ドシュトフロムンド戦記~少年と精霊と大地の果て   作:nocomimi

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水龍の宮

アルギレウスとゴロン族およびシーカー族の戦士たちの遺体を葬る場所は、話し合いのすえ港湾跡地を囲む岩壁に開いた洞窟の内部と決められた。平原に埋葬した場合風雨に晒された埋葬地から後年になって骨が露出する心配があったためだ。

 

テツオ以下十数名のモグマ族の若者たちは、墓を掘るために献身的な働きを見せた。洞窟の中の土が固く岩だらけであったにも関わらず、辛抱強く掘り進めて戦士たちの遺骸を納める空間を確保したのだ。その姿を見た数名のゴロン族の生き残りも、岩を拳で砕いて作業に加勢し、発生した土砂を機械亜人たちが搬出した。

 

テツオは作業の合間ごとにアルギレウスの遺体に歩み寄り、涙ながらに声をかけていた。

 

「旦那....俺っちは俺っちを男にしてくれた旦那のことを二度と忘れねぇ。誓うよ。一族を背負って立つ立場になったら、必ず旦那みてぇな立派な男になるってよぉ」

 

こうして墓穴が掘られ、遺体が納められ、上から土がかけられた。フロウも皆に促され、アルギレウスの上に土をかけた。だが、途中で出来なくなってしまい、ギルモの胸に顔を埋めて咽び泣いた。

 

洞窟の中に全ての遺体が埋葬されると、その何の変哲もない場所にはある種の荘厳さが加えられたような気がした。

 

テツオは岩堀りですっかりボロボロになった鉤爪を使って、洞窟の壁に何か銘を彫ろうとしたが、思いつかなかったので周囲に尋ねた。

 

「なあ...何かうまい文句ねえか?俺っち学ってもんがなくってよぉ.........」

 

だが、リゴールもギルモも首を振った。何となれば、その役に一番ふさわしい人間であるアルギレウス本人がその墓の中に眠っているのであったからだ。

 

三人はインパの姿を探した。だが彼女は埋葬が終わると生き残りを連れて橋を渡り、姿を消してしまっていた。

 

結局テツオは『人間の王子アルギレウス、およびゴロン族とシーカー族の戦士たちここに眠る』と簡潔に彫りつけて、溜め息をついた。

 

「なあ少年よ...覚えてっか?アルギレウスの旦那、人間なのに俺たち亜人のことをどれだけ心配してくれてたか.......」

 

フロウは頷いた。アルギレウスの働きにより、人間と亜人との絆は回復されたのだ。犠牲は大きかったが、これは何よりも偉大な遺産だとフロウには理解できた。

 

モグマ族は今後の移住先を決めるべく、長老を交えた話し合いを持つために引き上げていった。ゴロン族の生き残りたちも立ち去った。フロウ達三人は機械亜人たちと残された。

 

洞窟の外に足を踏み出すと、午前の陽光が淡い金色の筋となって岸壁の上から射し込んできた。

 

振り向くと、その光が洞窟の中に新しく盛られた土の山を静かに照らしている。

 

フロウはしばらくその前に立ち尽くした。胸の奥がまだ熱く、涙の跡が乾ききっていない。

 

リゴールは墓の前にしゃがんでいたが、やがて立ち上がった。だが、それでもなかなか墓の前から離れなかった。ギルモは鼻をすすりながら、機械亜人たちに礼を述べて回っている。彼らは無言で頷き、ぎこちない動きで胸に手を当てる仕草を返した。

 

やがてギルモが袋を抱えて歩み寄ってきた。

 

「食料だっぺ。あいつら、ワシらが戦っている間も集めてくれていたっぺよ」

 

フロウは頷いた。ここで立ち止まることはできない。出来ればずっとずっとアルギレウスの傍に居たかったが、行かなければならないのだ。

 

フロウは袋を受け取りながら、洞窟の奥に眠る土の山へともう一度だけ視線を向けた。

 

