ドシュトフロムンド戦記~少年と精霊と大地の果て 作:nocomimi
「小鬼どもが、思い知らせてやる!」
男はのしのしと足音を立てながら近づいてくる。
フロウは思わず慈悲を請うように両手を上げ、リナハはパンを抱えたまま固く目を閉じた。
だが数秒の間身を固くしていても何も起こらない。見ると、木こりの男は極太の眉毛をしかめながらフロウの顔をしげしげと眺めている。
「ううううん?」
男が唸った。低く、太い唸り声だ。それを聞いただけで、リナハは猛獣の唸り声を聞いたかのように怯えた顔でパンの包みを放り出し、手をついて後じさりした。
「おめ、ドシュトのとこの倅でねえか!」
木こりが叫び、手に持っていた斧を肩に担いだ。その瞬間、フロウは悟った。この男、最初から危害を加えるつもりはなかった。ただ脅かそうとしただけだ。いつも人の悪意に晒されているフロウは、どうしたわけかこの男からは悪意を感じなかった。
「だよな?こないだワシのところに来たべ。ホレ、おめ木彫りの納品で取りに来たっぺよぉ」
「あ...ギルモさんです..よね?ぼ...ぼく...」
フロウは居住まいを正すと、言葉を探した。
「ご...ごめんなさい!本当にごめんなさい!許して下さい!」
フロウは地面に両手を突いて頭を下げた。
「おなかが空いてて....それでつい出来心で....もう..もう二度としません!」
リナハは驚きと戸惑いを顔に浮かべてフロウを見つめる。だがフロウは頭を下げ続けた。
「あの...償うためだったら何でもします。お手伝いとか....雑用でも荷物運びでも...!」
すると木こりは困惑した顔で頭を掻いた。
「木こりの仕事つぅんはガキに手伝えるようなモンじゃあねえっぺ。木彫りは木彫りで刃物使うっぺのぉ。それより...」
ギルモはリナハの近くに歩み寄ると、地面に落ちていたパンの包みを拾い上げて埃を払った。
「ほれ、立て。子どもが土に頭こすりつける姿なんざ、見てられん」
フロウもリナハも恐るおそる立ち上がった。だが、これだけで叱責や懲罰が終わるなどと到底思われなかったから、フロウはまだ身体を固くしていた。
すると木こりはパンの包みを手に乗せ、小屋のほうに軽く顎をしゃくった。
フロウとリナハは顔を見合わせる。小屋の中で叱責されるのだろうか?だが木こりはスタスタと歩いて扉から中に入ってしまった。ふたりはもう一度顔を見合わせると、おっかなびっくりの足取りでついていった。この段階に至って逃げるなどという選択肢はもはやあり得ないとわかっていた。
「おい、足の泥を払ってから入れよ!」
二人が小屋に近づくと、ギルモがやにわに戸口から顔を出して言った。フロウとリナハはビクっと反応したが、言われた通り戸口の手前にあったマットに靴をよく擦り付けてから室内に入った。
作業机の奥にはやや低いテーブルとキッチンがある。ギルモは小さな椅子を二つ持って来るとテーブルの横に置いた。そしてテーブルの上でパンの包みを開き、それをナイフで薄く切り始めた。
「とりあえずこれでも喰ってろ」
パンを切ってしまうと木こりはふたりに背を向けて裏口に向かいながら言った。フロウもリナハも驚きと不信と混乱で一杯だった。いま、一体何が起こっているのだろう?
だがリナハは椅子に座り、パンを一切れ取り上げた。数秒それを眺めると、齧りつく。相当腹が減っていたのだろう。咀嚼しながらフロウを見上げた。その目が「あんたは食べないの?」と尋ねている。
フロウも椅子に座ってパンを一切れとった。自然に唾が湧いてくる。
木こりは僕たちを許してくれて、しかもパンまで与えてくれるらしい。なぜなのかはよくわからない。だが、ともかくも空腹な僕には有難い話だ----フロウは結論づけてパンを口に運んだ。
その時だった。
コココッ!ギエッ!ギエッ!ギエッ!ギエッ!
