最初に言っておく。
あたしは別に、脳科学とかコンピュータサイエンスとか、そういうのに興味があるわけじゃない。
興味があるのは、
・今日の昼ごはん何食べるか
・帰りにコンビニの新作スイーツを買うお金が残っているか
・ネウロが変な事件を拾ってきたせいで、夕飯がまともに食べられなくならないか
――主にこの三つだ。
なのに。
「弥子。今日の放課後は大学に講義を受けに行くぞ」
ホームルームの後、教室でその一言が落ちた。
「……はあ?」
机を片付けていた手が止まる。
ネウロは、いつものニヤけた顔であたしの机に肘をついていた。
その顔を、誰も見ていないのが腹立たしい。
何しろ、こいつは魔人だ。
担任より怖い生き物だ。
「大学の講義だぞ? 人間どもが頭を捻って考えた知識のフルコースだ。
胃袋探偵としても、一度ぐらい味わっておくのも悪くあるまい」
「知識のフルコースって言ったあとに、こっち見ながら『お前の本業は胃袋だがな』みたいな顔するのやめてくれる?」
「事実だろう」
即答か。
「それに――」
ネウロは目だけで笑った。
「興味深い人間も集まっている。
“脳”と“情報処理”をこね回しているらしいぞ。
変態臭がする。私は好きだ」
「変態に惹かれないでよ!」
止める間もなく、話は勝手に決まっていった。
というわけで今、あたしはとある大学の講義室に座っている。
隣には、制服の上に妙にきっちりしたジャケットを着せられたネウロ――もとい「スーツ姿の高校生」がいる。
完全に「優秀な外部聴講生」みたいな顔をしているのが腹立つ。
(こいつ、こっそり変な実験台にされてもざまあみろとか思わない……いや、ちょっとだけ思う)
ほどなくして、教壇の扉が開いた。
白衣に細い眼鏡。
背丈はそこそこ。
声は落ち着いてるけど、目だけが妙に冷たい男。
――春川英輔教授。
「では、第一回講義を始めようか。
テーマは“脳科学と計算機科学のフロンティア”だ、諸君」
(フロンティア……フロンティアって何だっけ。新作ハンバーガーの名前じゃないよね)
周りの大学生たちは、すでにノートを構えて真面目モードだ。
あたしも一応、開いた。
開いたページの右上には、大きく「本日の昼」と書いてあるけど。
「“知能を作り出す”という行為は、“生物を作り出す”こととほとんど同義だ」
春川教授の一言で、教室の空気が固まる。
(生物? え、いきなりそんな重い話? もっとこう、「脳ってフシギだよね★」みたいなポップな導入は……?)
黒板には、ニューロンだの0と1だの、数学の授業でトラウマを思い出しそうな図が並び始めた。
「現在の技術では、アメーバ一匹すら人工的には作れない。
だが、“複製”ならどうだ?」
(複製……)
そこで一瞬、「脳みそを丸ごとコピーされて、別の自分ができちゃう」イメージが浮かんで、背筋がぞくっとした。
同時に、「もしコピーされたら、胃袋も二つ分になって、二倍食べられるのかな……」という最低な考えも浮かんだ。
自分で自分がちょっと怖い。
教授は話を続ける。
「脳内の電気信号を正確になぞることができるなら、最高度の知能もいとも容易く生み出せる。
さて、その知能が完成したとき、何が可能になると思う? ――想像くらいはつくだろう?」
教室のあちこちで「こわ……」とか「SFじゃん……」とか声が漏れる。
(想像? えーと……)
あたしの頭の中に浮かんだのは、
・宿題を全部代わりにやってくれる
・料理のレシピを完全記憶してくれて、いつでも再現できる
・ダイエット中だけ胃袋だけを切り離しておける
――などなど、学問のかけらもないラインナップだった。
(……言わないでおこう)
隣を見ると、ネウロは珍しく真面目な顔で黒板を見ていた。
その視線は、教授というより――もっと別の何かを見ているように見える。
(やめてね? ここで事件起こさないでね?)
しばらくして、スライドの片隅に、簡略化された顔のアイコンと「HAL」という文字が映った。
「現在、私の研究室では概念実証として、一体のプログラムを“育てて”いる。
名前は――まぁ、今日は仮に“被験体H”としておこう」
(いや今、普通に名前出ましたよね?)
心の中で全力ツッコミ。
「感情パラメータを導入し、自己書き換えをさせ――」
教授は淡々と続けるけれど、あたしのノートにはもう「感情パラメータ」の横に「=お腹の空き具合?」と書いてあった。
(だってさ、感情が一番分かりやすく出るのって、お腹すいてる時か満腹の時じゃない?)