まだ痛い。胸の奥が。

 

けど、今はその痛みが彼自身の背中を押しているように感じられる。

 

アルギレウスの言葉が蘇った。フロウがリナハを救おうとすることは『決して小さなことではない』と。

 

ようやくのことでリゴールが洞窟を出てきた。

 

ギルモが狩人に歩み寄りその肩を抱いた。リゴールは少しだけ微笑むと顔を逸らしたが、抵抗もせずされるがままにしていた。

 

「さあ...行くっぺよ...。おめも一緒に」

 

「ああ。もちろんだ」

 

狩人は頷いた。三人は歩き出した。

 

橋を渡り、洞窟を抜けて練石場の南側を通り、以前宿営を張った洞窟に入る。

 

そこから長い旅が始まった。

 

だが、もはやフロウにとっては目新しいことは何もなかった。絶壁を登り、乏しい植生の中から柴と枝を拾い集め、湧き水を探し、身体を丸めて眠る。

 

ある夜、見張りのために目を覚ますと、空は一面の星空だった。

 

小さな焚火の脇でリゴールとギルモが眠っている。だが一人足りない。

 

その喪失感は強烈だった。見張りをしていても、フロウは胸に湧き上がる疑問に突き動かされ居てもたっても居られなくなった。

 

なぜ?なぜアルギレウスはいなくなってしまったのだろう?

 

涙が溢れても、しかし少年は仲間を起こさないよう声を殺して泣いた。

 

だが、ラネールの砂岩の黄色がオルディンの火山岩の赤に切り替わるところで宿営を張ったとき、フロウが咽び泣いているのに気づいてリゴールが目を覚ました。

 

狩人は何も言わずに少年の隣に座るとその肩を抱いた。彼は何かを言いかけて口を開いたが結局何も言わなかった。空が白み、そして夜が明けるまで二人はずっとそうして座っていた。

 

一行はオルディンから南に進路を変え、フィローネ地方に向かった。果てしない平原を横切り、岩場に入る。見通しの良い尾根道から火吹き山を仰ぐと、冒険を始めたばかりのころを少年は懐かしく思い出した。この数週間で何年も歳を取った気がした。経験したことの全ては愛おしく、可笑しく、そして剣士の不在を通じて胸の中に鈍い痛みを残していた。

 

尾根道を終端まで渡り、絶壁を降り、一行はとうとうフィローネ地方に辿り着いた。天望の神殿の巨大なファサードは無言のまま彼らを迎えた。前庭の果樹も、小鳥の止まる柵も元のままだ。そして、かつては村だったが今は大きく口を開ける奈落も。

 

三人は神殿の庇の下で野宿した。曲がりなりにも人間らしい場所で夜を明かすのは久しぶりな気がした。

 

食事を終えて物思いに耽っていると、夜風が神殿の庇の下を静かに通り抜けていく。焚火の火が三人の影を長く伸ばしている。

 

帰りの旅を始めてからずっと、狩人も木こりも言葉数は少なかった。だが、少年にとっては進めば進むほど実感することがあった。胸の奥の痛みが、鋭く抉るようなものから、ゆっくりと燃えるようなものに変わってきている。

 

アルギレウスはあの平原まで、あの戦いの場まで導いてくれた。

 

あとは、僕自身の仕事だ。僕自身でやり遂げなければ。

 

フロウは横になると目をそっと閉じた。眠りがその心を覆っても、その思いは消えなかった。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * 

 

翌朝早く、三人は宿営を片付けると南に歩き始めた。岩壁に挟まれた細道から高見台に抜け、そこから大木の脇を通ってフロリア湖に向かう。

 

やがて一行は、滝の音が聞こえる場所まで出た。目の前には転落を防ぐ柵がかけられており、その先は鋭い崖だ。ちょうど、リナハが落ちた場所の少し南だとフロウには見当がついた。

 