鶏の凄まじい鳴き声が聞こえてきてフロウは思わず手を止めた。リナハと顔を見合わせる。だがその声は直ぐにやみ、裏口から木こりが戻ってきた。片手にぐったりとした鶏を持っている。
フロウとリナハが驚いて見つめていると、ギルモは手際よく鶏の羽を毟って解体し、大鍋にそれを放り込んで火にかけ、さらに野菜を何種類か刻んで投入した。グツグツ煮立ってくると良い香りが漂ってくる。木こりはハーブと塩コショウを入れると、手を休めてふたりに向き直った。
ギルモは腕を組み、二人をじっと見た。怒っているわけではない。かといって、優しい顔でもない。ただ、何かを測るような目だ。
「……腹、減ってたんだべ?」
フロウは思わず背筋を伸ばした。
「は、はい……」
「ドシュトの奴、自分の倅に飯も食わせねえのか。甲斐性のねえ男だのぉ」
「いえ...僕...実は甥なんです。両親は小さいころ死んだので....」
「そうけえ」
木こりはリナハに視線を移した。
「おめも腹減ってるっぺよぉ。最近の親はなぁにしとるだによぉ。ワシはただの木こりじゃが、子供に振舞う食べ物くらいは持っとるでよ。腹減ってるなら遠慮なく言えっぺよぉ」
リナハは、ただただ驚きに目を丸くしながらパンを咀嚼していたが、気づいたように何度も頷いた。
スープが煮えると木こりは粗削りな木の椀にそれをよそって二人に渡した。暖かさと食欲をそそる香りでフロウは夢心地になった。椀の中には鶏肉がたっぷり入っている。こんなスープは叔父の家で暮らすようになってから一度も食べたことがない。
一口すすった瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。こんな温かい食事、いつ以来だろう。
リナハも椀を抱えたまま固まっていた。目を丸くし、湯気の向こうで何度も瞬きをしている。やがて、そっとスープを口に運んだ。
「……っ……」
言葉にならない声が漏れ、彼女の目に涙が浮かんだ。
「...さっきは脅かしちまって...すまんかったのぉ」
木こりはまたポツリと言った。
「大人ならワシぁ容赦しねぇ。だが子供なら、厳しく言い聞かせれば思い直して悪いことをやめると思ってのぉ。でもそんなに腹減ってる様子見せられちゃぁ、怒ったワシがなんだか魔王みたいだっぺ。怖がらせちまったら、許してくれろ。特に...娘さんよ」
それを聞いた瞬間、リナハの目から涙がポロポロと流れ始めた。彼女は椀をテーブルに置いて嗚咽し始めた。フロウは食べるのをやめ、彼女の背をさすった。
リナハは声を押し殺そうとしたが、堰を切ったように涙があふれ、肩が震えた。今まで誰にも甘えられなかった子どもの、不器用な泣き方だった。フロウにはそれがよくわかった。
「さ、喰え。腹一杯になるまで」
木こりは気まずい表情になった。頭を掻きながら立ち上がると、裏庭に出ようとする。だがフロウは呼び止めた。
「ぼ...僕はフロウです。それから....この子はリナハ」
振り向いたギルモは少しの間フロウの顔を見ていたがやがて言った。
「ワシは裏にいるっぺ。困ったことがあったら呼びに来い」
* * * * * * * * *
フロウとリナハは心底から満腹した。こんなに満たされたのは何年ぶりだろう。目が合うと、自然に微笑みが出てくる。裏手からは、遠くのほうから木に斧を入れる音が響いてくる。しばらくそれが続くと、ミシミシミシッという音とともに木が倒れる地響きがした。
「ねえフロウ...どうしてあんたが謝ったの?」
リナハは口元をハンカチで拭きながらそう尋ねてきた。
「え?」
「だって、盗んだのうちじゃん。なのにあんたが謝ってた」
