ドシュトフロムンド戦記~少年と精霊と大地の果て   作:nocomimi

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第一章: フロリア湖のほとりで
森の少年


最初の勇者が選ばれた時より遡ること千年以上昔のことである。群生する巨木で現在も知られるフィローネ地方に少年が住んでいた。 

 

少年はフロウと呼ばれていた。本当はフロムンドという、やや厳めしく立派な名前である。だが(よわい)十三の小柄なこの少年をその名で呼ぶ者は少なかった。

 

少年は自分の呼び名を好んではいなかった。というのも、当時は三女神の一柱、フロルに因んだ名を付けられる女児が多かったからである。それで周囲の意地の悪い餓鬼大将どもはそれに引っ掛け、女みたいな名だ、と彼のことをからかったものである。

 

少年は五歳のとき両親を船の事故で亡くし孤児となった。それで彼は叔父であるドシュトに預けられて育てられることになった。

 

叔父夫妻には子供がいなかったため、これは周囲からは好都合な計らいかと思われた。だが生憎のこと、叔父もその妻も元々子供好きではないうえ、自分の実の息子ではないフロウを好まなかった。

 

叔父は神殿の周囲で商売をする売店に商品を卸す卸業を営んでいたため、フロウは少し背が伸びると仕事に駆り出されることになった。

 

だが仕事をしている時の叔父は不機嫌であった。奉献当初は参拝客で賑わっていた天望の神殿もこの頃には寂れてしまい、景気は先細りだったのである。それでも叔父は女神ハイリアの彫り物や当時ハイラルに三か所存在した神殿の絵を染め抜いた大判の手拭などを商店に卸していた。

 

幼いフロウは仕事に駆り出された日は朝から晩まで働かされ、荷物を取り落とすたびに叔父に怒鳴りつけられた。それでそのうち彼は遠くから見るのも嫌になるほど神殿が嫌いになってしまったのである。

 

フロウが寺子屋に上がる歳になっても、彼の試練は終わらなかった。身体の小さく大人しい彼は餓鬼大将どもの恰好の標的になったのである。彼らはフロウの筆や用具を取り上げては、返してくれろと懇願する彼を目の前に仲間同士でそれを投げ渡し、最終的には厠の中に放り込むのである。そしてその度に道具を汚したと叔父に怒鳴りつけられるのはどうしたわけかフロウ自身であった。

 

そのような日々を経ているうちフロウは十三の歳になった。だが彼はあまり将来への明るい展望を描くことはできそうにないと思っていた。

 

商売が上手くいっていなかった叔父は酒に溺れるようになった。一方、苦しい家計の埋め合わせは結局のところ居候であるフロウの食事を減らすことで補填された。育ち盛りの彼はやがてひもじい思いにも慣れてしまった。叔父や叔母に何かを頼んだところで聞き入れられるわけがないと分かっていたからである。だが彼には外に行って食べ物を盗んでくるほどの大胆さもなかった。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * 

 

それでもフロウには、ひとつだけ心を休められる場所があった。神殿とは逆の方角に立つ、森の大木である。

 

たとえ荷物を運ぶ仕事の最中であっても、その木を見上げると不思議と胸の奥が軽くなるのだった。

 

風が吹くと、枝葉がざわめき、まるで返事をしているように思える。陽光が木の葉の間に煌めき、長い年月を思わせるゴツゴツとした幹の表面にその影が映りこむ。

 

その瞬間、フロウは胸の奥に小さな灯を見つける。 ひもじさも、孤独も、ほんの少しだけ遠ざかるのだった。

 

---この木は僕を見ていてくれる---そんな思いが湧いてくる。

 

「おい、サボるんじゃないぞ!」

 

叔父の罵声が飛んでくる。フロウは溜め息をつくと視線を大木から下ろした。持っていた箱を荷車の上に積み上げる。

 

二人は高見台から少し街道を北上したところに行商人が置いていった荷物を荷積みしているところだった。

 

「ッったく目を離すとすぐこれだ。ただ飯喰らいのゴク潰しが。ロクに重い物も持てねえ。要領も悪い。何にも取り柄がねえじゃねえか」

 