少年はアルギレウスの言葉を思い出した。パラゲ族の怒りを買わずに彼らの縄張りである湖に入る方法。

 

女神の光輝く剣をもて封印の扉を開かねばならない。フロウは辺りを見回した。見渡す限り続いている柵の先、南の方面に、石造りの大きな扉がしつらえられている。そこに歩み寄ると、木こりと狩人もあとからついてきた。

 

扉の前に立つ。分厚い石でできた扉には、継ぎ目すらない。いったいどうやって開くのか見当もつかなかった。

 

フロウが扉を矯めつ眇めつ眺めていると、狩人が後ろから声を掛けてきた。

 

「見ろ、女神フロルの紋章じゃねぇか」

 

狩人の指さすものを見ると、確かに紋章が扉の中心に刻まれている。

 

「あれ?でもなんだか変だね」

 

フロウは気づいて声を上げた。見たことのあるフロルの紋章とどこか違う。

 

「ああ。真ん中の円が欠けてるのが曲者だな」

 

リゴールが指摘した。それを聞いたフロウには電撃のように思い出された光景があった。

 

アルギレウスは、天望の神殿で扉を開けるときに剣の先で円を描いたのだ。だとすれば、同じ動作でこの紋章の欠けた部分を補えば、開くのではないか?

 

フロウは剣を抜いた。不思議な事に剣の柄は彼の手にあつらえたようにフィットした。

 

試しに剣を振り上げ扉に向かって円を描いてみた。だが何も起きない。

 

狩人と木こりのほうを振り返ったが、二人とも困惑して首を振るばかりだ。

 

だが、女神の光輝く剣は確かにこの手にあるのだ。きっとこれが扉を開ける鍵だというのは間違いないと確信があった。

 

フロウは記憶を辿った。この剣には他の剣とは違う何かがあるはずだ。

 

その記憶の中に、ハイリアと魔物たちの戦いが思い出された。魔物の大群に包囲されたハイリアは剣を天に向けた。すると天から強い一筋の光が下り、剣に力を与えたように見えたのだ。

 

彼は見様見真似で剣を持ち、その切っ先を天に向けて突き上げた。

 

数秒たつと、剣がまるで生きもののように震え、そして声を上げたような気がした。高い周波数の音が響き渡る。目を上げて剣の刀身を見ると、それは淡い光を発している。

 

間違いない。フロウはもう一度試した。扉に向かって、女神フロルの紋章の欠けた部分を埋めるように円形を描く。

 

動作を終えてから数秒が経過した。やはり何も起きないのか?フロウが顔を上げたとき、重い石が擦れる音がした。扉がゆっくりと向こう側に開き始めている。

 

フロウと、そしてその背後に立つギルモとリゴールは驚きの表情を浮かべてそのさまを眺めた。扉が静かに開ききると、その向こうにある屋根のついた石敷きの通路が見えた。その通路の先端は踊り場のようになっていて、その先に短い昇り階段がついていた。その階段はどこにも行きつかず唐突に切れている。

 

「やったじゃねえか、フロウ。いよいよだな」

 

狩人が呟く。フロウが振り向くと、リゴールは微笑んでいた。ギルモがフロウの肩を叩いて言った。

 

「坊や。しっかりやるっぺよ。ワシは信じとる。坊やならきっとあの子を助け出せるっぺの」

 

フロウは頷いた。そして扉の中に一歩を踏み出した。

 

通路を歩いて進み、その先端にある踊り場にまで辿り着いた。階段を先端まで登ると、はるか眼下に湖面が見える。この階段は飛び込み台のような役割を果たしているようだ。

 

少年は周囲を見渡した。高い岸壁に囲まれた湖の青い水面に陽光がところどころ反射してきらめいている。右手の奥には瀑布が見える。そこから立ち昇る霧の中に虹がかかっていた。

 

さあ、行こう。少年は自分に言い聞かせると、助走をつけて階段の先端からその先に飛び出していった。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * 

 