フロウは初めて気づいたかのような顔をしてリナハを見た。確かにその通りだったが意識さえしていなかった。
「普通さ、ああいうときって『僕はやってません!やったのはこいつです!』って言うもんでしょ?違う?」
リナハの言葉にフロウは俯いた。だが、そんなことは彼には思いもよらなかったことだ。
「自分でもわかんないよ。とにかく口から勝手に言葉が出てきたんだ」
「ふうん。ヘンなの」
リナハは呟いた。フロウはリナハの表情がさっきとはまるで違っていることに気づいた。尊厳を守ること、生き残ること、見えない明日に立ち向かうことに必死だった彼女が、今では何一つ心配せずに寛いでテーブルにもたれ掛かっている。
窓の外を眺めると、日が傾き始めている。
「いけない。もう行かなきゃ」
フロウは立ち上がろうとした。発注書は作業机にそのまま置いてある。いずれギルモは気づくだろう。
「どこ行くの?」
「帰らなきゃ」
リナハが尋ねるのでフロウは答えた。だが彼女は重ねて問うた。
「あのさ、うち...ここにいて大丈夫だと思う?」
フロウは仰天して目を丸くした。
「え?...じゃあリナハちゃんこの家に.......」
「だって安全じゃん。少なくとも伯父さんよりは」
リナハは不貞腐れたような顔で言った。
「そうかも知れないけど...でも初めて会ったばっかりだしさ」
フロウが言うと、彼女は立ち上がった。
「あたし、あのおじさんに頼んでくる」
「何を?」
「あたしたち二人を泊めてくれるようにって」
フロウはますます驚いた。
「ちょ...ちょっと!いくらなんでも図々しいよ!」
だがリナハは聞かずに裏口から出ていった。フロウも慌てて追いかける。
だが裏口から出たときには、もうリナハは木こりの元に駆け寄っていた。会話は聞こえなかったが、ギルモは軽く頷き、彼女は歓声を上げて飛び跳ねている。
フロウは呆然としていた---夕方までに帰る。仕事があるから---この絶対に変えることのできない自分の予定をリナハは平気で壊してしまった。だがそれなのに不安感はまるでない。
その夜、フロウとリナハは暖炉の前で毛布にくるまりながらしばらく雑談した。リナハは呟いた。
「うち、みんなと仲良いような振りしてたけど、自分の本心で思ってることなんか誰にも言ってないよ。だって背負えないじゃん。背負いたくもないだろうしさ」
「じゃあなんで僕には話したの?」
「なんでだろ...わかんない。勝手に口が動いたのかな」
フロウはクスクス笑った。
「君だってヘンなの」
「うるっさいわね。フロウの癖に!」
リナハは乱暴にフロウの肩を小突くと、毛布を被って寝てしまった。フロウもそれに倣った。森の中の静寂のお陰で眠りはすぐに訪れた。
* * * * * * * * * * * * * * *
「すごぉい!おじさんこんなこともできるんだ!」
リナハは拍手しながら歓声を上げた。木材を作業机に固定したギルモが鑿と金づちを振るうと、女神ハイリアを模した形がみるみるうちに削り出される。翌朝朝食を終えたあと、注文書に気づいたギルモが早速彫り物を作り始めたのだ。
「ドシュトの奴、随分景気悪いっぺのぉ。去年はこの時期五十個は注文してきたもんだが」
額の汗を拭き、彫り物から木くずを払い除けると呟いた。
「十個なんざすぐできるっぺのぉ。フロウ、おめがこれ持って帰ったらドシュトの奴も昨日帰らなかったのを怒りはせなんだろ。ワシを手伝ってたって言い訳もできるっぺよ」
「すみません、ギルモさん」
フロウは頭を下げた。
「ねえ、うちにもやらせて?」
リナハが木こりの顔を見上げる。だがギルモは首を横に振った。
