ドシュトフロムンド戦記~少年と精霊と大地の果て 作:nocomimi
リナハはずっと目を覚ましていた。眠る気分になどなれない。
彼女は眼下の地球に目を凝らし、耳を澄ませていた。さっき聞こえた奇妙な男の声がもう一度聞こえないかと神経を集中した。だがその声はもう二度と聞こえてこなかった。
何時間が経過しただろうか。この、太陽も月も星も見えない空の下、白い霧に包まれていると時間の感覚がヘンになる気がした。いや、そもそも時間などもとから経過していないのかも知れないが。
--フロウ...無事でいてね---
その想いだけが頭の中を去来する。だが、頭上から光が降りてきたのを感じて彼女は顔を上げた。
あの子だ。リナハは安堵を感じた。
ケープを着た少女のシルエットが降りてくる。音もたてず、ただ気配だけが感じられる。
リナハは待ちきれず駆け寄るようにして声をかけた。
「ねえファイ、聞いて」
ファイはリナハの顔を見た。
「さっきね、ヘンな男の声が聞こえたの。なんだかとても意地悪な感じで....」
うまく説明が出来ずリナハは言葉を探した。
「意地悪で冷たい感じで。その男がね、フロウのことを知ってるみたいで、何かフロウに対して仕掛けようとしてる雰囲気だったの。うち、なんだか怖くなっちゃって」
ファイは黙って聞いている。リナハは言葉にしてみて初めて、自分の話があまりにもとりとめがないことに愕然としてしまった。だが気を持ち直した。たぶん、うちの勘は正しい。フロウは助けを必要としてるんだ。
リナハは唾を飲み込むと言葉を継いだ。
「ねえ、ファイ...できれば下に降りていってフロウを守ってあげてくれない?ファイならできるでしょ?あの変な男、きっとフロウに何か悪いことをしようとしているんだと思う。木こりのおじさんも一緒にいるけど、でも...あの変な男、なんだか悪賢そうな雰囲気だったし....」
「知っています。私は彼に対処するためにここを離れていたのです」
ファイは答えた。
リナハは目を丸くして言葉を失った。
「知ってる...って?最初から?」
「知っていました。彼の存在もその意図も」
ファイは静かに言うと下界を見下ろした。
「彼はフロウの存在を感知しました。いまや下界で彼の影響下にいない人間は数えるほどしかいません。彼はその一人ひとりを誘惑し、彼のもとに引き入れようとするでしょう....そして彼の主人の支配下に置くために」
「えっ....」
リナハはますます驚いて息を呑んだ。自分の勘だけで感じていたぼんやりとした危機感が、ファイの話によって一気に鮮明になり、細部まで書き込まれた絵のように目の前に描き出された気がした。
「じゃあっ...じゃあファイ!こんなことしてる場合じゃないよ。すぐに助けに行って、あいつを追い払わないと!」
そして言ってからリナハは気づいた。もしかしてファイは既に?
「そ...それかもうあいつを追い払ってくれたとか?それならいいんだけど....」
しかしファイは首を振った。
「いいえ。私にはそこまでの力はありません。しかし一時的に彼を妨げることはできました。とはいえ...........」
ファイはリナハを見ないまま言葉を継いだ。
「彼はいずれもう一度フロウの前に現れるでしょう。フロウだけではありません。彼に従わない人間一人ひとりの前に」
「そんな……じゃあ、フロウは……フロウは、あいつに狙われてるってこと?これからも狙われ続けるってこと?」
リナハは当惑し、そして湧き上がってくる不安感に耐え切れず自分の胸を両腕で押さえた。だがファイは続けた。
「彼は地の上にある全ての人を自らの主の支配下に引き入れるために働いています。また彼はハイリアに選ばれた者を憎んでいますが、選ばれたにも関わらず地に留まっている者たちはなお一層彼の注意を引くのです」
それを聞いたリナハは顔を上げて問いかけた。
「ねえ、じゃあうちハイリアにお願いしたいの。『フロウをあいつから守って』って。伝えてくれない?」
「彼自身はいま地にある者たちを傷つけることができません。肉体をとっていないからです」
ファイの答えにリナハは混乱した。
「でも...でもさっき言ったじゃん。誘惑して引き入れようとするって。それって危険でしょ?うちが頼みたいのは、それから守ってって.......」
「それはできません」
ファイが首を振る。リナハは愕然とした。
「でき...できないって...どうして?ハイリアは神さまなんでしょ?どうしてできないの?」
少しの沈黙のあとファイが答えた。
「ハイリアは人が地に置かれた最初から、人に自由意志をお与えになりました。それゆえ人は常に異なる二つの声を聞いたあと自らの行動を決定すると決められているのです。『善をなせ』という声と、『悪をなせ』という声、の両方を」
リナハは言われたことを頭で消化することがすぐにはできなかった。
「い...意味わかんない。そんなのって残酷じゃん。どうしてそんなルールにしちゃったの?」
「リナハ。人は造られたとき、強いられてではなく自らの意思で善を選び取ることを期待されていたのです。それは今でも変わらないのです」
ファイは言った。