吹き抜ける風の中を落下していく。数秒に過ぎなかったのかも知れないがフロウには長い時間に感じられた。やがてザンブと音を立てて彼は水面に吸い込まれた。

 

落下の衝撃は強かったが痛いというほどではない。フロウは水をかいて水面に上昇しようとした。泳ぎは出来るとはいえ、得意ではない。目を上げると、太陽光を屈折させる水面がはるか上に見える。

 

足をバタつかせ、両手で水を掻き、徐々に高度を上げる。息が詰まる前にようやくのことで水面に顔を出した。

 

だが、ただならぬ雰囲気を感じたフロウは再び水面の下に意識を向けた。

 

思い切り息を吸って水面に顔をつける。水は恐ろしいほど澄んでおり、湖の中が克明に見てとれた。

 

四方八方から、何者かが近寄ってくる。亜人たちのようだ。だが目を凝らすと、人と似ても似つかぬその姿が見えてきて、フロウは仰天してしまった。

 

彼らの頭部は二つの目玉と突き出た口、それに枝のような飾りからできている。その体は傘のような形だ。その傘の下から尻尾と二本の長い触手が出ているのだ。まるで、蛸とタツノオトシゴとクラゲを掛け合わせたような姿だった。

 

奇妙な姿の亜人たちは、手に手に槍のようなものを持って集まってきていた。フロウはすっかり包囲されてしまった。

 

「貴様ナニモノダ。コノ湖ハワレラノ神聖ナ場所ナルゾ」

 

亜人たちのうちの一体が呼ばわった。フロウは水中で詰まった声ではありながら挨拶し名乗った。

 

「僕はフロウといいます。女神ハイリアの許しを受けてここに来ているのです。この剣がその証拠です」

 

少年は腰の鞘に納めた剣に手をあてた。それを聞いた亜人たちは驚いた様子で顔を見合わせはじめた。

 

「水龍フロルさまに請願したいことがあって参りました。どうか拝謁をお許しください」

 

フロウは続けて申し述べた。亜人たちは困惑したようすで互いに話し合い始めた。

 

「タ....確カニ女神ノ剣ヲ持ツ者ハ人間界カラノ使者トシテ接遇スベシト言ワレテイルガ....」

 

「コンナコトハ前例ガナイカラナ....ドウスル?」

 

その時、フロウはふと思い立ってもう一度口を開いた。

 

「皆さん、僕は皆さんの王子であるフローレさんと知り合いです。僕の身元について疑問があったら彼に聞いてくださってはどうでしょうか?」

 

それを聞いた亜人たちはますます困惑した様子になり、口々に議論しあった。

 

「王子ガ人間ト知リ合イダッテ?コナイダマデ行方不明ダッタ王子ガ?」

 

「オイ待テ。確カ王子ハ『人間ノ少年ニ助ケラレタ』ト.....モシカシテコノ少年デハナイカ?」

 

「簡単ニ信用シテイイノカ。コイツハ偽物カモ知レン」

 

フロウは時折水面に出て息継ぎしながら議論の結果を待った。しばらくの話し合いの後、亜人たちの一体が油断なく槍を突き付けながら言った。

 

「通シテヤル。ダガモシ嘘偽リヲ言ッテイタラ命ハナイモノト思エ」

 

少年は安堵した。亜人たちの群れは、湖の中フロウを導いていき、岩壁に開いた洞窟状の水路に入っていった。

 

清浄な水が水路に流れ込んでいくと自然とその速度が速まる。亜人たちに先導されながらフロウは水路の中を流されていった。水は冷たいが、心地よい。

 

洞窟は短く、フロウたちは直ぐに広い地中湖のような場所に出た。とはいえ、頭上からは豊かな光が射している。おそらく天井には明り取りとなる穴がいくつもあると思われた。しかも、周囲の岩の肌には光を放つ植物でも生えているのか、淡い明りがそこから発せられていた。

 

フロウはそこから自力で泳ぎ始めた。フロウは不思議に思った。水龍の息子がくれた鱗。それがポケットに入っている。だが、泳いでいて今までと違うところは何もない。本当に効力があるのだろうか?