「いんや、これは子供にはできね。力もいるし鑿は鋭いっぺ。怪我でもしたら...」
「えぇ、つまんない!うちも何か作りたい!」
「しょうがねえっぺのぉ」
困り顔のギルモは腕を組んでいたが、やがて手を叩いた。
「なら、仕上げのやすりがけならできっぺよお。お嬢ちゃん、裏の納屋から取ってきてくんろ」
「オッケー!」
リナハは明るい声を上げて裏口から出ていった。だが彼女は直ぐに戻ってきた。
「ねえ、おじさん。やすりってどんな形してるの?」
「僕が一緒に行くよ」
フロウは言うと、リナハと裏庭に出た。
「やすりは細い板みたいなザラザラした奴だよ。叔父さんがよく使ってたもの」
「よく知ってんじゃん」
リナハは感心したがフロウは苦笑いした。ある光景が目の前に蘇ったからだ。叔父はギルモが作った木彫り像の底面に彫りこまれた彼のイニシャルを削り落とし、代りに高名な作家のイニシャルを彫りこむのを常としていた。そうして相場より高い値をつけるのである。フロウ自身もそれを手伝わされたことがあったから、よく知っていたのだ。
納屋の扉を開けて中に入ると多種多様な道具がそこらじゅうに積まれている。
「こっから探すの一苦労だね」
「でしょ?やっぱおじさん呼んだほうがよくない?」
フロウは工具箱を一つ下ろすと開けてみた。だが入っているのは釘ばかりだ。山積みになった箱の上からもう一つを下ろす。
「あった。これだよ!」
フロウは声を上げると振り向いた。だがその途端、彼は言葉を失って固まった。
目に入ってきたものが信じられなかった。
誰かがリナハの背後から腕を回し口を押さえつけている。そしてもう一人が縄をその身体にかけようとしていた。
今までに全く見たことのないような姿の連中だ。人間の大人の男だろうか。でも違う。裸に腰蓑のようなものをつけ帯から鉈を提げている。目が異様にギョロっとしており、口からは牙が突き出ていた。
人間なのか?それとも別の生き物なのか?
だがフロウには本能的にわかった。体格の大きさで敵わないというだけではない。
近くにいるだけでわかる暴力的な臭い。他人の尊厳など何とも思わないその振る舞い。
背に寒気を感じ、恐怖で喉が縮む。フロウの喉がひゅっと音を立てた。
リナハの目は大きく見開かれ、口を押さえつけられたまま呻いている。
「……っ!」
声が出ない。足も動かない。頭の中が真っ白になった。
「んむっ……! んんっ……!」
リナハが必死に暴れる。だが相手は子どもよりずっと大きく、腕も太い。逃げられるはずがない。縄が彼女の身体に回され、ぎゅっと締められた。
---やめろ……やめろ……!---
フロウの心臓が破裂しそうなほど脈打つ。足が震え、喉が焼けるように熱い。逃げたい。助けを呼びたい。
やめろ!
心の中の叫びが恐怖の殻を破った。フロウは、工具箱にあった金づちを取り上げると生き物の片方に殴りかかった。
金づちの頭が当たる鈍い音がする。だがそいつはやや顔をしかめただけだった。そして目を剥いてフロウを睨みつけた。
殺意。相手に何一つ情をかけない本物の。
フロウはそれを見て背筋が凍った。今までに受けてきた人の悪意など比べ物にならない。
その生き物は腕を振ってフロウに叩きつけた。彼はたまらず地面に倒れた。
だが心の中の叫びは止まらなかった。
やめろ!やめろ!
フロウは喚きながら相手に体当たりした。だがその生き物は難なくそれを受け止めるとフロウを投げ飛ばした。再び地面に叩きつけられたフロウの目に、そいつが鉈を手にするところが映った。
目を動かすとリナハが自分を見ている。怯え切った顔だ。だがもう一匹の生き物は彼女の口をしっかりと押えつけている。
僕は....僕は......