追い打ちをかけるように叔父の小言が続く。だが、フロウはもう慣れてしまった。ただただ、それを意味のない呪文か何かのように思ってやり過ごすのだ。

 

荷積みが終わると、叔父は紙をフロウに渡して言った。

 

「おい、木彫り職人のとこ行って発注書届けてこい。場所はわかるな?」

 

「ええっと..西の森の方だったよね」

 

「こないだ連れてったじゃねえか。物覚えの悪い奴だな」

 

叔父は荷車の把手を持ち上げながら再び小言を言う。

 

「夕方には戻って来いよ!まだ仕事が残ってるんだからな」

 

叔父はそう言うと荷車を引いて神殿のほうに向かっていった。

 

フロウは紙を畳んでポケットに入れると、フィローネの森の方に歩き始めた。

 

短いトンネルを通って高見台に出る。階段を降りると、あの大木の全貌が目に入った。

 

フロウは思わず目を上げて大木を見上げた。本当に頂上が見えないほどの背の高さだ。

 

しかも、目を凝らすと、太い幹の途中に道のようなものが設えられているのが見える。

 

---昔はあの木そのものが礼拝所として使われており、人々はそこに登り降りしていた。また洞の中には広大な空間があり、そこには不思議な水龍がたびたび姿を現した---

 

フロウはそんな話を年寄りから聞いたことがあった。

 

「おい、フロウ!」

 

「フロウだ!フロウだ!」

 

同年代の少年たちの声が聞こえてきて彼は我に返った。昼飯時も終わり、大木の根元の集落から出てきてた子供たちだ。フロウの同級生が何人かいる。しかも最も出くわしたくない類の連中だった。

 

「あらぁフロウちゃんってばぁ。こんなところで何してるのぉ?」

 

そのうちの一人、大柄で乱暴なガキ大将が裏返った声で話しかけてくる。フロウはまた溜め息をついた。どんな返事をしようがロクなことにならないことはわかっていた。ガキ大将の取り巻きも数人、ニヤニヤ笑いながらこちらを見ている。

 

だがフロウは安堵してもいた。今、奪われて困るようなものは何も持っていない。ポケットの中にある発注書は子供たちにとって価値のあるものではない。からかわれて小突かれるだけで済めば上々だ。

 

「何黙ってんだよ。シカトすんじゃねえよ。何とか言えよ」

 

ガキ大将が声を元に戻しながらフロウを小突いてきた。フロウは答えを頭の中で考えた。「お遣いだ」と言えば、彼らは小銭を奪い取るために押さえつけてポケットを探ってくるだろう。「遊びに行く」と言えば、どこに行って何をするか根掘り葉掘り聞かれ、余計に時間を食う。

 

その時だった。

 

ガキ大将たちの背後を、背の高い大人の男が歩いている。

 

最後列にいた少年たちが何気なく振り向いてその姿を見た瞬間、まるで電撃に打たれたかのように首をすくめた。

 

少年たちの群れの中にその反応が伝染していき、とうとう異様な空気に気づいたガキ大将も後ろを振り向いた。

 

その背の高い男は、無造作なザンバラ髪に無精髭、引き締まった筋肉質な体格をしていて、

 

黒いマントを着て長剣を提げていた。年齢の頃は三十過ぎくらいだろうか。

 

我に返った少年たちは身を寄せあうと、互いに囁き交わし始めた。

 

「見たか?あいつ剣提げてたぜ」

 

「おっかねえよな。人殺しの道具だろ?」

 

「俺、親父に聞いたぜ。あいつ昨日酒場でうろついてたって。本当に人を殺したことがあるって噂も聞いたってよ」

 

フロウは注目が自分から逸れたことに多いに安堵した。彼らが噂話に夢中になっていてくれれば解放されるのも時間の問題だろう。

 

だが、男は少年たちの横を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。

 

その一瞬、風が止んだように感じられた。まるで何かを探るように、男の肩がわずかに動いた。

 