「この自由意志はわたしたち精霊にも当てはまります。わたしもまた自由意志でハイリアに仕えているのです。いっぽう、彼は自由意志で選択をした結果ハイリアに逆らっています。ハイリアはそれもまた尊重されます。そして彼の誘惑にフロウが屈するなら、それもまた自由意志による選択です」
「どうして?そんなのおかしいよ。だってフロウはまだ子供だよ?どうしてそんな目に遭わせるの?」
堪えきれなくなったリナハは大声で叫んだ。彼女の声は白い霧の中に吸い込まれ、すぐに静寂がやってきた。しばらくの後、ファイはゆっくりと口を開いた。
「リナハ。あなたの心は理解しています。しかし、ハイリアは人を守らないのではありません。人が選ぶことを奪わないのです。人が自らの道を選んだとき、ハイリアはその道程を最後まで導かれるでしょう」
リナハは涙をこぼしながら首を振った。
「そんなの綺麗ごとだよ!フロウはまだ子供なのに、なんでそんな難しいこと、選ばせるの?なんで……なんで助けてくれないの?」
ファイはリナハのほうを向くとその肩に手を置いた。相手の意外な動作に、リナハは涙を拭きながらも顔を上げた。
「リナハ。誘惑を退けるのは彼自身の戦いです。それを代わりに戦ってあげることは誰にもできません。ですが.......ハイリアの助けは確かに来るでしょう。違う形をとって」
リナハは涙で濡れた目を見開いた。
「違う形って........どういう形なの……?」
ファイは首を僅かに傾けた。
微笑んだ?
リナハは一瞬だけだが思った。だが勘違いかも知れなかった。
「それを今話すことはできません」
ファイは前を向いた。リナハは落胆した。この子はいっつもそうだ。肝心なところになると話してくれない。リナハは恨めし気な目でファイの横顔を睨んだ。
「というのも、現今の状況にどう対処するかはすべてハイリアの手に委ねられているからです」
リナハは溜め息をついた。そしてちょっと微笑んだ。
なんか、わかってきた。ここでのルールみたいのものが。
「信頼しろ.......って言いたいんでしょ?」
ファイは答えなかった。だがリナハには沈黙が肯定を表すように感じられた。
リナハはその沈黙を受け止め小さく息を吐いた。
「……そっか。信頼しろってことなんだね。ハイリアを。そして……フロウを」
ファイはわずかにまばたきをした。それが肯定なのか、ただの反応なのか、リナハには判別できなかった。だが、否定ではない。それだけは分かった。
リナハは眼下の地球に目をやった。フロウの姿を見つけたい。その声を聞きたい。だがそのどちらもかないそうになかった。
---ハイリアの助けは確かに来るでしょう。違う形をとって---
こんな、たったひとつの、ぼんやりとした言葉を信頼しろ、というのか。
それを考えると、涙が出そうなほど心細くなった。リナハはまたファイの横顔を見た。彫像のように動かないその横顔を。ただ胸が上下しているから生きて呼吸しているのが分かる。ファイは本当に奇妙な少女だ。リナハは思った。
「ねえファイ」
リナハは口を開いた。
「フロウね。身体が小さくて弱いのに、うちのこと守ろうとしてくれたんだよ。鬼に殴られて痛めつけられてもめげなかった。あいつカッコいいって、うちちょっと思っちゃった。ファイもそう思うでしょ?」
ファイはリナハのほうを向いた。
「人の魂の強さはその勇気によって決まります。しかし自らに力のないことを知りながらなすべきことをするために進み出ることができる者は、多くはありません」
「でしょ?でしょ?」
リナハは思わず嬉しくなって声を上げた。言葉遣いは相変わらずややこしかったが、リナハの意見に賛同しているように見えたからだ。
「ねえ、うちさ、男子って鼻垂らしたバカばっかだって思ってたけどそうじゃない奴もいるって初めて知ったかも。だからね、もしもだよ。もしもあいつから告白してきたらさ....」
「私には多くのことは言えませんが...ひとつはっきりしていることがあります」
リナハを遮るようにファイは言った。
「今このとき、そのような者たちが地に残されたことには理由があります。それは、今より先、かつてないほど、そしてこれからもないほどの危機が地を襲うからです」
「え?ちょ、ちょっと待っ...」
リナハは口を開けた。言葉が途切れた。ファイは淡々と続けた。
「この地がさばかれるに先立ち、ハイリアはある人達を選んで救い出し、別の人達は残されました....しかし今、そのどちらでもない者たちがその危機に立ち向かおうとしています。それもまた地が分けられる前から定められていたこの世界の理に沿ったことです」
「待って...待って!どういうことなの?その危機って....それにフロウがそれに立ち向かうって...」
「以前あなたに見せたものをもう一度見せましょう」
ファイは言うと下界を指でさした。リナハが視線を落とすと、王国の三つの地方がファイの指し示す方向に見える。どの地方にも毒々しい赤紫色が広がっている。以前に見たときはそれが各地方の半分ほどを覆っていたのが、今ではほぼ全体がそれに飲み込まれてしまっている。
