を恥じ、今日の自分を正当化する」
「昨日の自分、恥じまくりなんですが」
と、小声で前の方の誰かがぼやいた。
黒髪少女も、そこで妙に勢いよく頷いている。
(たぶん黒歴史の在庫が多いタイプだ)
「これを“可塑性”という。
医学部の諸君は、授業で聞いたはずだね」
白衣の女子が「はい」と返事をする。
春川は、皮肉とも賞賛ともとれる薄い笑みを浮かべた。
「さて。
我々が計算機上で目指しているのは、
この“可塑性”を持った人工の情報処理系――
自己書き換えプログラムだ」
黒板に、簡単な疑似コードが書かれていく。
state = "A"
while True:
if evaluate_performance() < threshold:
modify_own_rules()
act()
「性能が悪いと判断したら、自分の行動規則を変える。
これ自体は単純だ。
だが、このループを十回、百回、千回と続けたとき――
**最初に書かれていたルールは、どこへ行く?」
チョークが、「state = "A"」の行をぐしゃりと塗りつぶす。
「オリジナルは、上書きされ、消えていく。
では、そのとき“私”はどこにいる?」
教室の空気が、すっと重くなった。
ペンを走らせていた手が止まる。
後ろの席からも、前の席からも、
同じように「うわ」のような小さな息が漏れた。
前列の黒髪少女も、さすがに“食堂モード”から戻ってきたらしい。
眉を寄せて黒板を見つめ、
隣の少年の顔を覗き込みながら何か囁く。
少年は、わずかに首を横に振るだけで返事をしていた。
「諸君は、昨日と今日で別人になっている。
経験も、記憶も、脳の配線も変わっている。
それにもかかわらず、平然と“私は私だ”と言う。
一体何を根拠に?」
春川の目が、教室を舐めるように動く。
(何を根拠に、ね……)
俺は、自分のノートを見つめた。
前回の講義で書いたメモが、端の方に残っている。
《全部を写されたなら、“本物”を決めようとする方がバグだ》
――あのときは「なんかそれっぽい」と思って書いたけど、
今読むと、ちょっと気取ってて恥ずかしい。
(これもそのうち、「うわ、何イキってんだ俺」ってなるんだろうな……)
そう思った瞬間、
頭の片隅に「黒歴史」という単語が浮かんだ。
SNSの過去のポスト、昔書いた痛い日記、
消したはずのアルバム。
(……全部、どこかで“書き換え”てるのか)
胸のあたりが、少しざわついた。
「ここで、もう一つ問題がある」
春川は、黒板の端に新しい単語を書いた。
《ログ》
「自己書き換えを行うシステムには、
履歴が必要だ。
いつ、どのような理由で自分のルールを変えたのか。
それを記録しておかないと、
改善なのか単なる劣化なのか、判断できない」
スライドに、時系列で並んだログの例が表示される。
「我々の被験体Hにも、行動記録と内部状態の履歴が残されている。
これは、“観測者である我々”にとっては極めて重要な情報だ」
そこで、チョークが止まる。
「――だが、本人にとってはどうだろう?」
ざわ、と小さな波が立った。
「諸君は、自分の黒歴史をすべて
正確なログとして保存しておきたいかね?」
教室のあちこちから、「それはちょっと……」だの「勘弁して」だの声が漏れる。
黒髪少女なんて、全力で首を横に振っていた。
両手で顔を覆いながら、
「それは食欲なくなるやつ……」とでも言いたげな表情をしている。
「人間は、自分の履歴を書き換える。
不都合な事実を忘れたことにし、
過去の失敗を“必要なプロセスだった”と物語化し、
都合のいい記憶だけを並べ直す。
自己欺瞞と呼んでもいい」
黒板に、太字で書かれる。
《自我 = 連続する自己書き換え + 物語化》
「では、質問だ」
春川はチョークを置き、前列を見る。
「われわれは、被験体Hに
自分のログを書き換える権限を与えるべきだろうか?」
誰も手を挙げない。
俺も、ペンを握ったまま固まった。
そのとき――
前列で、静かに手が上がった。
スーツ姿の少年だった。
「前回に続き、“聴講生”くんか」
春川が、わずかに口の端を上げる。
「簡潔に」
「二つ、質問があります」