フロウの口から声にならぬ呻きが漏れた。手を地面について立ち上がる。だがその時にはもう、鉈を持った生き物がその武器を彼に向かって振り上げていた。
その時だった。
誰かが突進してくる音が聞こえる。
顔を上げると、ギルモが斧を振りかぶりながら走り寄ってきたところだった。
鉈を構えていた生き物が顔を上げる。だが次の瞬間には空気が唸る音がして、そいつの首が吹き飛んだ。黒い血しぶきが飛び散り、フロウの顔に何滴かかかった。
木こりは首を失った生き物を前蹴りで蹴倒し、フロウを庇うように前に立つと斧を構え直した。リナハを捕まえていた生き物は彼女を突き飛ばすと、自分の腰につけていた鉈を持ち、舌なめずりした。
数秒の睨み合いの後、相手が動いた。鉈を振り上げる。だがギルモは斧の頭を素早く突き出して敵の鼻面に叩きつけた。怯んだところを、柄の先を払って側頭部をひっぱたく。
だが相手もやけくそに鉈を振り回してきた。ギルモは上体を反らしすんでのところでそれを躱すと、身体の流れた相手の肩口に痛烈な一撃を加え、倒れたところで頭を真っ二つに割った。
ギルモはしばらく荒い息をしていた。斧の刃から黒い血がぽたぽたと落ち、土の上に染みを作る。
「おめたち...無事か」
木こりは斧を地面に置くと呟くように言った。だがフロウもリナハも何も答えられなかった。
目の前には、致命傷を負って倒れたその生き物の死骸が転がっている。しかも驚いたことに、その死骸はみるみるうちに黒く変色し、やがて崩れ始めたのだ。
「ボコブリンどもだっぺ」
ギルモはようやく呼吸を整えるとまた言った。
「ワシの故郷の長老が言うには、もう十年以上も出てねえって話だったっぺ。なして今になって、それも森に出てきたっぺか。不思議なこともあるっぺ」
「ギ...ギルモさん。助けて頂いてありがとうございました」
フロウは思い出したように礼を言った。だがギルモは首を振った。
「ワシの家に入れたからにゃぁおめたちを守るのはワシの責任だっぺ」
そう言うと木こりはリナハのほうを見た。彼女は未だに立ち直れず、眼を見開いて生き物の死骸を見つめている。
「おい、坊や。お嬢ちゃんに茶を飲ませてやれ。暖炉にヤカンがかかってるっぺのぉ」
「は...はい」
フロウが言うと、ギルモはその肩に手をかけて微笑んだ。この男が微笑むのを見るのは初めてだった。
「坊や。おめ、立派だったっぺよ。お嬢ちゃんを守ろうとしたんだっぺな」
フロウは曖昧に頷いた。だが、言われるまで気づきもしなかった。自分の行動に説明がつかない。僕は一体何に動かされていたのだろう?
だが彼は言われたとおり小屋に入って茶を入れると、テーブルの上に置いた。裏口から再び外を見ると、ギルモは生き物の死骸を片付けているところだった。リナハはフラフラとした足取りで小屋に入ってきた。
「お茶...入ったよ」
フロウが話しかけると彼女は軽く頷いて椅子に座った。フロウがカップを渡してやると、ようやく我に返った。
「...あいつら...何?なんだったの?」
「わかんないけど....ボコなんとかって。鬼の一種だと思うよ」
フロウは遠慮がちに続けた。
「ねえリナハちゃん...やっぱ帰ろうよ。僕は木彫りが出来たら持って帰らなきゃならないし...ここは町から外れてるからああいう化け物も出やすいんだと思うよ」
だが彼女は真剣な顔で首を横に振った。
「どうして?あんな危ない目に遭ったのに」
「だけどここには少なくともうちを守ろうとしてくれる人がいるもん。しかも二人も」
二人?フロウは頭が混乱した。自分は何もできなかったのに。その『二人』に僕が入っているのか?