 

そう思いながら泳いでいると、やがて亜人たちは水中の洞窟にフロウを導いていった。ところが、その洞窟は木で組まれた格子のようなもので塞がれている。パラゲ族たちは身体を軟体動物のように細くして次々と通過していく。だがその格子は人間であるフロウに通れるようなものではなかった。

 

すると最後尾にいた一匹が振り返りながら言った。

 

「モシ、オ前ガ女神ニ導カレシ使者ナラ、スピンシテココヲ通レルハズダ。水龍サマノ鱗ヲ持ッテイルダロウカラナ」

 

フロウは困惑した。『スピン』と言われても、やったこともないから分からない。そうこうしているうちに息が続かなくなったので、彼は一旦水面に上がって息継ぎをした。

 

再度潜って洞窟を塞いだ格子を睨む。その向こうでは亜人たちがこちらを冷ややかに眺めていた。

 

どうすればいい?フロウは焦った。だがすぐに思い出した。鱗をくれた水龍の息子。彼ならばどうやって泳ぐだろう?

 

少年は頭に思い浮かべた。あの螺旋塔から出たあと、空を飛んで消えていった仔龍の動き。そして、その通りに自分の身体をくねらせてみた。

 

その途端、信じられないほどの勢いで体が進み、フロウは水面から飛び出した。その身体が軽く岩壁を擦り、再び水に飛び込む。

 

これだ。これが水龍の鱗の力なのだ。フロウは驚くと同時に、喜びが胸に満ちた。早速身体を横にして頭を格子に向けると、身体をくねらせながら螺旋状に回転させた。

 

身体が凄まじい勢いで水を押しのける。格子が粉々に砕け、フロウは一瞬の間に洞窟の中に入っていった。亜人たちは驚いた様子で互いに顔を見合わせている。フロウはそのまま何度も同じ動作を繰り返した。すると、猛烈な速度でフロウは進んだ。亜人たちを追い越して洞窟を抜ける。

 

それを見た亜人たちは慌てて追ってきた。フロウは洞窟を抜けた先の地中湖で再び息継ぎした。亜人たちの案内でそこを通過し、もう一度洞窟をくぐり、さらにいくつかの地中湖を経由して大きな扉の前に出た。亜人たちの一人が扉を開け、そこをくぐり抜けると、ひときわ巨大な地中湖に出た。天井は高く、中央には円形の舞台のようなものがしつらえられており、その上から光がさんさんと降り注いでいる。

 

亜人たちに促され、フロウは自ら舞台の上に上がった。そして顔を上げると、舞台の上に座っていた存在を見て驚き、目を見張った。

 

龍だ。それも大きい。全身が水色の鱗で覆われている。身体を起こしても収めきれない長い下半身を丸め、尻尾を水面の中に垂らしていた。そしてその顔は人間にも似ていたが、はるかに高い知性と威厳を漂わせている。

 

フロウは畏れの念に囚われ、慌てて跪いた。

 

水面が龍の吐息に合わせてわずかに揺れる。その揺れだけで、湖全体が呼吸しているように感じられる。

 

龍はゆっくりと首をもたげ、フロウを見下ろした。その瞳は深い湖の底のように澄み、静かだった。

 

「顔を上げよ、人の少年よ」

 

龍が言葉を発した。低く深いよく響く声だが、どこか女性的だ。その顔を見上げると、やはり龍の厳しい顔立ちの中に母性的な優しさが漂っていた。

 

「そなた....女神ハイリアの剣を携え参ったと聞く。何用じゃ?」

 

フロウは緊張に手が震えた。唾を飲み込むと、拳を握って息を吸い、言葉を発した。

 

「偉大なる水龍様に拝謁を賜り、感謝します。僕の名はフロウといいます」

 