「この悪しき気が王国の全てを覆ったとき、封じられた者が姿を現します」
「封じられた者?」
リナハは顔を上げて尋ねた。
「かつて猛威を振るい、そしてハイリアによって封じられた者です。ですが人の心の悪の深まりと広がりゆえに封印が弱まったのです。その者が姿を現すとき、危機が始まります」
「そ...それって....なにかの怪物みたいな?でっかいお化けとか?どんな奴なの?」
急激に怯えが込み上げてきたリナハは震えながら聞いた。だがファイは沈黙した。
リナハは混乱した頭と格闘した。フロウは子どもだ。うちと同じただの13歳の。それが、巨大な化け物が現れるとき危機に立ち向かうとか、そんなのどう考えたって悪い冗談だ。
「しかし、彼が現れたとき、ハイリアもまた現れるはずです」
ファイは言った。それを聞いたリナハは目を上げた。その瞬間、恐れに潰されそうだった胸の中に暖かい希望の火がともった気がした。
「じゃあ、やっぱり助けに行ってくれるのね?そうなんでしょ?」
「何をするかは全てハイリアに委ねられています。しかし........あなたは知っておいてもいいでしょう」
ファイはそう言ったあと少し黙った。意味ありげな相手の言葉に、リナハは怪訝な顔をして相手を見た。
だがファイはリナハのほうを向かないまま再び口を開いた。
「もしもあなたの願いが叶ったら何が起こるか、わたしはあなたに伝えました。ハイリアのこころを私はまだ知りません。しかしハイリアは全てをご覧になってから物事をお決めになるかたです。ハイリアは決定を下す前に地に一度降りられるでしょう。その際、あなたもお会いできるかも知れません」
「ほんとに?」
リナハは声を上げた。その声は震えていて、恐れと希望が入り混じっていた。だが希望が勝っていた。
ファイを見つめると、その瞳は深い湖のように静かだった。リナハは続けて問いかけた。
「じゃあさ、うち……ハイリアに会ったら……フロウを助けてって直接お願いできるの……?」
ファイはすぐには答えなかった。その沈黙は、拒絶でも肯定でもなく、何かを見極めているような沈黙だった。
やがて、ファイは静かに言った。
「ハイリアは人の願いを聞くために降りられるのではありません。決断を下すために降りられます」
リナハは息を呑んだ。
「決断……?」
「はい。地がどうなるべきか。誰が守られ、誰が試されるべきか。そのすべてを見極めるために」
「じゃあ...やっぱうちの願いは聞かれないってこと?」
リナハは悄然となった。
「あなたの願いは既に私がハイリアに伝えています。それを聞き届けるかどうか、それはハイリアのご決断次第です。ただ.....」
「信頼しろ...って言いたいんでしょ。わかるよ。わかるけどさぁ....」
ファイの言葉にリナハは食い下がった。
「うちは何回でもお願いしたいよ。だって心配だもん。不安だもん」
リナハは繰り返した。
「心配だもん。絶対にフロウを助けてほしいから。もう一度会いたいから。...もしも会えなくたって....あいつには幸せに生きてほしいから」
それを繰り返しているうち、いつしかリナハは意識が薄れていくのを感じた。
眠気だろうか。いや、夢から覚めるときのような感覚。急に水中から浮かび上がるときのような。トンネルを抜けていくような。
* * * * * * * * * * * * * * * *
ふと気が付いてリナハは顔を上げた。地上に戻ったのだろうか?
身体を起こすと、周囲の白い霧は消え去っている。上を見上げると、相変わらず太陽も月も星もないが、空からの光はさっきよりよほど強い。
眼下に目をやると地球は小さくなっている。
どこか別の場所に移されたのだろうか。
その時、頭上から新たな光源が降りてくるのを感じた。ファイだろうか?
だが目を上げた瞬間、リナハは気づいた。これは今までに見たことがないほど強烈な光だ。
彼女は思わず両手で顔を庇った。光がまるで自分の皮膚の中にまで浸透してくるように感じる。
同時にリナハは思った。もしかするとこの光に刺し貫かれたら死んでしまうのではないか?
だが、どこにも逃げる場所がない。周囲に身を隠す物もない。
光が降りて近づいてくる。やがて頭上も、周囲も全てがその強い光に覆われた。熱もない。眩しいが、太陽ではない。
どうしよう....死んじゃうかも。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、光はさらに強くなった。皮膚を通り抜け、骨の奥まで染み込んでくるように思える。
リナハは震えながら叫んだ。
「ファイ……?ファイ、どこ……?」
返事はなかった。光が周囲に溢れすぎて、ファイの気配も感じられない。
やがて――光の中心から、音ではない何かが響いた。
---リナハ...私はいます----
その声を聞いた瞬間、リナハの眼から涙が迸り出るように溢れた。
あの時。祖母に手を引かれて行った野原で小さな祭壇を作った夕方。
祖母の教える祈りの言葉を拙い口調で唱えたあの日。その時に見た小さな、朧げな光。
初めて...ではない。二度目。でもあの時はよくわからなかった。
しかし、今ははっきりと分かった。強烈に。