「家に帰ったらうちを守ってくれる人は誰もいない。ひとりもいない。だからここにいたほうがいい」
リナハは言い張った。そして小さな声で続けた。
「ここにいたい。...できれば...フロウと一緒に」
フロウはただただリナハを見つめていた。
「怖いのは嫌だけど……ひとりで怖いより、誰かと一緒で怖いほうが、まだマシだもん」
その時だった。片付けが終わったのか、ギルモが小屋に入ってきた。両手を流しでよく洗い、水を一杯飲むと、木こりは椅子に腰かけて言った。
「おめら...ちっと言いにくいんだがのぉ」
ギルモは宙を見つめながら言葉を探していたが、やがて口を開いた。
「昨日はおめらを家に泊めてやったが、やっぱり今日は親のところに帰ったほうがいいっぺ。腹が減ったら、またここに来たら飯を食わせてやるけのお」
リナハは顔を上げた。驚きと失望が目に浮かんでいた。
「考えたんじゃが....親でもないワシがずっとおめらを家に置いておくというのも筋の通らん話じゃとワシは思う。これはケチで言っているのでねえ。ただおめたちが後ろ指さされねえようにと思っての話だっぺ」
「や...やっぱそうですよね」
フロウは呟いた。
「それに...森は里とは違う。たとえさっきみてえな鬼でなくとも、熊も狼も出るけのお。里育ちのおめらには危ねえときもある。悪りいことは言わねぇ」
だがリナハは俯くと言った。
「嫌」
フロウもギルモも困惑して彼女を見た。
「絶対嫌。うちは帰りたくない。帰るくらいなら死んだほうがいい」
「リナハちゃん....」
「嫌だったら嫌なの!帰らないから!うちはここにいるから!」
リナハは立ち上がると、表扉から小屋を出ていってしまった。ギルモは心底から悲し気な顔をすると、彼女の後を追った。フロウも続いて小屋を出た。
見ると、ギルモとリナハは前庭で何かを話していた。リナハは片手で涙を拭きながらも、落ち着いて何かを説明しているようだ。木こりは何度も相槌を打って頷いている。だが、しばらくすると彼はリナハの肩に手を置きながらこちらに戻ってきた。
「心配はいらね。ワシが一緒に行ってその伯父さんとやらとよく話をつけるでのお」
フロウは驚いて木こりの顔を見た。彼は昨日初めて会ったばかりの子どものためにどうしてそこまでしようとするのだろう?
フロウは、木こりがリナハをテーブルに座らせたあと、木彫りの像を彫り上げる作業をするのを見守った。鑿の単調な音が響く。やがてギルモは彼を手招きすると、やすりのかけ方を教えた。木こりが引き続き鑿を振るう間、フロウは木像の表面を磨いていった。
作業が終わったころには昼過ぎになっていた。ギルモは、ふたりにパンとチーズの簡単な食事をとらせると、木彫りの像を箱に納めて背中に背負った。
「僕が運びます」
「いんや、里についてからでいい。ワシは慣れてるからの」
フロウと木こりはそんなことを言い合いながら小屋を出た。リナハは彼らの後ろから従って戸口を出て、扉を閉めた。彼女は小屋を見上げてしばらくの間立ち尽くしていたが、やがて踵を返してフロウの後を追った。
* * * * * * * * * * * * *
森の小道は昨日通ったときと同じように静かだ。風が時折吹くときに枝葉が揺らされる音が耳に心地良い。
昨日感じたような心細さは微塵もない。箱を背負った木こりの大きな背中が目の前にある。リナハは一言も口をきかない。だが、その表情を見ると、先ほどよりはよっぽど落ち着いた顔だ。
フロウには、昨日の夜から今朝にかけてが夢のような時間に思えた。もう一度あんな時間が過ごせれば。
しかしフロウは思い直した。そんなわけにいかない。そんなことをしたらギルモを困らせてしまう。
フロウは溜め息をついた。たとえ住んでいる場所は遠くても、自分とリナハを気にかけてくれる大人が一人はいるとわかったのだ。それがせめてもの救いだった。
だいぶ歩いただろうか。やがて木々が次第に薄くなり、上から差し込む陽光も強くなってきた。
「もうすぐだっぺ。お嬢ちゃんよ。おめの家はどっちのほうだ?」
「うち?」
問われて我に返ったリナハが渋々ながらの声で言った。
「うちの家...フロリア湖の滝の手前」
だがその瞬間だった。
人の悲鳴が聞こえる。それもひとりや二人ではない。大勢の人間だ。
ギルモとフロウは顔を見合わせた。木こりは眉毛をしかめると、正面に向き直って歩を早めた。肩に担いでいた斧を両手に持つ。
フロウとリナハも慌てて歩調を合わせた。里に近づけば近づくほど悲鳴が大きくなる。
やがてギルモは走り始めた。フロウはリナハの手を握ると後を追った。
森の小道の終端が近づく。木々の切れた場所は崖の上だ。
そこから見えた光景にフロウは目を疑った。
大木の下にある集落から炎が上がっている。
そして今朝見たばかりのボコブリンたちが群れをなして四方八方から押し寄せ、
逃げまどう住民たちを追いかけていた。