その時だった。水龍の脇の辺りから高い声が聞こえた。

 

「お母さま!この人です!この人が私を救ってくれたのです!」

 

突然のことに驚いたフロウが目を上げると、水龍の懐に抱かれていた仔龍がこちらを指さしていた。仔龍は顔を輝かせながら母龍を見上げて続けた。

 

「お母さま。どうかこの人に良くしてあげてくださいませ。私があの忌まわしい建物に閉じ込められ、蜘蛛に喰われて惨めな死を遂げそうになっていたところを助けてくれたのですから」

 

フロウは心から安堵した。そして仔龍に微笑みかけると言葉を継いだ。

 

「王子さまにはご機嫌麗しく、僕も嬉しいです、水龍さま」

 

「なるほど、我が息子を助け出したのはそなたであったか。では用向きを続けよ」

 

水龍は厳かに言った。フロウは少しだけ当てが外れた気がした。仔龍の弾けるような喜びように比べ、母龍のほうはフロウの働きに心を動かされたように見えなかったからだ。だが少年は続けた。

 

「水龍さま。お聞きください。実は、数週間前にこの湖に落ちた人間の娘がおります。リナハという娘で、僕の友人です。彼女は、悪気あって皆さんの聖域を犯したのではなく、誤って崖から転落してしまったのです。どうかお願いします。あなたがたのところに囚われている彼女を解放し、地上に戻してくださるわけにはいかないでしょうか」

 

そこまで言ったあと、フロウは待った。だが沈黙がその場を覆った。水面近くに浮上しているパラゲ族の者たちも、身動き一つしない。

 

だが、フロウが何かを付け加える前に、仔龍が言葉を発した。

 

「お母さま。私の命を救ってくれたことに免じてこの人の言うとおりにしてあげることはできませんか?」

 

だが母龍は黙っている。フロウは不安になった。口をつぐんだまま水龍の顔を見上げていると、やがて湖の支配者は重々しく口を開いた。

 

「わが息子フローレよ。そなたにはものの理をまず教えねばならぬ。一つ............」

 

水龍は少し間を置くと続けた。

 

「まず、この人間の子は、人間の犯した罪を償ったに過ぎぬ。わが息子よ、不法に森に踏み入ってそなたを連れ去り閉じ込めたのは人間。ならば、同じ人間であるこの少年がそなたを解放したところで、何ぞ褒むべきものがあろうか?」

 

それを聞いたフロウは頭を殴られたような衝撃を受けた。そして打ちのめされたように顔を伏せた。確かに、僕と同じ人間が、この水龍の親子に対して重い重い罪を犯したのだ。だとすれば、彼らにしてみれば仔龍を助け出したことなど、遅すぎた償いに過ぎないのだ。

 

「そして、二つ。仮に、この少年の働きに褒むべきものがあったとしよう。しかしそうであっても、功労への褒章をもって罪への罰の代りとすることはできぬ。両者はまったく別の物ならば。罪を犯した者が、他所で善行を行ったからといってその罰を免れることができようや?それを考えれば答えは明白じゃ。この少年の請願を聞くことはできぬ」

 

水龍の言葉が地中湖の天井に響き渡る。湖の空気がさらに重く沈んだ。

 

パラゲ族たちは、静かに水龍の次なる言葉を待っているかのように誰一人として動かない。

 

フロウは拳を握りしめた。胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

 

だが、まだだ。まだ諦めない。

 

少年は皮鎧についたポケットを探った。そしてその中に入れておいたものを三つ、取り出して目の前に置いた。

 

「水龍さま。では、どうかこの捧げものを.........」

 

声が恐れと緊張で震えた。だがフロウは続けた。

 

「象牙と純金の香炉、白く輝くエレボールのアーケン石、そして純度の高い水色の時空石です。もしもこれらの宝物がお気に召すなら、どうかお納めになって......」

 

その途端、水龍が片手を横に払った。

 