ガキ大将たちは一斉に息を呑む。フロウも思わず身を固くした。男はゆっくりと振り返った。前髪の間から覗く目が光っている。それは冷たく厳しい光だった。

 

フロウは直感的に思った。この男は僕らとは全然違う世界に生きている。叔父やその仕事仲間たちや寺子屋の教師たちとも違う。その目の光と同様の、冷たく厳しい世界に。

 

男は何事もなかったかのように前を向くとまた歩き始めた。だがガキ大将たちは凍りついたように動かない。

 

男の背中を見送ると、誰が言い出すともなく少年たちは解散し始めた。

 

フロウはしばらくその場に立ち尽くしていた。胸の奥に、恐怖とも違う、妙なざわめきが残っている。

 

そもそも、剣を持つ人間など、フロウは初めて見たのだ。フロウは、かつて遥か昔「戦争」という事件が起きたことがあるという話を寺子屋で習ったことがあった。剣はその「戦争」で使われた道具だという。

 

しかし寺子屋の教師たちはこうも言っていた。「戦争」は最後に起きてから長らく発生していない。また、私たち人間はその「戦争」を二度と起こしてはならない。だから、互いに争わないようにして暮らさなければならない、と。

 

---暴力はいけない。争いはいけない。平和を守ろう。優しい言葉を使いましょう---

 

毎日のように暴言と暴力に晒されているフロウにはどこか得心のいかない話にも思えたが。

 

彼は気を取り直すと、西の方角に急いだ。崖に設えられた階段を登り、森の中に入っていく。

 

森に入ると、空気がひんやりと変わった。木々の間を抜ける風が枝々を揺らす。

 

「ええっと..確かこっちだったけ」

 

分岐路に着くとフロウは右の道を辿った。進んで行くにつれて木立は濃くなり、太陽の光が遮られて次第に暗くなっていく。フロウは目的の職人の家に叔父の手伝いで同行したことはあったが、いかんせん他人についていっただけのこと。頭の中にある旅程は覚束ない。

 

進んでいくうちに、彼はとうとう道に迷ったことに気づいた。

 

「参ったなあ....どうしよう」

 

呟くとフロウは頭を掻いた。そしてポケットに入れてあった発注書を引っ張り出した。何気なくそれを眺めると、一番上に『ギルモ製材所・木彫り工房御中』と書かれており、その横に住所も記載されている。

 

フロウは苦笑した。住所が書いてあるんだから、大木のところに戻って通行人の大人に聞けば間違うことはない。彼はやれやれ、と溜め息をついて道を引き返し始めた。

 

フロウは来た道を戻りながら周囲を見回した。同じような木々が並びどこを見ても似た景色ばかりだ。

 

---こんなに暗かったっけ?---

 

森の奥から鳥の声が聞こえたが、それがどこから響いているのか分からない。一歩踏み出すたびに足元の落ち葉がかさかさと鳴る。

 

「早く戻らないと……叔父さん、また怒るよなあ」

 

そう呟いた瞬間だった。がさり、と道端の茂みが揺れた。フロウはびくっとして立ち止まった。心臓がどくんと跳ねる。

 

---まさか……さっきの剣の人じゃないよな---

 

息を呑んで茂みを見つめる。灌木や草の間に、人の姿がぼんやりと見えてきた。体格からすると大人の男ではない。フロウは安堵した。どうやら子供だ。フロウと同年代のようだ。

 

ガサガサと音を立てて、その誰かは茂みから出てきた。フロウは思った。たとえガキ大将の子分の一人でも、相手がひとりならそう酷く虐められることもないだろう。

 

「あれ?フロウ....?」

 

その誰かは顔を上げてフロウを見ると言葉を発した。拍子抜けするほど聞き慣れた声だった。

 

「リナハ……ちゃん?」

 

フロウは目を丸くした。彼女は同じ寺子屋に通う女子生徒だ。だが、明るくて友人も多い彼女がこんな森の奥にいることにフロウは意外の念を持った。

 

リナハは草を払いながら道に出てきて、フロウをじろりと見た。

 

「なんであんたがこんなところにいるのよ」

 

「え、えっと……お遣いの途中で、道に迷っちゃって……」

 