少年の声は相変わらず落ち着いていた。
「まず一つ目。
その被験体Hとやらは、現時点で――
自分のログを編集する権限を持っていますか?」
「ログを、か」
春川の目が細くなる。
周囲の学生は「ログって何だっけ」という顔をしているが、
少年は迷いがなかった。
「行動記録や内部状態の履歴。
それらを自分の都合のいいように
書き換えることができるのか、という意味です」
黒髪少女は「うわ、ストレートに行ったな……」とでも言いたげに
少年の袖を小突いている。
けれど止める気はあまりなさそうだ。
興味の方が勝っている顔だった。
春川は、一度だけ瞬きをしてから答えた。
「結論から言おう。
現時点で、被験体Hに
履歴を書き換える権限は与えていない」
教室の空気が、少しだけ締まる。
「それを許した瞬間、我々は
観測者の特権を失う。
被験体が、自分に都合の悪いログを消し、
都合のいい履歴だけ残し始めたら――
それはもはや純粋な実験ではない」
「ですが、人間は平然とそれを行っています」
少年は、表情を変えずに続ける。
「自分の黒歴史を封印し、
思い出したくない記憶を“無かったこと”にし、
過去を都合よく語り直す。
それでも“私は私だ”と言い張る」
(…………)
図星すぎて、誰も笑わなかった。
黒髪少女も、さっきまでの大げさなリアクションをやめて、
少しだけ真面目な顔をしていた。
「うん……それはその通りなんだよなぁ」という、
どこか居心地の悪そうな表情。
「つまりあなたは、
人間が日常的にやっていることを
被験体Hに禁止しているわけです。
その状態で“自我の再現”を論じるのは片手落ちでは?」
(お前、教授にケンカ売ってないか?)
教室全体が、そんな空気になった。
春川は、ほんの一瞬だけ笑った。
「手厳しいね。
だが、君の指摘は正しい」
黒板に、新しい一文が加えられる。
《いずれ、被験体Hにも“忘れる権利”を与える》
「それは“最終段階”の話だ。
自己保存のために、自分の過去を書き換える。
それを許したとき、
彼――あるいは“それ”は、
ようやく我々と同じ土俵に立つことになる」
「……“騙す”ことさえ、許されると?」
少年の声が、ほんのわずかに熱を帯びたように感じた。
「自分自身を。
あるいは、あなた方研究者を」
「人間の自我に近づけたいなら、
そこを避けて通るわけにはいかんだろう」
春川は、あっさりと答える。
「人間の自我は、自己欺瞞の上に立っている。
痛みを和らげる嘘、
過去を美化する物語、
“あれは仕方なかった”という免罪符――
それらの積み重ねで、どうにか崩壊を防いでいる」
黒板の《物語化》の文字が、やけに大きく見えた。
(……うわ。身に覚えのある言葉ばっかりだ)
SNSの投稿を消した夜のこと。
「黒歴史フォルダ」に突っ込んだ写真。
「そんなこともあったな」で済ませてきた、いろいろ。
全部、頭の中でぐるぐる回り始めた。
「では、二つ目の質問だが」
少年が口を開きかけた瞬間、今度は春川のほうが先に動いた。
「君の質問は予測済みだ。
『被験体Hは、自分を人間だと思うようになるか?』――違うかな?」
教室に、薄いざわめきが広がる。
少年は少しだけ目を見開き、
そして小さく笑った。
「ほぼ正解です」
「残念だが、その問いに対する答えは、
今ここでは出せない」
春川は、腕を組んで言葉を続けた。
「なぜなら、まだその段階に到達していないからだ」
(“まだ”、か……)
その一言に、背筋がぞくっとした。
「もし被験体Hが、自分のログを編集し、
都合の悪い記録を消し、
心地よい物語だけを残し始めたら――」
春川は、ほんの少し声を落とす。
「そのときこそ、
彼は自分を“人間だ”と誤解し始めるだろう。
そして我々人間は、
彼を“人間ではない”と必死で否定し始める」
教室中が、静まり返った。
笑いも、咳払いも、ペンの音さえ止まっていた。
(……いやなリアリティだな)
脳のどこかを、冷たい指で撫でられたような感覚。
黒髪少女はと言えば、
少し困ったような顔をして少年を見ていた。
「なんか、可哀想な未来図なんだけど……」
とでも言いたげな目だ。