フロウが置いた宝物が三つとも吹き飛び、舞台の上から転げ落ちて水に沈んでいった。フロウは驚きの余り物も言えないままそのさまを眺めるしかなかった。

 

「いったい誰に吹き込まれたか.....このようなものがわらわの心を喜ばせるとでも思ったのか?」

 

水龍は呆れたように呟いた。

 

「自然の恵み、地の宝物、力を与える鉱石は全て良き事のために使うようにとハイリアが人間に与えたもの。それをわざわざ、わらわの前に持ち込んでなんとする?われら龍や精霊がそのようなものを愛でるとでも思ったのか?」

 

フロウは愕然とし目の前が真っ暗になる思いだった。震えが止まらない。焦りで背中が熱くなった。

 

「愚かな少年よ。地上に帰れ。そなたはこの世のことわりを知らな過ぎる。だが幼さに免じて、わが宮に不躾に立ち入ったことは許してやる。だが二度と戻ってくるな」

 

静かな、しかしあまりにもはっきりとした宣告を聞かせられ、フロウは顔がカアッと熱っしていくのがわかった。

 

涙が溢れ、視界がにじむ。

 

......駄目なのか。ここまで旅をしてきたのに。どんな危険にも立ち向かってきた。どんな敵からも逃げなかった。

 

それなのに。

 

拳が震え、呻きが口から漏れた。だがフロウはそれでも顔を上げ、水龍を見上げた。

 

リナハを救い出すんだ。どんな犠牲を払ってでも。たとえ...たとえどんな目に遭っても。たとえ何を失ってもいい。

 

「水龍さま.......!」

 

フロウは意を決すると口を開いた。

 

「聞こえなかったのか、少年よ。ここを立ち去るがよい」

 

「水龍さま......恐れながら申し上げます」

 

フロウは頭を下げ、言葉を継いだ。

 

「どうか、この僕の命を代りにお取りください。そしてあの娘を解放してください。この僕が代りにその罪の対価を支払います」

 

それを聞いて、周囲にいたパラゲ族たちが一斉にどよめいた。今まで微動だにしていなかった彼らが互いに顔を見合わせながら囁き交わしている。

 

「お願いします。罪の対価が命なら、僕が僕のもので支払います。ですからあの娘を....」

 

フロウはそこまで言うともう一度平伏した。燃え盛っていた心が急速に落ち着いていった。後悔はない。これでいい。これが僕の旅の目的だったのだから。

 

再び沈黙がその場を覆った。フロウは息を吸い、吐いた。そして待った。

 

「そなた...本気で申しておるのか?」

 

ようようの時間が経ったあと水龍は尋ねた。

 

「はい。本気です」

 

「そなたの身体はこの洞窟に仮死状態で留めおかれ、その魂は幽界を彷徨うこととなろう。それが何年の間かも分からぬのだぞ。あるいは永遠に...かも知れぬ。それでも良いのか?」

 

再び問われ、フロウは頷いた。

 

「はい。それでもいいです」

 

再びパラゲ族たちがどよめいた。今度は、先ほどより静かなどよめきがさざ波のように広がっていった。その囁き声に、どこか感嘆したような声音が混じっているように聞こえた。

 

フロウはギルモとリゴールの事を思った。いつまでも自分が湖から戻ってこなかったら、あの二人は心配し、悲しむだろう。それだけが心残りだった。

 

だが、これでいいんだ。フロウは思った。アルギレウスが同じ立場だったら、きっとそうするだろう。これが、今このときに僕にできる最善のことなんだ。

 

水龍は長い長い沈黙の中でフロウを見下ろしていた。

 

その瞳は湖底の闇のように深い。フロウにはその裏にある感情を読み取ることができなかった。水龍の懐に抱かれた仔龍は、気が気ではないといった表情で母の顔を見つめている。

 

やがて水面がふっと震えた。水龍が溜め息をついたのだ。

 

「愚かなる少年よ」

 

フロウは顔を上げて聞き入った。水龍は続けた。

 