答えると、リナハは眉をしかめて言った。

 

「あんたってホント要領悪いわね」

 

そう言いながらも、どこか安心したような表情をしている。フロウは聞いてみた。

 

「リナハちゃんこそどうしたの?」

 

リナハは一瞬だけ目をそらし、ぽつりと答えた。

 

「うち……家に帰りたくないの」

 

呟くような声だった。フロウは聞いてはいけないことを聞いてしまった気がした。だが聞いてしまった以上聞き流すわけにも行かない。

 

「い...家に帰りたくないって....もしかして家出ってこと?」

 

彼女は無言で頷いた。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * 

 

「うちさぁ...父親いないんよ。うちが赤ん坊の頃出てったらしくてさ」

 

二人は道端に座り込みながら話をした。リナハは背負っていたデイパックからビスケットを取り出し、一枚をフロウに与えた。フロウはそれを食べながら頷いた。

 

「だけどさ、金持ちの伯父さんがいるのよ。それでその伯父さんがよくうちに来てさ。母さんにお金渡してるわけ。それはありがたいんだけどさ.....」

 

そこまで話すと、彼女は躊躇ったように口をつぐんだ。フロウはじっと彼女の横顔を見つめて待った。

 

「それはありがたいんだけど...その伯父さん最近変なことして来るのよ」

 

「変なこと?」

 

フロウは聞き返した。リナハはまた黙り込んだが、やがて口を開いた。その唇は僅かに震えているように見えた。

 

「うちのこと抱きしめたりとかさ、抱き上げたりとかさ.....」

 

彼女の両目からやがて涙が溢れてきた。

 

「うちが赤ん坊とか三歳くらいだったらわかるよ?でもうち、もう十三よ?生理だって始まってるし、もう思春期よ?なのに伯父さんさ、こないだなんか『一緒に風呂入ろうか』とか言ってきやがってさ」

 

途端にリナハは大声で嗚咽を始めた。まるで溜め込んだものが爆発したかのようだった。フロウはその背中を遠慮がちにさすった。

 

落ち着くと、彼女はすすり上げながら続けた。

 

「酒に酔って『リナハちゃんがどれだけ発育したか是非見てみたい』とか言いやがってさ。ふざけんなっつうの!いくらお金くれるからって....うちはあいつのオモチャじゃないよ!母さんも母さんだよ。伯父さんに一言も文句言わないでさ。うちらが人並みの生活できるために、娘を犠牲にしようっての?冗談じゃねえっつうの!汚ねえんだよやることがよぉ!」

 

一気にぶちまけると、彼女は黙った。リナハの叫びが森に吸い込まれていった。

 

フロウは何も言えなかった。言葉なんて彼女を救うのには何の役にも立たない。ただ、震える背中にそっと手を置くことしかできない。

 

しばらくして、リナハは袖で涙を拭った。目は赤く腫れていたが、どこか吹っ切れたような感じだった。

 

「……ごめん。こんなこと言われても困るよね」

 

返答に困りつつも、フロウは胸の奥に渦巻く今までに感じたことのない感情の正体が何なのかを必死で考えていた。リナハは続けた。

 

「でさ、伯父さん今日と明日はうちの家に泊まるんだけど明後日は仕事の用事で帰るらしいのよ。だからうちさぁ、伯父さんが帰るまで家に寄り付かないようにしようと思ってさ」

 

「でもその間食べ物とかどうするのさ?」

 

フロウは尋ねた。

 

「一応お菓子の箱に入ってたもの全部持ってきた。あとは我慢する」

 

リナハの答えを聞いたフロウは驚いて声を上げた。

 

「ムチャだよ。そんなに長い間食べなかったら危ないよ。僕らまだ子供なんだしさ」

 

「じゃああんたが食べ物持ってきてくれるの?」

 

リナハに問われてフロウはハッとなった。彼自身、食べ物を十分与えられているわけではない。ましてや、誰かに食べさせるための食事を叔父夫婦に求めたところで却下されるに決まってる。

 