隣をチラッと見ると、ネウロはすごい勢いで何かを書いていた。
覗き込んだら、多分「人間の弱点一覧」みたいなろくでもない内容が出てくるに違いない。
そして問題の時間――質疑応答がやってきた。
「質問がある者だけ、発言を許可する」
教授がそう言った瞬間、あたしは「はい!」と手を挙げかけて、寸前で止めた。
なぜかというと、頭の中に浮かんでいた質問がこれだったからだ。
『この講義って、途中でお菓子食べながら受けちゃダメですか?』
死ぬ。
間違いなく、ここで死ぬ。
学問的な意味ではなく、社会的な意味で殺される。
(我慢。我慢しよう弥子)
すると、隣でスッ、と手が上がった。
――ネウロだ。
「ちょ、待ってほんとやめて?!」
心の中で叫ぶ暇もなく、教師とあの魔人の視線が交差する。
「そこの、“聴講生”君。簡潔に」
「質問は二つあります」
そこから先は、あたしのキャパを軽く越えていた。
・被験体Hは、自分がコピーである可能性をどこまで自覚しているか
・春川教授の脳をコピーした場合、どっちを消される方が嫌か
(ねえネウロ、さらっとエグいこと聞かないで??)
周りの大学生たちが凍りつく中、あたしはネウロの袖を小突きながら、
「ちょっと!! 聞き方!!」
と目で抗議した。
ネウロは、ほんの少しだけ口の端を上げて、まったく堪える様子もなく教授を見ていた。
(ああもう、胃が痛……いや、胃は元気だ。むしろさっきからお腹すいてる)
教授の答えは、たぶんすごく重要なことを言っていたんだと思う。
“自我は自己欺瞞の上に成り立っている”とか、
“いずれ被験体Hにも忘れる権利を与える”とか。
でも、そのへんはあとでノートを読み返して考えることにした。
今はただ一つだけ、はっきり分かったことがある。
(――この講義、めちゃくちゃ重い)
チャイムが鳴り、講義が終わった。
「……」
あたしは椅子に座ったまま、しばらく天井を見上げていた。
(なんか難しいこといっぱい言われたけど――)
脳みその中は、
コピーだの自我だのログ改竄だのがぐるぐる渋滞している。
でも、そのど真ん中でひときわ大きな声で叫んでいるのは、いつも通りのあの声だった。
――お腹すいた。
「ネウロ」
「何だ、人間」
「学食行こ。死ぬ。お腹が」
「……ふむ」
ネウロは、さっき教授とやり合った時と同じ顔で、あたしを見た。
何かを計算しているような目。
「さっきの講義内容は理解できたか?」
「……半分くらい?」
「残り半分は」
「お腹すいてて頭に入らなかった」
「堂々と言うな」
呆れ声で言いながらも、ネウロは立ち上がる。
「いいだろう。せっかく大学まで来たのだ。
ここの学食という“人間の胃袋データ”も、ついでに観察しておくとしよう」
「うんうんうんうん!! そうだよそうだよ!!」
あたしは勢いよく頷いた。
ノートには、“自己書き換えプログラム”の下に
でかでかと「カツ丼」「ラーメン」「カレー」の文字が躍っている。
(まあいいか。
難しいことはネウロと教授に任せておけば、たぶん勝手に進む)
あたしは胃袋探偵。
正直、脳科学よりカツ丼の方が得意だ。
それでも――ほんの少しだけ、
胸の奥がざわざわしたままだった。
(コピーされた“あたし”がどっかにいたとして。
そっちのあたしも、同じだけ食べるんだろうか)
そう考えて、「それはそれで面白いかも」と思ってしまった自分に、
またちょっとだけ引いた。
学食は、予想以上に戦場だった。
「日替わりA、残りわずかでーす!」
「えっ、A何?! ネウロA何?!」
「唐揚げ定食だ」
「それ!!」
列に並びながら、必死にメニュー表とにらめっこする。
さっき教授が言っていた。
――“昼休みが終わるまでに昼食のメニューすら決まらん”。
(いや、めっちゃ分かるわそれ)
あたしの場合、「決まらない」というより「全部食べたい」なんだけど。
気づけば手元のトレイには、
・唐揚げ定食(大盛)
・カレーライス
・小ラーメン
・コロッケ2個
・プリン3個
……などなどが並んでいた。
(よし、今日もいい仕事した)
席に着いて、一口目をほおばる。
唐揚げを噛んだ瞬間、さっきまでの難しい話が
全部遠くに吹き飛んでいく。
「んーーーまっ」
思わず目を閉じて、軽くガッツポーズ。
ネウロは対面に座りながら、じっとあたしを観察していた。
「なるほど。
“喜びパラメータ”が最大に振れた顔だな、人間」
「見ないでよ照れるから! あと人間人間言うな!」
プリンを前にして、本気で「どれから食べよう」と悩んでいるとき、
ふとさっきの講義のフレーズが頭をよぎった。
――自我は、連続する自己書き換えと物語化。
(……あたしの“物語”って、
8割ぐらい食べ物で構成されてない?)
そう思って笑ってしまう。
よく分かんない難しいことは、きっとこれからも山ほど出てくる。
自我だのコピーだの、ログだのなんだの。
でも、少なくとも一つだけ、あたしは自信を持って言える。
** ――お腹が減ったら、何もかも難しくなる。
お腹が満ちれば、とりあえず生きていける。**
それぐらいシンプルな“自我”でも、
きっとどこかに価値はあるんじゃないかな、なんて。
唐揚げをもう一個かじりながら、
あたしはそんなことをちょっとだけ思った。
……三秒後には、次に何を食べるかで頭がいっぱいになっていたけど。