「我ら精霊や龍は『掟』の下にある。それはハイリアが立てた誓いによるものじゃ」

 

水龍の声は、先ほどの冷厳な調子から変わっていた。

 

「つくづく...そなたは困ったことをしでかしてくれた.....。この水龍と言えども、それに逆らって裁定を下すことはできぬ」

 

仔龍の目が輝き、期待をもって母親の顔を見上げる。だがフロウは状況が飲み込めず困惑するばかりだった。

 

「....罪なき者が罪ある者を救うため命を差し出したとき、その祈りを決して無碍にはせぬ、とハイリアは太古のむかし誓われたのじゃ。少年よ。そなたの願いの純粋さに疑いはない。そなたは知らずしてわらわをこの『掟』に従わざるを得ないようにしたのじゃ」

 

「お母さま...それでは...!」

 

仔龍が叫び声を上げた。

 

「行け、少年よ。あの娘を連れて」

 

言葉を継ぐ水龍の声には感嘆と、失笑と、そして一抹の慈愛が込められているように思えた。

 

「そして今度こそじゃ。二度と...ここに戻ってくるでないぞ」

 

水龍が告げた。フロウにはまるで何がなんだか分からなかった。だが、水龍が片手を上げると、フロウは持ち上げられて水面に落とされた。パラゲ族が周囲に群がってくる。だが、彼らからは敵意が感じられなかった。むしろ、感嘆と喜びの温かい感情が伝わってくる。

 

パラゲ族の奇妙な触手に担がれ運ばれているうち、フロウは意識が薄れてきた。

 

一体...何がどうなっているのだろう?

 

僕は...水中の牢獄に連れていかれるのだろうか?

 

でも...それでもいい。リナハが助かるのならば。

 

地中湖の天井から射す眩い光が時折目に入る。だがフロウは急速に眠るように意識を失っていった。

 

* * * * * * * * * * * * * * * * 

 

どれくらいの時間が経っただろうか。フロウにはその感覚がなかった。

 

だが、眼を開けると、空が目に入る。明るい陽光が射し込み、少年はやや顔をしかめた。

 

「フロウ!」

 

声が聞こえた。少女の声だ。

 

その方向を見ると、少女が座ってこちらの顔を覗き込んでいる。どうやら自分は草原の上に横たわっているらしい。

 

「フロウ!.....大丈夫?」

 

目の焦点が合ってきた。リナハだ。フロウは思わず微笑んだ。

 

「リナハちゃん....君こそ...大丈夫?」

 

そう言いながら少年は上半身を起こした。リナハを見ると、頭からびしょ濡れだ。だが、それを除いては思いのほか元気そうだった。

 

「...うちは平気。ねえ、それより何があったの?」

 

リナハが言う。

 

「何があった...って?」

 

「だって、前と全然恰好が違うじゃん。腰に剣なんかさしてさ。それになんか...フロウってば顔まで変わっちゃった気がする」

 

そう言いながら彼女は可笑しそうに微笑んだ。フロウは思い返した。彼女が湖に落ち、そしてここを出発してから何日が経ったんだっけ。

 

「いろいろ....あったよ。本当にいろいろ...」

 

「何もったいぶってんのよ。いろいろって何?」

 

軽く眉をしかめたリナハがフロウの脇腹をつついた。そして彼女は続けた。

 

「話して?うちも話したいこと沢山あるから」

 

その時、遠くから呼びかける声が聞こえた。狩人と木こりが、土手を登って草原の上をこちらに歩いてくる。

 

「わかったよ....最初っから話すよ。でも...まず...どこから話せばいいかな」

 

言い出してからフロウは戸惑った。話すことがあまりにも多すぎる。それに尋ねたいことも。

 

リナハは狩人と木こりに手を振った。陽光が弾けるように辺りを照らしていた。

 

少しづつ話せばいいや。少年は思った。少しづつ。

 

ゆっくりと。

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