「とにかくうちは帰らない。絶対。ていうかあいつとはもう二度と会いたくない。会うくらいなら飢えて死んだほうがましよ」

 

リナハが言い張るのを聞いてフロウは困り果てた。しばらく口をつぐむしかなかった。

 

木立ちの上で風が吹き、枝々が揺れて陽光が差し込んできた。

 

「……リナハちゃん」

 

フロウは小さな声で呼びかけた。リナハは涙の跡が残る目でこちらを見る。

 

「僕……食べ物は持ってこれない。叔父さんに言ったって絶対くれないし……僕だって、いつもお腹すいてるし」

 

リナハは黙って聞いている。

 

「でも……でもさ。一人で森にいるのは危ないよ。夜になったらもっと寒くなるし、動物だって出るかもしれないし……それに……」

 

言葉が喉につかえた。でも、言わなきゃいけない気がした。

 

「……僕、リナハちゃんが死んじゃうのは嫌だよ」

 

「あんた、やさしいね」

 

リナハは微笑んだ。

 

「自分だって大変なのにうちのこと心配してくれるなんて。いっつもいじめられてるから弱っちい奴なのかと思ってたけど、見直しちゃった」

 

その途端、フロウは胸の中に暖かい何かが広がるのを感じた。久しく感じたことのない感覚。そしてその感覚に慣れていないがゆえ、彼は慌ててこう言い訳した。

 

「ぼ...ぼくは弱いよ。だって小さいし力も弱いし」

 

「バカね。あんた、強い弱いってそんなことで決まるって思ってるの?」

 

リナハに問われてフロウは顔を上げた。強さを力とか身体の大きさ以外で決めるなんて考えたこともなかったからだ。

 

「強さってそういうことで決まるんじゃないよ。だって考えてみて?例えばうちの伯父さん、金持ってるし背も高いけど、強い奴だって思う?」

 

フロウは言われたことを反芻した。彼女の言わんとすることはすぐ理解できた。だが疑問は残っていた。では強さっていったい何なんだ?

 

彼は自分の手を見つめた。細くて、傷だらけで、力もない手。叔父に怒鳴られ、ガキ大将に殴られ、何度も震えてきた手。

 

その時だった。誰かが里の方面から歩いてくる音が聞こえた。

 

リナハは弾かれたように顔を上げると、フロウの腕を掴んだ。

 

「隠れるよ!」

 

「え?で...でも..」

 

彼女は有無を言わさずフロウを引っ張ると茂みの中に引きずり込んだ。下草の先端が顔をつつく。だがリナハは自分も身を伏せつつ、フロウの頭に手を置いて無理やり下げさせた。

 

茂みの間から観察すると、ずんぐりした体格の男が近づいてくる。髪の毛も、顔中に生えた髭も波打っており、顔の中央の団子鼻が遠くからでも目につく。肩には大きな斧を担ぎ、片手には何かの包みを持っている。歳の頃は四十過ぎくらいだ。

 

「森ぉ~りのぉ~恵ぇぐみ~とぉ、川のぉ~清ぉい~水ぅ~、女ぇ神みぃ~ハァ~イリィ~ア~のぉ~恩寵ぉ~とぉ~ともぉにぃ~............」

 

上機嫌に鼻歌を歌っているようだ。二人が息を殺しているうちに、彼は気づかず通り過ぎていった。

 

足音が完全に遠ざかると、リナハはようやく手を離した。フロウは息を吐き出し胸に手を当てて立ち上がった。

 

「……び、びっくりした……」

 

「こっちの台詞よ……」

 

リナハも肩で息をしながら、額の汗を拭った。さっきまで泣いていたとは思えないほど、必死の表情だった。

 

「なんで隠れたの……?別に悪い人じゃなさそうだったけど」

 

フロウがそう言うと、リナハは眉をひそめた。

 

「……わかんないじゃん。大人の男なんて信用できないよ」

 

「あ....そうか!」

 

フロウはあることに気づいて叫び声を上げた。

 

「なによ、どうしたの?」

 

フロウはポケットから発注書を取り出した。リナハも横で覗き込む。

 

「なによこれ?」

 