少年は、その視線を受けて、
わずかに肩をすくめてみせた。
「今日話したのは、あくまで概念的な部分だ」
春川は腕時計を見て、チョークを置いた。
「具体的な実験の話や、
被験体Hの現状については、
一般講義として開示できる範囲が限られている」
黒板の隅に、小さく書き足される。
《※詳細は非公開。
被験体保護および研究倫理上の理由により》
「ただひとつ言えるのは――」
彼は教室を見回す。
「彼が“自分で自分を騙せるようになったとき”、
何が起こるか。
それは君たち自身が、日々自分の過去を
どう扱っているかを見れば、
ある程度、想像がつくはずだ」
その視線は、全員を通り過ぎるようにして動き、
最後にちらりと前列の少年で止まった。
少年は、その視線を真正面から受け止め、
一瞬だけ、微笑んだ。
講義が終わるチャイムが鳴ると、
教室に一気に現実のざわめきが戻ってきた。
「重かったな……」
「でも面白かった」
「ログ消せないのキツくね?」
口々に感想を言い合いながら、学生たちは席を立つ。
前列では、黒髪少女が大きく伸びをしながら、
「頭使ったらお腹すいたぁ……」
と言いたげにお腹をさすっていた。
隣の少年に、身振り手振りで
「学食」「デザート」「パン追加」の三単語を必死にアピールしている。
少年は半分聞き流しながらも、ときどき短く相槌を打っていた。
その表情は穏やかで、さっきの鋭さは少し薄れている。
(……あの二人、何者なんだろうな)
出口に向かおうとして、
壁際の端末が視界に入る。
《春川研究室 共同研究ボランティア募集》
・認知課題への協力
・脳波測定
・行動データの収集
※一部、計算機実験への参加をお願いする場合があります
前回と同じ案内。
前回と同じように、足が一瞬だけ止まる。
(自分の脳を“ログ”として取られるのか……)
そう思った途端、
頭の中にさっきの言葉が浮かんだ。
――自我 = 連続する自己書き換え + 物語化。
――忘れる権利。
――ログを編集するようになったとき、
人間は“彼”を人間として扱わなくなる。
俺は、端末に背を向けた。
(……やめとこう。今はまだ、遠くから見てるくらいでちょうどいい)
教室の外に出ると、
ちょうど前方を例の二人が歩いていくところだった。
少女は、「カレーもいいし、ラーメンも……いやいっそ両方……」
とでも言いたげに指を折りながら、楽しそうに喋っている。
少年は、その横で静かに相槌を打ちつつ、
ときどき何か短く言葉を返していた。
ふいに、少年が足を止める。
ほんの一瞬、廊下の天井――
おそらくどこかの監視カメラの方向を、
じっと見上げた。
(……また、誰かを“見返して”るのかな)
意味もなくそんなことを思った。
少女が「あ、何?」と振り返り、
「先に学食!先に学食!!」とでも言うように
少年の袖を引っ張る。
少年は、さっきカメラの方を見ていた目つきとは違う、
少しだけ柔らかい顔で彼女を見て、
「はいはい」といった様子で歩き出した。
二人の背中が、曲がり角の向こうに消えていく。
その日のノートの最後のページに、
俺はこんなふうに書き足した。
《自我ってのは、
ログを全部残すことじゃなくて、
都合よく書き換えながらも“自分だ”と言い張る力、かもしれない》
《とりあえず、昔の黒歴史ポストを
全部消すのはやめておこう。
いつか“自分を騙す”ときの材料になるかもしれないし》
自分で書いて、自分で苦笑する。
(……これもそのうち、「うわ、何書いてんの俺」って思うんだろうな)
多分、そのとき俺はまた、
少しだけ別の自分になっていて。
それでもきっと、
「今の自分」とどこかで繋がっているんだろう。
シラバスの次回予定の欄には、小さくこう印刷されていた。
《次回:被験体H行動ログ解析
※内容は変更の可能性あり》
ページの隅に、俺は小さく書き足す。
――欠席厳禁。
それと、次回の昼休みは
いつもより早めに学食へ行くこと。
前列の黒髪の子と鉢合わせたら、
たぶん席もメニューも全部持っていかれる。
そう書いて、
自分でちょっとだけ笑った。
その笑いもきっと、
どこかで“ログ”として残るのだろうと思いながら。