「あの人が木工職人だよ。叔父さんに連れられて行ったとき会ったもの。なあんだ、この道で正しかったんだ」

 

フロウは安堵した。リナハのことはともかく、言いつけられたお遣いは無事にやり遂げられそうだ。

 

「リナハちゃん、僕あの人にこれを届けてくるよ。そしたらまた戻ってくるからさ。そうして、この後どうするかを一緒に相談しよ?」

 

フロウは笑顔を浮かべてリナハを見た。だが彼女は口を真一文字に結んだままだった。

 

「嫌だ」

 

「え?」

 

「うちをここでひとりにしないで」

 

リナハは消え入りそうな声で言った。その瞳は再び揺れ始めていた。フロウには、必死の想いが込められているように見えた。

 

「わ...わかったよ。じゃあ一緒に行こう」

 

そこまで言ってからフロウは手を叩いた。

 

「それにあの木こりのおじさん、何か食べさせてくれるかも知れないよ。人里離れたところに住む人ってお客をもてなすのが好きだって聞いたことがあるし」

 

リナハは渋っていたが、今度はフロウが彼女の手を引いた。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 

リナハの手は冷たかった。けれど、その握り方は強い。フロウはその力に驚いた。途中で手を振りほどくことができず、結局道の終端に辿り着くまで二人は手を繋いでいた。

 

そこには木組みの小屋が建てられている。横には屋根と柱だけでできた製材所があり、多くの丸太が積み上げられていた。

 

だがその持ち主の姿は見えなかった。

 

「誰もいないじゃん」

 

リナハは呟いた。フロウは首を傾げたが、大きな声で呼びかけてみた。

 

「おかしいな。すいませぇん!誰かいますか?」

 

二人は小屋に歩み寄った。窓から覗き込んでも人の姿はない。

 

フロウは小屋の扉に手をかけ、思い切って開けてみた。室内には、作業机があり壁には工具が一面にかけられている。

 

作業机の上には、布に包まれたパンの塊が置いてあった。今朝焼いたばかりと思われるようないい香りだ。

 

リナハもフロウも、腹がグウッと鳴るのを感じた。

 

「誰かいますか!」

 

フロウはもう一度叫んだ。だが返事はない。彼は溜め息をつくと、作業机の上に発注書を置いた。念のためにしわを伸ばし折り目を直して、ひと目でそれとわかるようにした。

 

その時だった。リナハは手を伸ばすとパンの塊をかっさらって抱え込んだ。

 

「何をするんだよ!」

 

驚いたフロウは叫んだ。リナハはまなじりを決して低い声で言った。

 

「生きるためだもの。仕方ないわ」

 

「駄目だよ!泥棒じゃないか!」

 

「うちだって必死なんよ。大人に嫌な目に遭わされてるんだからお返ししたっていいでしょ?」

 

リナハは踵を返すと、扉を通って外に飛び出した。

 

「戻ってこいよ!ダメだってば!」

 

フロウは追いかけた。リナハに追いつくと肩に手をかける。彼女は身を捩って抵抗したがフロウは必死で呼びかけた。

 

「それ、返そう?今だったらまだ....」

 

その瞬間、小屋の裏のほうで物音がした。二人は思わずそちらのほうを向いた。

 

「逃げるよ!」

 

リナハはまた前を向くと走ろうとした。フロウは彼女の腕を掴んでそれを必死で止める。

 

「駄目だってば!ダメだって!」

 

だが、もみ合っていた二人は小屋の正面扉が開く激しい音を聞いてまた振り向いた。

 

木こりの男が戸口に立っていた。男は両手に斧を握ると割れ鐘のような大声で叫んだ。

 

「この泥棒どもめ!許さんぞ!」

 

リナハは悲鳴を上げると、足を滑らせて転倒した。その腕を掴んでいたフロウもつられて地面に倒れた。

 

「小鬼どもが、思い知らせてやる!」

 

男はのしのしと足音を立てながら近づいてくる。

 

フロウは思わず慈悲を請うように両手を上げ、リナハはパンを抱えたまま固く目を閉じたのだった。

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